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【長篇小説】北イスラエル王国の滅亡         (前篇)


登場人物  
テリトゥ(14歳)  シュメル王家の末裔。少年は竜神に守られている。
祭司長  アッシリアから派遣されている宦官。正式の祭司長ではない。
エヒズキヤ エフライム族の長。養子のテリトゥに長子の権利を与える。
ガディ テリトゥの兄だともうしでる。長子の権利を主張するレビ人祭司。ハキーム(12歳)   テリトゥに助けられた少年。
ホセア王 北イスラエル王国の王。
ホセア恍惚師(預言者) 北イスラエル王国が滅びると預言する。
シャディ 白人奴隷。かつてエヒズキヤ家の家令。
ラマカル(16歳) テリトゥとは血の繋がらない兄弟。10年間行方不明。
ジグリ エフライム族の戦士。王族の末裔。


 序章 

 竜巻のようにさかまく波が、断崖に立つ白装束の女に襲いかかる。女は激しい雨に打たれ、血の涙をしたたらせる。女の足元には産着にくるまれた赤ん坊がいる。
 女は両腕を高くあげ、風と嵐の神に祈りの言葉をささげた。

「王子よ。わが名を継ぎ、おおつむじの風のごとく敵に向かって、狂気と禍いを襲いかからしめよ!」

 天が地に落ちてくる。海原のただ中から、すさまじい轟音がわきあがる。波が盛りあがり、柱がそそり立つように巨大な生き物の頭部が天にむかって突き出した。女は泣きわめく赤ん坊を抱きあげ、赤ん坊の額に指で『メ』と楔形文字で記した。

「わが息子よ。光と闇をつらぬく者となれ」

「アアアア……ククルル……マッシュマッシュマッシュ……」

 女は呪文を唱えると、大波が立ち騒ぐ荒海にむかって赤ん坊とともに身を投げた。
 母子が荒れ狂う海の藻屑となってかき消えると、銀灰色に光る長い尾が渦巻く海面にはねあがった。

第一章 黄金の鍵       

 紀元前一三世紀後半。ヘブライ人諸部族連合がパレスチナ(カナン)に侵入し、二世紀を経て、統一国家を建国したが、紀元前九二二年、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂した。
 約二○○年後(前七二四年)ーー。
 北王国イスラエル、ホセア王の治世第九年。シワンの六日(五月の下旬)。北王国は存亡の危機に瀕していた。

 七週祭(シャヴオート)の当日、祭司長の使いの者が、門扉を閉ざした屋敷を訪れた。かつてエフライム族の長(おさ)だった養父亡きあと、今後の身の処し方について問いただしたいとの厳命。
 祭司長の地位は時として王に勝る。
 この日のくることはわかっていた。広い屋敷を、一四歳の少年が一人で管理できない。養父の屋敷を相続する権利を少年は有していたが、少年は権利を主張するつもりはなかった。異教徒ばかりの使用人には養父の残したわずかばかりの金品を分け与えて去らせた。
 みな、別れを惜しみ、涙した。

 少年は身仕度をし、召喚に応じる前に、水と食料と弓矢を愛馬カルカルに積み、東へむかう街道に面した宿屋に預けた。いつもは人混みを避けていたが、祝祭のおかげで、奴隷と思われる身なりの男女や外国人居留者もいてざわめく人波のおかげでだれにも見咎められなかった。

 サマリアの都大路の市場は、大勢の人で賑わっていた。七週間前の過越祭(ペサハ)には、エフライム族とマナセ族の男たちは、大麦の束を抱えてイスラエルの王都・サマリアの神殿に詣でることが義務づけられていた。
 子供たちに祝祭の意味を教えるためである。
 七週祭は、過越祭の初日の七週間後の二日間に、小麦の初穂と熟した果実の初物を神殿に奉納する機会とされていた。この日はまた、シナイ山でモーセに"十戒"が啓示されたことを記念する日でもあった。

 人々は、メソポタミア北部に興った世界初の帝国アッシリア(イラク北部)の脅威を肌身に感じていたが、例年と同じように振る舞っていた。
 大声で話し、笑い、肩を抱き合っている。 
 少年は胸中で養父のエヒズキヤを忍んだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。エフライム族の者でない、捨て子のために数ある祝祭のどの日も、養父は屋敷内でひっそりと過ごした。イスラエル人の子供たちが朗読したり、暗唱するための「出エジプト物語(ハガダー)」を少年に教えていなかったからである。
 父と息子として過ごした歳月が、脳裏を駈けめぐる。実の父ではなかったが、愛されて育った。
 慎ましく清廉だった養父を思うと、胸が締めつけられる。幼い頃、エヒズキヤに連れられて都大路を歩いた日のことを、鮮明に覚えている。めったに外出しない養父は七週祭の二日目の夜更けに、少年の手を引き、こぼれる涙をぬぐうこともせず、いつまでもどこまでも人目を避けて徘徊した。

