あと1年と言われましても(3)〜(12)


【大丈夫な訳ないのに、どうする?】



 入院1ヶ月前。無気力な夫が心配になって色々検索したが、その時は「うつ病」くらいしか考えられなかった。病院に行くとなると、脳神経外科ではなく心療内科やメンタルクリニックになってしまう。
 一度診てもらったら?と夫に勧めたが、「俺は大丈夫だから」と言い張られた。「ですよね・・・まあ、そうなるよね・・・」と思った私は、しつこく言わずにもう少し様子を見ることにした。
 耳鼻科や皮膚科と違って、脳や心の病院は敷居が高く、「ちょっと行ってくる」にはなりにくい。今までほとんど風邪も引かなかったため病院に行くことがなかった夫は、そもそも病院慣れをしていない。年に一度の健康診断でも、脳は診てくれないため、現状の判断材料が無い。
「本人が病院に行きたくないって言うんだからしょうがない。そのうち気分が晴れてヤル気も出るかな」当時の私はまた逃げてしまった。

 入院2週間前。転がるように症状が悪くなっていった。
 まず短期記憶障害。予定や会話を覚えていられない。何度も同じ事を聞いてくる。
 次は言語障害。言いたい事がすぐに言葉にならない。言葉が見つからないから、話すのに時間がかかる。
 これはもう病気確定だと焦った。
 私だって、老化現象で「ど忘れ」「もの忘れ」はある。だが、夫に限っては、今まで「忘れる」ことなんて無かった。
 メモなど取らずとも、日常のすべては暗記で充分記憶していて、何を聞いてもすべて答えてくれるような人だった。ボキャブラリーも多く、言葉に詰まる事も無かった。どちらかといえばツッコミタイプの夫は、レスポンスも早く、論破もお手のもの。しかし、今は無気力で無口だ。
 厄介な事に夫の場合、脳腫瘍の主な症状(頭痛や痺れ、不眠、めまい、吐き気、食欲不振など)が全くなかった為、今の症状だけをネットで検索しても「脳腫瘍」より、「うつ病」や「アルツハイマー病」のヒットばかりが目立った。
 私は焦っていたが、この状況においてもまだ夫は「大丈夫、大丈夫」と言って、のび太のように寝転んでいた。

 私はある覚悟をした。脅しをかけてでも病院に行ってもらうしかない。
 仕事が平日休みの日に、本気を出して役所に行き、真剣に説明を聞いて、書類を用意し、記入・捺印までして、準備万端で話を切り出した。
「病院に行かないのなら離婚します」
 離婚届を見せて、「今から家を出ます」とまで言った。
 単なる脅しではないことをわからせないと、適当にあしらわれてしまう。私の本気が伝わったのか、無気力無反応だった夫が、「嫌だ」と絞り出すように言い、重い腰を上げた。
「わかった。今日病院行ってくるよ」
「早速今日行ってくれるんだ!予約とかは?電話はしなくていいの?付いて行こうか?」と言ったが、
「大丈夫。昼過ぎに近所の神経内科に行ってくる。」
 ちょっと安心して、「じゃあ帰りに買い物と、銀行で通帳記帳もお願いね」と、おつかいも頼んだ。
 一人で診察に行くのに不安はあったが、妻が付き添うほど重病ではないと本人が思っている以上、また嫌がられては困るので、今の症状と疑わしい病状を書いたメモを病院に持って行ってもらった。
「このメモを先生に渡してね。診察の時に、先生から言われたことは、メモして帰って来てね」と伝えて見送った。

 予想以上に早く帰宅した夫。
「どうだった?」と聞いたが、うまく言葉が出てこない。じっくり焦らず話を引き出してみると驚きの事実!
要約すると「病院では何も言えなかった。メモの存在も覚えていなかった。病院に初診料だけ払って帰ってきた。買い物も銀行も、行くのを忘れて帰ってきた」との事だった。
 私はしばらく固まってしまった。これは間違いなくヤバい案件だ。一刻も早く診察してもらわねば!でも今日は金曜日で今は夕方。本人が「今日行った神経内科はもう行きたくない」と言っている。理由はうまく聞き出せなかったが、嫌な思いをしたのかもしれない。
 ならば土曜日に開いている心療内科に連絡してみようと思い、評判の良さそうな病院を検索し、連絡したが「今はコロナの関係で、既存の患者様以外はお断りしています」とドライに切電された。口コミの良い病院だったが、口コミなんてアテにならないな、と思うと、もうどこに連絡すればいいのかもわからなくなってしまった。
 夫に「公立の大きな総合病院が近くにあるから、そこに飛び込みで行くしかない!月曜日会社休むから、朝イチで行こう!」と伝えたが、「会社休むの?そこまでしなくても大丈夫なのにー」と、この後に及んでまだのんきなことを言っていた。大丈夫、大丈夫と言う口癖は忘れていないようだけど、ただ面倒くさいだけだよね、怖くないの?心配じゃないの?といろいろ聞きたかったが、問い詰めても言葉が出てこない状況ではどうしようもない。

 土曜日から日曜日には、新しい症状が出てきた。何と言っていいのかその時はわからなかったが、「ふらつき」と言う症状。まともに座っていられず後ろへ倒れてしまう。歩いても左足の膝から脱力しコケてしまう。
 そして別の種類の記憶障害。人や物の名称がわからない。充電器のコードの事を「トゥクトゥク」と言ったり、私を親戚の叔母さんの名前で呼んだり。目の前にいるのは、夫の姿をした別人のように思えた。でもニコニコしている顔を見ていたら「ごめんね、頑張って!」と言われているような気がした。

 やっと月曜日になった!朝イチで病院に連れて行った。
 受付で夫の症状を訴えたが、「初診ですか?」「紹介状はありますか?」「ものわすれ外来なら予約制になっておりまして、2週間先まで予約でいっぱいですので、お急ぎなら早く診て頂ける病院様をお探しになってみられてはいかがですか?他の病院様でも予約が必要と思いますので、まずは連絡してご確認ください」と言われ、断りたいような雰囲気。

 私にはハッキリと運命の分かれ道が見えた。片方の道には「死」と書いてあった。
 いつもなら私の『繊細さん』が発動して「コロナ禍だし、自分たちだけ特別扱いしてくれなんて言いづらい」と、別の病院を探すだろう。でも今回は空気を読む訳にはいかない。
「ここで頑張らないと、きっと間に合わない!HSPとか関係ない!」心の中で自分を鼓舞して、受付で粘ってやりとりした。
「今日どうしても診てもらいたいんです!」
「脳のMRIだけでも撮ってもらえませんか?」
 面倒な事言う客だなー、なんて思われるのは、本当に精神を削られるほどストレスだ。たじろいでしまいそうになる。

 受付の人たちは、忙しいながらも奥の方で私たちの処遇を色々検討してくれた。
「内科の中に脳神経内科という所があります。そこなら本日ご案内出来ますけど、そちらで良いですか?」
 いいですいいですどこでも!とにかくMRI撮ってもらって、何も異常が無ければ今日のところは一安心だ、と思い、何とかねじ込んでもらった。
 受付している間、後ろを振り返ると、ぼーっとソファに座っている夫がいる。「私が付いてるからね!安心して!」と力が入った。 

