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ゴッホよ、何処『の』ノート

炎の画家 ゴッホ

彼を最初に意識したのは忌野清志郎がゴッホに強く影響を受けていたことを知ったから

次に彼を凄いと感じたのは小林秀雄が己の信ずるゴッホ論を展開し、彼について熱く語っていたから

そして僕は、彼の絵を色々と見て、彼の手紙の内容が記されている本を買った。


と言っても、まだ本当にサラッと見て読んだと言う程度なので彼のアレコレを語るには知識が足りていないのは否めない。

だが、彼の恐ろしいまでの色彩への執着と、真っ直ぐな絵画への姿勢は手紙の中でも感じ取れるように思える。

彼の絵を見ても、ただ絵の具を塗りたくっただけの厚い絵とは思えない。
(ただ、現物を見たことがないので他の絵画作品などを見てそうであろうという意見ではあるが)

特に彼の生涯のコンプレックスになったであろう、自分の名が刻まれた墓標を見て『自分はもうこの世にはいないのである』という観念だと思う。
勿論、これは自分より前に生まれる筈だった死産の兄の墓標であったので誤解ではあるのだが
人間、小さな頃に受けた強いショックは死ぬまで忘れることはないだろう。

それだけに彼が自画像を多く残したのは、"絵の練習のモデルを自分で代用していた"というだけには留まらないように自分は感じている。
よく写真の自撮りを短い期間で何枚も撮ってる人がいるように、『今の自分とはどういうものか?』ということがずっと気にかかっていたのかもしれない。

兎に角、彼にとって"絵を描く"ということは余程重要な価値になり、肩身の狭い思いをしながらも(若干、自業自得な時もあるが)試行錯誤と新たな挑戦を繰り返していた様子が様々な文献で書かれていると思う。
(手紙に描いてあるラフスケッチも相当数なものであろうから、そこに彼の絵画への飽くなき探求の意識が見える)

それだけに燃え上がる情熱は時に空回りし、彼を苦しめることになるのは必然でもあったのかもしれない。

最近も、悲しいことで彼のことが取り上げられてしまったのも心が痛む思いである。



勿論そんな生き方を何処かの誰かがやるとしても、もう現代ではやらない方が自分のためであろうし、周りも強く引き止めるであろう。
というよりも、そんな生き方をしたところでゴッホ目を、心を、指を自分に宿すなどということは出来ないであろうと思われる。

AIの絵が流行るのは、ある程度適当な項目を打ち込めば絵が出来上がるので手早いし技術が無い人でも出来るのでキチンと制約を決めて使えばこれほど便利なものはないと思うので自分は良いのではないかとは思う。
見たところ、ゴッホ風の絵も作れるようなのでそれはそれで面白そうである。

しかし、打ち込んだものがそのまま出てくることに全て満足出来るとは思えないし、ものによってはワンパターン過ぎる気がする。
もし本当にそれが欲しいなら最終的には自分でペンを持って取り組むか、信用に足る絵描きの人に頼まねばならぬとは思う。

何にせよ、情熱を失って芸術が出来るのであろうか
何にせよ、作り出す苦悩と喜びが無くてオリジナリティが出ようか

ゴッホよ、何処

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