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幼少期の記憶の確かさ

小さい頃の記憶が信用ならない。
何度も繰り返し思い出して幾度に改編され、都合よく整えられている気がしてならない。

人生で一番最初の記憶は、「団体バスから降りる車椅子の男」を遠くから見ている場面だ。若干傾斜のある土地で、おそらく葬儀か法事に来ていたのだと思う。明るい陽光が差していたのでよく見えたのだ。
後年になって母に尋ねても、そんな場面に心当たりがないようだった。
何かのドラマや映画で見かけたシーンだったのか。
私はこの記念すべき”人生最初の記憶”であるシーンを、心の中で何回も何回も再生し、他人に伝えていた。きっと記憶は改変され、脚色されて、私はそれを真実だと思っているのだろう。

続いては、2歳の頃に訪れたイタリアでの記憶の話だ。
イタリアで訪れた親戚の家は、一面窓で日光が差していた。部屋はおそらく2階か3階にあった。風見鶏はそんなに離れていなかった。
窓からは風見鶏が見えた。風見鶏のディティールは覚えていないのだが「風見鶏があった」という事実が鮮明に脳に焼き付いている。
こちらの記憶では母に事実確認ができており、イタリア訪問の事実、風見鶏の存在が確認できている。

今は筆が乗っていて風見鶏やその周りの描写を細かく書こうと思えばできてしまう。
季節は秋。風見鶏の周囲の木々は薄寒い格好をしていた。
茶色っぽい色をした風見鶏は確か回っていたのだろうか。風が吹いていたのかもしれない…。
だが、きっとそれは自分の純粋な記憶ではないのだろう。スラスラかけてしまう記憶は、後年補強され創作された記憶なのだと思う。

20代の記憶も、30代の記憶も曖昧に溶けていくであろう、晩期に残る記憶はなんなのだろう。幼少期に繰り返し人に伝え脚色された記憶なのか、深層にねむる本当の記憶なのか。それともありもしない理想や妄想の記憶なのか。
辛い出来事を反復してしまいがちだが、それが強固な事実になってしまう。
楽しい時期の記憶こそフラッシュバックさせるべきなのだ…。

棺桶を埋め尽くす手向け花のように、晩期を華やかな記憶で埋め尽くせるように強烈な思い出を今からでも植えていこうと思う。

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