「父上、とうとうサマリアを去る日がまいりました」少年のつぶやきに耳を貸す者はいなかった。

 雑踏の中、神殿の広場を横切り、柱廊階段を上ると、銀の耳輪をした白人奴隷が現われた。立ち止まるように促される。見上げるように長身であるうえに、腕力もありそうだった。神殿の門前で不審者を摘発するのが、命じられた職務のようだった。腰に帯びた短剣を取り上げられる。
 名を告げると、白人奴隷は小さく頷き、少年の顔を凝視した。
 レビ人の門衛に訪問者を取り次ぐのが役目のようだ。一ペカ(約一㌦)手渡す。ふと、遠い昔に出会った気がした。

 門衛にしたがって、石畳の廊下を支える太く丸い柱の間を通りぬける。イスラエルの民が奉納に訪れる広場の喧騒とは隔絶した場所へと向かっていく、足音が、石畳の床にひびく。
 見上げるほどの両開き扉が、両脇に立つ護衛兵の手によってひらかれる。
 扉の中に入ると、控えの間があり、護衛兵が等間隔に数人ならび、その奥に同じ大きさの扉があった。扉の中には、背を丸めた宦官とおぼしき男が待ち構えている。武器の有無を点検される。ひげのない顎をしゃくる、男のうしろについていくと、ひと目で見通せない広間に通された。
       
 市場につづく広場の喧騒とは、かけ離れた場所だった。
 祭壇は見当らない。
 純白の衣に緋色の上着をまとった男が、王宮より高い場所に建つ、神殿の広間の玉座にすわっていた。唇の上に大きなホクロがある。ホクロに毛が生えている。

「存じていると思うが、祭司長のエリシャである」

 壇上の男は、エリシャと名乗ったが、だれも本名だと思っていない。エリシャという名を知らぬサマリアの住人はいなかった。約一一五年前、第一○代のエヒウ王に、北王国の王となるための儀式に不可欠の油を注いだ預言者の名だからだ。この男も現王ホセアに油を注いだが、イスラエルびとの多くは、その儀式を容認していない。

「月日の経つのは、はやい。矢のように過ぎゆく」祭司長の声は思いの外、穏やかだった。「若き日があったのか、思い出せぬ」
 
 八年前(前七三二年)、先の王のペカが暗殺された同じ年、アッシリア王の意向で現王のホセアが即位した。その直後に、祭司長を広言する男がサマリアに現われた。異を唱える貴族や氏族長もいたが、男は武装した屈強の男たちに守られて神殿の主人(あるじ)となり、新たな王を任ずる油注ぎの儀式を執り行った。
 北王国イスラエルの神殿に仕えるレビ人祭司は、南王国ユダのレビ人祭司と同様に、祭司長の職にけっして就かない。祭司長には、中興の祖モーセの兄であるアロンの家系の者しか就けない掟があったからだ。
 異国の神々の祭司や呪術師もあまたいたが、正体不明の男を阻止する力を有する者はいなかった。
 男はアッシリア王の勅命によって任じられていた。

「おまえがテリトゥか」祭司長は尋ねた。「名の由来を知っておるか?」
 低頭していたテリトゥは顔を上げた。
「アッカド語で、並みはずれた強さを意味すると、養父(ちち)より聞きおよびました」
「アッシリア軍が今日明日にも攻めてくるやもしれぬときに、祭りなど祝うも者らの気がしれん」
 祭司長は生欠伸をしながら、
「みなしごのおまえのせいで、養父はエフライム族の長であったにもかかわらず、爪はじきの身の上となったそうだな。聞くところによると、おまえは、荒海であったにもかかわらず、海中でうごめくものに浮かされ漂っていたそうだ。奇怪なことだな。驚いた漁師か広いあげたのちに、奴隷商人に売ったらしい。名前を記した布地といっしょに」

