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カップルYouTuberと露出法的技法について

 現代詩手帖の年末号で新鋭展望の欄を担当した。

 今年1年で出た新鋭の詩集について何事かを述べる欄なわけだが、そこで私は「見せる、隠す、覗く」という題をつけて、詩人が詩、ないしは詩集を編む時に、個人のどこを見せてどこを隠しているか、それをどれくらい意識的にしているか、無意識的にしているか、という視点から読んでみるという試みをした。

 それの善悪(などというものはないが)はともかく、表現物を鑑賞する際は、多かれ少なかれ、この「見せる」と「隠す」のせめぎ合いを見ることができるし、表現をするときも、この「見せる」と「隠す」のせめぎ合いに苦しむことになる。

 それは表現といってすぐに想起されそうな芸術や文学に限った話では全くなく、TikTokだってYoutubeのチャンネルであってもおそらく同様なのだと思う。

 例えば私は前回の記事で最後に登場した「なこなこカップル」というカップルYouTuberのことを全く知らなかったが、あの記事を書いたあとにYouTubeやTikTokを視聴し、なこなこカップルに詳しくなり、謎の親しみを抱くようになった。

 「なこなこカップル」に限らず、カップルYouTuberという人たちが世には大量にいて、数十万人がその動画を視聴するようなたいへん人気のあるカップルから、登録者数が20人くらいしかいないそのへんのカップルまで様々におり、それぞれがカップルの日常についての動画を配信しているわけである。

 しかし、よく考えてみればカップルの日常を世間に公開するというのは正気の沙汰ではない。みなさん自分の配偶者や恋人との日常を配信したいだろうか、と尋ねれば、9割8分2厘くらいの人が否、と答えるだろう。

 なぜならば恥ずかしいからである。

 ふつう人には社会的な顔があり、その社会的な顔でもって世間と接しているわけだが、配偶者や恋人といる際には私的な顔になっているのが普通である。ゆえに、本来のその人からは予想もつかないような態度を恋人に見せたりすることがある。

 普段はクールでにこりともしない上司が、配偶者の前では赤子のように甘えて床を転げ回る、といった痴態を繰り広げている可能性だってあり、万一それを配信されてしまった場合、その上司のイメージは崩れ「くくく、あんなふうにクールぶってるけど、部長、昨日の配信で赤ちゃん言葉で喋ってたわよ」などと部下に舐められてしまい、社会生活に支障をきたすことになる。

 では、カップルYouTuberの人たちは単に正気ではないのか、といえば、そうとも限らないなと思うのは、その動画の内容が、ドッキリであったり、ドッキリに準じた内容、すなわちモニタリングなどといって、二人の様子を陰で撮影したという設定で配信したものが多いからである。

 見ていても、本当にドッキリなのか、それともドッキリという設定で脚本があるのか、というのが判然としない。もっと曖昧で、ドッキリだとお互いすぐに気づいているけれども、番組のために最後まで引っかかったふりをする、といったものなのかもしれない。

 つまり虚実が入り混じっているのである。実際に甘えあったりといった、真実に近いところは残しつつも、撮られている本人たちもどこかでこれは作品であるという意識があるため、絶対に配信できないことをしたり、言ったりはしないわけである。

 視聴しているほうとしても、これ以上カップルらしくされてしまったら恥ずかしくって到底見ていられない、という場面になる前に状況が切り替わったり、ノリを外すようなテロップが入ったりして、鑑賞に耐えるようになっているなと気づく。

 カップルの日常のどこを見せて、どこを見せないかということを意識的・無意識的に行った結果、作品として成立して人気を博しているのであって、単に日常をダダ漏れにしているわけではないというのがポイントなのであろう。

 これは、例えば私小説などにも言えることであって、明らかに本人のことなのだろうけれども、しかし小説なので、どこまでが本当で、どこまでが創作かというのが分かりづらいなかで小説が展開していく。

 ここには「見せる」と「隠す」の作者のなかでのせめぎ合いが意識的にか無意識的にか分からないが存在はしているはずで、その配合によって作品の面白みがさまざまに変化するということがあるのではないかと思う。

 私のなかにも常にこの見せたい欲求と、露悪的になってもいけないから隠さないといけないという思考の両方があって、詩を書いたり文章を書いたりしているわけだが、この心理は、Fairbairnのいう露出症的技法と密接に関係しているのではないかと思っている。

 すなわち、「示すこと」をもって「与えること」を代理している1)。私の言葉で言い換えれば、自らの代理である表現物をあらかじめ示すことによって、自分の内面をそれ以上公開しなくていいようにしているのではないか。

 しかし、表現をしている人全員に当てはまることでもないだろうから、これは単に私だけの問題なのかもしれず、もう少し考えないときちんとした文章にならない。本編ではこのあたりについて説明をつけてみたいものである。

 さて今年ももう終わりである。みなさま良いお年をお迎えください。来年の偽者論の刊行をどうぞお楽しみに!ぜひマガジンごとフォローしてください。


1) Fairbairn. W. R. D.: Schizoid factors in the personality, 1940(人格におけるスキゾイド的要因 IN 栗原和彦編訳・相田信男監修: 対象関係論の源流 フェアベーン主要論文集, 遠見書房, 2017)


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