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小説「人間革命1巻」⑥~胎動~

 「胎動」とは「①母胎内で胎児が動くこと。妊娠5か月過ぎから感じるようになる。②新しい物事が、内部で動き始めること。また、内部の動きが表面化し始めること。」(goo国語辞典)である。本書の意味からすれば、②の意味であろう。しかし、よく考えてみると、1945年7月に戸田が出獄してから、本章のスタートは1946年1月である。丁度、5か月である。このことから「胎動」の①の意味にも合致する。

難に遭って思い出す

岩森:「いったい、いつ、そんなに勉強したんですか。覚えるだけでも大変だ。なんとも不思議に思っているんだよ」
(中略)
戸田:「さぁ、なんと言ったらいいか…。八万法蔵といっても、わが身のことだ。難に遭って、牢屋で真剣に唱題し、勉強したら、思い出してきたらしい。それ以前は、金儲けに忙しく、思い出す暇がなかったわけだろう」

人間革命1巻「胎動」p.315

「難に遭って分かった」のではなく「思い出した」のだ。ここに、生命は三世永遠であり、過去世から現世、そして未来世へと続いていくことが示されている。

世界宗教への兆し

戸田城聖は、ある確信をもっていた。それは、仏法には、民族を復興させ、文化を興隆させる歴史的原動力というべき力があるということであった。

人間革命1巻「胎動」p.316

日蓮仏法に、この民族復興、文化興隆の兆しを見ていたのは、歴史的に見ても戸田先生だけだったのかもしれない。仮に他にいたとしても、それは現代においては、成しえなかった。それは山本伸一なかんずく、池田先生という弟子がいなければ、この確信も虚妄に終わってしまっていた。だからこそ、後継の弟子が重要であり必要なのである。

やっと訪れた平和の春を、断じて悲惨な暗黒の世界にしてはならない。自由主義陣営と社会主義陣営の対立を、日蓮大聖人の生命哲理によって、乗り越えていかねばならないーこれが、戸田の確信であった。

人間革命1巻「胎動」p.317

 創価学会の信仰は、最も厳しく苦難の道を選ぶ信仰である。そういう意味では、最も厳しい信仰かもしれない。自由主義陣営と社会主義陣営を見据え、平和を願い、行動を起こすことほど、苦難の道はない。結果、歴史を見れば1991年にソ連崩壊したことにより、社会主義陣営は負けた形となった。現在は自由主義陣営で進んでいる。では、平和は訪れているかと言えば、それはまだまだ先のように思えてならない。むしろ、二直対立であった時代は、互いが互いをせめぎ合っていた。しかし、現在は自由主義の一色の社会の中で、言いようもない息苦しさを感じている。それは何と戦っているのかが分からない時代と言っても良いのではないか。この空虚の時代に、この仏法は世界を照らしていかなければならない使命があると思えてならない。

戸田の魅力

法華経講義の面白さは、戸田城聖の魅力にあった。
四人の受講者たちは、戦前の戸田と、戦後の戸田の急激な変化を知って、驚き、そしてうらやんだ。(中略)
戸田の魅力が、彼らには、日増しに輝いて感じられた。この一人の人間の変化は、不可解でもあったが、事実は事実なのである。

人間革命1巻「胎動」p.319

 日に日に増していくとは、おそらく法華経の講義をする中で、自身が体得した悟りを外に放出するところから、戸田自身も人間革命していっているのではないかと思う。
 そして、次のところに「人間革命」について述べられている。

 彼らが、その変化の源泉を尋ねると、戸田は、「仏法の真髄たる日蓮大聖人の生命哲理の実践だよ」と言った。さらに戸田は、「正法を、真実に、勇敢に実践し、宿命打開をしていくことを、人間革命というのだ」と語った。
そして、一人の人間の根底的な変革は、仏法の法理に則り、それぞれの主体性を立して、大いなる生命力を湧現させることによって、なされるのであると訴えた。さらに、その人間の変革が、一切の生活や文化、政治、教育、社会の変革につながる最も近い道であること、しかも本源的な革命であることを、彼は強調してやまなかった。

人間革命1巻「胎動」p.320

 「正法を実践し宿命を打開することを人間革命」であると述べられている。それには「仏法の法理に則ること」と「主体性を立して生命力を湧現させること」である。この箇所と同様の内容が、現在では絶版になってしまっている池田大作著の「女性抄」の中で、「幸福とは何か」について述べられているところである。

