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枯れ果てた音痕

夜の薄明かりが残る路地裏を、
マリアは慌ただしく歩いていた。
汗でベトベトになった前髪をかきむしり、
ぎこちない足取りでたどり着いたのは、
古びた木造アパートの一室だった。

「お帰りなさい」

アパートの主人から届く声に、
マリアは軽くコクリと頷くしかできなかった。
疲労と焦燥に強張った表情はそのまま、
脱ぎ散らかした靴を片付けながら
一瞥を常夜灯の灯りに送る。

かすかに、かつてのメロディーの残り香が漂う。

マリアの意識はつい10年前の夜へと遡った。
あの頃の二人は、調和した息づかいで音を紡ぎ、
夜の闇を精緻な旋律で彩っていた。
ヴァイオリンとピアノが呼応し合う調べに、
周囲の空気さえ柔らかに震えていた。

しかし今夜、マリアの耳に入るのは、
薄暗い路地を伝わる一人ぼっちの足音だけだ。
かつて二人三脚で奏でた音楽は、
月日と共に崩れ去っていった。

アパートに残された数々の音痕も、
あの時の甘美な響きとはかけ離れている。
調和を失った楽器の線画に過ぎず、
二人の絆さえ際立たせるばかりだ。

マリアはベッドへと沈み込み、
枕元に積まれた古いスコアを手にする。
パートナーの書き込みで
いっぱいだった楽譜には、
今やただ喪失と苦悩の色しか宿っていない。

かつての調べが息遣いの合間から漏れ聞こえたり、
楽譜の空白が旧日の軌跡を思い出させたりと、
二人の絆の名残がそこかしこにある。
しかしそれらはすべて、
マリアにとっては失われた音楽でしかなかった。

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