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【我王と茜丸】『火の鳥 ④ー鳳凰編ー』について。


■はじめに / 今回のご挨拶

「手塚治虫を知ってますか?」 
などと、ふざけたことを気軽にぼやきでもしたものならば、熱心なファンの歳上の方々にすぐさま取り囲まれ、小一時間の講釈を聞けるかもしれません。それほどに、手塚治虫という作家は押しも押されもせぬ偉大な巨匠であることは間違いありません。間違いないと思うのです。なにせ「マンガの神様」ですから。
 幼い頃、私にとって身近に手に取れるマンガは学研の「○○のひみつ」といったようなタイトルの専ら学習を目的とした作品と、父の書斎に収集された作品たちでした。中でも手塚治虫マンガに私は首ったけでした。
ということで、今回も早口で語らせて頂きたいのです。

■『火の鳥』という作品

数ある手塚治虫のマンガの中でも私にとって特別なものとなっている作品がひとつあります。それが『火の鳥④ー鳳凰編ー』です。「太陽編」や「未来編」もとても印象深く、甲乙つけがたいのですが、やはり一つシリーズの中から選ぶとしたら 私は間違いなく「鳳凰編」を選びお薦めします。物語として、作品として優れているという話ではなく、あくまで私が個人的に感動したという観点からですが。それではその「鳳凰編」がどんな物語か、できるだけ大まかにご紹介しましょう。 

■我王の物語

第一の主人公は「我王」という片腕の無い男です。幼い頃に大怪我をして、腕を失い顔に傷を負った彼は、村人に蔑まれながらも母と二人で暮らしていました。しかしふとした切っ掛けで不満や怒りは堰を切り、ついに村人の暴力を振り命を奪ってしまいます。そこからは転がり落ちるように罪を重ね、逃亡の最中、焚火に誘われ出会った青年の身ぐるみを奪い腕を切りつけ、青年の妹と名乗る美しい女性「速魚(はやめ)」を攫って闇の中に去ってゆきます。盗賊に身をやつし罪を重ねる我王は、些細な思い違いで速魚を殺してしまい失意の底に沈みます。罪人として捕らえられた我王は「良弁(ろうべん)僧正」という僧侶と出会い、共に旅をする中で多くを学びます。輪廻する命と人間の世のままならなさと、己の罪と内に在る巨大な怒りのこと。そしてそんな自分に何が為せるのかということを。
 彼は僧正に才を見出され、感情のままに多くの仏を彫りました。人によって軽んじられる草木や鳥獣の命の為に怒りました。政治や仏教によって踏みにじられる市井の人々の命を目にして憤りました。都では大仏の建設が進み、大掛かりな工事の中で多くの犠牲が生まれていました。僧正は自身が”国政の手段の仏教”を広め、人々を犠牲にする工事に用いられる資金を調達する旅をしていたのだと嘆き、自ら即身仏となって罪を償うことを決めてしまいます。僧正との死別を経て、僧正の言葉を受け、我王は大きな怒りと悲しみ、それから祈りを込めて仏を彫り続けるのです。

■茜丸の物語

 第二の主人公は「茜丸」という誠実で純粋な青年です。青年は焚火にあたって休んでいたところを、片腕の無い醜い男に腕を切りつけられ、一生涯その腕に後遺症を抱えることになります。そうです。我王が傷つけた青年です。彼は仏師として大成することを夢見ており、腕の後遺症はその夢の大きな妨げとなるものでした。しかし彼は腐ることなく、我王を憎むことなく、初心に立ち返り修行することを決心するのでした。ある時茜丸は「橘諸兄(たちばなもろえ)」という権力者から幻の鳥、《鳳凰》の彫像を彫るように命じられ、断れば両目と両腕を奪い、三年の期日までに彫り上げることができなければ首を刎ねると、無理難題を負わされます。ここから茜丸の《鳳凰》を求める旅は始まり、旅の中で「ブチ」という少女と出会います。ブチは次から次へと嘘を吐き、《鳳凰》を探し求める茜丸を散々な目に遭わせます。しかし彼の潔白さに自らを省み、惨めさに涙を流した後、茜丸を手伝うようになりました。ブチをモデルに一心に仏像を彫った茜丸は、あと一歩で傑作を彫り上げられるというところで、期日を迎え処刑の日を迎えてしまいます。
 彼を救ったのは良弁僧正の兄弟である「吉備真備(きびのまきび)」という貴族でした。真備は茜丸に自信が所有する《鳳凰》の図を見せ、今度は自らのために鳳凰を彫るように依頼します。遂に彼は《鳳凰》の像を彫り上げ、一流の仏師として一躍都での名声を得る事となるのですが………権威の為の仏像を彫り、貴族に褒めそやされ、大仏建設を任されるほどになる頃には、茜丸の胸中はかつてのような純粋なものでは無くなっていたのです。

