ホモ・デウス ~テクノロジーとサピエンスの未来~(上)
今回はユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳の上記タイトル(ISBN978-4-309-22736-8)の本について書いていく。
同著者の「サピエンス全史」が人類の過去についての物語であるのに対し、本書では人類の未来についての物語である。
ホモ・デウスとは?
本書のタイトルであるホモ・デウスとはそもそもどういう意味だろうか。現生人類である、私たちヒトはホモ・サピエンス(または私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンス・イダルトゥと区別するため亜種名を加えてホモ・サピエンス・サピエンスとすることも)で、ホモ(homo)は人、サピエンス(sapiens)は動詞 sapio「理解する、知っている」の現在分詞で「知恵のある」という意味であり、「知恵のある人]すなわち「賢い人間」となる。それに対して、デウス(deus)とはラテン語で「神」を意味する単語でホモ・デウスは「神の人間」となる。
ではなぜこのようなタイトルなのか本書の内容を見ていく。
第1章
本書ではまず始めにこれまでの、または20世紀までの人類にとっての課題、敵といえるものを3つ挙げている。それが飢餓と飢饉と疫病である。
さらにそれらがここ数十年で「対処可能な課題」となったといっている。それはどういうことか、一つずつ見ていく。
まずは飢饉についてである。最近までほとんどの人が生物学的貧困線(この線を下回ると、栄養不良で飢え死にする)ぎりぎりの生活をしてきた。人災(例えば家畜のヤギが泥棒に奪われるなど)や天災(干ばつや豪雨)で十分な食料を得ることができず、多くの人が飢え死にした。
しかし、現代でも干ばつや洪水、地震などの天災や戦争などの人災で多くの餓死者が出ており、特に天災は人の手では制御できないため「対処可能な課題」とは言えないと考えるかもしれないが、近年起きている飢饉は自然災害ではなく政治によってもたらされている。自然災害が発生してもNGOや政府機関などが世界中のネットワークを駆使し、最低限の食糧は確保されるため、餓死することはない。
むしろ現代では過食の方がはるかに問題になっており、2010年では飢饉と栄養不良で亡くなった人は合わせて100万人ほどだが、肥満で亡くなった人は300万人以上いる。2023年現在ではさらに肥満が深刻となっている。
次に疫病(と感染症)である。ここ数百年においても多くの感染症が流行した。1330年代に中央アジアまたは東アジアで始まったとされる「黒死病」は、20年足らずでアジア、ヨーロッパ、北アフリカさらには大西洋沿岸まで広がった。1520年3月にアメリカに持ち込まれた天然痘は、わずか数か月の間にアメリカやメキシコの先住民の間に広がり、またその他インフルエンザやはしかなどの感染症により、人口が激減した。1918年には通称「スペイン風邪」が流行し、わずか数か月で世界人口の3分の1にあたる5億人が発症し、一年以内に5000万人から1億人がなくなったとされる(これと程同時期の第一次世界大戦での死者、負傷者、行方不明者は4000万人)。さらに人口増加や交通手段の進歩によって、感染の拡大ペースはより早く、かかりやすくなっている。
しかし、予防接種や抗生物質、衛生状態の向上などでここ数十年で感染症の発生数、影響が激減した。猛威を振るっていた天然痘は1980年にWHOにより根絶が宣言され、現在でも唯一の根絶に成功したウイルスである。
