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有事とヨントン

 世でとんでもないことが起きていると、平生はほぼ関心が向いていない話題であるのにも関わらず、つい激しく情報を収集して最悪の事態をいつまでも空想したり、剥き出しの感情や言葉に触れ、さらにそれに反応した人々の感情や言葉に接することになるので消耗してしまいがちである。

 今回も事が起こって間もなく微量の消耗感を身体が感知したため、比較的殺伐としやすいTwitterなどのSNSから離れ、あまり殺伐感のないTikTokなどを閲するように努めた。

 TikTokといえば、音楽に合わせて指を差したり、隣合わせで調子を揃えて踊ったり、機械人間のような女性の声で文言が読み上げられ、それとは無関係の踊りを配信者が披露する、といったあまり深い意図のない投稿が多いため、この消耗を体験せずに済む事が多い。

 しかしZ世代ぶってこのようなSNSばかり見ていると、動画を見ることを前提としていない私の料金プランでは、半日程度で1ヶ月分のデータ通信量を使い果たしてしまい、家計の支出に占めるTikTokの割合が意図せず高くなってしまう恐れがあるため、結句パソコンでInstagramのリールを適宜確認する程度にとどめることにした。

 前回の記事でも伝えたが、ここ最近、有事になる前から消耗感をそもそも感じていた私はSNS離れが加速しており、その代わりにサバ番(サバイバルオーディション番組)で十代二十代の男女が夢を追いかける様を自分に重ねて視聴する、という逃避行為しかしておらず、番組を経てデビューしたアイドルグループの無害な動画などを眺め続けていた。

 畢竟、そのアイドルグループに詳しくなっていくわけだが、その過程で先日ついに私はとある言葉を知ってしまった。

 それは「ヨントン」というのだが、私はヨントンと聞いたときに、トントントントンひののにとん、という、あれはなんのCMだったのか全く思い出せないのだが、そういうリズミカルな言葉が脳内で流れた。

 ひののにとんが「日野の2t」である場合、4tというのは日野の2倍である。2乗なのかもしれない。そうすると、八王子、いや、立川あたりか?などと考えていても正解には辿り着くはずもない。もっと遠い。高尾?それどころじゃない。じゃあまさか山梨?もっともっとずっと遠い。

 韓国である。大韓民国。ヨントンは영통と書くらしい。韓国語なのである。正式には영상통화(ヨンサントンファ: 映像通話)らしい。

 単簡に申し述べれば、アイドルグループのメンバーと、スマートフォン越しに会話ができるイベントのことを言う。

 メンバーも番組の収録やダンスのレッスンなどで忙しい一方、ファンは無数にいるわけで、例えば申し込めば好きなメンバーと5時間通話が無償でできたりするわけではない。

 大量のCDを購入し、それに見合った秒数の会話がメンバーとできるのである。

 と、ここまで聞いて、私はどこかで聞いたことがある話だぞ、と思った。

 どこかで聞いたことがあるどころの話ではない。かつて自らがヨントン行為をしていた封印されし記憶が突如蘇った。

 しかし、そのときはヨンサントンファなどという訳の分からない名前ではなかった。

 握手会

 そのような名前だった気がする。

 確か、まだ握手行為などをしても誰もその後アルコールで手指衛生をしなかったどころか、一生洗いません、などと述べてもおかしくなかった時代の話である。

 幕張方面や、みなとみらい駅近傍にある巨大なスタジアムに月に1回程度出掛けて行って、熱心に誰かと握手をしていた記憶が微かにある。

 私のことはまあよい。

 握手会、ないし、ヨンサントンファでは、買ったCDの枚数に応じた秒数メンバーと会話ができる。例えば当時の握手会でいえば、5枚買ったら50秒会話ができるというものだった。

