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雪の日に考える器質か心因か

 ひどい雪なので帰れなくなってもいけないから仕事を早退させてもらった。

 しかし、雪道を低速で走ってなんとか都内まで辿り着き、早稲田口で降りようとしたところ何台か前で出口が閉鎖したらしく、列が全く動かなくなってしまった。

 事故でも起きたのかもしれないと思うけれども、止まった場所が曲がり道の途中だったので一番前の様子までよく判らない。

 交通整備の車が後からやってきて、何人かの人が車の間を抜けて先頭の方に作業に向かったけれども、待てども列は動かない。

 こういう時間をゆっくり待つことができれば良いのだが、超速仕事術、効率は金なり、無駄をなくして人生を輝かせろ、みたいな文句を使い、私の中の内なるCEOがタワマン最上階で私を責め立てるので、何かできることは、と思って頭を巡らせ、今度講演することについて考えを言葉にしてみようと思いつく。

 というのもある研究会にお招きいただき「器質か心因か」をはじめとして、私が精神医学と身体医学の境界領域について思っていることを話す機会があるのだ。

 「器質か心因か」という書籍は、内科外来でしばしば目にする、身体症状でやって来たけれども、それが真に身体の病気なのか、心理的な要因で出現した身体症状なのか判別のつきづらい人をどのように診療するのかということについて述べた本である。

 この書籍の前半で私は心理的加重psychogenic overlayという古くからある概念について述べた。

 心理的加重とは、脳や身体に物理的に負荷がかかっているときに心理的な反応が起こりやすくなる現象を言う。

 このこと自体は、診療をしているとある程度自明のことのように思われるが、DSM-5などの操作的診断基準に記述がないためか、精神医学の教育で必ず教わる内容でもなく、明確に診療の際に意識されている精神科医は決して多くないと思われた。

 また、身体医学を扱う診療科においても、心理的な反応であると判明すれば、それは100%心に由来したことであり、身体疾患の探索は不要であるとする診療が一般的であり、背景に身体疾患があるからこそ心の反応が起こりやすくなったとする発想は共有されていないように思われた。

 それで私はこのことについて心因反応の方程式なるものを提案し、記述した。

 さらに、後半では心因反応を内科という場で見る際に起こりうる難しさや、どのように説明するかといったことについて、心に切り込むメスの深さや、病気でないことをどう伝えるかといった視点から記した。

 まあ詳細は本を買って読んでくださると嬉しいのだが、ここで私が書いたことはなんだったのだろうと発売から1年経ったいま考え直してみる。

 前半については、精神医学で扱われる心因反応という現象に、身体医学的な概念を持ち込んで考えたかったのだろうと思う。

 身体医学の基本は、解剖と生理である。

 ある症状をみたときに、身体のどの解剖学的部位に、どのような生理学的機構の破綻を来たしているかと思考するのが内科医の発想である。

 なかには診断基準と照らし合わせて、「診断」という行為を行い、その診断に対応したエビデンスに基づく投薬をするという”当世風”の思考を辿る人もいるかもしれないが、やはり基本は解剖と生理なのだと思う。

 現代の精神医学においてはこの”当世風”の発想が内科から輸入されているが(もちろんそれは悪いことでは全くない)、私はそうではなく「解剖と生理」という原則こそを輸入してみせたかったのだろう。

 炎症反応における解剖と生理と言われれば、たとえば肺胞(解剖学的部位)に、細菌感染による(生理)炎症が起こる、とか、体幹に接する大関節の滑液包(解剖)におそらく免疫性に(生理)炎症が起こる、とか説明することができ、これが分かればある意味「なんつったっけあの病名」となっても治療ができる。

 これを心因反応においても実践すると、以下に記した心因反応の方程式になる。

心因反応の大きさ=患者のもともとの脆弱性+身体因の脳への侵襲+心因

 これは心(解剖学的部位)に、心理的ストレス(心因)や身体的ストレス(身体因)といった刺激が加わり元のキャパシティーが破綻する(病態生理)ことで心因反応が出現するという式と言い換えることもできる。

 これは、なぜその病的状態になったのかを考える、というある意味当たり前の発想なのだが、内科という立場から相対化してみたことでより輪郭がはっきりしたのではないかと思っている。

 書籍の後半の話は逆に、身体医学の概念だけでは扱いきれない困りごとに、精神医学の発想を持ち込むことを提案したかったのだと思う。

 このあたりは「サイカイアトリー・コンプレックス 実学としての臨床」という書籍の「鞘の内」という章でも書いたことなのだが、人を相手にする以上は、意識の外にある言動というものが必ずあり、これをキャッチして扱うことが有用な場面が内科であっても必ずある。

 たとえばある薬を処方したときに、その薬を患者が飲み忘れるということがあるし、飲んだ瞬間に激しく気持ち悪くなって飲むのをやめた、しかしそんな副作用は通常考えられない、みたいなことは頻繁にある。

 この出来事を、抵抗、つまり無意識に薬は飲みたくないという言外のメッセージであると捉えるという視点を持つことで、内科診療の幅はより広がるのではないかということを述べたかったのである。

 さて、このような話を書籍で提案することに毎度私がこだわるのは、近頃このnoteでしょっちゅう述べている、自分が偽者であるという感覚と密接に結びついているからだと試しに考えてみる。

 私は自分が偽者なので「本質」みたいなものに憧れがある。だから何が本物で何が偽者かということに注意が集中していて、本物らしく振る舞う偽者の雰囲気に敏感になっている。

 私は”当世風”のやり方が、それ自体は論理的に正しく自分自身もある程度それを規範としつつも、どこかそれを祭り上げる雰囲気のなかには偽っぽい雰囲気を感じ取っていて、そのよく見えない空気感に本物マウントを取りたかったということなのかもしれない。

 もっと詳しく考えていくと、自己解剖のようになっていき、これはほとんど本編の内容と重なってしまうので、どうもこの偽者論の話だけはまだ周辺をぐるぐる話すことしかできないでいるのだが、そういえば今日は「器質か心因か」の話であった。文章にして随分頭のなかが整理されたので、なにを話すかについてこれからもう少し連想を広げていきたい。

 ようやく車が動き始めた。明日は八王子で内科だけれど、路面が凍結しているから車で移動するのは難しいだろうか。

 15時半に病院を出たのに、結局家に着いたのは20時半である。Uberは配達員が誰一人おらず料理が届かないのでアイリスオーヤマのホットプレートで自作の奇怪な料理を作るしかないようだ。冷蔵庫を開けると食材がまったく入っておらず、今から買い物にいくことについて思いを巡らせたところ著しい体のふらつきが出現し、これは器質か心因かとぼんやり考えていた。


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