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髪を切った。

 今日は、髪を切った。あなたの上に乗ったとき、その顔にかかる髪に、もう執着はなかった。いらない。と、思い切ることができる今を、逃してはならないと分かっていた。この決意の波に乗って、手放してしまえ。と、自分を鼓舞して「ナイスヘアーの共犯者」へメッセージを送った。

 髪の毛を切るのは、20歳の夏の終わりから久しぶりのことだった。あの時は、まだ髪を染めたこともなかったし、「こうかもしれない。」と憶測で一人前の大人を真似ていた。髪を切ったきっかけは、それもまた憧れた人の真似で、サディスティック・ミカバンドのミカか椎名林檎のような外装をモデルにしてた記憶がある。ちょうど、着物でバンドのステージをすることになって、わざわざ強欲にそんなことをした。

 切ってからすぐに、長い髪が欲しくて欲しくて堪らなくなった。物心ついた時から、美しいとは自分自身を認められなかった私は、髪と一緒にお手軽に手に入りそうだった女らしさを、自ら棒に振ったような気がしていた。憧れた人と同じようには、自分に意味を感じられなかったことへの劣等感もあった。自分のことを好きではなかったから、女性の長い髪や細い手足、くびれた体を作ることは、当時の私にとって自分の意味を簡単に見つけられることでもあった。香りの鮮烈に映える長い髪と、そこから下の曲線は過去の私にとって女としての意味そのものだった。

 街やSNSで他人の長い髪を見かける度に、羨ましかった。そんな思念を連れたまま過ごす毎日は、心からのYESとNOを胸の奥の箱にしまいつつ、一人一人と向き合う日々に変化した。都会に引っ越して、儚く関わる人数が増えてからは、初めての恋人ができたからか、行きずりの出会いと別れの濁流から、少しずつ上振れていた。

 11歳の頃から、自分の性別が女であることを異性からの目を通して自覚するようになった。15歳までは、誰のことも受け入れたくなかった。けれど、自分の選んだ生き方と孤独に耐えかねて、受け入れようとした。それは一番手軽だった女らしさで無理くり「みんなと一緒」の共通言語みたいなものを、作ることだった。自分自身も、とりあえず受け入れられれば、「みんなと一緒」みたいになれば、意味があるようになるんだろうと思っていた。

 その続きで、近頃までやってきたんだけれど、もう、うんざりした。いつの間にか、自分の中に持っていたはずのときめきや感動、綺麗な記憶をくれる友達、そんな全てを理由もなく嫌いになって、全てに白けていた。幼い時から、大好きだった満月すら、焼き魚の目に見えた。見栄えばかりの良い功績に頷くとき、胸のうちに引っかかる自分の声を、救うことを知らなかった。ああ、このままでは私、愛してくれた人とも二度と会えなくなってしまうんじゃないか。何もかも失って汚くなってしまうんじゃないかって、怖くなって、不向きなことは投げ捨てた。本当は私、心を込められて作られたものが大好きだったはず。楽器の音色も、絵の具の色も、本のインクの色も、ステージの照明も、大切にしたいから、ずっと向き合おう。

 だから、2年半の摩擦と一緒に伸ばした、思念の詰まった長い髪とは、今日でおさらば。カットサンキュー、「ナイスヘアーの共犯者」。

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