浅酌低唱:蔵人全員で蒸し米を囲む意味
つい先日、石川県白山市の吉田酒造店に撮影に伺ったときのこと。蒸し上がりの甑の周りに造り手全員が集まっていた。『手取川』『吉田蔵u』を醸す吉田酒造店では12人程度で酒造りをしているが、蒸し上がりの作業にはそこまでの人手は必要ないはずだ。主催する『若手の夜明け』に参加する蔵の多くは小規模の酒蔵で、仕込みの作業も4〜5人、中には2人という蔵もあるだけに、その日の朝礼に集まっていた蔵人たちが全員甑の周りにいる様子は異様にも思えたが、蔵元の吉田さんの言葉で氷解した。
「蒸し上がりのお米を毎日みんなに食べてもらっています」
酒造りにおいてお米がどう蒸されているかというのは非常に大事なポイントだ。よく言われるのは「外硬内軟(がいこうないなん)」で、外側は硬く内側が柔らかく蒸し上がるのが良いとされている。実はこの外硬内軟という状態は科学的には解明されていない。経験値としてこうすれば外硬内軟の状態になるということがわかっているが、理論的な解明がされているわけではない。外硬内軟は見た目で言うと「捌け(さばけ)」が良い状態であるとされている。したがって、甑からスコップで掘られているときに、外硬内軟の捌けの良い蒸し上がりというのは見た目にもよくわかる。吉田酒造店では、そうしたお米の蒸し上がりの状態を確認して感覚を養うために、その日に蒸し上がったお米をすべての蔵人が触り、潰し、そして食べることで確認しているという。そしておもしろいのは、その蒸し上がりの状態に対して「今日は2.4です」というように数値を付与しているのだ。これは蔵元の吉田さんが出張等で不在の時も行われている。
僕のような小さい会社を経営していても、日々目の前の仕事に追われたり、新しいことを思いついてはそれにかかりきりになってしまうことがある。その中で忘れがちになるのが自分のインプットで、それも身体性を伴うインプットだ。何かをきちんと理解しようとするとき、僕はこの身体性を大切にしていて、それが伴うか否かで体験の意味合いが大きく異なると思っている。
身体性を伴った体験が、その人に絶対観(対義語は相対観)を養わせる。そしてこの絶対観を持つということが、現代において特に日本人に欠けているものの一つだと思っているのだが、吉田酒造店での「蒸し上がりにお米を食べ、数値を当てる」というのは、絶体観を養わせるだけでなく、再現性と拡張性のある組織づくりにおいても重要だと感じさせる出来事だった。
感覚を育むというのは一朝一夕に備わるものではない。例えばドル円の為替相場、日経平均株価、電気代など世の中には様々な数字が存在しているが、それの現在値を見たときに「高い」「低い」と感じられるかどうかは、もちろん比べているという意味では相対観であるのだが、その数字の妥当性そのものを理解しているかという意味においては絶対観に依拠するものである。日々の業務で数字を追っている人たちならば無意識的に理解できても、そうでない人が「数字の意味」について考察するには、その日一日の数値だけが出されたところで解釈が難しいだろう。
感性も同じだ。例えば僕のいるクリエイティブの業界では、多くの人たちが毎日多くのインプットを行っている。しかしそうしたインプットもここ10年で大きく変化した。それは、多くのインプットがデスクリサーチで完結するように錯覚してしまうということだ。GoogleやSNSを開けば世界中のさまざまなクリエイティブによる作品が氾濫していて、それをスクリーン上に見やすく整理し、体系的なインプットとして肥やしにする。では、そうしたインプットをする過程で、どれくらいの人が実際にその作品と対面し、手で触れ、そして自らの頭で考えているだろうか。
新しいことを考えるとき、人は突然何かを閃くと考えがちだが、実際に行われているのはこれまでに見聞きしたインプットがインスピレーションとなり、それぞれが結びついて形を変えて出てくるというもので、まったくのゼロからイチが生まれるような自然発生というのはほとんどない。であれば、そのインスピレーションの源泉となるインプットの質が最終的なアウトプットの質を左右するのは言うまでもない。
同時に、そうしたことに高い確度での再現性とより多くの人で実現するという規模性を持たせるには何かしらの仕組みにする必要がある。酒造りもクリエイティブも、職人仕事で属人的な側面は否めないが、事業として意味のあるインパクトを出すにはその範囲を人から組織へと広げなければいけない。どのようにすれば感覚を再現できるのか、また他者に共有できるのか。どの世界でも常に求められるのは、体験すること、言語化すること、そして仕組みにすることである。
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