 この頃はコロナの3回目ワクチンを打った人がまだ少ない時期。病院も予約中心で人数制限していたのかもしれない。でもさすが月曜日。来院者で溢れている。
 待合室で長時間待って、ようやく名前が呼ばれ、血圧や体温などの測定や採血。次はMRIを撮影するのに長時間待った。その撮影後、診察室前で先生から呼ばれるのを長時間待った。やっと先生の元へ案内された時には、夕方近かった。

「えーっとですね、画像を見るとですね、そのー、ちょっとですね、何と言うかー、脳にですねー、おできのような物が出来てるようでですねー……」と、かなり歯切れの悪い言い方をされた。夫の現状についてあれこれ質問されたが、脳腫瘍に関する症状が少なく、「そうですかー、おかしいですねー……」と頭をかかえながら、ちょっと気まずそうにされた。
 そんな頼りない説明ある?もうちょっと具体的に言えないの?とイライラしてしまった。MRIの画像は、素人の私が見てもヤバいと分かるほど、脳の右半分が真っ白に映し出されていた。
「金曜日に、国立の病院の脳神経外科の先生が訪問される予定があるんですが、その時に改めて診てもらいましょう。そのためにも、水曜日に造影剤を入れてもう一度MRIを撮りましょう」
 えー!金曜日まで待つの?それまで夫は大丈夫なのか不安しかない。毎日転がるように悪くなってるのに。でも、この病院より大きな病院の先生に診断してもらった方が絶対良いと思い了承した。

 火曜日。一日中ふらついて家中で転びまくっていた。夕方、お風呂はいつもシャワーだけだが、いつまで経っても出てこない。心配になって見に行くと、空っぽの風呂釜に頭から突っ込んで土下座のような状態でじっとしていた。
「何でそんな状態なの?助けてって呼べばいいのに!」と言いながら起こしたが、夫に言わせると「どうやったら立ち上がれるのかわからず考えていた」「助けを呼ぶってどうしたらいいのかがわからない」との事だった。言葉が出ない為、事情を聞くにも、リスニングに根気が必要だ。

 水曜日の昼。病院へ行き、造影剤を入れてもう一度MRIを撮った。その帰りに「ラーメンでも食べる?」と提案したら「食べる!」と喜んだ。
 食欲があるのは良い事だね、と思ってお店へ行った。ふと見るとお箸の持ち方が少し変だった。麺があまり掴めてない。

 帰りは歩くと言うので、散歩がてら支えながら歩いたが、「ここはどこ?」と言い出した。
 そして、歩いている途中で、突然何度も走り出す。
「なぜ走るの?走りたいの?」と聞くと
「いいや、走りたくないんだけど・・・なんでだろう?」とニコニコ照れ笑いをした。

木曜日。とにかくよく眠る。食欲はある。起きてる時は生あくびが多い。
 お箸の持ち方がいよいよおかしい。グーで握ってるような持ち方。
「なむちゃん、お箸の持ち方、変と思わない?」と聞くと
「そう?おかしいかな?」と気にもせず。お箸から食べ物がどんどん逃げて、口に運べていなかったので、途中からスプーンとフォークに変更。

 金曜日。いよいよ歩けなくなってる!支えながら何とかタクシーに乗せて病院に到着。入り口で病院の車椅子を借りて座らせようとするも「いいよ!いらないよ!大丈夫だから」となぜか恥ずかしがって遠慮する。
 遠慮してる場合じゃないでしょうが!無理やり座らせたため不機嫌になったが、自分が不機嫌だと言うことでさえ、すぐに忘れたようだった。

 ドキドキしながら脳神経外科の先生から呼ばれるのを待った。
「緊急入院になっちゃうかも……」と思った。でも入院なんて関わったことないし、どうしたら良いのか全くわからず不安になったので、とりあえず考えるのをやめた。

 名前を呼ばれて診察室に入るとすぐに、国立の先生から慌てた様子で告げられた。「緊急入院です。今から国立の病院の方に転院して頂きます。紹介状を書いている暇はありません。私が後から持って行きますので、今すぐ病院に向かってください!」
 やっぱりー!でも緊急度が想像より上だった!国立の病院?行った事ないんですけど、どこにあるんですか?なんてぐるぐる考えていると、看護師さんから「入院準備されますよね?」と聞かれた。
 入院準備って何すればいいの?と思う間も無く「ここの公立病院の入院のしおりですが、とりあえず必要最低限は書いてあるので、良かったら参考にしてください」とのお気遣いを頂いた。
 このまま夫を置いては行けないので、お義母さんを召喚。来てもらってタッチ交代。急いで自宅へ帰り、アレコレかき集めて戻って来た。
 先生に「救急車に乗りますか?」と言われたが、私の『繊細さん』が発動。そんな恐れ多い!タクシーで向かいます、と遠慮して国立の病院へ3人でタクシーに乗った。
 タクシーの運転手さん、おじいちゃんだったー!遅いわー!救急車の代わりに乗ってるのに、こんな悠長でいいの?と思ったが、じゃあ救急車に乗れって話になるので、何も言わずに乗って行った。遠回りしたんじゃないの?って言うくらい時間がかかった。
 病院に到着したが、今度は受付で時間がかかった。
 紹介状を後で先生が持ってくるというレアさや、「緊急入院?案内する場所は?救命救急センターでいいんですか?」みたいなやりとりがあり、緊急なのに正面玄関で待たされた。
 その後、「こちらへどうぞ」と救急救命センターへ案内された時にはすでに夕方になっていた。
 ちょっと偉い感じの先生がすでに待機していて、「遅すぎます!何で救急車で来なかったんですか?!」とビックリされた。
 夫は救急のベットにすぐ寝かされ、血圧測ったり、いろいろな用具に繋がれながら矢継ぎ早に「今日は何月何日か分かりますか?」「お名前言えますか?」と質問された。
 夫もテンパって「えーっと、昭和・・・」で止まってしまった。もし私が聞かれても昭和と言ってしまいそうなほどの緊迫感。
「緊急入院になります。受付は17時までですが、あと15分ありますね。間に合いますので手続きお願いします。今日は手続き後お帰り頂いて結構ですが、ゆうまさんとはここでお別れした後、しばらく会えないと思いますので、どうぞ声をかけて受付に行ってください」と先生に早口で言われた。
 緊急処置室のような場所で、お義母さんや先生に囲まれた状態で、「なむちゃん!」なんて呼べるはずもない。時間も無い。
 焦った挙句、「あの……じゃあ……がんばって……」しか言えなかった。
 状況把握できてなかった夫は「え?そうなの?行っちゃうの?うん……じゃあね……」と笑顔で手を振ってくれた。
 その後は言われるがままに、いろんな書類に署名し、受付で手続きし、今後の保険の限度額の申請とかを聞いて、お義母さんと一緒に帰った……と思う。あまり記憶にない。

