見出し画像

母にならなかったわたしの母と、わたしの生き方。

実の母のことと、わたしの生い立ち的なものを少し。

普段は筆無精・電話不精、でもわたしの誕生日には律儀に毎年電話をくれていた母。
昨年は電話がなく、なにかあったかな?と少し気になりながらも日々は過ぎて・・。
年が明けて、毎年書いてくれる年賀状も届かず。

昨年の秋頃に、夫の両親と同居を始めたことを手紙に書いて送っていたので、そのことも関係あるかな?とうっすら感じながら…。

少し前に電話をかけてみると、変わらずに元気そうな声で出てくれて。
そしてやはり、わたしが再婚し、その相手の両親とも同居したことで、もう安心だし、お母さんからすることはもう何もないから、電話や連絡もしなかった、というようなことを話されて。

「ああ、やっぱりね。」という気持ちと、「親だったら、いつも子どものことは気にかかるものなんじゃないの?」という、腑におちない気持ちとが浮かび、電話を切った後もなんだか割り切れない思いを抱えながら、ぶらりとドライブしたりして。


写真は、わたしが多分1歳と少し経った頃。
母と再会するまで、自分の3歳までの写真は手元になかった。
この頃の記憶はないけれども、当時住んでいたアパートの様子はぼんやりと覚えている。
場所は大阪。
東京で結婚した両親は、父が大阪で仕事を見つけたのに伴い引っ越し。
そしてわたしが3歳の時に離婚。
わたしは父に引き取られ、祖母が母代わりの幼少時代。
小学校4年生の時に、大人の中で色々話し合いが持たれたのか、
(これはわたしがもう少し成長してから理由ははっきりする。その当時のわたしは、東京に住んでいた叔母が帰省してくれ、市電に乗って熊本の市役所などに一緒に転出の手続きをしに行きながら、何をしているのか不思議に思っていた。これからの自分の去就すら何も分からずに。)
夏休み明け、祖父母の住む熊本市内から福岡県の大牟田での父との二人暮らしが始まり、それからの暮らしや父のことは、まだまだ書くことが沢山だけど、まだ纏めきれない…。


その後わたしは最初の結婚をして札幌で暮らし、自営で二人で中国料理店を経営。
そんな中、30歳の時に父が亡くなったと、全く音信不通にしていた叔父から手紙が。
(父はわたしが中学2年生の夏休み明けに失踪、それからずっと行方不明だった)
わたしの戸籍を辿り、住所をつきとめてくれたので、わたしは父の死に目に遭うことはなく。
その時に、良い機会だからと母を探して再会するまでの27年間、一度も会うことはない母だった。
27年ぶりの再会は、ホテルのロビー。
入ってきた途端、あ、あの人だ、と分かったのは、やはり血のなせる技なのかどうか。

そんな疎遠な親子関係で、一緒に暮らしたのはわたしが離婚して札幌から戻った時の3ヶ月ほど。
わたしは福岡市内に住まいと仕事を移し、自営でお店を始めてからもたまに会いに熊本に行くくらい。
それでも、兄弟も親戚付き合いもないわたしには、実の母が生きていてくれるというのはとても心強かった。

親がいないというのはやはりキツイ。
でも、子どもの時に母に会いたい、と思うことはなかった。
友達の家には、まあ必ず「お母さん」という存在がいたけれども、もの心ついた時にその存在がいなかったわたしには、その存在が何をする人なのかよく分かってなかった、というか、普通の家庭がどんなものなのか想像出来なかった。
もう少し成長して、「家庭」というのはこんな感じのものなんだな、と知識を得てからの方が、普通にお父さんとお母さんのいる、金銭的に困ることのない家庭への憧れを持つようになった。
親が欲しいといよりも、切実に、暮らしに困らなくなりたかった。

そんな偏ったわたしなりに、母にはこんな風にあって欲しい、という想いがあったのか、ちょこちょこ母の言動にはガッカリすることも。
それでもやはり、生んでもらって、それもこんなに健康に(夫に”骨太だ!といつも言われる)ということ、それがどんなに貴重なことか、年を重ねるごとに痛感し、感謝している。


『母にならなかった人』というタイトルは、母や自分のことを考えていて、わたしの母はそうなのだな、と、すっと腑に落ちた気持ちから。
母であろうとしたこともあるのかもしれないが(わたしと暮らした3歳までや、その後再婚して生んだ子どもさんとの間や)、わたしが感じるのは所謂、生物的に子を育て守るよりも、一人の女性としての生を全うしている潔い生き方をしている人なんだな、と。

中途半端に母親として関わろうとすることもなく、わたしの人生全てを、ある意味信じてくれている。


これから多分、母と会うことはどちらかが死ぬまでないかもしれない。
でも、それでも良いと思える関係。
今のわたしには、とても清々とした気持ち良い関係に思う。
二人の間でなにかやることはもうない、という、寂しさも伴うが。


そう思えるのは、わたしがこうして夫の両親と共に暮らし、親とは、子どもとは、家庭とはを少しづつ感じ、新しい関係を築けているから。


これからの家族や家庭は、どんどん変わっていくだろう。
ただ、親から子へ受け継ぐように、次の世代へ伝える形は大事にしたい。
夫の両親と暮らすと、親世代の培った大切なものを、このまま無くしてしまいたくない、自分の中に取り込み生かしたいという想いが湧いてくる。
会ったこともないご先祖さまや、この土地に生きた、たくさんの人や動植物の想い・スピリットなど、見えないエネルギーを感じ、生かすこと。
新しくなりながらも、大切なものを守り育てる。


どこに住んで生きるのか、自分で選べるし自由なんだけれども、実はやはり自分の中の、なにか範疇を超えたところで決められてるような。
自分の人生は自分で切り開くけども、大きな流れというのは存在していて、それに抗うのではなく、流れに任せながらも自由に楽しむ、そんな感覚と受容感を持ちながらこれからも生きていけたら・・。


しかし「親」というのはやはり大きな存在だなぁ。
きっと親になって学べることはたくさん。
昔から好きな物語にはよく「もらい子」が出てきていて。
(古くは「赤毛のアン」「上橋菜穂子さんの守り人シリーズ」ちょっと違うけど梨木香歩さんの「雪と珊瑚と」など)
小さな人の手を温かく包み、力を貸すこと、一緒に成長・変化していくこと、そんなことも想ったり。


きっと順番に(いろんな順番がある・・)死んでいく。
存在は消えていくけれども、それでもなにかは残っていく。
死ぬのもある意味、楽しみだったりするかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?