 養父エヒズキヤにとって、自らの民族の守護神・ヤハウェへの信仰は揺るぎないものだったはず。その養父がなぜ、二つ年上の実子のラマカルにイスラエル人と異なる名をつけたのか? なぜ、孤児の少年に長子の権利を与え武器をもたせ、いかなる信仰も強要しなかったのか?
 いまとなっては答えを知る者がいない。

「ティグリスとユーフラテスの両河がそそぐ三角州は、はるか昔は、シュメル人(=シュメール人)の国だった。おまえの名にゆかりのある国だ」
「養父より、滅びし国だと、聞き及びました」
「シュメル人の建てた三○近い都市は交易で大いに栄えた。しかし、アッカド人のサルゴン王によって統一された。そのアッカドもバビロニアのハンムラビ王に平定された。バビロニアはいまではアッシリアの属国となった」

 祭司長は溜息まじりに、玉座の背もたれに体を預ける。男はおそらく、かつてはバビロニア人だったのだろう。

「おまえの名はシュメル人の建てた王都ウルク(現ワルカ)の白色神殿に住まう神の名にちなんでおる」

 テリトゥは王女を意味すると祭司長は言う。アッカド語ではイシュタルとなり、アッシリアのアッシュル神へと受け継がれ、メソポタミア全地で広く信仰されていると。

「突然、姿を消したと思われている、おまえの兄の名の由来を知っておるか?」
 いつまでも返答しないテリトゥに祭司長はいらだったのか、
「実の兄弟でないことは承知しておるかっ」

 顔色にこそ出さなかったが、テリトゥの心中は揺らいだ。幼い頃に行方知れずとなった兄の容姿を、おぼろげにも覚えていない。兄の母親だった下女は哀しみのあまり、早世した。

「おまえの養父は、おまえを拾ったとき、奴隷女に産ませた子に、シュメル語で守護神を意味する名に改めさせた。それだけではない。相続の権利までも、長子でないおまえに与えている。なぜか、わかるか?」

 テリトゥは口をつぐんだ。

「終生、おまえを守護する役目を担わすためだ」と、祭司長は蔑みとは裏腹の妬みのこもった声で言った。「子をなせる者はよいのう。おのれの望みを託せるのだからな。わが子を、おまえのしもべとなすようなふるまいを、エヒズキヤはなぜしたのであろうな」

 この男が、養父や義兄について語ることにテリトゥは違和感を覚える。

「国の名が一夜で変わるように、民も入れ替わる。おまえの先祖シュメルの者たちは野蛮な遊牧民の餌食となり、技術も制度ものっとられた」

  祭司長は、神さえもと言ってうなずき、

「バビロニアの王都バビロンは、古くはシュメル人の都市だった。戦車を考案したのもシュメル人だ。いまではアッシリアの兵士が戦車に乗り、メソポタミア一帯を跋扈しておる。バビロニア人は卑賎の身になりはてた。いまいましいことに、これを好機と見た先住民のカルデア人はもとより、シリアからの移住者であるアラム人、隣国のエラム(イラン南部)の蛮族らが栄光の都バビロンに住む民の中核をなしつつある」

  祭司長は口尻の両端を下げた。ホクロのわずかな毛が口尻に逆らって毛羽立つ。

「このサマリアも、バビロンと同じ憂き目をみるだろう。ホセア王はいまこそ王都と民を救わねばならぬ。しかし、大恩あるアッシリア王へ恭順の意を示すことをよしとせず、王都を見捨て本拠地のティルツァ城へ逃げこむとは、王たる者のなすべきことではない!」

 言葉づかいは尊大だったが、髭のまったくない脂ぎった丸い顔に威圧感は感じられない。テリトゥは思い返す。バビロニアの少年はアッシリアに献上され、去勢されたのち、宮廷の召使=宦官になると。麗しき少年は王のもとにはべり、美貌が失われたのちも知略にたけていれば、アッシリア王の懐刀ともいうべき地位にまでのぼりつめると養父は語った。

「はてさて、その身なりをなんとしよう」と、祭司長はテリトゥを舐めるように見詰めた。「戦士にしかみえぬな。肩に流れる黒髪はよしとしても、ヤギの毛で織られた上着に膝下までしかないズボンとはな。むさくるしいことこのうえない。アナグマの靴に赤い胴着を身につければ、メディア人(イラン高原に居住)だな」