【親たちへ思いを巡らせて 義父母編】


ここで少し私たちの各両親について書いておこうと思う。

 実はお義母さん(ゆうまの母)とは同じ賃貸マンションの上下階に住んでいる。お義父さん(ゆうまの父)とは絶賛別居中だ。お互い一人暮らし。全面的にお義父さんが悪いが、そこはそれぞれ言い分があるのだろう。私はあえてノータッチだ。でも私個人的にお義父さんは苦手というか、好きではない。悪い人ではないのだけれど。

 お義父さんは小さな会社を経営していて、遊びも女性関係も楽しんでいたようだ。最終的に、アラウンド60で浮気相手が妊娠し出産、その相手とも別れ、ほぼ同時期に色々あり倒産。そりゃ熟年別居にもなるでしょ。

 お義母さんが離婚しないのは色々思うところがあるようだ。
「お義父さんに万が一の事があって、面倒みる事になった場合、離婚すれば直接息子たちに迷惑がかかる」というのが表向きの理由。本音はわからない。

 夫は3人兄弟の真ん中だ。兄も弟も県外にいて遠い。地元に唯一残っている息子は夫だけ。
 親の、特に母親の面倒を見るつもりだった夫は、両親の別居が決まった時、人生で初めての一人暮らしとなるお義母さんの体調面などを気にかけられるように、同じマンションの階違いを探して一緒に引っ越した。
 それが今回こんな事になって、逆に私たちの方が面倒を見てもらう立場になるかもしれない。お義母さんは、病院に一緒に行ってくれたり、私の代わりに買い物してくれることもあり助かっている。おむつと間違って生理用品を買ってきたりするが、そこはご愛嬌。

 緊急入院し、病理検査後に病名が判明し、お義父さんにも報告して、情報を共有した。

 その数日後に、お義父さんは主要な親族に連絡を取り、それぞれに「お見舞い」と称した入院費を集めたりして、あちこちから何とか費用を工面してくれた。生命保険に何も入っていなかった私たちは、本当に助かった。

 メンタルが強かった夫は、将来への不安など一切気にしておらず、「人生何とかなる、大丈夫」が基本の考え方で、いざとなれば国や市町村に色々助けてもらえば人は生きていける仕組みがある、とか何とか言っていた。そして年に1度の健康診断は欠かさず受けており、どこも悪くなく健康だから保険も入らなくていいと言って入らなかった。それは私の収入だけではカツカツの生活だったと言うことも理由の1つだった。
夫曰く、「保険屋さんって、大きな自社ビル持ってたり、有名人とか使ってバンバンCM流したり、スポンサーになったりしてるよね、それってすっごく儲かってるってことだから、保険に入ることが当たり前っていう考え方自体を、俺は疑問に思ってるんだ」的なことを言っていたことがある。
 今となれば「そう言わずに入ってくれよ……自分の病気のために……」と思う。
「俺も病気しないようにがんばるからさ、どぶちんも病気にならないでね」と、しょっちゅう手洗いやアルコール除菌させられたものだ。

 お義母さんとお義父さんにとって、今のそれぞれ一人暮らしは気が楽だろうと思う。それでいいなら私に異存は無い。その代わり「独居」にはそれなりのリスクもある。
 お義父さんは現在、知り合いに雇ってもらっているため、まだ収入はあるが、そろそろ年齢的にギリギリだろう。お義母さんも友人が近所に数人いるが、次々に介護や病気で会えなくなっている。だからと言って、県外にいる息子たちと同居するため住み慣れない土地へ引っ越すのは嫌なのだろう。
 それぞれが賃貸でこのまま一人暮らし出来るのか?年金だけで可能か?病気になったら?身動き出来なくなったら?
 自分たちの将来と今後の方向性について、リアルに考えてもらいたいと思う。

【親たちへ思いを巡らせて 実父母編】


 私の実父母。悪気ない毒親だろうと思う。何と言うか、すごく可愛がって支配する、所有物系だ。今でも呪縛感が残っている。

 父は私を可愛がる時はテンション高いが、機嫌が悪い時はヒステリックだった。些細な事でも気に入らなければ怒鳴り上げ、手を上げ、物に当たり散らした。
 私のHSPや自己肯定感の低さは、幼少から培われたのだろう。常に「父の理想のお気に入りの娘」でいなければならなかった。

 母も似たような感じだ。私の個性や感情などお構いなしに、着せたい服を着せた。ペットや着せ替え人形と同じレベルだ。「ゆまちゃんはお嬢様らしくしなさい」と押し付けられた。父母共通して「子供は親の言う事を黙って聞け!」だった。

 当時、こんな感じの家庭は珍しくなかったかもしれないが、私にとっては苦痛だった。

 中学生の時にいじめに遭った。当時の自分を振り返ると、常識も自我もない子だったので、標的になりやすかったのだろうと思う。

 親には言わなかった。過去に「オレの気分が悪くなる話はするな!」と父に怒鳴られた事がある。
「親に言えば、いじめていた子の家まで行って、相手の親ごと怒鳴り散らすだろう。私のためではなく、自分の気が済むように。結果、その噂は学校中に広がって、益々いじめはひどくなり孤立する」と想像した。
 親に相談して良い事など何もないと諦めて、毎日「明日が来る事」だけを望み、卒業するのを待った。
「忘却は心を健康を保つ」とはよく言ったもので、今は学生時代の事をほとんど覚えていない。

 両親は自営業だった。父が事務や仕入れを担当し、母が販売していた。なので父は決まった時間に帰宅し、休日もたっぷりあった。母は夜遅くまで不在、休みもほぼ取っていなかった。

 昭和の真っ只中。「男は外で稼いで、女は家で主婦」の構図が当たり前の世の中だった事もあり、母は店に立たない父の事を、父は家事をしない母の事を、お互いの不満や愚痴を、ゴミ箱にゴミを捨てるように私に話して聞かせた。どっちの言う事も仰る通りだった。だから父母に対して尊敬の念は育たなかった。
 さらに言えば、私が幼稚園の時、当時まだ生きていた母方の祖母も「あなたのパパとママはね……」と、幼い私に愚痴を吐き捨てていた。
 この頃にはもう、大人の顔色を見ながら過ごしていた気がする。
 思春期になってからも父と母に愚痴を言われ続けた。初めて母に「もう聞きたくない」と拒否した事があった。
「ゆまが聞いてくれないって言うなら、誰に言えばいいの!」と鬼の形相で詰め寄られたので諦めた。私の反抗期は一瞬で終わった。

 小学校の時から、家を出るにはどうすればいいかを考えていた。一人暮らしをするには資金がいる。過保護で監視の強い親だからバイトは無理だ。ならば、おとなしく自慢の娘であり続けて、安心させて、遠くの大学に出るしかない!と結論を出し、耐えた。

 短大に行き、就職もして、念願の一人暮らしを5年ほどしたが、色々あって結局実家に連れ戻された。その時は「私の人生終わったな。もう親の付属品として生きていくしか無い」と絶望した。

