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ご祝儀 3 〜わたし以外のオンナは死んで〜【連載小説】

 二時間残業をし、急いで山手線に乗り新宿で降りた。汗でブラウスが湿っていた。西口を出て大ガードを直進する。あかねはスマホの画面に指を滑らせ地図を開く。小滝橋通りをしばらく歩き左折したところにその看板が見えた。かなり古くて暗い雰囲気のマンションである。躊躇しながら進むと入り口に「ここで小便をしないでください」と破れた紙が貼ってある。薄汚れた赤いトレーナーに目の覚めるような水色のズボンを履いたアジア系の女が、スマホに向かって甲高い声でまくし立てていた。無数のポストから大量のチラシが溢れ床に散らばっている。貼り付いたガムを踏みそうになり小さく悲鳴を上げた。エレベーターが開くと目つきの悪い男が二人出てきた。地味なピンストライプのスーツ姿だが、普通のサラリーマンでないことは一目瞭然である。男たちはあかねを一瞥するとニヤニヤしながら去って行った。エレベーターで八階に降り、フロアを歩き回り部屋を探した。扉を開くと独特の鼻をつくにおいがした。
「イラッシャイマセ」
 フロントの若い女は目を合わさなかった。日本人ではないようだ。マスクを片手でいじりながら用紙を差し出してきた。あかねはペンを手に取った。店内は満席のようでざわついていた。記入を終えると女はぶっきらぼうに用紙を受け取った。胸元の名札に“李”とあるのでどうやら韓国系らしい。女に促され奥の狭い席に座ると別の女が現れた。
「お待たせしましたぁ。あ、場所すぐわかりました?この辺ごちゃごちゃしてるじゃないですかぁ。けっこう迷われるお客様いるんでぇ」
 やたら愛想のいい日本人の女である。
「はい、すぐわかりました」
 あかねが答えると女は用紙に目を落とした。
「これまで、ネイルでアレルギーとか出たことはないですね……」
「はい」
「この中からお好きなデザイン選んでくださいね」
 ネイリストの女はあかねの右手をとり消毒をすると、ヤスリで爪を削り始めた。あかねは削りかすまみれの汚れたタブレットの画面を左手の指で滑らせ、夥しい数のネイルデザインの見本を眺める。隣の席では若くて派手なネイリストと、似たような風貌の客の女が大声で盛り上がっている。二人とも金髪で毛先が激しく傷んでいた。
「何か、気になるデザインありましたかぁ」   
 あかねの指に濡れた綿を巻きながら女は尋ねた。
「たくさんあって迷いますね」
「何かイベントとかあるんですか」
「週末に友人の結婚式に出席するんですけど、ちょっと華やかな感じにしようかと」
 あかねの言葉に女は顔を輝かせた。
「そうなんですか、これとか、これとかおすすめですよ」
 ネイリストが指したそれはいずれも派手なデザインで、オフィスでは浮くものだった。「これはちょっと、会社にはしていけないな」
 あかねがつぶやくと、女は何やら顔を紅潮させうずうずとしていた。
「実は私も、来週結婚するんですぅ」
「あ、そうなんですか。おめでとうございます」
 タブレットから顔を上げ事務的に言うと、女は嬉々として喋り出した。
「ありがとうございますぅ。代官山のレストランウェディングなんです。料理がすっごくおいしくて建物も素敵で、一日一組限定だから予約なかなかとれなくて諦めかけてたんですけど、なんとか大安にとれたんです。運良くないですか?でもほんとはハワイで挙げたかったなぁ。ハワイで結婚式とか女の子の憧れじゃないですかぁ。そのままハネムーンもできるわけだし。ハワイであげたいって私のフィアンセさんにお願いしたんですけどぉ、そんなに休めないって却下されたんです。それで喧嘩になっちゃって、でもその代わりにドレスとか好きなの選んでいいって言ってくれて、仲直りしたんです。フィアンセさん、アパレル系だから連休とかなかなか取れないんですよ。私はなんとか休み取れるんですけど。ハネムーンはずっと先になりそうです」            
 ひとしきり喋り終えたネイリストの満足気な顔を改めて眺めた。野球のホームベースを思わせる広い輪郭に小さな目がついているが、長すぎる睫毛のエクステと濃い茶色のアイシャドウで囲われていて余計小さく見える。頬にはわずかに法令線があり、この女は自分より少し年上だろうと推察した。
「それは、良かったですね」
 あかねはにこやかに答えた。デザインを決めると、女は丁寧に爪を塗り始めた。その後も女の話は続いた。適当に相づちを打ちながら聞き流した。店内を見回すとあちこちが薄汚れていて傷みが激しかった。前方の壁のモニターでは韓流アーティストのライブ映像を流していた。まるで興味はないが無心にそれを眺めた。
「ええ、まじでラブホ行ったの?やったの?」    
 隣のネイリストが客の爪を削りながら身を乗り出した。あまりに大きな声だからか他の客も振り返った。
「あー、なんか流れでやっちゃったんだよね」
 客の女が笑って答えた。星がプリントされたショッキングピンクのキャミソールは背中が割れたデザインで、まだらに焼けた肌が剥き出しになっている。所々が破れたデニムのショートパンツから太い脚を出し、だらしなく広げていた。
「スゲーな。で、そいつどうだった?」
「まあまあイケメンで細マッチョだけど、テクはいまいちだった」
「マジか」
 女たちは顔を見合わせげらげらと笑い、男性器の形状についての分析で盛り上がっていた。あかねの目の前のネイリストは気にせず話を続けている。反対側では受付にいた韓国人の女が無言で客の爪をヤスリで擦っていた。その狂気を漂わせた眼差しに、この女にやってもらえば良かったと小さく溜め息をついた。
 店を出ると九時半を過ぎていた。二時間も担当ネイリストのおしゃべりと隣の女たちの下品な話を聞かされうんざりしたが、ネイルの仕上がりは満足した。淡いピンクのグラデーション地に白い薔薇が描かれ、散りばめられたラインストーンは虹色に光っている。

 帰宅すると手を洗い服を脱ぎ捨てた。タオル地のワンピースの部屋着に着替え、冷凍庫を開ける。休日に大量に煮た筑前煮を、一食分ずつタッパーに小分けにして凍らせてある。それと、同じく冷凍したご飯を電子レンジに入れ、温めている間にインスタントの味噌汁に湯を注ぐ。テレビをつけるとバラエティ番組がやっていた。蓮根の食感が悪くなっていたが味は問題なかった。食事を終えるとソファに横になった。玄関の近くに置かれたバッグの中でスマホが震えている。取りに行く気力もなかった。

(4へ続く)



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