『赦し』比べられないこころ

 相手が罰を受ければ許せるなんてことはない。自分や自分の大切な人を害した相手があとでどんな酷い目に遭おうと、零れた水はもう盆には戻らない。ただ、何もなかったかのようにのうのうと生きていることが受け入れられないから、せめて相手にも自分が失った以上に失わせてやりたいと思う。

 映画『赦し』を観た。高校生の娘をその同級生に殺された元夫婦が犯人、福田夏奈の減刑を求める裁判を通じて、彼女の罪と向き合う話だ。元々の判決通り懲役20年が妥当なのか、犯行当時未成年だったことを考慮し減刑すべきなのか、法廷で審議される。
 だが、娘を殺された両親にとって、刑の重さは本質的なものではないのだ。20年服役すれば許せるわけではない。刑は被害者が許すためのものではない。一つには社会の秩序を作るためのものであり、もう一つには区切りをつけるためのものなのだと思う。被害者にも加害者にも。

 フィクションで高校生がクラスメイトを殺害する動機は十中八九いじめだ。映画の後半で明かされる夏奈の動機自体には驚かされない。ただ、最初から物言わぬヒロインだった被害者が、夏奈の語りを通して人間としての厚みを持ち始める。
 人の苦しみを比べることはできない。罪を罰の重さで相殺することができないように。「どんな理由があれ殺してはいけなかった」と人は言う。正しい。正しいけれど、「殺さずそのままいじめられ続けていればよかった」と口に出来る人は誰もいない。「殺す」と「他の方法でいじめから身を守る」を私達は天秤にかけて語るが、高校の閉塞感を忘れたわけではあるまい。「逃げる」選択肢は彼女になかったんだと思う。殺しただけの刑罰は受けるべきだ。殺すべきではなかった。心からそう思う。思った上で、殺してしまった夏奈のことを自分とは違う生き物として突き放すことはできない。

 少し脱線するが、伊坂幸太郎の『死神の浮力』のクライマックスが好きだ。極悪非道の殺人鬼が死ぬことも出来ないまま、ワニがいる(かもしれない)ダムの底に20年間縫い止められる罰を受ける。絶対に救われることはないと伊坂幸太郎はしっかり念を押す。大事な人を殺された恨みは、ただ相手を殺すだけでは晴れない。同じ一人の命なら、快楽で人を殺す殺人鬼より自分の娘の命の方が遥かに重い。死よりもなお惨い(しかし終わりがあるという意味で惨すぎない)罰に読者の溜飲は下がり、そして当の復讐者たちは彼がそんな罰を受けたことを知らない。許さなくていいのだ。このバランス感覚はいつ読んでも痺れるものがある。
 いじめと戦って人を殺した少女と、快楽殺人鬼。どちらも天秤にかけられないほどの罪だが、前者の少女が赦されて欲しいと願う心が、私達の中にはあるはずだ。高校の数学で学んだ、無限の比較を思い出した。数えられないほどの罪にも大小はある。

 話を戻す。「殺される」という取り返しのつかない被害といじめという誰もが納得する動機。物質的な危害としては可逆性があるが、共感できる正当性など欠片もないいじめ。(いじめを軽んじるわけではない。目に見える傷が残るとか残らないとかそんなことは関係なく、いじめは人の心を徹底的に痛めつける非道で卑劣な行いだ)。天秤にかけられない二組の罪と罰が並べられる。

 感情には名前がある。うれしい、かなしい、くるしい、つらい。名前があるけれど、同じものは二つとしてないんじゃないかと思う。同じものがないどころか同じ軸の上にすらなくて、苦しみと苦しみを並べて比べることはできない。比べられないものに、どうやって折り合いをつけていくのか、つけたことにして生きていくのか、そう考えて観ていた。

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