 そんなある日、夫に出会った。私を絶望から引き上げてくれた。両親も結婚を喜んでくれて、晴れて親元から旅立った。檻から出してもらった気分だった。

 その後、父は病気になった。元気な頃の父は、母に堂々と浮気宣言をして遊びまくっていた。よく私に「動ける時にやりたい事やっておかないと!」と言っていた。
 父の病名はALS(筋萎縮性側索硬化症)。
「良かったね、動ける時に動いておいて。もう動けないもんね」なんて意地悪な事を思った。

 発症して4年後、父は亡くなるが、私は密かに「自死」ではないかと思っている。
 在宅療養中、結婚して県外にいる私に「会いたい」と電話してくる事があった。遠い道のりをやってきた私に話すのは、自分が病気になった悔しさや母への不満や愚痴だ。もう見舞いに行きたくないと思った。
 最後に電話してきた時も、また「会いたい」と言われた。
「会ってどうしたいの?愚痴を聞けばいいの?私は会いたいと思ってない」と言ってしまった。
 その後、私は実家に行かなくなり、数ヶ月後、父は自宅で息を引き取った。

 亡くなった日の朝、母から連絡を受けたが、焦る気持ちもなく、ゆっくり準備をしたため、実家に到着したのが夜になった。親族から大ブーイングを受けた。
 母が父を膝枕していて、「パパ!ゆまが来ましたよ!パパー!起きてー!目を開けてー!」と言って大声で泣いていた。
「……そんなに仲良くなかったよね?なんでそんな感じなの?ドラマに感化されすぎだよ。夫が亡くなったら泣き叫ぶのが当たり前って思ってない?」なんて考えて、ちょっと引いてしまった。

 その夜遅く、母は泣きながら私に話した。
 父は今までも何度か発作があったが、発作がおこると母に合図で知らせていたから、いつも大事には至らなかったらしい。
 でも亡くなる前の夜、なぜか今までの色んな出来事を思い出してしまって、頭にきた母は長々と父に文句を言ってから寝たが、翌朝父に声をかけると、すでに息をしていなかったと言う。発作が起きても声をかけてくれなかった、自分のせいで死んだんじゃないかと言い、また泣いた。
「大丈夫よ。そんな事ないって」と、適当すぎる励ましの言葉をかけた。
「そう?そうよね!良かった!」とちょっと泣き止んだ。そう言ってもらいたかったのだろう。

 母から父との最期のやりとりを聞いた後、「私や母から、生きて欲しいと願われていないと感じて、発作の時にわざと母を呼ばず、生きる事を止めたんじゃないか」と考えてしまった。ある意味、自死だったのかな、と。
 しかし、現状を受け入れるためには、生きてる人がこれからも生きていきやすいように、都合よく解釈してもいいと思う。時と場合によっては現実と向かい合わない事も選択すべきだ。母の心が軽くなるなら、今更真実はどうでもいい。『きっと安らかに旅立ったんだよ』というセリフを聞きたいなら棒読みで言ってあげよう。

 私は昔からぼんやりと「父が死んでも私が泣くことは無いな」と思っていたが、それが現実になっても本当に悲しくなく涙は流れなかった。でも、ふと思い出すと、父の笑顔ばかり出てくるのが予想外だった。
「良い父親の部分も多かったのに、総合評価が残念だったね。でも、娘のことが大好きだったって事は覚えとく」と、心の中でつぶやいて見送った。

 そんな事情で、現在80歳になる実母は県外で一人暮らし。私の方から距離を置いている。

【コロナ禍の入院生活】


 夫が緊急入院して、病理検査の手術を行う前に、現状の説明を受けた。
 脳腫瘍の検査と同時に、併発している水頭症の治療も行うとの事だった。水頭症が改善されれば、今の記憶障害やふらつき等も多少の改善が見られるそうだ。
 この説明を受けた日、数日ぶりに夫に会えた。車イスで連れてきてくれたが、視線は上の方をウロウロ見たり、話しかけても気の無い相づちだけで心ここに在らず。抜け殻のようだった。
「なむちゃんはこんな感じのまま退院して、自宅に帰って来るのかな……」と不安になったが、「だったらどうなの?やるしかない!人も制度も、利用出来る事は全部フル活用しよう!」と覚悟した。
 そして手術の日。腫瘍の細胞を取って調べるためだけの手術。日を改めて結果発表。想定外の未来に向かって歩き出した。

 コロナ禍の病院では入院中の面会が出来ない。クラスターがおきては大変だからしょうがない。
 でも夫の様子がわからないので本当に困った。携帯を持たせていたが、当然使えるはずもない。看護師さんは「電話で私たちに様子を聞いてもらっていいですよ」と言ってくれたが、いつもめちゃくちゃ忙しそうだ。そんな場所に緊急ではない連絡なんて繊細さんの私には出来ない、どうしよう……

 とりあえず、仕事が休みの日は毎回病院に行ってみた。部屋からリハビリ室や放射線治療室へ向かう時に、いつも通る廊下とエレベーターの場所があることがわかった。おおよその移動時刻を聞いて張り込む。車椅子で運ばれてくる夫を発見したら、3メートルくらいソーシャルディスタンスを取って、手を振ってアピールし応援する。アイドルの出待ちみたいなものだ。会えない日もあったが、その一瞬に賭けて毎回病院に行っていた。

 結婚してからこんなに長い時間1人で暮らす事が無かったせいもあるが、夫がいないと、どこに行っても何を見ても辛くて悲しかった。こんなにも夫に依存してたのかと気付かされた。
 だからと言って、泣くのには抵抗があった。毒親育ちということもあるが「泣いても何も変わらない」と言う考えを持っているし、泣くと両方の鼻が詰まって口呼吸しか出来なくなる。そうなると飲み物も飲めない。点鼻薬は用意してあるが、泣き過ぎると効果が無い。
 一度泣くと涙スイッチが入りっぱなしになりそうなので、極力泣かないように頑張って生活していた。頑張るには強がるしかない!今は仕事を頑張ろう。退院に向けて準備しよう!気を紛らわそう!

