松下育男は役に立つ

 詩を書いてきて、少し詩論めいたものを考えてみたとき、体系的というよりも経験的、実践的なものを、これから詩を書きたい人に見せられたらなぁ、と思う事が時々ありました。いわばヒント集みたいなもので、自分の中で勝手にPoem Tipsなどと名付けていましたが、いざ書こうとすると詩に関する知識も何も圧倒的に不足な自分には、全く手に余ることでした。

 ところがそれをすっかり実現してしまった詩人が現れました。松下育男さんです。『詩の教室』(思潮社)という本には、2017年8月から松下さんが取り組んだ「初心者のための詩の教室」での講演内容40回分が詰まっています。そして何より凄いのは、私にとってはこの本、どこからでも読み始められるし、どこから入っても何かしら収穫がある。特に詩の書き手にとっては共感できたり、逆に身につまされるような話がいっぱい出てくるのです。正直まだ読み切ってはいないのですが(汗)、例えばこんな話。
〔引用〕
「生きるための詩が/あっていいと思う」。これが、ずっと詩をやめていたぼくがまた詩を書き始めたひとつの理由だったから。これをどうしてもいいたかったから。言い残しておきたいと思ったから。
 この世界には、強い人ばかりが生きているわけではない。頑張ってもうまくやっていけない人もたくさんいる。ぼくもそう。あるいはどうにも情けなくて仕方がなくなるときってある。生きているとそんな日がたくさんあって、そんなときにとことこと訪ねていける詩があってもいい。<中略>
 ここにいるぼくらには詩が書けます。その時に、たまにはぼくらの支えになってもらってもバチは当たらない。(同書94~97頁『生きるための詩』から)
〔引用ここまで〕
 詩を書く事というのは実際、カッコ良い事だとは限らない。むき出しの自我に直面することも、そこから逃げてしまう事だってあるでしょう。ただ多分、時にはそんな書き方や生き方もあるんだ、という事なのかな。
 逆にカッコ良い詩を書こうとして、足を掬われる事もしばしばあります。私なんかはむしろそういうタイプだ、と痛感したり。

 かと思えばこんな事も。買った時にココに線引いてたなワタシ。
〔引用〕
 いったん詩に書いたものは自分から引きはがされたものになる。自分で書いたものだけど書いてしまったらもう自分じゃない。自分が書いたものだけど自分が書いたものではない、別の人格を持った、別の人が書いたものになる。<中略>やっていることは軽々しいものじゃない。自分って一体なんだろう、生きていくってどういうことだろうという疑問に正面から立ち向かうこと。(同書106~107頁『人生の疑問に向き合う』)
〔引用ここまで〕

 先の引用の部分とは真逆の印象を受ける話なのですが、どちらも詩を書くものにとっては矛盾しない。どちらも成立するような動的平衡のなかで詩は立ち上がってくるのでは、と思いました。

 詩を書くに際しては本当に有益な本です。ちょっと高いケド。大昔あった「詩のレッスン」位の値段にして欲しかったケド、詩作に関心のある人はぜひ一度手に取って読んで頂きたい。
 あとその片鱗を知りたい方は、このNOTEに著者である松下さん自身が、日記や小論を書かれていますので、ぜひ読んで頂きたいです。

 ワタクシが魅了されている、そのちょっとしたヒントの好例。
日記『2024年1月10日(水)ちょっと書きすぎが、ちょうどいい』
https://note.com/brainy_pansy893/n/n4514ed7f37ac?magazine_key=mb79f27a1472a

 あとこれはだいぶ長いですが、詩論としても成立していると思います。
『講義「これから詩を読み、書く人のための詩の教室」(三日目)』
https://note.com/brainy_pansy893/n/ncd77720cc308?magazine_key=m2ee411eb1041

 皆様ぜひどうぞ。

2024/1/17 大村浩一

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