近年では2002~2003年のSARS、2005年の鳥インフルエンザ、2009~2010年の豚インフルエンザ、2014~2015年のエボラ出血熱などが流行っていた(本書は新型コロナウイルウが流行する前の本だが、もちろんそれも含まれる)。これらは効率的な対策のおかげで比較的少数の犠牲者しか出していない(新型コロナウイルス(以下新コロナ)登場以前に書かれたためこのように書かれているが、新コロナは感染が世界中に広がり、死者700万人弱を記録しており、またWHOが緊急事態宣言を出すまで、3年以上かかってしまった)。
しかし新コロナやエイズは多くの死者を出している。たが、これらの正体を突き止め、流行の広がりを鈍らせる方法はわかっているという点で制御可能なのだ。
3つ目として戦争を取り上げている。20世紀後半までは戦争は起こって当然のものであり、平和は一時的なものでいつ崩れてもおかしくなかった。しかし20世紀後半にはかつてないほど戦争が稀になり、戦争や犯罪による死者よりも自殺や糖尿病で亡くなる死者の方が多いのだ。
ではなぜ戦争は減ったのか。それは、世界経済が鉱物などのものを中心とする経済から、知識を基盤とする経済へと変わったことだ。なぜならものは奪うことができるが、知識はそうはいかないからだ。
また平和の意味も変わってきている。戦争が一時的に行われていない状態を指したのが、戦争が起こりそうもない状態を指すようになった。
ではテロはどうかと思うかもしれないが、2010年には世界中で肥満とその関連病で300万人ほどがなくなったのに対して、テロリストの殺害されたのが7697人とテロリストよりも生活習慣病のほうがずっと脅威なのだ。テロリストは相手を挑発して過剰に反応させているだけで、テロの対して過剰に反応することがテロリストよりもずっと脅威となっている。
もちろん、飢饉と疫病と戦争の3つはなくなったのではない。現在もこの先何十年も多くの死者を出し続けるだろう。しかしこれら3つは減ってきており、人類が取り組むべき課題は変わるだろう。
これらに変わる課題として、不死、幸福、またはそれらを克服して人類を神にアップグレードしようとしているのだ。
まずは不死について見ていく。
現代では多くの人が死を技術的な問題だと考えている。例えば我々が癌に罹れば、それは技術的な問題であり、いつか技術的な解決策が見つかると考える。
不死ではなくもっと控えめな目標から始める。20世紀に平均寿命を40歳から70歳と2倍近く伸ばせれたため、21世紀にも倍に伸ばし、150歳にするということだ。しかし人間の寿命の限界は様々な説があるが、120歳前後であり(歴代最長寿の人物が122歳と164日である。)、そのためには人類の根本的な構造やプロセスを徹底的に改良し、臓器と組織の再生法を見つける必要がある。
もし不死が達成できれば、そこには巨大なビジネスが生まれる。若い時の体を取り戻せるとすれば、どれだけ費用が掛かっても支払う人は大勢いるだろう。
2つめとして幸福を見ていく。18世紀にイギリスの哲学者のベンサムが最大の善は「最大多数の最大幸福」とし、全世界の幸福を増進することが唯一の価値ある目標であるとした。これを支持する人が多かったが口先だけで19,20世紀は国民の幸福でなく、領土の大きさ、GDPの成長、人口の増加で国に成功度合いを測った。しかし国が成長し、3つ(飢饉、疫病、戦争)が無くなり、平均寿命が延びても幸せになれるわけでない。
人は簡単には幸せになれない。発展途上国より先進国の方が繁栄しており、安全であるにもかかわらず、自殺率はずっと高い。
幸福には心理的なものと、生物学的なものが関係している。
心理的な面では、我々は現実が自分の期待に添うものであるとき満足する。境遇が改善すると期待も高まるため、幸福を高めるためには何らかの対策が必要である。
生物学的なものでは、我々の期待と幸福は生化学的作用で決まる。人を幸福にするものは体の中の快感だけだ。しかし快感は長続きしない。それは我々は生存と繁殖の機会を増やすように進化してきたからだ。