崩れることのない、ほんとうの幸福の条件は何か。
 その第一にあげられることは、あくまでも主体的に、積極的に、人生の問題に取り組んでいく、生命自体の姿勢である。客観的状況のみに支配され、受動的に運命を考えるのではなく、どこまでも、主体的に、自分の力を、そうした状況や、運命にぶつけて、少しでも切り開いていこうとする意欲である。(中略)
 幸福の条件の第二は、英知である。
いかに意欲にみちー前進また前進をしていっても、英知の灯火を失っては、闇中の遠征になってしまう(中略)世界を動かしている法則、原理を正しく認識せずしては、幸福実現はできないということである。

池田大作著「女性抄」レグルス文庫 p.30

 この部分は、筆者は常に心しているところである。戸田の人間革命についての記述の「仏法の法理に則ること」とは、「英知を知ること」と置き換えるならば、人間革命それはすなわち、幸福になることでなのである。

戸田の信義と包容力は、出版界の一角に、小さな星群をつくっていった。これがやがて後に、彼を中心とする金融機関の設置にまで、発展するのである。

人間革命1巻「胎動」p.327

 戸田の魅力は、信義と包容力がある。そして求心力があるのだと思う。そして、それはビジネスにおいても同じであった。しかしながら、この金融機関の設置が後々、創価学会にとって大きな苦しみとなってしまうのである。

彼は、一つの困難に直面すると、全力をあげてぶつかっていった。彼の全知、全精魂を集中していく姿には、すさまじい勢いがあった。やがて困難が去ると、ケロリとして、悠然と将棋に無夢中になったり、冗談を飛ばして、ご機嫌であった。

人間革命1巻「胎動」p.328

 困難にぶつかったとき、人はその真価を見ることができる。真の信仰者は、絶対に打開できる確信がある。しかし、祈っていれば何とかなるわけではない。全力の挑戦があるからこそ、諸天善神が動くのである。
 ここに関しては、資本論を書いたカールマルクスは「宗教はアヘンである」と言った部分に重なってくる。我々、創価学会員は、信心をアヘンにしてはならない。

「さて、これで終わった。寒いさなか、よく通って聴いていくれた。私は、あなた方に感謝するものです。今夜は、修了式をしよう」

人間革命1巻「胎動」p.329

滅後の法華経とは、末法における南無妙法蓮華経のことである。彼は、身の福運と栄光に感謝した。また、御本尊の使いとして、受講者にも感謝したのである。

人間革命1巻「胎動」p.332

 この受講者への感謝というのは、筆者においても、とても共感できる箇所である。本投稿は、一つの活動の中の企画であり、その延長線上で書かせていただいている。毛頭、ここに記している考えを押し付ける気はない。百人読めば百人の解釈があって良いと思うし、刺さる部分は人それぞれ違うだろう。しかし、それはあまり外には出さない。または文章にするのは、相当に大変なことだ。実際、私もこれをやり始めて後悔している部分もある。物凄いエネルギーと時間を要し、自身の非力さを痛感するからだ。そのため、ほとんどの人は、一人で納得しそこで終わってしまう。そこで、今回この企画を通し、この書籍を読み、一人の人間の熟読方法を示すことで、読み方の模範にもなってくれれば良いと思っている。なにより、この企画を聞いてくれる人たちがいることで、虚心坦懐に読むことができる。聞いてくれる人がいるということがどれほど有難いか、身の福運であるかということを実感する。

祈りから始める

焼け野原の東京である。法華経の講義を聴く余裕など、とても考えられぬ時勢であった。
しかし彼女は、真剣に題目をあげた

人間革命1巻「胎動」p.333

 真剣に題目をあげた、というところが重要である。信仰者は、いかなるときにおいても、祈りから出発する。新・人間革命20巻「架け橋」には、山本伸一が当時のソ連の首相であるコスイギン氏と会うシーンが描かれている。 会う直前に、山本伸一と峯子は、ホテルで唱題をするシーンが印象に残っている。

祈りから始める―それが彼らの信念であり、行動の原則であった。祈りは誓いであり、決意である。小声ではあるが、真剣な唱題であった。

新・人間革命20巻「架け橋」p.172

この実感は、私たちも実生活においても皮膚感覚で分かる。何かあれば祈るところから始める。これはいつの時代においても、誰であっても変わらない。

南無妙法蓮華経とは

「まず、法華経の講義といっても、要するに、大聖人様の南無妙法蓮華経が、いかなるものかということがわかれば、それでいいのです。そこから始めましょう。南無妙法蓮華経、さぁ、説明になると、これが非常に面倒であります。南無という意味は、南が無いということではない」

