好意

人の好意を素直に受け取れない。

なのにSEVENTEENさんがくれる好きに対して受け取れる、愛が重いと感じられるのはそれがcaratに対してだからだ。そして私が好意を送ることができるのはcaratという属性(大きな括りに含まれる形)だからだと思う。

誰かのことが嫌な時、その人が女性なら〇〇さん嫌だ!よりもおばさん嫌だ!の方が使いやすい。それはいずれ私もおばさんになることは勿論分かっているし、なんだ?逃れられる属性じゃないのも分かってるんだけど、だからこそ、特定の個人をじゃなくて大きくオブラートにくるんでるというか。

なんで?どうして?がくる理屈的なところ。
勝手ながら、良いように受け取ってもらいたいけど白黒よりもグレー?で回答することが多いジュンさんのこと結構分かる。分かった気ではいる。

私にとって、
好き=尊敬できる、なりたい、だ。
尊敬「できる」なんて何様だ。尊敬してしまうが正しいか。
かなり話は逸れるが、私は両親が憧れ。

どういう出会いで〜とか付き合った時お父さんはね〜の話を聞くのが好き。自分が働くようになって父のことをより好きになったし、勝手ながらああいう夫婦がいいなぁと思ったりする。
私は両親から聞いてきたかいつまんだ一部しか知らないけれど。

思わぬところで誰かに向ける好きの理想が高くなっているな感じる。

好意を素直に受け取れないなんて自己肯定感が低いと診断されそうだけれど、自己分析はこう。

他の人は良しとするところも、自分の中の基準(理想値)に到達してないと考えてる。その理想値が満点になることなんてないのに。自分を満点まで持って行けるひともいればここが満点と見極められる人もいる。ただ、私は周りを見て基準の物差しの単位が違うのに必死に合わそうとしている。cmと寸なんて合うわけないのに。

いつも思う。気遣いではない。気にしすぎだ。最近母と話してて自己開示は皆しないものなんだと気づいた。思ってても、そうか、ん!と抑えたりここまではこの人に自分の思いをわざわざ言わなくていいなと決めるらしい。

友人に対しても、気づいて〇〇するのに向こうはそのことにも気づかず逆になんで▲▲を私に対してできるの?が多い。書いてて思った。私求めすぎんな。

人を割り切って区別してる方だと思っていたけれど、自分と同一視して話しすぎてしまうみたいだ。このnoteを書いてるからそういうことだとは分かるよね。

一個人としての好意を向けられるとざっと自身の手持ちカードを開いて、どうして?どこが?と終わりのないハテナに向かってしまう。

自分ではない、何かとして属性?という肩書き?じゃないと好意を受け取るには相応しいと思えないんだ。

悲劇のヒロインぶんな、と思う時はあるし、所詮脇役なのはわかってるし、でもここは私の場所、여기 Ocean viewだからちょこちょこ書くわけです。

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