共生の技法

今回は、竹沢尚一郎の「共生の技法」を読んだので、内容をまとめようと思う。

この本を通して一貫したテーマは、「共同性のなかへの個の解消」であった。それを、祭り、歴史、過去現在のさまざまな共同体の事例の中で観察した上で、現代における共同体の可能性につい述べている。

祭り
「祭りの約束事を受け入れること。個人の行動を規制する共同体の規制と伝統に従うこと。そうしたことは個人の自由の束縛であり、個人の能力の開花の阻害であるというのが、戦後の日本を支配してきた「声」であった。身分制と宗教の支配していた過去の社会に変えて、個人の尊厳を第一に掲げた市民革命が成立して以来、ヨーロッパで何世紀にもわたって鳴り響き、わが国でも戦後になって支配的になったこの「声」に煽られるようにして、多くの人々は自由の場としての都市を目指してきた。しかし彼らがそこに見たのは、いったい何であったのか。

マルクス「資本制生産に先行する諸形態」
共同体を基礎にもつ資本主義以前の社会の構成を「アジア的」と表現。

大塚久雄「共同体の基礎理論」
マルクスの考えを受けて書かれたこの本は第二次世界大戦の後、農地解放が大きな問題になっていた時期に書かれた。その頃日本には共同体が残存しており、それが後進的であるとした。日本を含めたアジアの「後進性」からの脱却がスローガンになっていた当時においてそれは強く影響した。

個人の自立を先進性の、共同体を後進性の指標とする発展モデルが、西洋中心主義的なものでしかない。

祭りから神道へ
多くの参加者による共同の行為が継続して行われること、しかもそこに個々の人生が包摂されうること。この二つが共同性の成立のための必要条件と言える。とは言っても、祭りの中で生まれる共同意識は、祭りの終了とともに消滅する可能性がある。特に都市のような多様な要素を内部に含む場合は、その可能性が高い。人々がまつるべき神の名を定め、神の場を特別に設けたのは、そうした配慮からであったに違いない。行為と、行為がもたらす感覚は移ろいやすいものでしかないが、それを刻んだ名や物は長く続く。かくして人々は、祭りの高揚が遠ざかった時にも、神の名をともに口にすることで相互のつながりを確認できたのであろう。わが国におけるこのような行為と意識のあり方を神道と呼ぶなら、それは地域ごとに異なる神の名を持ち、地域ごとに異なる祭りの形態によって支えられた、地域の独自性に根ざした宗教だったからである。

祭りが宗教性を失った
ところが今や、祭りは宗教性を失い、祭りが捧げられるはずの神谷神社はほとんど「飾り」でしかなくなっている。それは、地域に根差した祭りと宗教の形態が国家の占有によって作り替えられていった過程がある。
結論から言うと、明治以来の国家神道の強制によって共同性のあり方が変化した。「五箇条の御誓文」は神道祭式の形で行われたことを示していて、明治政府の基本方針は、中央集権化を進めることで富国強兵を実現する一方で、西欧文明の浸透に国家神道のイデオロギーで対抗することであった。そしてそのためには、地域の神と祭りが保持していた独立性を失わせて、中央政府の管理下に置くことが必要だったのである。そして全国津々浦々の神社の社格が定められ、神社のヒエラルキーが設けられる。そして村に一社に決められて統合したり、神社の神職が行政府による任命制に改められたりして、地域の神と神社が中央政府のもとに組み込まれる過程で、地域の共同体の根拠が失われていった。

1996年になって地方分権法が制定されたりして、地方に対して向けられる眼差しは変化しているが、地域がそれだけでは共同体を意味する物ではなく、その実現のためには長期にわたる共同の行為の継続が必要である。また、特別な意識の形態(独自の信仰や思想)を作り出すことが不可欠である。→難しくない?