 ここで資本主義社会の話を連想すると、急に有事であることが思い出されてしまうため、そういう知的な方向に話を振るのはよしにしよう。

 50秒、というと、え〜短い〜なにも話せないじゃん!などと言う素人がいるが、それはやってみてから言うとよい。50秒も話すことなどないのである。またまた、だってファンなんでしょ?だったらたくさん話したいことあるはずじゃん!と思うだろうか。実際はこんな感じである。

メンバー:ありがとうございます〜
ヲタク:あの、前からずっとファンで、なかなか、あの、握手会とか行く機会なかったんですけど、今回はじめて行ってみようと思って、勇気出してきました。
メンバー:えー!うれしい、ありがと〜

 ここまで10秒である。まだ40秒もある。

 初心者はここで撃沈する。思ったことを話せば50秒なんてあっという間と思っているわけだが、話すことなにもないやんけ、となる。ここでヲタクは脳内から言葉が消え何も言えなくなり、「シャツかわいいですね!」などとメンバーが気を利かせるという事態が発生する。

 頭をフル回転させ、そうだ、この間出演していたラジオ番組の話をしよう、あのとき〜〜(他のメンバー)との絡みがすごいよかった!とくにあのお絵描きクイズ!〜〜がめっちゃ分かりやすいヒント出してるのに●●(推し)は全然わかんなくって、あれは爆笑したな〜

 などと思い出したとしても、饒舌なのは脳内だけで、実際は

ヲタク:あ、この間のラジオ、みたよ、お絵描きのやつ、うけた
メンバー:えー、きいてくれたの!ありがとー!

 ここまで17秒。まだあと33秒もある。

 大枚をはたいて購入したのにも関わらず、頼むからもうこの時間が終わってくれという謎の心境になり、最後は頭が真っ白になったまま、メンバーが微笑みながら手をぶらぶらさせ時間切れになるのである。

 ここで絶望してもう行かない、という人もいるわけだが、多くの人はリベンジを誓う。

 すなわち、今度は50秒持つように話題を用意する。アドリブだと緊張するから、何度も読み原稿を作って練習し、それを完璧に話し終えれば50秒になるように計画するのである。一人でしゃべり倒してなにが楽しいのか全くわからないが、そういう心境になるのである。

 そして望んだ2回目の握手。

ヲタク:あ、こんにちは〜
メンバー:あー、ありがとう!わ、myhlshsphduashs
ヲタク:え?
メンバー:myhlshsphduashs
ヲタク:え、myhlshsphdua、、、?
メンバー:ごめん、聞き取りづらくて、模様、一緒だね!
ヲタク:え、あ、<と推しと自分のシャツに同じ模様が付いていることを確認する>

 ここまで10秒。しかし、もうヲタクは読み原稿を思い出すことはない。今回もテンパったまま気まずく終了することになるのである。

 このように、握手会に参加するというのは、別になんでもないようでいて、ものすごく難しいことなのである。お金を払ってなぜこのような試練に耐えねばならぬのだと何度か思ったのだが、それでも会いにいきたいのが推しであるともいえる。

 しかし、今は握手会は存在しない(はずである)。

 ヨンサントンファと握手会の決定的な違いは、当たり前だがその場にいないということである。

 私はヨンサントンファに参加したことがないため、その違いを体験したことはないのだが、あの何も話すことがないのにその場を去ることができない決定的な気まずさや、他のヲタクが話しているときの様子や、50秒のために2時間かけて電車でいく感じ、長い列に並びながらあと何人と緊張する感じ、終わった後にどっと脱力し、その感覚とともに京葉線で帰宅する感じ、の全てが失われたら、もはやそれは似て非なるものではないかと思う。

 というか、非なるものなのか。名前も違うし。

 なお、握手会をやっていたグループの、ヨンサントンファに相当する映像通話イベントは「お話し会」というらしい。

 直接会いに行くことと、映像通話の違いについて、私には職業上連想することがあったが、なんだかいちいち結びつけて話さなくても別にいいかなという気に最近なっており、その連想については特に語らぬまま終わろうと思います。


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