では幸福レベルを上げるためにはどうすればよいか。それは人間の生化学的作用を操作し、永続的な満足を確保できるようにすることだ。50年前は精神疾患の治療のために向精神薬を服用していたが、こんにちでは憂鬱や気分の落ち込みなど日常的に服用している。
しかし生化学的作用の操作による幸福の追求が、犯罪の最大の原因となっている。あるデータではオーストラリアで有罪判決を受けた62%が犯罪時に薬物の影響下にあった。また気持ちを落ち着かせたり、気分を挙げたりするためにマリファナやコカイン、メタンフェタミン、MDMA、LSDなどの違法な薬物を手に入れようとしている。
これまで見てきたように幸福とは快感であり、絶え間ない快感を得るため、我々の生化学的作用を変え、心と体を作り直す必要がある。
次に前者2つ(不死、幸福)を克服することで人間を神にアップグレードしようとしているという話に移る。
なぜそのようになるのか。それは幸福と不死が髪の特性であり、また老化と幸福を実現するためには、神のように自らの生化学的な基盤を制御できるようになる必要があるからである。
人間を神にアップグレードするためには、「生物工学」「サイボーグ工学」「非有機的な生き物を生み出す工学」のどれかをとる。
「生物工学」意図的に遺伝子を書き換え、脳の回路の再配線し、生化学的バランスを変える。
「サイボーグ工学」では、体と義手、人工の目、無数のナノロボットと一体化させる。サイボーグは体の部分同士が直接つながってなくても存在できる。サイボーグの医師は、東京にいながら、ニューヨークで緊急手術を行うことができる。
しかしサイボーグ工学でも、有機的な脳が司令塔という前提がある。そこで有機的な部分をなくし、すべて非有機的な生きものを作り出すというアプローチがある。神経ネットワークを知的ソフトウェアに置き換え、仮想世界と現実世界の両方を動き回れる。もしこのようなことが実現できれば有機的な生命体では生き残れない地球外惑星でも簡単に入植でき、そこに文明を築くこともできる。
我々の将来についてはっきりしないが、それでも方向性として次の通りだ。老化と死と悲惨な状態を逃れるために、自分の心と体を作り直し神性を手に入れる。人類の課題リストは、じつはたった一つ、神性を獲得することだ。
人間は今後、神性を得ようとするとみて間違いない。しかし映画のように突然得るようなものではなく、一歩ずつアップグレードしていく。健康と幸福を追求しながら、自らの機能を一つずつ変えていき、ついに人間ではなくなってしまうだろう。
アップグレードした超人(ホモ・デウス)と聞くとパニックを起こす人もいる。また25年ほど前のコンピュータ(コンピュータが一般普及したころ)と現代のものを比べるとその進化は驚くべきものであり、今から25年後を考えると進化のスピードに驚く。だがそのスピードを緩めることはできない。なぜなら現在の経済(資本主義)は、無限に成長し続ける必要がある。
知識のパラドクス
データを多く集め、演算能力を高めるほど、意外な出来事が起こる。私たちは知れば知るほど予測ができなくなる。それはなぜか。
例としてマルクスが著した「資本論」により資本主義がどうなったのか見ていく。この本によりマルクスは、労働者階級と資本家の争いは次第に暴力的になり、最後には前者が勝利し資本主義が崩壊する。イギリスやフランスやアメリカといった国で革命が始まり、それが全世界に広がると確信していた。
しかし資本主義者たちは「資本論」を読み、それによって自らの行動を変えた。それによりマルクスの予想通りにはならなかった。
このように我々が行動を変えうる知識は妥当性を失う。また歴史をよく理解するほど歴史は速く筋道を変え、知識が時代遅れになる。
これは今の社会で起こっていることで、何世紀も前には人間の知識はゆっくりと増えたため、社会と経済もゆっくり変化した。現代の私たちの知識はものすごいスピードで増えており、社会と経済も以前より早く変化する。我々が何が起こっているか理解するため知識を蓄積すると、より早く大きな変動につながるため、現代を理解し、未来を予測する力はむしろ低下する。