 肉づきのいい男の座る座椅子は金と象牙で装飾され、まばゆいほどに輝いている。おそろく、ホセア王の玉座だったのだろう。かたわらには、鳴り貝の首飾りをした七、八人の少年がはべっている。一○歳前後に見える彼らの上半身は裸だったが、顔に化粧をほどこしている。神殿の近辺にたむろする男娼と呼ばれる少年たちとは比べようもない愛くるしい容姿だが、気怠い仕草や表情はそのままだ。
 後方に一人、他の少年よりやや年長に見える褐色の縮れっ毛の少年がいる。テリトゥと同じように、初めて神殿の広間に連れて来られたのだろう。運命に流されまいとする意志の強さが、見開いた目と引き結んだ口もとに見てとれる。

 祭司長は手近にいる、木の枝のように痩せた少年に腕をのばし、顎を上向かせると、淫靡な笑いを目と口に浮かべた。少年は骨がないような歩き方で、祭司長の足元にすりより、着飾った祭司長の膝に小さな顔をのせた。美少女と見まがう容姿は妖艶でさえある。

「この者らを見よ。麗しいであろう。そこに座する者とは大違いだ」

 目を転ずると、男が一人、厚ぼったいマントをはおり、壇下の壁際にうずくまっている。北王国の滅びを預言し、サマリアの民を怖れさせている恍惚師(預言者)だと、祭司長は言う。 

「シュメルの王女の名をもつ、おまえも、それらしく着飾りたくはないか?」

 下肢に薄絹の衣をまとった少年らの首には、いくつもの首飾りがぶらさがっている。祭司長は膝上の少年のうなじをなぜる。少年はうれしげに身をくねらせる。金色に輝く腕輪が、少年が身動きするたびにキンキンと耳障りな音をたてる。

「いまや、呪術師や霊媒師にたのむしかない、この国のありさまだ」

 祭司長はそう言って冷笑をうかべる。

「シリアのハマト(現ハマー)をはじめ、ダマスカス、フェニキア(現レバノン)の諸都市、メディア(イラク北部)、バビロニア(イラク南部)。これらの国、地域のすべてを打ち負かしたアッシリアに対抗できうる国はこの先、長きにわたってあらわれまいな。いまとなっては、援護なきこの国に援軍を送る国はない。エジプトを頼りとしてるホセア王は時勢を読めぬとみえる」

 そのとき、粘り気のある低い声が、テリトゥの背後から聞こえた。
「一三歳で祝うべき“戒律の息子”の儀式(バール・ミツヴァ)もうけず、どの部族とも無縁の異国の奴婢に、そのような遠回しの話は理解できないでしょう」

 白いターバンを頭に巻き、上等の亜麻布の長衣をまとい、亜麻布の飾り布で衣をしばる祭司の職服をまとった髭面の男は、額に子羊皮でつくった小さな箱まで付けている。箱の中には、「「出エジプト記」から採られた四つの聖句が記された羊皮紙が入っている。
 男はテリトゥのそばを通り、玉座を仰ぎ見るかのごとく床にひざまずいた。広間に入ったときから、扉の横壁を背にたたずむ、濃い髭の縮れた裸足の男に気づいていたが、視野に入れることさえ疎ましかった。

「ガディ、仮にも弟なのだ」と祭司長は言った。「血はつながっておらずとも、やさしい言葉をかけてやってはどうか」

 ガディと呼ばれた男と、ひとつ屋根の下で暮らした記憶はない。養父の長子だと相手は言い張ったが、養父のエヒズキヤからそんな話は一度たりとも耳にしなかった。養父が埋葬された洞窟の前で、長子の権利を主張する男に遭遇し、その名をはじめて知った。
 
 扉の開く音がした。

 振り向くと、兵士にしか見えない体躯の男が十数人裸足で入ってきた。そろいもそろって、ガディと同じレビ人祭司の身なりをしている。しかし顔つきが、近隣に住む男たちと異なる。父から聞いたことがある。かつてアナトリア(現トルコ)にヒッタイトと呼ばれる王国があった。鋼の製法をいち早く会得したことで他国を圧倒したが、謎の集団、海の民のたびかさなる襲撃で衰退し、国を去った者らはパレスチナの塩の海(死海)の西に移住したと。
 ヒッタイト人はわれわれと同じセム族ではない、ヤペテの子孫(インド・ヨーロッパ語族)だと養父は言った。
 目の前の彼らは、神殿の柱廊階段にいた白人奴隷のように金髪でも碧眼でもないが、高い鼻、窪んだ眼窩、長身で赤みがかった肌をしている。

