不幸について

 不幸について考える時に、まず思い出すのは渡辺一夫というフランス文学者が書いた文章のことだ。「狂気について」という評論選に収められている、「不幸について」及び「狂気について」。
 人間はオギャーと生まれてから死ぬまで実際のところは孤独であり、また生きるということはその間に生じうる無限の不幸の可能性をはらむ(あるいは、はらみ続ける)ことにほかならない。そこで、不幸を分類してみると、絶対に避けられない不幸、無知なために避けられない不幸、容易に避けられる不幸が考えられる。病気、天災の類は第一の不幸に分類され、これについては、例えば方丈記で鴨長明が歎じたように日本人の無常観として伝統的に根付いている考え方だろう。
 さて、第二、第三の不幸。無知なため避けられない不幸、容易に避けられる不幸についてはどうだろうか。これら不幸を避けるためにあるのが人間の叡智とも言えるが、これさえ避けるのは容易ではないと渡辺先生は書いておられる。
 あれだけ大きな事故を起こした原発の悲惨を経験しても、それで生活している人もいるから、廃炉にはできない。戦争反対と心の底から誓ったはずの国民でも、戦争への準備を再び始めてしまう。酒や煙草は悪いとわかっていながら、やめられない。枚挙にいとまなし。
 このことと無関係でいられないのが、人間の本性とも言える倦怠と狂気だ。狂気について、磁気にかかった鉄粉の例えを示している。平和である程度安定した状態が訪れると、なんとなく倦怠を感じる。うようよと不安定になり始めると、まるで磁気に引きつけられるように一定の方向に偏っていく。興奮して一定の方向に牽引されている状態。この傾向がある種の狂気であり、そして大なり小なり、狂気なしでは人間というものは存在できないらしい。
 しかし、狂気なしで存在できないからといって狂気を礼賛するのはおかしい。むしろ、そういう傾向があることを自覚することによって、狂気を監視し、辛い平和を生きていくべきだ。
 辛い平和。苦しい平和。薬物中毒者は、今日一日、明日一日と日を継ぐことによってのみしか薬物からの解放はあり得ないという。薬物を使用していない人間も、結局のところ、自分自身の中の狂気への潜在的な傾向とどのように向き合い、うまく毎日を継続していくか。狂気に無自覚であることが狂気の特徴であるが故に、常に人間は不安だとも言える。
 このように、やや厭世的な人間観ではあるが、自分自身という個人に照らし合わせても、また今生きる日本社会に照らし合わせても、僕にとっては得心できる点の多い考え方なのである。

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