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発熱してました。

毎日生きている中で、空の青さや、水の冷たさを疑ってかかることは少ない。
或いは、自分の存在や、生きている世界についてもほとんど無条件に了解している。

しかし、自分が普段よりも少しだけ弱くなった時、ここには決まりきった事実などなく、ただ目の前に広がるのは認識の世界なんだと気づく。

例えば、何年か前にコロナに罹った時、味覚を若干失った。同じものを食べても同じように知覚できなかった瞬間に、食事もまた認識で、そしてその認識の世界とはこんなにも脆いのか、と知った。
或いは、認知症もこの例だと思う。自分の認知できる範囲が狭まっていき、自分の世界は、そうとは気付かぬ内に、少しずつシュリンクしていく。結局ひとは、認識の世界でしか生きられない。

自分が事実だと信じ込んでいたものが、実は自分の認識や解釈に過ぎない、と知るのは考えてみると恐ろしい。

“In case I don’t see ya, good afternoon, good evening, and good night.”

この皮肉なセリフで幕を閉じる『トゥルーマン・ショー』。
人生の全てをテレビのリアリティショーで生中継されていたトゥルーマンという男が、その事実に気付き、テレビショーの世界から脱出を試みるというコメディ映画。
これを昔観た時、コメディでありながら、周囲の事実(と思われるもの)への信用の置けなさに妙な共感を覚えた。

或いは、『ビューティフル・マインド』や『シャッター アイランド』を観た時も同様に、感覚する世界の如何に脆いかが、真に迫ってきて、ショッキングな印象をもたらしたことを覚えている。

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一昨日、熱中症に罹って、38℃位の熱を出していた。薬があったので特に焦ることはなかったが、自分の意志とは反して、どうしても寝てしまう。

一日に十数時間ほど寝た中で、やっぱり現実と夢の境界が曖昧になって、現実感覚がふわふわしたのが面白い。

子供の時に、「自分や自分の生きている世界は本当に存在するのか」みたいな考えても仕方のないことを考えては、そこはかとなく恐ろしいような気持ちになったのを思い出す。

自分がちょっと弱くなったとき、最早あまりにも当たり前になってしまい、それが認識であるとも意識しない周囲の世界が、がらがらと崩れ落ちる経験。たまになら、そんなに悪くはないのかも。

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