■物語の交差

 我王と茜丸の生涯は物語の中で三度交差します。一度目の”邂逅”は先に述べた通りで、二度目の”遭遇”は片や良弁僧正と多くを学び内省する日々の只中、片や死を覚悟しながらも美しき《鳳凰》を一心に求める旅路の只中でのことでした。我王は茜丸に、「俺が憎いのなら俺の腕を切りつけるといい」と刃物を差し出し、茜丸はそれを断ります。
三度目は、都随一の仏師となり大仏を完成させた茜丸と、不世出ながら日本一の腕を持ち霊力の籠った鬼瓦を彫ると噂される乞食僧・我王の”対決”でした。勝負を言い出したのは、自尊心から日本一の評判を否定したがった茜丸の方。それがかつて自分の腕に傷を残した男だとは露知らず、相対して初めてそことに気付くのです。
大仏殿の屋根に取り付けられる鬼瓦を比べる勝負。
己が驕りと欲に心を濁らせてしまったことに苦悩する茜丸。己と世界に怒り、悲しみ、生きる者に想いを馳せ、一心不乱に粘土に力を込める我王。勝負の結果は明らかでした。しかし、茜丸は我王の過去の罪を告発することで勝負を有耶無耶にし、地位と面子を守ります。一方我王は一本しかない腕までも切り落とされてしまいます。

 後日。我王の鬼瓦が仕舞われた蔵は日照りの末に大火災に見舞われ、茜丸は蔵の宝物を守ろうと半狂乱になって火事の中消火にあたり、火に巻かれて死んでしまいます。死にゆく茜丸を迎えにやって来るのは、かつて焦がれるほどに探し求めた《鳳凰》……火の鳥でした。自身が虫に生まれ変わることをしった彼は、それは嫌だ!人でいたい!と叫びながら死にゆくのでした。
我王はと言えば、腕を失っても変わることなく、山奥で一人口にノミを咥え仏を彫り続けていました。かつて良弁僧正が人間の世から逃れ死を選んだ心境を悟りながら、それでも生き、自らの彫り出す仏で世の中の人の心を甦らせてみたいのだと。
長くなりましたが、これが我王と茜丸の物語でございます。私が心を震わせ、何度も読み返した物語。

■おわりに / 歴史と物語に背を叩かれて

 さてさて、現在の世の中を生きる私達は、我王と茜丸の果たしてどちらなのでしょう。きっとどちらでもあるのです。
誰しもが、我王のように目に見えるものでなくとも、欠けている部分を抱え、醜さを抱えるのでしょう。己と世の中に対し巨大な怒りと悲しみを抱えるのでしょう。けれども同時に、誰かを救いたいと願うのでしょう。
誰しもが、茜丸のように夢を見るのでしょう。夢は欲となり、心を濁らせ眼を曇らせるのかもしれません。成功は驕りを生み、保身で犯したことがいずれ自らを焼く可能性を抱えているのでしょう。
どちらの道にも幾つもの救いと過ちがありました。難しい分析はできません。ただ私はこの物語を読んで、二人の主人公の両方に「そんなものだろう」と背中を叩いてもらえたような気がしたのです。

 火の鳥と言えば、最近劇場アニメ化された作品がありましたね。『火の鳥エデンの花』、自分はまだ見れていませんが「望郷編」を原作に敷いたものらしいので、是非漫画と共に!
火の鳥(望郷編)|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

映画『火の鳥エデンの花』11月3日公開 | 11月3日(金)公開 (happinet-phantom.com)

■書誌情報
著者:手塚治虫
タイトル:『火の鳥④-鳳凰編ー』
発行者:角川春樹
発行所:(株)角川書店
発行年:平成4年 12月10日 初版発行
    平成5年 6月30日 八版発行

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