源田の1ミリ

 7回表1アウト1塁。
 バッターはミートの上手いトーマス。投手の山本は際どいところにボールを集め、フルカウトに追い込むものの、トーマスはボール球にもなんとか食らいついてくる。
 山本は、3点ビハインドのこの場面に嫌な気持ちはあれど、表情や態度に出すことは決してしない。投手としての矜持か、バックを守るメンバーに対する安心感か、逃げの投球を見せることはなかった。
 7球目は低めいっぱいからボールになるフォーク。これもバットの先にボールがかする。
 この嫌なファールの連続に、キャッチャーの甲斐はそれでも強気でアウトローに要求する。山本がコントロールミスをするとは毛ほども疑っていない。
 要求どおりの低めが来た。トーマスは先ほどと同じく反応する。
 トーマスが空振りするかしないかの刹那、甲斐の腰が上がり、右肩を引いて半身になる。ランナーのトレホが盗塁を試みたのである。
 バウンドするかしないかの、ランナーを刺すことを躊躇するような球だったが、甲斐は勇敢にもセカンド送球を選択した。
 空振りするトーマス。ツーアウト。
 2塁に送球する甲斐。捕球の難しい球だ。送球が乱れる。ハーフバウンドになる。
 ショートは守備の名手、源田。難しいハーフバウンドを低い体勢で覗き込む。顔の間近でキャッチすると同時に、グラブを振り、トレホをタッチしに行く。
 瞬間、トレホが変則的なヘッドスライディングを見せる。体を反転させ、右半身だけで滑り始めた。メキシコの勝利のため、ダメ押しの4点目を取りに行く男の執念が見せた半身でのスライディングだった。タッチをかいくぐりたい一心から、彼はもはやベースは見ていなかった。
 そのまま右手だけを2塁ベースに伸ばすトレホ。源田のタッチはトーマスを追う形になる。最後まで諦めない源田。トレホの動きをしっかりと見ながら、なんとかアウトにしようとグラブだけでトレホの動きを追う。
 どっちだ。世界中が固唾を飲んで見守る一瞬。
 2塁審判の判定は無情にも横に開かれた。セーフ。
 選手、観客、視聴者、誰もがトレホの執念に尊敬を抱き、この一連のスーパープレイを称えようとしたその時、源田だけは自分のプレイを信じて疑わなかった。
 源田はすぐにベンチを見て、グラブを上げる。激するでもなく静かに上げた左手。しかしその左手からは、
「俺はタッチしました。絶対にアウトです。」
そんな強い強い意思が、ベンチに伝わったようだった。
「あの守備の名手が、あの実直な彼が、信じて疑わないものを我々が疑っていいはずがない。」
 栗山監督の動きは早かった。両耳を手で覆い、ビデオ判定での再審を要求した。チャレンジである。
 この試合では2度のチャレンジが認められている。その1回をここで使う。試合の流れを切ってでも、トーマスを三振に取ったという流れを切ってでもチャレンジを行った。
 ここで試合の流れを変えるのだ。
 0ー3で終盤まできてしまった。ここを勝負の分かれ目にするのだ。
 戦っているのは選手だけではない。ベンチも一丸となって戦っているのだ。
 かくしてチャレンジはなされた。何度も流れるリプレイ映像。
 2塁ベース上、ヘルメットを外し、緊張の表情で待つトレホ。
 次のプレーを想定して体を動かしながら待つ源田。
 源田のプレーを信じ、審判を見つめ続ける栗山監督。
 誰もが言葉なく、審判の言葉を挙動を待つ。時間にして1分程度。しかし、メキシココールに包まれた会場での1分は、日本の選手、観客に十分な緊張と遅すぎる時間の流れを与えた。
 主審がうなずく。判定が下される。正面を向き、口を開く。マイクから伝わる言葉は日本語でないことだけがわかり、何を言っているのかわからない。
 それでも、野球に携わる人間であれば誰でもわかるジェスチャーがあった。
 右手をグーの形に握りしめ、主審が顔の前に握りこぶしを上げる。
 とたんにメキシココールは聞こえなくなり、甲斐の送球を、源田のタッチを、栗山監督のチャレンジを称える歓声と拍手が沸き起こる。
 ベース上で天を仰ぎ首を横に振るトレホは渋々ながらベンチに戻っていく。
 安心した表情でベンチに帰る源田とハイタッチで出迎えるベンチの一同。
 この終盤でのビッグプレーに、試合が傾き始めているのを誰もが感じ取っていた。

next… 吉田の同点弾
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