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待つ、ということ

私は待つことが苦手だ。
せっかちで効率重視、思いたったらすぐ行動。
家を整えたり片付けたりするのが好きだが、それも効率を重視したいがため。きれい好きだからとか、几帳面だからという理由ではなく、一発でどこに何があるか分かっていたいし、サッとすぐに取り出せる状況にしておきたい。そもそもが面倒くさがりなので、面倒を避けるために片付けているとも言える。

ものや家を整える分には自分のペースで行えばいいし、家族には少しは迷惑をかけているかもしれないが(模様替えが多すぎて)、人との関わりにおいては、ちょっと厄介な人かもしれない。
なぜなら、自分のペースに巻きこもうとしてしまったり、自分のスピード感について来れない人を排除しようとしてしまうからだ。
特にゆっくりな人を見ているとたまらなくイライラしてしまう(今は栄養療法のおかげかだいぶ緩和されている)。
ああ、なんて非効率的なんだ!とか、早くしてほしい、と感じてしまう。自分中心で、傲慢な考え方だ。

ところが、どのような采配か分からないが、ゆっくりでマイペースな息子が私の前に現れた。友人ならば、合わなければお付き合いをやめればいいし、そもそも近づかなければいいのだが、息子となるとそうはいかない。とにかく日常生活がゆっくりでじれったい。食事は放っておいたら、1時間以上はかかるだろう。時間に追われる日々では放っておくことはできないので、食べ進めるように声をかける。声をかけつつ、私は食べ終わり、洗い物して、化粧して、洗濯を干す。それでもまだ食べている息子。小さなおにぎり一つ食べるのに30分かかることもざらにある。そんな彼をみて、イライラしたり、呆れたり。

そんな日常生活だが、息子が心地よさそうにしている居場所には、息子と同じペースの人が多い。その方達に共通するのが、「待つ」ということができることだ。
息子の考えや作業を急かすことなく、じっと見守ってくれる。私だったら堪り兼ねて、声をかけたり、手出しするところを、ひたすら待ってくれる。その方々にとったら、待つということは苦痛ではないのだろう(多分)。むしろ、何が出てくるのか、どういう展開になるのか、それを見てみたい、と思っているのか?せっかちな私には、どうしたらそこまで待てるのか、どんなことを考えて待っているのか、想像がつかないのだが。
待っていてくれるおかげで、ブレイクスルーがあったり、本人の本当の気持ちや作品が出てくる。それが出てきた時の本人の満足感、幸福感は、側で見ていても感じ取ることができる。待った先にあるものはこれか、と気がつく。

待つ、にはこんな恩恵があると知ったが、息子と10年以上過ごしてみて気がついたことは、お互いのペースは変えられないということだ。いくら、早く!早く!と言っても、自分の求める早さにはならないし、相手を変えることはできない。私が仮に誰かに、ゆっくりしなよ、と言われても、ゆっくりできないのと同じように、ペースは変えられない。
息子を持ってみて、人それぞれが持つペースに気がつくことができた。なので、一方的に、効率が悪い、とか、モタモタしている、とか思わずに、このひとはじっくり考えているのだな、とか、丁寧に作業する人なのだな、と思えるようになった。自分の傲慢さが少しは減ったように思う。
「待つ」分野については、待つことが得意な人にお任せし、私は私の得意分野で生きようと思う。



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