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超能動的人間

これは私の醜い持論を垂れ流しただけの文章なので、美しエッセイとは程遠い作品です。他人向けの丁寧な愚痴、というのが的確な表現でしょう。ですので、あまり面白いものではないです。ご了承ください。

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神絵師、という言葉があります。
それは、様々なSNS媒体で自分の絵を発信し、それを見たユーザーから高い評価を得る、という作業を数回繰り返した人間にファンが与える称号です。
他にも、神曲、神ってる、神漫画、神アニメ、という言葉たちも同様の成因を持ちます。(神曲はダンテの神曲ではありません。)
昨今のネット上で溢れんばかりにひしめき合う神、神、神。八百万なんて目じゃない数で。
私は無宗教ですが、随分と安い神様だなぁと思います。

話は変わりますが、私はアニメや漫画、、、所謂サブカルと呼ばれるジャンルのものに人生の一部を支えてもらっている人間です。
「オタク」と名乗るほどの知識や熱意があるわけではない(そもそもその称号に大して憧れを感じない)ですが、兎に角、私にとってサブカルチャーは生きる上での大事な要素のひとつなのです。
だから、私はよく漫画雑誌を読むのですが、最近、二年ほどほど追ってきたある漫画作品が打ち切られてしまいました。
それも随分と唐突に、無理やり感の強い終わらせ方だったのです。
打ち切りスパンの短い雑誌だったので、二年連載できたなら長い部類に入るでしょう。私もまだまだ長く続く作品だと思っていました。
私と同じような趣味趣向がある人間なら似た経験を持つ人もいるかと思います。
雑誌連載された漫画が打ち切られる理由は様々ですが、多くの場合は単行本の売れ行きや読者アンケートからなる評価です。
すなわち「人気があるかどうか」をいくつかの指標から判断して会議に掛けて打ち切りを決定するというわけです。

私は打ち切りが決まったと知って、どうにもならない悔しさや遣る瀬無さのようなものを感じました。
なんでこんな”神”作品がその良さを理解できない大多数の人のために不本意な終わりを迎えねばならないのか、と。
勿論、商業誌である以上、金になるかというのは最も重要な要素なので順位付けをして下に位置する作品は打ち切る、というのは正しい選択でしょう。ですので遣る瀬無いけど仕方ない。

このように、商業と結びつく創作物において数字がもつ意味は大きいと思います。
それは数字が市場や人々の志向、また利益や金銭の動きを測るとても良い指標となるからです。

ですが、それ以外の趣味の範囲、もしくは同人規模の創作物においてもそうか、と問われると素直に頷く気にはなれません。
昨今、それこそnoteのようなインターネット媒体の普及によって、誰しもが観衆であると同時に発信者にもなりました。
それは、創作者となるハードルをさげる同時に、創作物への評価を数字として簡単に手に入れられるシステムを生み出しました。
♡ボタンや高評価ボタンのことです。
場所や時間や状況にとらわれず、簡単に他者の創作物を評価できるようになり、逆に自分の創作物への評価をごく簡単に可視化できるようになりました。
自分にも他人にも非常にわかりやすい価値基準が設けられたため、この指標は次第に自身が保つ意味を強大にしていき、ネット上での第一の評価基準になり、時にはその数字の大小が情報の正確性や発言の信憑性、正当性を担保する材料となることさえあります。
私はこの評価基準に依存しすぎたばかりに自身の審美眼を自分の手で曇らせている人が多いのではないかと思うのです。

勿論、数字による客観評価の全てが無意味だとは言いません。数字に裏付けられた作品は当然良作が多いですし、数字は作品の価値を測る一つの良い指標だと思います。
私が言いたいのは数字による評価の是非ではなく、それを第一信条のように扱う風潮のせいで起こる審美眼の喪失と価値基準の転覆です。

数字に基づく評価基準が過度に祀り上げられた場合に、創作物を受容する側に起こる弊害が、「審美眼の喪失」です。
数字を酷く崇拝しすぎたたために、創作物の価値を数字でしか見れなくなったということです。
最初に、「神絵師」についての見解を書きましたが、このような「神絵師」は、彼らの作品が彼らを神絵師たらしめているのか、それとも評価やフォロワー数が神絵師たらしめているのか、一体どちらなのでしょう。
本来は前者であるべきです。創作者の価値は創作物にあって然るべきでしょうですが今のネットではかなり多くの人々が作品そのものより、その下についている数字で価値を判断しているように思います。
その習慣は次第に、無思考的に見知らぬ誰かの評価を追随するだけの「高評価ロボット」を生み出し、作品そのものを見てその価値を判断する審美眼を曇らせてしまっているような気がします。

「審美眼の喪失」とは逆に、数字が信仰されたサブカル業界において、創作者サイドが数字による判断を過度に信頼した時の弊害が「価値基準の転覆」です。
創作をして、それに対して評価がつくという簡単な図式だからこそ壊れやすいというもの。
本来は創作者の作品があって初めて作品への評価が生まれるのですが、そこの関係性が反転している創作者が多い気がします。
つまり、良い作品よりも高評価が着く作品をよしとし、可視化した高評価を稼ぐための創作をするということです。

観客の視線も作者の視線も高評価数ばかりに向かい、作品がどんどん蔑ろにされている、、、これでは拡散力や既存の表現の模倣によって作品に着く数字だけが伸び続け、いつしか文化は衰退するでしょう。


そういう数字の奴隷にならないために、作り手としてもも受け手としても、少なくとも芸術においては「超能動的人間」になりたい、と私は思うのです。

顔も知らない評論家気取りの言い分が正しいんじゃない、より多くの人が「スキ」と言ってくれる作品を目指すんじゃない。
作り手ならば、揺れる心に正直に従って、主観100%を表現したっていい、むしろそれが芸術や創作の原点であるはずなのです。
仮に出来上がった作品が、世間からみてどれだけ歪でどのような評価を受けようと構わない。彼らのために創ったんじゃない。誰でもない自分のために、自己満足最優先で生み出した作品なのですから。

受け手としてでも同じです。どんな名画だろうと名作だろうと、それは所詮自分でない誰かの評価。そんなものは偏見を生む邪魔者でしかないのです。普段は誰からも見向きされなくても、自分の心が動いたなら。それは自分にとっては何にも勝る価値があるのです。

ただし一つだけ注意点。
主観100%、心の赴くそのままに、とは言っても、その主観や心が絶対的に正しいとは限らないです。いつどこでどんな影響を受けているやも知れない。だから、主観を最重要条件にしつつも、常に自己を顧みて主観を疑い続けること。これをしないで自分の主観を最重要に考えても、それは「超能動的」ではなく、「超自己中心的」な人間です。

自分の魂と主観を最優先した審美眼と芸術観、自分の中に神とも呼べる絶対的な価値観を持つ。それが私の目指す「超能動的人間」です。
これはニーチェの超人思想に通ずるところもあるように思います。神など居ない永遠回帰の中でも確固たる自己、そして価値観を持つ「超人」。この場合ニヒリズムが否定する神は数字に基づく大衆の意見になるのでしょうね。
この文章をここまで読んだ物好きな誰かも、一度今までの自分を顧みてほしいです。自分は芸術の価値をどこに求めていたのか。
数字では表せない価値を探して、見つけてほしいです。

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まぁ、こんな事書いても、傍から見たら数字を獲得できない弱者の醜い嫉妬心から来る開き直りに映ると思います。
実際にこれを書こうと思ったきっかけはそんなもんです。
書いてることに嘘偽りはないですが。

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