そのためこれまでに述べた未来のことについては、予言というより現在の選択肢を考察しているに過ぎないということに注意すべきだ。この本を書くことによって人々の行動に変化を与えるためだ。
歴史を学んでも将来のことを予測できないのになぜ歴史を学ぶのか。それは歴史を学ぶことで今までとは異なる考えや夢を抱ける。それにより何を選ぶべきかは分からなくとも選択肢を増やせる。
ここまでの内容でようやく本書(上)の第5章あるうちの第1章を終えたところだ。ページ数で言うと本文の90/240に過ぎない。ただすでに5000字を超え、いつもならそろそろ終わるころのため、ここからは駆け足で見ていく。
第2章
学者は、地球の歴史を更新世、鮮新世、中新世のような時代区分に分ける。現在われわれは完新世に生きているが、過去7万年は人類に歴史を意味する「人新世」と呼ぶのがふさわしいかもしれない(人新世:anthropocene はオゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンらが2000年に提唱した用語)。
それはこの期間にホモ・サピエンスが地球の生態環境に他に類を見ない影響をもたらした時期だからだ。我々の祖先が東アフリカから世界中に広がっていき、住み着いたすべての地の動植物相を変えたからだ。多くの大型動物(マンモスやマストドンなど)を絶滅に追い込んだ
農業が始まると、地球上に完全に新しい生命体、家畜が誕生した。家畜化できたのは20に満たず、多くが野生のままだったが、現在の大型動物の9割以上が家畜化されている。
家畜の例として豚を挙げている。豚の祖先であるイノシシは、繁殖のため、なわばりを歩き回り、捕食者に用心する必要があった。進化圧を受けた結果、非常に知能が高く、社会的な動物で強い好奇心や遊んだり、うろつき回ったりという強い欲求を特徴とする。
ブタも知能と好奇心と社会的技能を受け継いだ。しかメスブタは狭い檻に閉じ込められ、そこでほぼ一生を過ごす。
ここでハリー・ハーローの行った実験を紹介する。
・サルの赤ん坊を誕生直後に親から引き離し、狭いケージに隔離
・哺乳瓶をつけた針金の人形と哺乳瓶のついていない柔らかい布で覆われた
人形をサルに選ばせる
・サルは布で覆われた人形を選んだ。
つまり、サル(というより哺乳類全体)は食べ物だけでは生きられず、情動的な絆も必要とする。
家畜の仔牛や子ブタも誕生後に母親から離され、母乳を吸ったり、母親の温かい感触を感じることもない。つまりハーローがサルにしたことを食肉、酪農産業では毎年数十億頭もの動物にしているのだ。
飼い主は家畜を利用し、人間の欲望のままにしていたが、このような行動をキリスト教のような有神論の宗教によって正当化した。ユダヤ、ヒンドゥー、キリスト教などの宗教の神学や神話はもともと人間と栽培化された植物と家畜化された動物の関係を中心としていた。
・有神論の宗教………農業革命により誕生。キリスト教、イスラム教、仏教、
ユダヤ教など。伝統的な農業を正当化させた。
・人間至上主義の宗教…科学革命により誕生。自由主義、共産主義、ナチズ
ムなど。工場式農業を正当化させてきた。
工場式農業では動物には真の関心を全く持たない。それは現代科学の進歩によりブタや牛やニワトリをこれまで以上に効率的に生産することができるようになった。最近「下等な生き物」の運命に関心を見せている。それは我々自身が「下等な生き物」の仲間入りをしそうだからかもしれない。AIが人間の知能を超えたら、これまでの人とブタとの関係がAIと人間との関係も同様になり、そうなればAIが人間を殺すのは許されるのだろうか?
第3章
人間が世界で最も強力な種であることは疑いもない。では人間の命はブタの命よりも貴重なのか?アメリカ人の命はアフガニスタン人よりも価値が大きいのか?