 そう考えて会社にも状況を説明した。退院するまでは、シフトも融通してくれる事になった。
 職場の主要メンバーにそれぞれメモを渡した。
「夫ががんで入院した。約2ヶ月後の退院まで、夫のことは話題にせず、私のことも心配しないで欲しい。遠慮せず通常通りでお願いします」
 みんな見事に通常通りに業務してくれて、妙な気遣いもなく、「変わらなさ」を維持してくれた。私も仕事に励むことで現実逃避し救われた。
「怒り」や「嬉しい・楽しい」はパワーの源になるが、「悲しみ」は何の足しにもならない。「大丈夫?」「ちゃんとごはん食べてる?」などという一見優しさの塊のセリフは、今の私にとっては涙の決壊のトリガーになる。これから戦っていくことを考えたら、「私は弱い」ことを封印しなければ!私は何でもできる!今日できなくても明日はできる!強がり上等。

 ある日、家に帰ったら、夫宛に郵便で「コロナ3回目の予防接種」と「健康診断」のご案内が届いていた。
「今頃送って来て!もう健康じゃないし!」と、やさぐれながら引き出しの奥にねじ込んだ。

 1人で家にいると、1日30時間くらいに感じる。この頃は夫の症状や今後の介護について検索しまくって時間を潰していた。今のネット社会は、自宅にいながら情報が得られるので有り難い。
 闘病記をあげているブログや病院関係の脳腫瘍に関する情報など、毎日読み漁った。有り難い情報もあれば、胸が痛む記事もある。
「この先、なむちゃんが歩むかもしれない道」を想像して、調べれば調べる程、毎日が長く感じた。

【子供だった母と大人になった私】


 夫の入院後、しばらくして、悩んだ結果、私の母に連絡して、夫が入院した事と、がんである事を伝えた。
 本音を言えば、母には出来る限り連絡を取りたくはなかった。しかし、背に腹は変えられない。少しでもお見舞い金をゲットしたくて電話した。予想通り長電話になった。時間の半分は、母からの慰めの言葉と、「私の時もね……」と父の思い出話になった。早く電話を切りたかったが、母も溜まっていたのだろう。話を聞く仕事だと思って、お見舞い金のために愛想良く聞き手に徹した。
 母は基本的に天然のマウント女子なので、悪気はない。励ましの一環だ。母の長い話を聞き終えて、援助のお願いをして終話した。

 次の日の夜遅くに隣の家の玄関を叩いている音がする。「酔っ払いかな」と思っていた。
 すると今度は我が家の玄関を叩きだした。
「ゆまちゃん!お母さんよ!いるんでしょ!開けて!」……私の母だ。
 玄関を開けると「ゆまちゃん!」と抱きつかれた。
「うわ!やめてよ!」と思ったくせに、なぜか涙が溢れて止まらなかった。玄関で立ちすくんで大泣きしてしまった。衝動的にそうなってしまったのが何だか悔しい。

 突然の来訪。「電話を切った後、ゆまちゃんが心配で心配で、いてもたってもいられなくなってね。今日お金用意して、JRに飛び乗って来たのよ。ゆまちゃんのおうちに来た事なかったから、お部屋間違っちゃった」
……それで隣の家に突撃してたのか。ドアを叩かずにインターホンを押してよ。
 思いがけず数年ぶりに母との対面。父の葬儀以来だ。泣きじゃくりながらコーヒーを入れた。私は鼻が詰まって飲めなかった。

 電話で話さなかった詳しい進捗状況を伝えた。対面だと、私の話をじっくり聞いてくれた。そして父の介護の話や、その期間どう考えて過ごしたかなど、私のためになりそうな事を話してくれた。お見舞いも持ってきてくれた。

 今年で80歳になる母は、まだまだエネルギッシュでパワフルだ。今でも変わらず、色んな事をなぎ倒して進んでいくようなイメージがある。
 そんな母でも、父と仲が良くなかったにも関わらず、父が亡くなった後は、かなり精神的に辛かったらしい。

「でもね、ゆうまくんはまだ生きてるんだから!生きてる間はゆまちゃんの思った通りに何でもやりなさい!旅立った時に後悔が残らないように。そう出来るのは幸せなことなのよ!立場上何も出来ない人もいれば、突然亡くなってしまう人もいるんだから。これからは、ゆうまくんのやりたい事を手伝って、ゆまもやりたい事をしなさい!誰にも余命なんて決められないんだから。今が続けば老後も一緒にいられるでしょ?老後のことは老人になってから考えればいいのよ!」と言った。
 そして「お父さんの介護を辛いと思った事は一度も無かったのよ。まだまだ一緒に暮らすつもりだったし、待っていれば良いお薬が出来て、治るんじゃないかって思ってた」とも言った。スーパーポジティブだ。話を聞いてるうちに、私の気持ちも前向きになってきた。心が少し軽くなった。
 夫が聞いていたら「どぶちゃんは感化されやすいからな〜。チョロいね!」と言われそうだ。

 父の病気も夫の病気も、治療法も無く特効薬も無い、不治の病だ。どちらも10万人に数人の確率で、原因不明で発症する。「二人とも宝くじには当たんないくせに、こんなのには当たるんだから!」と言って、母と笑った。

 母の事は今でも苦手だ。わがままで、相手がどう思うかなんて関係なく色々言うし、気性が荒いし、圧が強い。
 おばあちゃんもそうだったな、なんて考えると、育ちなんだろうと思う。ある意味では、母も毒親に育てられたのかもしれない。
 きっと色んな部分で子供のまま、大人になりきれず今に至っているのだろう。
 そう考えられるようになったのは、私も50歳になったからかな、それとも今一番弱ってるから感傷的になってるのかな、と思った。

 正解はわからないが、母のことは苦手なりに突き離さず、受け流しながら受け入れられるようになれたらいいな、なんて考えた。

 翌朝、階違いに住むお義母さんに会いに行くと言うので一緒に行った。「突然来て昨晩泊まったんですけど、ゆまがとても喜んでくれたんですよ!また来ますので、その時はお食事でもご一緒に!」なんて高笑いしながらご満悦に挨拶して帰った。
……別に私、喜んでなかったけど。でもまあいいや、と苦笑できるようになった私は「大人とはこういうものか」なんて思った。

【急展開】


 会社のシフトが休みの日は必ず病院に行っているし、ラインは毎日送っている。
 病院に行くたびに「夫は携帯とか見てますか?」と聞くが「携帯は全然触ってないみたいですよ」と言われる日もあれば、「今日は携帯見てました」と言われたりもする。
 ラインはずっと未読のままだったが、ある日既読になった。
「読めるの?読解力あるの?見る気になった今がチャンス!」と連打で送信する。一言で、わかりやすく、読みやすいように。でもその日はもう既読にもならなかった。
 今日は既読になった……今日は未読のまま……と一喜一憂しながら、毎日一方的にラインしていた。

 ところが!ある日突然、夫から返信が来た。
「今日は既読になりました」
……え?何の報告?とツッコんだが、仕事中にもかかわらず、びっくりして嬉し泣きしてしまった。
 またもや連打で返信したが、もう既読スルーだ。でも、繋がってる感じがして嬉しかった。

 それからは回復が早かった。ラインの返事も少しずつ来るようになった。最初は文章が暗号みたいで解読できなかったが、徐々に普通になり、数日で長文でのやりとりも出来るようになった。
 そこまでになって、やっと今の状況や症状が分かってきた。
 主治医からは「多少回復するでしょう」と言われていたが、要介護なのか、要支援なのか、どこまで回復するのか分からず心配していたが、ラインでの会話もスムーズになった頃には、作業療法士さんから「劇的回復ですね」と言われた事を自慢していた。特に痛みや痺れもないらしい。

