推し活と言葉のあれそれ

「広告で『沼』とか『尊い』って言ってくるの嫌」ってヲタクの人は多分いると思う。私もそう思うので。

「それにしても、何故嫌なのだろう」を考えているとき、横道に逸れて「抱く感情を決め付けられる場面って結構多いよな〜」と思ったので、その話をしよう。

例えば、災害や事故が発生したとき。ニュースではどんな規模で何が起こり、死傷者は何人なのか報じる。その後、段々と「亡くなった人の人生」を取り上げることが多い。

考えすぎかもしれないが「悲しんでください」と言わんばかりにセンセーショナルな報道が多いと思う。
そのニュースでどう思うかは人の自由なのに。
(さらに言うとセンセーショナルに報じたあと、継続して月単位で報道されることは少ない。)

また、よく話題に上がるのは電車の広告の話。世の中は、人に買ってもらう、稼いでもらう為に、生きているだけであらゆる心持ちを強いてくる。

「痩せろ」
「美しくなれ」
「男らしくあれ」
「女らしくあれ」
「普通でいろ」
「個性を出せ」
「結婚した方がいい」
「出世しろ」
「活躍する人になれ」
「価値のある人間にならねば」
「あれが欲しいだろ」
「これを手に入れたいだろ」

これらの無音のプレッシャーを感じて、気付かないうちに自分の心や感情を変えてしまうこともある。

冒頭の話に戻るけど、「尊い」や「沼」や「推したい」は、自分の中から生まれた「好き」「応援したい」という気持ちから来るものだ。紛れもなく、私の心が持つ私の感情であって、誰に利用される物でもない。

そうやって大切にしたい気持ちを、「こう思うでしょ?」と利用して、プレッシャーをかける単語にしてくるのが嫌なのだと思う。

もちろん広告でホットなワードを使用することが有効なことも、認知を広めてお金を稼がなければコンテンツが続かないことも承知の助だけど。

それはそれとして。

それはそれとして、「あなたが言ってしまうのか」と少し悲しい気持ちになる。


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