実際にアメリカ人の命の方が高く評価されている。だがこれは地政学的な力の不当な結果に過ぎない。人間の命の方が貴重というのも、一神教ならば人間の方は不滅の魂を持っているという科学的根拠のないものを拠り所にしているのに過ぎない。
ある調査によると、アメリカ人の15%のみが人は自然選択のみで進化したと考え、46%が聖書の記述通り、神が人間を創造したと信じている。これは大学卒業者、さらに修士や博士号を持つ人でもあまり変わらない。それは進化論と宗教は両立せず、魂は永久不変のものに対し、科学でそれに近いDNAは永久不滅でないため、このことを恐れ、魂の方を信じる。
人間の優位を正当化する際に出される説として、意識ある心を持っているのはホモ・サピエンスだけだというものである。
ただ現在の生命科学では、すべての哺乳類と鳥類、少なくとも一部の爬虫類と魚類に感覚と情動があるとしている。しかし最新の理論では感覚と上道は生化学的なデータ処理アルゴリズムであるともしている。つまり、空腹や恐れ、愛情などの間隔や情動には無意識のアルゴリズムがあるかもしれない。
動物と我々は同じような意識があるかどうかは現代でも難しい。まだ心と意識の謎を読み解く段階には程遠いのだ。
今日では、生き物はアルゴリズムであり、アルゴリズムは数式で表されるとしている。しかしアルゴリズムの中には主観的経験を含むものは存在しない。今では自動運転車が意識もなしに、安全に運転するために様々なことを考慮し、運転している。
実験的根拠や代替の仮説の登場により化学から葬り去られた魂や神、エーテルのように心も扱うべきではないか。しかし不滅の魂の存在は推測であるのに対し、(たとえば鉄くぎを足で踏んだらいたいみがあるような)苦痛の経験は直接的で明確に現実の現象である。そのため心を否定しようがない。ただ脳科学的視点で言えば、意識は複雑な神経ネットワークの発火によって生み出されるものにすぎない。
人間以外にも意識があるのか。2012年専門家や科学者が「意識に関するケンブリッジ宣言」と署名した。これは人間以外の動物、すべて哺乳類、鳥類、タコをはじめ多くの動物に意識を生じさせる神経基盤を有している、とした。
化学会の風向きの変化により2015年にニュージーランドの議会で動物は感覚のある生き物であると認定した。この法で、動物の福祉に適切な注意を払うことが義務付けられた。
人間にも動物にも意識があるのなら人間の優位性を主張できない。そこで人間のみに「自己意識」があるとすれば人間の優位性を主張できる。これは動物は自分が感じる憂鬱や空腹が「私」の唯一無二のものに属している自覚はないというものだ。
しかし、近所の犬たちが尿をかけた木のにおいを犬に嗅がせると、それが自分のにおいか知らない犬のにおいかで見せる反応が違う。
また自己意識にはさまざまなレベルがあり、人間だけが過去と未来をを認識でき、過去の経験と未来の行動を考えられるという主張もある。しかしこれも一部の動物で見られる。
人間は100万年前にはすでに、道具制作や知能で動物トップだったはずなのに周囲の生態系にはほとんど影響を及ぼしていなかった。人間が地球を支配するようになったのは、なぜか。それはホモ・サピエンスが大勢で柔軟に協力できる地球上で唯一の種だからだ。歴史を振り返ると協力が上手だった側が勝利を得ていた。
1914年のロシアでは、300万人の貴族と役人と実業家が、1億8000万人の農民と労働者を支配していた。それは300万人のエリート層が協力して自らの共通利益を守る術を知っていたからだ。ロシア革命が起きたのは共産主義者が適切な時、場所に身を置いたからだ。
人間が大勢で柔軟に行動できるのは、「脅しと約束」を使っているからだ。チンパンジーにはそれを使えないため大勢で協力ができないのだ。
「想像上の秩序」
この概念を理解するには、現実には、主観的現実(自分自身が信じ、感じていること)と客観的現実(自分だけでなく、多くの人が信じ、感じていること)だけでなく「共同主観的レベル」というものがある。
