気流の鳴る音(旅のノートから、交響するコミューン)/真木悠介

私たちは、意味に、それも一定の志向性をもった意味に支配されている。その代表例として、資本主義とそれを裏側から支える能力主義がある。

前者に関して言えば、それは物神への無意識的信仰であり、それとおなじ平面の上に、努力/怠惰、健常/不具、成功/失敗を位置付ける”能力”への思想的(または行動上の)勾配がある。

私たちが幸せだと感じるのは、もちろんその意味によって、未来を媒介にして人生を充実することでもあろうが、その”意味”が取りこぼす世界の複雑さがあることも事実だと思う。

「気流の鳴る音」は、その内容に様々な発展性、未開性があるにしても、まず、私たちの根源的に不吉なニヒリズムに風穴をあけるという主題が提示されている。ニヒリズムとはつまり、私たちの意味を志向する在り方が暗黙のうちに、もともと世界が帯電していた意味を剝奪すること、その結果として私たちが意味や目的を志向することに飽き飽きしている、そもそも意味など感じられないという自己矛盾に陥ることである。真木悠介はその苦しみを、おもに異文化への目線をひらくことによって解消することを試みる。

本書では、メキシカン・インディアンのドン・ファンとドン・ヘナロへの文化人類学的調査を行ったカルロス・カスタネダの書物が紹介されている。

最終的に、カスタネダは二人のインディアンと関わることを通して、”先進的な暮らし”を営む私たちがどれほど意味へと疎外されているかを明らかにする。インディアンの思想は西洋の思想家(実存主義など)とも呼応する内容があり、また彼ら自身の呪術的生き方をも相対化する認識を持つ。

最終的に本書は、近代的な所有概念の限界性、今の社会に失われた交感のある生き方の発掘を提示する。それは個人の感覚、実存、そして他者との共生にまで及ぶものである。それはまた人間のみに限定されるものではない。ヒューマニズムは、ヒューマニズムに限定されない発想を必要とするものだとも述べられている。(これは現在のエコロジー危機の様相を見ればその意味がはっきりしてくると思う、ただ真木悠介がそれを明言しているわけではない)

「そしてこのような関係性の原則によって存立する歴史的「世界」のうちにわれわれが生きつづけるかぎり、飛翔する<翼>の追求が生活の<根>の疎外であり、ささやかな<根>への執着が障壁なき<翼>の断念であるという。二律背反の地平は超えられない。「自分の存在を支えてくれるものを愛することも出来ず、対立するような人間どもだけが悲しみをもつ」。「大地への愛を完全に理解したときに始めて、それは自由というものを教えてくれたんだ。この壮麗な存在への愛だけが、戦士の魂を自由にするのさ」。」(同書より)

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