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表情管理してますか?

 せっかくだから写真でも撮りましょうなどと言われて集合写真を撮る機会がしばしばあるが、ではまた!などと解散した後グループラインに送られてきた写真の中の自分は想像とは全く違ったふうに映っているのがふつうである。

 具体的には、まあ思っていたより変に映っているのである。自分では、横浜流星みたいな美しい顔をしてカメラに収まったはずなのに、実際には地味なモブっぽい男がキモい表情で映っているばかりであり、これのどこが私なのだ!と怒鳴りたくなる。

 しかし怒鳴っても仕方ないのは真実の顔に近いのは写真の方なのであって、想像と現実のギャップに絶望的な気分になるのである。

 なぜこんな悲劇が起きるかといえば、一つには自分の顔を自己愛的に修飾して実際よりも男前に認識しているからであるが、もう一つは、身体感覚とその表出の連関が薄いからかなと思う。

 つまり、こういう感じに頬を上げると、実際の顔はこう見えている、みたいな顔の筋肉を動かして表情を作る感覚と、それに対応した外部からの見え方がどのように結びついているかということを知らないと、思ったような表情はなかなか作れないということである。

 アイドルのオーディション番組を見ていると、難しい曲に少年少女が挑戦し、頑張ってダンスの振りを覚えたのはいいものの、最初の中間審査みたいなところでトレーナー陣に「メリハリのある曲調なのに、表情はずっと一本調子だった」「明るいなかにもどこか寂しい表情がないとこの曲を理解しているとは言えない」「振りばかりに意識がいっていて、みんな険しい顔で表情管理ができていなかった」などと“表情管理”という謎の項目について注意を受けるシーンが必ずと言っていいほど出てくる。

 すなわち、これは曲に合わせて表情を自分の意思とは無関係に作成しないといけないということであり、ダンス中に「うー早く練習を終えて家で餅でも食べたい」と仮に思っていたとしても、餅を食べたい表情で切ないバラードを歌った場合、観客もこの人は餅を食べたいのか、切ない気持ちなのか、一体どっちなんだ、と見ていて混乱してしまい、プロデューサーの意図した切なさが伝わらなくなってしまう。

 そのため、曲に没入して本当に切ない気持ちになっていても、餅を食べたいと思っていても、俺たちのグループの曲よりなにわ男子の新曲の方がぶっちゃけいいよなぁとか思っていても、気持ちとは無関係に「切ない」表情を作成できないといけないのである。これが表情管理である。

 彼ら彼女らアイドルの卵が表情管理をどのように学ぶかというと、鏡やビデオに録画して、それを繰り返しみて自己フィードバックをしたり、他人の助言を反映したりして、試行錯誤の末に、こういう感じで顔を動かすと、こういうふうに外からは見える、という感覚を手に入れるのである。

 考えてもみれば、アイドルでなくても過去に運動部にいたことがある人は、マネージャーの撮影したビデオをみてフォームをチェックし、もっとこう動かせばこういう綺麗な形になるな、みたいなことをやってみたことがあると思う。あれの表情版である。

 つまり私はこの歳になるまで表情管理を怠ってきたために、いつまでもモブキャラのような表情でしか写真に映れないのであり、1日1500枚セルフィーを取るなどして訓練をしたほうがいいのではないか?尾久のチッケム(音楽番組やコンサートなどでグループ全体ではなく個人の動きのみを追った映像のこと)があった場合、表情管理ができていない、とアンチがコメント欄を荒らすのではないか?と真剣に悩んだのだが、よく考えればなぜ私が表情管理をしないといけないのか分からないし、尾久のチッケムとは一体なんなのだ。尾久のアンチとは?私は餅を食べる時にまで切ない表情をしたくないし、そもそもどうするかは私の勝手では?

 となぜか怒っているのだが、実際のところは結構雰囲気に合わせて表情管理をしてしまっているなと思っていて、それは人の周波数に自分を合わせてしまうという私の特性による。

 つまり、実際に人を前にしていないときは「あいつはとんでもないやつだ、私ががつんと言ってやる、馬鹿にしやがって」などと思っているのに、実際に対面すると空気感に負けて「あ、うんうん、そうなんですね、あー、そっかそっか、りょーかいです、いやいや、別に、あのー、ほら、一応どうなのかな、聞いておいたほうがいいのかな、って思って、ちょっと聞いただけなんですけど、はい、はい、いやぜんっぜん大丈夫です、こっちでやっときます」などと物分かりのいいショップ店員のような表情で相手に合わせてしまうのである。

 これを表情管理というのかは分からないが、曲に合わせてではなく、空気に合わせて表情管理をすることはバッチリできている気がする。

 一方で、餅を食いたいのに切ない表情をしているみたいなことが四六時中起きているわけで、これでは本心と外面がどんどん別の人になっていってしまうというか、分裂していってしまうなと思う。

 そんなふうにして形成された外面ないしはas if personality (Deutsch, 1942)ないしはfalse self (Winnicott, 1965)で社会となんとか関わり、一方でその内面は「餅が食べたいのにな」といじけているだけの未熟者みたいになってしまっている部分が自分にも大いにあるなと思っている。

 この外面にも、いかにも「外面です」という感じの外面から、本心にしか見えない外面までグラデーションがあり、このへんの話についてはかなり色々な人をみて考えたことがあって、それはぜひ「偽者論」本編で読んでもらえると嬉しい。

 ということで最後に自分の表情管理の成果を見せようと思ってセルフィーを600枚くらい撮影したのだが、そもそも一体何をしているのだ、という虚しさが込み上げてきて、その虚しさを感じないためになにわ男子の新曲のDance Practice Videoを一生見ている。


・Deutsch. H: Some Forms of Emotional Disturbance and Their Relationship to Schizophrenia, Psychoanalytic Quarterly, 11, 301-321, 1942
・Winnicott.D.W.: Ego distortion in terms of the true and false self, 1960 IN "The Maturational Processes an the Facilitating Environment”, The Hogarth Press Ltd, London, 1965



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