見出し画像

世界の歴史3.2 イスラーム

3.1で取り上げた「中世」はキリスト教側からの視点であったが、今回はイスラム教側の視点。
ムハンマドからオスマン帝国まで、イスラム教の成立からその繁栄の時代までを見ていく。


ムハンマドとイスラム教の成立

 アラビア半島の大部分を占める砂漠地帯にはオアシスが点在しており、そこに町ができていった。メッカはそんなオアシス都市の中でも古くから栄える大きな街であった。そのメッカにはカーバ神殿という、アラビア半島のいろんな部族の信仰の神が何百と祀られている神殿があり、そこに巡礼に訪れる人も多かった。ムハンマドはこの地域に商人の家系として育った。そのため拝金主義の環境ではあったにも関わらず彼は真面目で誠実な商人として育ち、610年のある夜に神からの啓示を受ける。「神は創造主アッラーただ1人、人は全て平等でなくてはならない、良い行いをすれは人は死後天国に行ける。」と、それまでにない新しい教えに共感した人々が最初のイスラーム教徒となった。しかし、その新勢力に対して商人たちは不満を持ち、彼らをメッカから追い出した。その後ムスリムたちはメディナで布教を続け力をつけ、624年メッカとメディアの間で戦いが始まった。これが聖戦(ジハード)の始まりである。この戦いはイスラム軍が勝利し、彼らはメッカを征服した。全ての偶像を破壊したが人に対しては許し、信者を増やしていった。カーバ神殿はイスラム教の神殿として生まれ変わり、部族同士の権力争いで分裂していたアラビア半島はひとつになった。

イスラームの分裂

 ムハンマドは神の啓示を受けてから22年後この世を去ったが、次の指導者を選ぶ話し合いが行われ、初代カリフアブー=バクルが選ばれた。歴代のカリフ達はイスラム教をより広めるための聖戦を何度も行い、636年にはビザンツ帝国に大勝、638年にはエルサレム占領、641年にはエジプトのアレクサンドリアを占領し、第2代カリフの時に首都をバグダートに移した。第3代カリフ、ウスマーンの時、神の言葉をまとめた「コーラン」が作られたが、彼は自分の家系である、ウマイヤ家ばかりを住職につけたため反感を買い殺された。混乱の中、4代目のカリフにはムハンマドのいとこであったアリーが選ばれたが、これにウマイヤ家のムアーウィヤが反抗し、イスラム教同士の争いが始まった。アリーは暗殺され、正統カリフの時代は幕を閉じ、ウマイヤ家のムアーウィアがムスリムの頂点に立った。これ以降、イスラム教は、スンナ派シーア派に分裂し{共同体として守るべきムハンマドの言葉や行い(=スンナ)に従おうとするのがスンナ派で多数派。これに対してアリーとその子孫にカリフは引き継がれるべきと考えたのがシーア派である。}

首都バグダート

750年その状態に危機感を持った人々がウマイヤ家を倒し、アッバース朝が誕生した。(アッバース革命
 首都バクダートは肥沃な農業地帯の中央にあり、かつ東西に走る交易路とペルシア湾に向かう河川航路の交差点に位置していたため、イスラーム世界の政治、経済、文化の中心であった。街は大円城を円状に中心に広がり、街には公衆浴場がたくさんあった。アッバース時代はこうしてバグダートを中心とした豊かな文化が花開いた時代であった。

大円城

十字軍とサラディン

11世紀になるとアッバース朝に変わりセルジューク朝が興り、現在のトルコに至るまで領土を広げていった。これに危機感を募らせたキリスト教勢力が十字軍を募り、7世紀からイスラム教勢力の領土となっていたエルサレムを奪還エルサレム王国を建国し88年に及び支配した。イスラム勢力はシリアの領土を次々と失っていった。ここで英雄と呼ばれたサラディンが登場する。彼はムスリムであり、文武に優れた。エジプトのファーティマ朝まで勢力を伸ばしていた十字軍を追い払い、ファーティマ朝の宰相となった。ファーティマ朝は争いばかりであったため、彼はアイユーブ朝を建国し、1171年にはファーティマ朝を倒し、さらにシリアのセルジューク朝下の地方政権を統一した。1187年にエルサレム北部のヒッティーンで十字軍と激突し、サラディン率いるイスラム軍がこれに圧勝。エルサレム王国軍の半数が戦死し、残りは捕虜となったが、身代金を払えば自由の身にさせた。その後も十字軍とイスラム軍の戦いは続いたが、決着つかず、1192年両軍は講和条約を結び、キリスト教徒のエルサレム巡礼が認められた。

オスマン帝国とスレイマン一世

 13世紀初め頃のアナトリア(現在のトルコ共和国)ではギリシア正教のビザンツ帝国とトルコ系ムスリムのルーム=セルジューク朝が攻防を繰り返していた。しかし13世紀中頃になるとモンゴル人の侵入もあり14世紀にはルーム=セルジューク朝は姿を消す。その混沌の中で1299年にアナトリア西部にオスマン帝国少数のトルコ人戦士集団によって建国される。しかしこの集団はビザンツ帝国の重要な都市をどんどん征服して大きくなり、バルカン半島にも領土を広げ、1453年にはビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルを占領しビザンツ帝国を滅ぼした。この時からこの街はイスタンブールという地名に変わった。アヤ=ソフィアを始めとするキリスト教会はイスラームのモスクに改装され、イスタンブールはイスラーム世界の文化の中心地となった。スレイマン一世の知世では、ヨハネ騎士団が守るロードス島を攻略、1526年にはハンガリーを属国化していった。その頃西ヨーロッパにはカール5世の収めるハプスブルク家が強大な勢力で君臨していた。スレイマン一世はウィーン遠征を行ったがこれに失敗。その後もハプスブルク家とオスマン帝国は戦いを繰り返した。スレイマン一世の頃のオスマン帝国、建築家シナンによるスレイマン=モスクと呼ばれる豪華なモスクの建造や、インド、アフリカにまで領土を広げた、イスラームの繁栄の時代であった。

16世紀なかばのヨーロッパ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?