人権作文「正しい振る舞い」

本当に苦しんでいる人を、見つけることは難しい。その苦しみが深いとき、人はそれを語れないからだ。自分の語った苦しみを、その人が理解してくれるとは限らない。全く理解されないかもしれないし、的外れな共感をされるかもしれない。他の人にバラされるかもしれないし、偏見を持たれるかもしれない。
そもそも、苦しかった経験を語るためには、忘れたいその記憶を思い起こさなくてはならない。
自分の傷ついた経験を語ることは、それによってまた傷つくかもしれない可能性と常に隣合わせだ。どんなときでも「本当の苦しみ」は、本当に信用してもらえた人にしか話されない。
自分は、そのような人間になれているか。それをいつも考える。

世の中には、素敵な物語が溢れている。勇気を持って、スカートを履き続けた男の子の話。自分を受け入れて、不登校から立ち直った社会人の話。認知症の家族を受け入れられるようになった少女の話。悪口を言ってしまった相手に謝り、仲直りができた小学生の話。
しかし、そうした綺麗な物語の裏側で、多くの弱い人たちは、スカートを履けずに傷ついている。自分を受け入れられず、寂しく家にいる。誰も見舞いに来ない老人ホームで、一人、孤独に亡くなっていく。「大丈夫」という言葉の裏側で、また一人、人を信用できなくなる。
あなたは、スカートを履いた男の子を見て、笑ってしまったことはないだろうか。それをネタにしてしまったことはないか。
いつも授業を受けられていないクラスメイトを見て、その本当の理由を想像したことがあるだろうか。休みがちな友達のことを気にしてやったことはあるか。
全く話の合わないじいちゃん、ばあちゃんの家に遊びに行くことをめんどくさがったことはないだろうか。墓参りは行っているか。
ただのノリで、休み時間に言われた「バカ」の一言を気にし続けてる子がいることを想像したことがあるだろうか。汚い言葉遣いに、ここから遠く離れてしまいたいと思うほど、沈んでしまう少年の気持ちを考えたことがあるか。
小さな言葉のあやが、知らないうちに、身近な誰かを傷つけていて、おそらく俺も、そうしたことを繰り返して来たのだろうと思う。傷つけられた方は、その何気ない一言から、言葉の端々に出る小さな偏見から、信頼できるか、できないかを読み取ろうとする。
自分が誰かを傷つけてしまったかもしれない振る舞いに向きあえる必要がある。そうした一つ一つの現実に向き合わず、「上手くいった人の話」に感動しているうちは、きっと誰も救えないのだと思う。

とある中学生が、部落差別の歴史について、勉強したと言った。その歴史の悲しさについて、心の底から悲しんでいるかのように、ネットで調べたそれを、彼は語った。しかし、それを知ったからといって、あなたは何をできるだろうか。本当に部落に生まれ、友達にいじめられ、結婚できず、職業を選べなかった人を前にしたとき、どんな言葉をお前はかけるのか。
とある女の子は、好きな男の子に「好き」だと言えなかった男の子の気持ちが分かると言った。男の子が好きな男の子。彼らの多くの恋は、初めから実らないことが運命付けられている。告白することが、自分の立場を明らかにしてしまう。自分が好きである相手を、好きだと思うこと自体を認めてもらえなかった、そんな経験に、あなたはどんな言葉をかけるだろうか。
励ましの言葉だろうか? 共感的な一言だろうか? それとも、同じ経験をして立ち直った人たちの成功話だろうか?
そんなありふれた気休めは、思いやりに溢れているがゆえに残酷だと思う。本当に苦しかったその一瞬に、それを誰にも語ることのできなかった人たちの声に対して、彼らの言葉はひどく軽い。それが、善意であるが故に、タチが悪い。

何をしてあげたらいいのか分からないのなら、どうして欲しいか聞くしかない。何が差別なのかを知り、人を傷つけることを、口にしないようにするしかない。
そうして信頼を得られたとき、たった数人の苦しむ人の話を聞くことができる。そして、自分の手が届く、その数人を救うために、何をしてあげられるのかを考え続ける以外に、俺にできることはないのだ。

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