共同主観的とは大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。
例えばお金には客観的価値はなく共同主観的なものである。(その国で流通している)お金を使えば食べ物や衣服を買うことができる。しかし紙幣の価値を突然失うこともある。
独裁政権下の1985年のミャンマーで、11月13日政府が突然、50チャット札、100チャット札の紙幣が使用できないとした。その代わり75チャット札を導入した。翌年8月には15チャット札と35チャット札を導入したが、さらにその翌年9月には35チャット札と75チャット札が無効となった。紙幣が無効になることにより、それまで蓄えていた(無効となってしまった紙幣の)財産が無価値になってしまう。またこの相次ぐ変更には、ネ・ウィン将軍の占星術の吉数が関わっているともいわれている。
これは余談になるが、ミャンマーの首都が2006年10月に首都がヤンゴンからネピドーに遷都したが、これも理由の一つとして占星術が関わっているという説がある。
お金のように、意味というのは大勢の人が共通のネットワークを作り上げた際に生み出される。ラマダーンに断食したり、選挙の日の投票に行くなどの行動は多くの人(前者はイスラム教徒の人)が有意義だと考えているため、有意義に思える。人々は絶えずお互いの信念を強化し、それが無限ループすることで意味のウェブが強くなり、他の人が信じていること以外の選択肢がほとんどなくなる。しかしそれから何十年、何百年か経つと意味のウェブは解ける。後世の人(または自分の過去)どうしてそんなことを信じていたのだろうと思える。
同じように考えれば100年後私たちの子孫が、現在の民主主義と人権を信じている気持ちも理解不可能に思えるかもしれない。
ヒトとその他の動物との違い、あるいは人が7万年の間地球を支配できているのは共同主観的現実を持っていることだ。この章の最後には
ここでいう虚構とは、共同主観的な意味を持つことで作られたもの、例えば 紙幣という、他の動物にとってはただの紙に過ぎないものによっても物の売買がされること、である。
第4章
ここから第2部、ホモ・サピエンスが世界に意味を与える、に入る。
オオカミやチンパンジーのような動物は二重の世界(主観的現実と客観的現実)で生きているのに対し、サピエンスは三重の世界(2つに加え、共同主観的現実)で生きている。21世紀はさらに(共同主観的現実によって作られた)虚構が強まりそうである。
約7万年前から共同主観的現実の歴史は始まった。最初はある部族が崇拝する霊のように小さく局所的だったが、約1万2千年前から始まった農業革命により共同主観的ネットワークを広げた。農耕のおかげで多くの人を養うことを可能にした。しかし大規模な協力を構成するために、人間の脳のデータ処理能力に頼っていたが、それには制約があった。
だが5000年前にシュメール人が書字と貨幣を発明したことで、データ処理の限界を破った。何十万もの人々から税を徴収したり、複雑な官僚制を駆逐したり、巨大な王国を建設することが可能になった。
書字により、人間の脳の容量の制約を受けなくなった。人間の頭に収める代わりに粘土板やパピルス(カミガヤツリ(パピルス草)の繊維からできるからできるもので、’papyrus’ は ’paper’ の語源となっている。)などに保存すればいい。
エジプト人がファイユームの湖(貯水量500億立方メートルの巨大な湖)とピラミッドを建設できたのは、卓越した組織力を持っていたためだ。
文字で表すのは現実を表す方法と思われていたが、次第に現実を作り替える強力な方法となっていった。事実よりも書類に書かれていることの方がはるかに重要なのだ。
例えば官僚制は力をつけると、外部の現実が官僚制の空想に合うように、現実を変えられる。現代の教育制度もそうだ(事実<書類)。成績を厳密に(数字や文字など)でつけるようになると、良い成績をとるのに必要な技能と、学問を真に理解するのは異なり、もちろん後者の方が重要であるのに、学校は前者(書類)を重視した。