今は、地域に縛られる必要はないし、伝統的に生きる時代でもない。先祖代々、みたいなことは現代では通用しにくい。先祖への畏怖とかは無いし、未来の計画とかの方が大事。

国家の前に民族があると思っている。しかし、その民族という意識は古くからあるわけではない。明治以前の先祖は日本人という意識はなかったし、ヨーロッパにおいても、フランス革命までそこまで強くはなかった。人間の平等と理性の勝利を掲げる啓蒙主義に導かれて革命思想がヨーロッパ中に広がっていったが、それに対してフィヒテの公演「ドイツ国民に告ぐ」が行われた。そこで哲学者のフィへテが、民族とは何か、民族とはどこに根拠をおくべきかを明らかにした。言語の共同、道徳の共同、ルターの宗教改革以来の宗教の共同、風景の共同、歴史的記憶の共有。フィヒテはこれらの要素が密生つに結びついた実態として民族を捉え、ドイツ人がドイツ人たりうる根拠だとして、それげの全面的な献身と寄与が必要だとした。
それらの5つは個々人の手の届かない、変えることのできない物なのだから、彼らに許されるのは、これに献身することだけだと言った。人々は自分を超えた大いなるものの幻想に浸り、帰属意識や自分の小ささと全体の大きさを生み出すことに貢献した。民族が自分の全存在を支えるものだという概念。だからこそ、民族が存亡の危機の時には、全てを挙げてこれを守るべきだとする観念。

家族や地域社会などの共同体は、人間の社会ができて以来成立していた共同体であるけど、規模や範囲は制限されていた。一方民族の場合は言語や記憶、風土と言った要件に結び付けられることで、直接触れ合える範囲をはるかにこえた。その人々がつながっているか、と言われたら想像力であると言える。「想像の共同体」想像力の働きが国家の中に吸収されると人間の社会にある種の変革を可能にする一方で、戦争やユダヤ人の虐殺とか、の悲惨なことにもつながった。ここでは、想像力が社会集団の形成の力を持ち、社会変革の力を持っていることが確認できる。想像力自体は良いものだと思うので、それを正しく用いることが大事。国家とか民族といった手の届かないところにある「共同体」を理想化しようと努めるのではなく、私たちの身の回りに位置し、私たちの手で修正可能な開かれた共同体を想像すること。

個と共同体
現代は共同体を拘束、個を自由とする視点に囚われすぎて、共同体を悪、個人を善とする単純な二元論に陥り、人間の想像力や行動が制度を変える力を持つことを軽視している。確かに民族主義とかナショナリズムとか、一部の宗教運動とか誤った方向に向かっているものもある。集合性や伝統を否定してまでも個の実現を第一に考える近代の発想から、他者を活かし、自分を生かすことを重視する共生の概念へと、どう繋げていくか。個が共同体に埋没していた過去の状態に戻ることが、近代を経由した私たちにはもはや不可能であるとすれば、自己と他者にありうべき関係性について考え直すことが必要であるに違いない。
どのように自分の感覚や欲望を使い、どのように他者との関係を作り上げていくか。それを一つの技術と呼ぶなら、それを総称するための言葉が、倫理。
現代があらゆる共同体の崩壊の時代であり、その再建が望まれている時代であるとすれば、それは現代が、個の確立と自分と他人の関係の樹立としての倫理を要請している時代だということ。

贈与論
近代社会の根幹にあるのが、自由な交換を通じて自己実現と最大利益の実現を目指すことであった。フランスの社会学者であり人理学者である、マルセル・モースは贈与論の中で、人間の社会は元来交換ではなく贈与を中心にする社会であったこと、そしてその名残は現代の私たちの生活の中にも存続していることを、多くの社会の例を挙げながら倫証している。そして、現代社会を「人間が計算機で複雑にされた一つの機械になった」と批判して、「多くの社会や階級が今なお記憶している生と活動の同期、つまり公然とものを与える喜びや、鷹揚にして雅趣のある消費の楽しみ、客を迎えることや祭礼の楽しみを再発見」することが彼の狙いであった。
物々交換などの交換が、人間関係や人格の不在の中で行われているのに対し、各種の贈与が人間関係を樹立したり更新させるべく行われていることが明らかであろう。
人類の救済のために我が子を神が与えたとするキリスト教の教義にしても、その核心にあるのは贈与の概念である。教育の現場でも、原則上は授業料と労働の交換であるけど、教師に期待されるのは単なる知識の付与ではなく、献身や熱意などといった人格の贈与なのである。


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