ポエム的初恋のひと、平出さんの朗読会に

 2008年7月5日、小説家の古井由吉さん主催の朗読会に行ってきた。実を言うとゲストの平出隆さんを一目見るために。mixiの現代詩コミュニティで情報を偶然見かけて、それで出掛ける一大決心をしたのだった。
 場所は新宿5丁目3番街の「風花」というバーで、ボトルキープの名前からいわゆる文壇バーと知れた。カウンターだけのバーとしては広めではあるが、それでも八王子のアルカディアと同程度のスペースで、そこに50人が詰めかけていた。
 19時になり、白髪の古井さんに連れられて平出さんが入ってきた。さすがにもう老けているのでは、会うにはもう遅かったのではと内心不安だったのだが、何とほとんど現代詩文庫の裏表紙と同じ雰囲気。万年青年の面持ちで、ちょっとホッとした。
 まず古井さんが挨拶と朗読。カウンターの角にマイクとミキサーがしつらえてあり、それを使って座りながら朗読。
 昼間に早稲田大学でディスカッションがあり、そこで東浩之さん? などとケータイ小説に関する話をして来たと言う。誰かがケータイ小説には声がない、といった事を語ったらしいのだが、古井さんが「自分の小説にも声がないと感じる」と言われたのには驚いた。(古井さんの書くものに声が無いなんてこと
あるものか、と思うのだが。たぶん声の内的な厳密な定義が違うのだ)それで、そうした事を思ううちに自分でも朗読をするようになった、との話。

 古井さんが朗読した作品は、私にはあいにくとタイトルは分からない。若い男女がとある郊外のお屋敷の離れを見つけて同棲して、訳アリのその二人を住まわせたその大家の老人が急死したら、明け方に謎の老女が訊ねてきて、本当の相続人の姪が来るまで1昼夜半を共に過ごす…というお話。筋だけ書いたらこれだけだし、細かく書いたらネタバレなので詳細は控えるが、主人公が席を外した時に同棲相手と老女が交す会話の気配とか、聞こえる筈のない生垣のそよぎが聞こえてくる部分だとか、細やかで幽玄なディティールの鋭さを堪能できた。古井さんなら人前で語る場数も半端ではなかろうから当然だが、さすがに朗読も聞きやすく、演出もほどほどに抑制されていて本当に上手かった。(ディティールが堪能できたという意味を、感じて欲しい)

 平出さんは、自分の学生には書き方を絞れと言いながら、自分は今日の朗読作品を決められなかったと弁解的MC(笑)をしながら、小説への意識に留意しつつ時系列順に自作を取り上げていった。今回は「家」が主題となったものと、聞き手を考慮して小説に意識を置いたものから…と前説。
 最初の詩集の「旅篭屋」からは「微熱の廊」を。伊良子清白を好きな平出さんのこの初期の行分け詩は、助詞の使い方がどこか近代詩的で、その後の詩集にはないトーンを持っている。
 続く「胡桃の戦意のために」は昨年、英語との対訳版が出たらしい、ぜひ買わねば。(ファンと言う癖に何故知らないのだ)読んだのは92と 111。
92は、これが私を現代詩に転向させた、あの防火用水のハヤの一節。

 すると、防火用水に若いハヤが跳ねるのだった。早く火事を、と跳ねるのだった。
                   (「胡桃の戦意のために」 92)

 後のトークで、この連は刊行の頃、古井さんと平出さんが唐十郎の所で呑んでいた時に朗読会のようになって、唐十郎が平出さんの「花嫁」を朗読した際の返礼に、古井さんが読んだ連だったという。
 また最後の 111は実はシリーズの最初に書かれた詩だったという話も。現代詩手帖の連載時もそうだったので、この連作は最初から意識的に構成されていたのだ。以前に旭川で朗読した際にはこの詩集から数多く朗読されたとの事、聞いた方はさぞ幸せだったろう。(Youtubeに誰かUPして下さい。冗談です)
 「若い整骨師の肖像」からは冒頭の「(はじめの光景」。手袋が水の中で旋回している…という印象的な映像の詩だ。昆虫研究者の手記を換骨して作ったという詩集で、今日は朗読されなかったが、「(若い姫蜂がつぶやく」「(水の囁いた理由」が私は好きだ。
 「家の緑閃光」からは「緑色異聞 九」以降を。 ある気象学者の記した「緑閃光」という現象に恋焦がれながら日々を過ごす主人公の生活を描いた散文と、行分け詩が混在する不思議な詩集。同じ頃の他の詩人の詩の多くに「閃光」「緑閃光」という単語が頻出するのは、偶然なのだろうか。
(これ以降の朗読された詩集はまだ持っていないので、本の内容についてはネットの記述を参考に。コピペじゃないぞ)
 「左手日記例言」は、脳溢血以降右手が麻痺したある作家の、左手での著作活動を手伝った編集者の話。吹き出しだらけの校正や、サインをするだけの事にも苦闘する老作家の描写に、書くことへの執念と、不自由のもたらす逆説的な可能性が輝いて見える。河出書房新社の編集者だった平出さんの体験が活かされた一作。この辺から世間では詩集として認知されなくなった、と苦笑する平出さん。
 「葉書でドナルド・エヴァンズに」は、亡くなった欧州の友人のために、イギリス近くのとある小さな島を訪問する話。26人しか住んでいない島に、この島だけで通用する通貨単位が残っている…という。詳しくは、この本をどうにかして手に入れて読んでみて下さい。
 平出さんの朗読は終始詩人らしく、聴きやすい素読みという感じだった。ヘンな読みこなし方は、この人にはきっと似合わない、と思う。

 朗読後のフリートークで、ケータイ小説が再び話題になった。インターネットの出現以降、詩や短歌の世界は随分変わってきたのだが、それがいよいよ小説にも及んできたか、と感じた。平出さんの教え子の中にもケータイ小説を書いている人が居て、実はその中に登場人物として平出さんが出てくるらしいのだが「どう描かれているのか怖くて見られない」と苦笑。「いっそ俺たちも書いてみるか。話題になるぞ」と古井さん。

 終わったのは21時頃。「普段ならツッコミを入れるところだが、聴き惚れてしまって突っ込めなかった」と古井さん。実は前出のハヤの所で思わずうめいてしまった自分は恐縮して、普段ならせがむサインも言い出せずさっさと会場を出てしまったのだが、聴衆には若い人たちも結構居た。誰かと少しでも話をしてみたかったけれど、今回は我慢した。
 平出さんが作家や読者たちに愛されているのを感じるとともに、媒体がどのように変化しようとも(出版というビジネスモデルは危機に瀕しているのだが)「書く」という表現の方法は変わらないし、「書く」ということは全幅で信頼して良い行為なのだ、と改めて強く感じた夜だった。

初出 2008年7月6日 現代詩フォーラム

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