お金(紙幣)や教育(学位証明書)や聖典はただの紙に過ぎないが、それに意味を持たせることでうまく協力できる。つまり、虚構のおかげでうまく協力ができるのだ。
ただこれには代償が伴う。虚構によって協力の目標が決まってしまう。ファラオが支配するエジプトは徴税と灌漑とピラミッド建設で世界トップだった。しかし狩猟採集民族よりも栄養や健康や小児死亡率では悪化していた。
お金や国家や協力などについて、広く受け入れられている物語がなければ複雑な人間社会は機能しないが、このことは虚構だということを忘れたら現実を見失ってしまう。それにより、企業に莫大な収益をもたらすためや国益を守るために戦争を始めてしまう。だが企業や国家やお金は我々の創造に過ぎない。
21世紀は虚構と現実、宗教と科学を区別するのはますます難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。
第5章
歴史が進むにつれ、虚構は客観的事実まで支配し始めた。虚構をむやみに信じたせいで人々の努力は現実の生活の向上でなく、虚構の存在の栄光を増すことに向けられた。
最近のテクノロジーにより紙や国家や企業といった虚構への関心を失い、物理的現実や生物学的現実の解明に注力すると思われるかもしれないが、むしろ共同主観的現実が客観的現実と主観的現実を今まで以上に制御する出来るようになる。古代ローマを例にとると、’神の化身’であるファラオは他の人と同じように老化し亡くなっていくし、聖なるワニは他のワニと同じ哺乳類に過ぎない。だが科学の進歩により「スーパーワニ」を作り出したり、人間のエリート層に永遠の若さを与えられたりできるかもしれない。その結果神話と宗教をかつてないほど強力にするだろう。
21世紀の様々な課題(本書の前半で取り上げたもの)に取り組むためには、科学と宗教をどう折り合いをつけるか考えるべきだ。
宗教とは「私たちが創作したわけでもなく変えることもできない道徳律の体系に、私たち人間は支配されている」と断言する。宗教とは人間が作り出したもので、社会的な機能によって定義されている。前半でも書いたが、本書では宗教というのはキリスト教やイスラム教など以外にも自由主義や共産主義なども上の「」内を満たしているため宗教である。
私たちが知る限り、あらゆる人間社会が何らかの道徳体系を信じ、その成員に道徳律を従わなければならないと命じ、道徳律に背けば大惨事を招くと言い聞かせる。
宗教と科学の隔たりが思っている以上に小さいのに対し、宗教と霊性の隔たりは意外にもずっと大きい。宗教はこの世の秩序を強固にしようとするのに対し、霊性はこの世界から逃れようとする。
科学と宗教の関係を考える。科学は事実を研究し、宗教は倫理的な判断をするが、事実に関する主張もする。そのため事実に関する主張で科学と宗教が衝突することが多い。
妊娠中絶を例にとる。ほとんどの人は人の命は神聖で、殺人は許されないとしているがヒトの命が始まるのはいつか。受精直後か、誕生後か、またはそれ以外か、などがあるが、この疑問には科学と宗教では相対する問題である。科学は宗教が下す論理的な判断を反証することも確証することもできない。
ただ倫理的な判断と事実に関する言論は、いつも簡単に区別できるわけではない。宗教は事実に関する言論を論理的な判断に変え、比較的単純な議題を分かりにくくする傾向がある。逆に論理的な判断は、事実に関する言論を内包することが多い。
以上から(科学と宗教の関係を………あたりからここまでで)科学は私たちが思っている以上に倫理的な議論に貢献できるが、越えられない一線がある。宗教は科学研究の論理的正当性を提供し、科学の知見と科学的発見の利用法に影響を与える。
本書下巻でも科学と宗教(人間至上主義)との関係性を扱う。近代と現代の歴史は科学と人間至上主義との取り決めを形にするプロセスとみると良い。ではその取り決め(契約)とは何なのか。この契約が崩れかけているのはなぜか、その後にとってかわるかもしれない取り決めを説明する。
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