 ある日、いつものように病院へ行き、出待ちしていると、いつもの廊下から夫が歩いて出てきた。
「えー!歩けるの?」と感動していると
「もう走れるよ!」と言っていた。……走るのはやめてよ、とツッコんだが、何という奇跡だろう!車椅子卒業なんて考えもしてなかった。
 車椅子だと必ず看護師さんが付いてくる。そうすると会話もままならない。今回は歩いて1人で来たから、洗濯物を受け取って、久しぶりに会話した。声がかすれて聞こえにくかったが、ニコニコして話す姿が嬉し過ぎて、会話自体が成立してなくても良かった。
 でも「どぶちゃん」と呼んだのは、はっきり聞こえた。
 やっぱりあだ名を人前で言えなかったね、お互い様だけど……と言って笑い合った。最高のひとときだった。

 退院間近になって、完全に患者感が無くなってきた頃、「先生は俺に病気のこと説明してくれたと思うんだけど、その時の記憶があんまり無くて。今も詳しく分かってないんだけど、俺って何の病気?」と聞かれた。
 手術後に先生から渡された「本人に告知しますか?」など書かれた同意書には「はい」にチェックして署名していた。なので、まだ意識レベルの低い時に説明してくれてたと思うが、私は本人の認識レベルに合わせて、「言語障害」「脳の病気」など濁した病名で、ラインにて説明していた。
 今回ここまで通常モードに回復した上で質問されたため、すべて伝える事にした。だが、余命だけは言わなかった。親族友人一同も余命を伝えているが、口外無用として戒厳令を出している。
「え?俺って『脳がん』なの?ちなみに余命とか言われた?」……直球だな!困った!嘘を付くとバレそうだ。
「完治はしないから、症状が進むと……あまり長くは生きられないかもしれないって感じの事を言われた」……これが精一杯の回答だ。そして間髪入れずに補足した。
「でもね、先生は今までのデータを基に算出して、理論上の答えを言ってるだけで、もし脳腫瘍を現状維持のままで抑える事ができれば、余命なんていくらでも変わってくるよ!明日のことすら誰もわかんないんだから!なむちゃんの場合、希少がんなんだから確率論も少なすぎてあてにならないからね!」と本当に思っている事を伝えた。
「そうだね、わかった!がんばるよ!」とあっさり受け入れてくれた。さすがメンタルおばけ。

 今日から1年後、先生の予告リミットを超えたら余命について話すから、その時も今と変わらず笑顔で話ができるようにがんばって!と心の中で約束した。

【先の事は先になって考えよう】

 私の働いている環境についても縁があったなと思うので、ちょっと書かせていただきます。

 私は夫が主夫になったと同時に働き出した。結婚前は就職していたことがあるし、結婚してからはバイトも少ししていた。ただ、資格も特技も無い。体力も無いし、若くもない。
 人柄重視で速攻合格させてくれるところは、ブラック企業が多かった。ブラックと言っても同僚の人間関係は悪くないところが多く、どこでも一生懸命働くことができた。
 しかし結果的に、奉仕残業やパワハラ、モラハラなどが原因で退職を繰り返し、色んな職種を転々とした。

 今、働いているところは偶然にも「葬儀」に関係する仕事だ。まさかこの仕事の内容が自分の身近な人間のために役立つ情報になるとは思っていなかったけれど。

 今まで私が携わった職種(営業や事務や接客など)の経験がすべてこの職業に役に立った。
 大切な人が亡くなり、悲しみの最中に、急な決め事がたくさん押し寄せる。その「たくさんの決め事」を進めて、葬儀の流れを作ることが私の仕事だ。
 コロナ禍という事も手伝って、家族や本当に親しい友人だけでしめやかに送る「家族葬」が増えた。葬儀にもトレンドがあり、簡略化した葬儀をしたり、無宗教で行ったり。葬儀後は、墓に納骨せず、海や山に散骨したり、骨を加工してネックレスや可愛いインテリア雑貨にして手元で供養する方法も注目されている。
 そして費用についても比較検討は当たり前だ。
「そちらは葬儀料金いくらかかりますか?他の業者さんと比べて一番安かったら依頼します」など、何件もの葬儀社に連絡して見積りを集める人も多い。
 終活や事前相談で前もって準備してじっくりと比較検討する人、逝去してから慌てて情報収集する人、さまざまだ。

 葬儀は地域や業者によって金額が違う。相場と言い値が混在するからだ。だが、高いから満足する訳でもないし、安いから後悔するとも限らない。
 24時間365日稼働している葬儀社が働き方改革するなら、コストがかかってしまう。でも、安くしないと逃げてしまうお客様もいる。デフレスパイラルで小さな葬儀社は潰れる時代だ。

 葬儀を進めるには、費用や人数、葬儀会館の使用状況、友引、火葬日程、宗教者手配、食事の采配、それぞれに折り合いを付けてやっと葬儀を執り行える。葬儀の後は法要もすぐやってくる。相続や納骨の問題もあるかもしれない。本当にハードだ。
 遺族の中には、葬儀が忙しいことで悲しみを紛らわせる人や、故人の生前の意向を守る人、親族と揉める人もいる。
「遺族のための葬儀」なのか「故人のための葬儀」なのか、なんて事を考えてしまう。

 葬祭は、人生において大切なセレモニーだ。依頼を受けたら「穏やかな死」から「凄惨な死」まで、すべてに対応しなければならない。デリケートな状況で、ミスが出来ない、神経を使う仕事だ。

 この仕事に私は3年ほど勤務している。ほんのりブラックだが、特に問題なく働いていた。
 だが夫がこうなった以上、退職することにした。
 夫の病気と葬儀がリンクしてしまって辛くなるのも理由の一つだが、日頃から忙しいので業務がキャパオーバーとなり、残業になってしまう。(だが、みなし残業制なので、その名の通り、残業をみなされている。)夜勤も早出もあるため、不規則な生活だ。主治医にも食生活と生活リズムは大切だと言われているので、このままという訳にはいかない。
 会社にも相談し、夫の退院日前日を最後の出勤日としてもらった。

 だが、図らずもこの職業に就いたおかげで、万が一の時の事を焦らず考える事ができる。いろんな状況が考えられる中で、私たちにとって良い事は何か、夫が退院したらお互いの終活についても話し合おうと思う。

 また転職だ。年齢的にどんどん厳しくなる。働き先も狭まってくる。
 でもこれから1年は夫を中心に考えていこう。仕事をがんばるのは好きだが、仕事をするために生きている訳ではない。
 意地もプライドも二の次だ。生活水準を下げたり優先順位を大きく変えれば、1年くらいは何とかなる。
 余命に猶予が無いかもしれないし、私もいつまで働けるかもわからない。将来の心配、老後の不安など考え出したらキリがない。とりあえず置いといて私は収入より時間を選んだ。

 夫が退院したら、嫌になるくらい一緒にいよう。嫌なことがあったら、その時のシチュエーションや気持ちをメモしておこう。そして夫が旅立った時、悲しみを打ち消すために読み返すのもいいかもしれない。
 良い思い出はメモしなくても覚えているだろうから。

