be=存在の生き方 生きているだけで価値がある
正しいかはわかりません・・・。
ただ、最近歳を重ねるにつれ
自由というより
「束縛」を感じるほうが強くなってきました。
やりたいことも
やれない。
行きたいとこにも行けない。
やること、なすこと
その結果が
全てがどこかへ消えてゆきます。
「これはもう『奴隷みたい』として生きるしかないかな?」
なんて
ひとり心地てみたりしました。
やりたいことが
出来ない・・・。
やるべきことは
増えてゆく・・・。
これはカミュの「不条理」を通り越して
「生きるとは何か?」という
疑問を抱くことさえも
許してはくれません。
そんな時
思い出したのが
「doの生き方とbeの生き方」と
いうものです。
doとは文字通り
何かを達成する、何かを成すこと
によって気づく幸せです。
しかし、今の私には
「do=やるべきこと」は
残念ながらありません。
それならば
価値転換して
doではなくbe=存在としての
生きる価値はあるのだろうか?
と考えました。
一応、生活もできていますし
仕事もあります。
見守る家族もいます。
(両親と妹です)
ただbeの存在としての生き方は
do=やることが全て失った時でないと
気づけないと思います。
do=成すことを諦めてからこそ
be=存在としての
自分に気付けるのです。
「存在する=beの存在」だけなら
やることがあることは幸せです。
行くところがあることは
やはり幸せです。
そのようにして
人は歳を重ねられるなら
「まだ救いはあるな・・・」と
感じられました。
今日は「beとしての生き方」という
今朝の気づきでした。
最後まで読んでいただき
ありがとうございます。
皆さんの1日が
素敵なものに
なりますよう祈っております。
おわり
追記
beの存在としての
生き方とは
生きる上での
感謝、恩返し、
与えること、利他などを
含みます。