人間革命1巻「胎動」p.334

祈るところから始めるーこのうえで「南無妙法蓮華経」とは何か、これが分かることがこの法華経の講義の目的なのである。

「これは、梵語であり、日本語では、帰命と訳します。また、帰命頂礼とも言います。われわれの信心の立場から論ずれば、大宇宙の妙法という大法則と合致せしめることであり、また、南無妙法蓮華経という仏様と、境智冥合するということであります。つまり、南無妙法蓮華経とは、仏様の名前であり、この仏様を久遠元初自受用報身如来とも申し上げ、それは日蓮大聖人様のことであります。
それを、特に、南無とはなんだ、妙法とは、蓮華とは、経とはなんだといえば、これは一つ一つ甚深の哲理を含んでおります」

人間革命1巻「胎動」p.336

南無妙法蓮華経とは何か。これを説明するのは容易ではない。しかし、人間革命という小説を通して説明することで、それを容易にしながらも、その真理を絶対にブラさないところに、小説「人間革命」という書籍の偉大さがある。

最高原理を決めてから説く方法は、東洋哲学の特徴で、演繹的といいます。これが、西洋哲学になると、帰納的と言って、だんだん論理をたどり、その組み立てのうえに、最後の結論を下すやり方です。今日の日本人は、帰納的な学問で教育されてきたから、法華経の原理というものが非常に理解しにくい頭の構造になっているんです

人間革命1巻「胎動」p.336

 ここで、この説明が入っていることは非常に重要である。啓蒙主義思想によって、帰納的に陥っている人たちは多い。しかし、信仰においては演繹的でなければならない。そこが科学の領域と宗教の領域ではことなるのである。科学は、様々な事象や実験によって、その法則を求めていく。いわば具体をたくさん集めて一般化していく作業である。しかし、宗教、とくに信仰においては、信じるというところから始まる。南無妙法蓮華経を信じるというところから出発し、それを体験していくことで、その正しさを証明していくのである。
 この出発点の違いは、仏法をどの立場に置くかが重要である。現実にある学問から仏法を語ろうとすると、学問と学問の間に空白が生まれ、完全に埋めることはできない。結果、部分的になってしまう。しかし、現代の学問をこの仏法で語ろうとすることは、全てを包含することができる。これは前者が帰納的であり、後者は演繹的なのである。そして、三代の会長によって、前者は嫌われる。例えば、牧口先生においては「神学や宗教学から宗教信仰に入らうとするのは全く本末転倒である」と言わている。すなわち、「仏法の学問化」は嫌うが「学問の仏法化」は好かれるのである。この領域は、創価学会においては未聞の世界である。しかし、キリスト教においては神学、とくに実践神学という形で、信仰を深化してきた。これからの創価学会は、この部分に挑戦していかなければならない宿命がある。そういう点において、この部分は非常に重要な点なのである。

南無とは、日本の言葉で、帰命という。ですから、南無するといえば、心も身もともに、信じてささげることを意味します。その帰命する対象を本尊といい、これに”人”と”法”とがある。人とは御本仏・日蓮大聖人に帰命することで、法とは南無妙法蓮華経に帰命することであります。
 また、帰とは色法、すなわち、われわれの肉体であり、命とは心法、すなわち、われわれの心のことであります。大聖人は『色心不二なるを一極と云う』(御書708㌻)とおっしゃっております。
 われわれの肉体と心は、別々のものでは絶対にない。それが一致しているのが、真実の生命の極致である。体は会社に、心は家にあるとなると、えらく面倒なことになる。人間は、自分の体にあるところ、必ず心が一致していなくてはならない。その一致するところが、本当のわれわれの、生命の状態です。とにかく、色心不二なる状態を南無妙法蓮華経というのであります。

人間革命1巻「胎動」p.339

初期仏教において、行き過ぎた思想になると、自身の身体すら穢れたものであると捉える。しかし、仏法においては、色心不二であり、心と身体は一緒なのである。この原理は依正不二とも似ている。結局のところ、人は自分が思ったようにしかならないということである。裏を返せば、自分が思った通りになるということでもある。この原理を本気で信じ切れるかどうか、自分自身を信じ切れるかどうかが、信心の浅深になるのだとおもう。

”仏法による救済と革命は、ひとり教育界のみを対象とするものではない。仏法を苦悩に沈む一億の民衆のなかに、広く、深く浸透させ、幸福を実現していくことこそ、日曜が示された広宣流布の道ではないか。学会は、全民衆を対象とした、広宣流布のための教団であらねばならぬ”
そう考えた戸田は、その新しき出発のために、「創価教育学会」という名称を、「創価学会」と発展的に改めたのである。

人間革命1巻「胎動」p.344

 本章の前半部分で戸田は、「仏法には、民族を復興させ、文化を興隆させる歴史的原動力というべき力がある」と言われている。それを教育界の中にとどめておくのは非常に狭い。この教育も含め、全ての世界において広げ行くために「教育」の二字を外し、というよりもカッコにくくり、「創価学会」としたのだ。



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