【これからの奇跡】


 夫の退院の日。病院まで迎えに行き、先生や看護師さんたちに感謝を伝え、ご挨拶した。
 当時のことを振り返ると、夫を出待ちしていた頃、看護師さんが来て「エレベーターでリハビリ室に移動しますけど、リハビリ室前まで一緒に行きましょうか?内緒ですよ」と、出来るだけ一緒にいる時間を作ってくれたことや、歩けるようになった夫とこっそり会って、長々と話し過ぎたところに、そっと「面会禁止ですよ、見つかったら怒られますよ」と言いに来てくれた事など、しみじみ思い出す。笑顔で退院できて本当に良かった。

「外に出るのは久しぶりだから気持ちいい!」とご機嫌の夫。
私は「タクシーで帰ろう」と言ったが、
夫は「電車に乗って、歩いて帰る」と言う。自宅までは乗り継ぎもあって1時間かかる。
「退院初日からそんなに張り切ると疲れるよ」と忠告するも、
「大丈夫、大丈夫!」とニコニコする夫。
「その大丈夫が信用ならない!今までも大丈夫って何回も言ってたけど、全然大丈夫じゃなかったでしょ!」と反撃したが、
「そんなに大丈夫って言ってたの?全然憶えてない・・・。今度は大丈夫じゃない時には大丈夫って言わないから。途中で寄り道もしようよ」
 相変わらず私は甘い。信用してないと言いつつタクシーには乗らなかった。
 今日は晴れていて気温も丁度良い。甘やかしじゃなく、私も歩きたいから意見が一致しただけだと思う事にした。

 今後は2週間に一度、病院に行って抗がん剤の点滴を打つ。他には1ヶ月に5日間、自宅で抗がん剤の飲み薬を飲む。治療として出来るのはこれだけだ。例え病気が進行したとしても、出来るのはこれだけだ。

 久しぶりの我が家。しばらくは開放感を満喫していた。だんだんと通常モードに戻って落ち着いた頃に、改めて気が付く事もあった。夫は歌を口ずさまなくなっていた。
 症状が現れる前は、よく歌詞付きで歌っていた。「どんなに昔の曲でも、歌えば覚えてて歌詞も間違えない」と自画自賛していた。いつも色んなジャンルの曲を口ずさんでいたので、「頭の中はどうなってるの?」と聞いた事がある。「サブスクで音楽がずっと流れてる感じかな。だから、流れてきた音楽を歌ってるだけ」と言っていた。今は頭の中で音楽が流れてないんだろう。
 夫に聞いてみたが「そんなに歌ってたかな?」と寂しい返事が帰ってきた。

 そして、ふらつきや、すこぶる疲れやすい事、短期記憶障害などは、あまり改善されていないようだった。そりゃあ、末期がんと言われた重病人だ。ある程度の高次脳機能障害の症状は想定内だが、意外と一番びっくりしたのは、夫の顔のシミが薄くなったことだ。
 夫は昔、肌が綺麗だった。でも歳を取れば誰でもシミは出る。しょうがない事だと思っていたが、いくつもあったシミが、今は目立たない。放射線治療のせいなのか、抗がん剤の副作用なのか、肌が若返っていた。少し羨ましい。

 そしていびきや歯ぎしりを全然しなくなった。それも症状の1つだったのだろうか?もうマウスピースも必要なくなった。夜が静かになったおかげで私は良く眠れる。

 家に帰って1週間、様子を見ていたが、おおよそ普通だ。首から下は間違いなく健康だ。
 そもそも生まれ持ったスペックが良い方なのかもしれない。今までだって、偏頭痛も肩こりも腹痛も関節痛も何も無かった。そして今、放射線治療も抗がん剤も、副作用が全くなく、体調は何ともない。至って通常だ。ただ、脳にがんがあるだけ。転移もない。

 最初は散歩に出たりして様子を見た。合格。
 次は買い物に行った。問題ない。
 交通機関を利用して出かけた。次は映画を見たり、外食に行ったりした。ついには自転車に乗って、並んでサイクリングもした。オールクリアだ。

 当たり前に出来てた事が出来るようになった。字面で見ると変かもしれない。でもそれが嬉しい。
 とは言え、明日が来るのが当たり前とも思っていない。がんサバイバーである事に変わりない。毎日息をして身体が温かい事に安堵する。繊細さんとしては、毎日がありがたく、毎日が恐ろしい。

 将来の事、終活の事を、夫と話した。これから病状が悪化したら、あの入院前の辛い時期にタイムリープしたかのような、同じ思いをまた体験するのだろう。
 夫は「大丈夫だよ。今こんなに調子が良いのに、長生きできないなんて考えられないし」と言いながらも、
「万が一の時は、どぶちゃんの思った通りにしていいよ。どぶちゃんが良いと思う事は俺も同意する」と言ってくれた。
「何十年も長生きするつもりなら、生活費も稼いで、老後の心配もしないと。貯金も頑張らないとね!」と私が言うと、
「これから音楽関係で手がかりを探してみようと思ってる。メタバースのおかげで50歳からの挑戦も可能なんだよ!新しいMacBook買ってもいい?」……なんとポジティブ!……そしてチャレンジャーにもほどがある!ノートパソコン欲しいなんて簡単に言うけど、いくらすると思ってるの……など文句を言いながら「ああ、今まで通り、普通の生活が戻ってきたんだ」と錯覚してしまう。

 夫に老後なんて来ないと思ってた私が間違ってた。症状を今のままで維持すれば、いくらでも一緒に暮らしていける。先生たちに「ありえない!」って言ってもらおう。きっとなむちゃんは例外なんだよ!と、私も感化されて前向きになった。本当に私はチョロい性格だ。

【和気あいあい】


 次々と色んな人たちがお見舞いに訪ねて来てくれた。

 夫の入院中に、友人や元同僚などの、夫サイドの主要なメンバーで、私が連絡できる人たちだけには状況を伝えていた。
「やっぱり病気だったんだね。あの当時、ゆうまに会ったらリアクションが変だったから、おかしいなと思ってた。大丈夫?って聞いても本人は大丈夫ってしか言わないし。気になったから、その後もライン送って心配してたんだけど……脳のがん……変な言い方になっちゃうけど、何だか納得したよ」と同意見多数だった。夫を良く知る人から見れば、すごく違和感があったのだろう。
「それよ!何を聞いても大丈夫って言ってた!活力無いし、目に生気もない状態だったのに大丈夫って言って、病院に行ってくれなくて……」と私も激しく同感。
 退院したら連絡するね、と伝えると、
「必ず会いに行くから!何かあってもなくても、いつでも連絡してきて!」とみんなが言ってくれた。数えるほどしか私と話したことのない皆様なのに、私の友達になってくれたような気がした。

 私もみんなも病気に気付いていたのに、本人だけ気付く事が出来なかったのは病気のせいだったなんてね。そんな事、推理できないよ。

そして退院してしばらく様子を見て、心配してくれた皆様に連絡をとった。遠くの友人も、激務中の元同僚も、「退院したら必ず会いに行くから!」と言ってくれた人たちは、本当にみんな会いに来てくれた。夫をドライブに連れてってくれたりもした。
「俺はみんなに愛されてるなー」と言う夫。自己肯定感が高い人ならではのセリフだ。でも、その通りだと思う。男女問わず友人が多く、会社でも人気があったようだ。お酒も飲まないし、いつも家にいて、飲み会もそんなに参加しなかったのに、なぜか連絡が途絶えることは無かった。

ある日、夫から不思議そうにこう言われた。
「みんなと会うのは嬉しいに楽しいんだけど、何て言うか……みんなちょっと涙目で退院を喜んでくれたり、余韻がなんか寂しげだったり……俺、もうすぐ死ぬんかな〜みたいな優しさなんだけど……」
「みんな喜びながら心配してるんよ。重病人には変わりないんだし」と言って誤魔化した。するどい!
「失礼なヤツらだな、おじいちゃんになるまで生きるっちゅうねん!大丈夫、どぶちんより長生きするからね!」とニコニコして言った。
 そうしてくれ!是非!老後の私を看取ってくれ!

