見出し画像

ルネサンスと宗教改革

こんばんは。今回は中世の終わりを告げるルネサンスから始まり、ルターの宗教改革、そしてそこから始まったカトリックとプロテスタントの間の30年戦争について見ていきます。

ルネサンス

ルネサンスとは何であったのか。これには多くの解釈方法が述べられてきているが、簡単に言うと、中世まで人々の考え方はその人の信じる宗教に従うのが基本で人々もそれに慣らされていた。しかし14世紀になり、イタリアを中心として人間のありのままを認めようとする合理的な考えが広まり、17世紀にはデカルトの近代哲学が生まれる。ありのままに見るには物事をよく観察する必要があり、それが芸術や科学を発展させたにとどまらず、宗教の世界も変えていくこととなった。

メディチ家とフィレンツェ

中世のイタリア半島は、大きく南北二つに分かれていた。両シチリア王国が建国された南部に対し、北部は国王や諸侯よりも力の強かった市民たちが、他の権力から独立する形で都市を運営した。こうした自治都市をコムーネという。
 フィレンツェがコムーネ化するのは12世紀のことで、メディチ家は14世紀後半に力をつけ、金融業や貿易に従事し、現在の銀行の原型となった。メディチ家はプラントン=アカデミーをたて、学者たちの保護者(パトロン)となった。その中で才能を伸ばしていったのが最後の晩餐で有名なダ=ヴィンチやダヴィデ像のミケランジェロである。

フィレンツェのダヴィデ像

ルターと宗教改革

中世のヨーロッパではローマ教皇が絶大な力を振るって、制度と精神の両方から人々を支配していた。農民から重い税を絞り上げて聖職者たちは贅沢していた。しかし度重なる戦争やサン=ピエトロ大聖堂の再建のためにローマ教会はたびたび資金不足に悩まされた。そこでお金を集めるために教皇は免罪符という手段をとった。それを買えば罪赦され救われる、というものだ。これに堂々と抗議したのがマルティン=ルターで、彼は修道院出身の大学教授であった。彼は1517年にヴィッテンベルク教会の扉に「九十五箇条の論題」と呼ばれる抗議文をはりだした。神聖ローマ帝国では、これを口火に農民が反乱を起こしたが翌年1525年には農民側の惨敗に終わった。(ドイツ農民戦争)その後、ルターに刺激を受け多くの宗教家がローマ教会に対抗して、自分なりの意見を唱え始めた。中でも、スイスのジュネーブを中心に活動したカルヴァンの説はヨーロッパ中に広まった。彼は聖書至上主義のほか、労働に励むことによって救いを確信できるという教えを説いた。
一時はルター派の考えを認めたローマ帝国皇帝カール5世だが、1529年にはその公認を取り消してしまった。これに対する抗議のため、ルター派は(プロテスタント)と呼ばれるようになり、のちにはカトリックに対抗する新教の総称になった。それで1555年、皇帝カール5世はアウスブルクの宗教和議でルター派を認めた。

30年戦争

こののちも神聖ローマ帝国内ではカトリックとプロテスタントの対立は続いた。そしてアウスブルクの和議から約60年後、ボヘミアのフェルディナント2世はプロテスタントを処刑するなど激しく弾圧した。これに対して神聖ローマ帝国内のプロテスタントのお領邦君主達が団結し、帝国内の諸侯同士の争いがやがて史上最大の宗教戦争、そして史上初の国際戦争となる。オランダ、デンマークやスウェーデン、フランスもプロテスタント側として参戦し、結果としてプロテスタント側の勝利となった。神聖ローマ帝国の領地であったドイツでは人口の3分の1が亡くなり、村落は崩壊し、その経済的損失は計り知れず、発展が200年遅れたと言われている。こうしてドイツは小さな独立国となっていった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?