 退院したと知らせを受けて、県外から夫の義祖母もやって来ることになった。御年89歳。体もあちこち悪く、色んな数値も良くなく、手足に痺れもあるとのこと。だが、孫である夫に一目会いたくて、無理して来るのだろう。
 夫が小さい頃は、10人以上いる孫の中でもダントツに可愛がられてたらしい。


 話が逸れるが、私たちは結婚式を挙げていない。当時からお金が無かったし、夫には友人が多かったが、私は友人がほぼ0人だ。式場の席を埋められないし、特にウエディングドレスにも興味無かったし面倒くさいから、結婚式をしたいと思わなかった。繊細さんとしては「きれいに着飾った私を見て、きれいね、と言ってください」的な儀式は苦行でしかない。
 夫の親族側は不満に思ったようだが、私の親は「結婚式をしないおかげで、お嫁に行った感じがしなくて、寂しくならない」と喜んでいた。

 その代わりに顔合わせを、と思ったのだろう。夫のお義父さんが冬に温泉旅行を計画し、義父母、義兄弟、義祖父母、私たち夫婦の親族一同で温泉旅行に行った。旅行初日に初めて義祖父母にお会いしご挨拶した。その時に結婚祝いのご祝儀を義祖父母から頂いた。その晩、温泉に入ろうとして心臓発作を起こし、義祖父が亡くなった。
 余談だが、その日は私の誕生日だった。
 私たちはすぐに自宅にとんぼ返りして、葬儀の支度をして、県外の義祖父母の自宅へ向かった。夫の親戚たちは皆、義祖父母の自宅近くに住んでいたので、現地集合となっていた。
 結婚式をしなかったため、代わりにお葬式で親戚一同にご挨拶することになった。
 その時はバタバタしていたし、突然の義祖父の訃報で悲しい思いもあって、私も親族も他人行儀のままで、葬儀を終えて帰った。お互いに良い印象があまりなかったかもしれない。それ以降、私が県外まで行って親戚たちに顔を出す事は無かった。

 時が経って、夫の従姉妹が、今私たちが住んでいるマンション近くに引っ越してきていた事もあり、夫のお見舞いのために、県外から来てくれた親戚は夫の従姉妹の家に前乗りして泊まり、翌日、夫のお義母さんの部屋にみんなで集まることになった。
 コロナ禍なので「義祖母と叔母の会」と「従姉妹の会」の2回に分けて開催された。
「ゆうま!調子はどう?」
「思ったより元気で良かった!」
「久しぶりなのに変わってないね!」
 2つの会はそれぞれ日を分けて集まったが、どちらも楽しく和やかな会になった。
 みんな夫の余命を知っている。でも戒厳令を守ってくれている。本当に夫はみんなに愛されてるんだな、としみじみした。

 集まった「義祖母と叔母の会」に夫のお義父さんもいた。義祖母の運転手役だったのだろう。今までお義母さんの家へ絶対に入らせてもらえなかったが、今回初めての来訪。
 大人しく隅っこに遠慮がちに座っていたが、会が終わる頃には、調子に乗ってみんなを仕切っていた。ふと見ると、お義母さんは苦笑いではあるが、笑顔だった。

 夫は義祖母が来ることを知った時、心配していた。あの冬の旅行の義祖父の件もあって、「俺のお見舞いに来て、何かあったらどうしよう」と思ったのだろう。
 でも、来ると決まれば楽しみにしているようで、「ばあちゃんは昔っから、俺を見ると泣くんだよ。何故かわからないけど。嬉しいのかな?歳を取ると、すぐ泣いちゃうもんだよね」なんて言っていた。確かに温泉旅行で初めて会った時は、出会い頭で泣いていた。
「よーし!今回も泣かす!」と、夫はいたずらっ子のような事を言っていたが、当日、義祖母は夫を見ても泣かなかった。
 泣かせようとして、夫は頭の手術の傷口を見せたりして、可哀想な感じを醸し出してみたが、それでも義祖母は涙を見せることなく「元気になって良かった」と言いながら、嬉しそうに夫の手を握っていた。

 帰り際に私は「おばあちゃんも身体に気を付けてくださいね」と声をかけた。
 義祖母は「もうね、89歳だし、身体も半分痺れがあるし、これから身体は悪くなる一方よ。天国のじいさんがいつ迎えに来てもいいと思ってる。それまで毎日デイサービスに行ったりして楽しく暮らしてるから私は大丈夫。ゆまちゃんも元気でがんばってね。」と笑顔で私の手を握ってくれた。私が泣きそうになってしまった。

【大丈夫】


「人生は成るようになっていくものよ。成るようにしかならないの、人生って」と私の母が言っていた。変な言い回しだが、その通りだと思った。

 次々と選択肢が現れて、正解も失敗も選んでみないとわからない。失敗の選択がのちに大成功に繋がったり、正解を選んだはずが大きな失敗の素になったり。選んでみるしかない。きっと生まれた時から無意識に選択し続けているんだろうと思う。選ばないという選択や、立ち止まる選択もあると思う。でも、結局は成るようにしかならないものなのかもしれない。

 病気の事、親の事、お金の事。未来を悪い方へ考えてばかりだと足がすくむ。
 人生が長くても短くても、自分の人生は自分だけのものだ。希望を持ったり不安になったり、気持ちが揺らぐが、それでも自分で選んで、夫の病気とも共存して、今日を明日に繋げていこうと思う。

「繊細さんの割には、よくがんばってるじゃない、私!」と心の中で声をかける。明日が毎日やってくるとして、それは毎回幸せでもあり恐怖でもある。「考えてもしょうがないことは考えない」というのが夫の考え方だ。でも、来ないかもしれない最悪の事態をいつも心配し、想定して、それが現実となってしまった今、ある程度冷静に対応できた自分に対して「繊細さんで良かった」と思ったりもすることがある。一長一短だろうけど。

 退院して3ヵ月経った。経過観察のため、久しぶりにMRIを撮りに行く。
 結果が悪かったらどうしよう、と心配する私の隣で、夫は相変わらず「大丈夫、大丈夫」と言ってニコニコしている。

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