「恐れることはない」と、祭司長はテリトゥに声をかけた。「この者らは、神殿の塩をはむ祭司だ。レビ人祭司同様に、つねに裸足でいる。ホセア王が疎んじるので、わしの食卓で食しておる。おまえにも、特権を与えてやってよい」

 レビ人ではない男たちがなぜ、レビ人祭司にしか許されない職服をまとっているのか? なにがしかの金子をこの地のレビ人の長老に贈り、供えものの子羊や牛脂を祭司らに供すれば、祭司職に就けるという噂は事実のようだ。

「そなたの養父エヒズキヤは貴族でありながら、わしの知るかぎり、エフライム族の長老会に顔を見せなかった。おまえのせいか?」

 祭司長が問うと、ガディがテリトゥに代わって述べた。

「正妻のレビ人の母と、長子のわたしを家から追い出したことは不実な行いですので、長老会の方々に顔むけできなかったのでしょう。今後は、わたしが祖父の生前中のように、長老のみな様と親しくさせていただく所存でございます」

 テリトゥはうつむきかげんに周囲を見まわす。玉座から少し離れたところに脚の長い円卓があり、アッシリアのものと思われる雪花石膏(アラバスター)の花瓶や、琥珀色の小瓶が置かれている。無花果や葡萄が盛られた器も見える。象牙の淵飾りのある青い陶器の足台も。
 壇上の大理石の床には、縞模様の厚手の敷物がしかれ、背後の壁には金粉と粉ガラスをつかってアッシリアの神が描かれている。
 羽があり、頭が三つあるアッシュル神だ。

 祭司長はテリトゥの視線の先に気づき、
「アッシリアの守護神は、服従すれば庇護してくださる。ホセア王とイスラエルの民の信仰するヤハウェと異なり、力ある神だ。負け知らずである」

 そう言って、陶器の足台にサンダルを履いた足をかけると、膝にもたれかかった細身の少年にむかって口を開ける。あばら骨の目立つ少年は急いで立ち上がり、卓上の器の中から無花果をとり、祭司長の口元へ運んだ。

「王が不在の王宮は閑散としているが、サマリアの神殿には、国内外の宝物と捧げ物で溢れている。しかし、アッシリアのニネヴェには遠くおよばん。ニネヴェには果実は言うにおよばず、うつくしきものすべてがある。宝石のごとく輝く、ニネヴェに比肩しうる都市はもはやない」

 祭司長は無花果を丸呑みにした。白い果汁が口じりにあふれ、ふた重の顎にしたたる。いまは無花果の実る季節ではない。エルルの月(九月初旬)まで待たなくてはならない。祭司長はテリトゥの表情から感情を読みとったのだろう。

「フェニキア人は大海を往来することで莫大な利益を得ている。行きは海の彼方の国々に湿気に強い杉の木を売り、帰りはその国にしかないものを安く仕入れてくる」

 フェニキアと呼ばれていた当時のレバノンは遠洋航海にたけ、レバノン杉をあしらった国旗をかかげ、地中海を自由に往来していた。北アフリカのカルタゴを中継地として、キプロス島の銅、イベリア(現スペイン)の鉱物を買い入れ、イビサ島で精練し、鉄や銅を諸国へ売った。さらに、ジブラルタル海峡を越えて沿岸づたいに進み、ブリタニア(現イギリス)の錫、バルト三国の琥珀などを入手していた。
 船は一本マストに二本のオールをもち、船体を天然のアスファルトで補強し、帆でもオールでも進めた。

「海の商人がフェニキア人なら、陸の商人はエドム人だ。イスラエル人は商才が足りん」

 祭司長は話の合間に緋色の上着をずらし、純白の衣の袖口から女のように白い手をのばし、しなだれかかっている少年を立たせると裸の胸をひと突きし、うしろへしりぞけた。そして他の少年らを見まわし、肉づきのいい少年を手招きする。祭司長はその少年の口に無花果を放りこみ、薄絹の下ばきの中に手を差し入れる。股間をまさぐられる少年はけんめいに口を動かす。腹を空かしているのだろう。飲みこみながら、祭司長の手の動きに呼応するように体をくねらせる。わざとらしい吐息をもらす。祭司長の手の動きが速くなるにれ、少年の目には戸惑いの色しか浮かばない。

「どちらも濃耕地をもたぬ故に、自国を出て商いで身を立てるしかない。この国も、ユダ王国の支配から脱したエドム(ユダの南端の高地)を見倣わなくてはならぬ。でなければ、ソグド人のように国を持たぬことだ。天にとどく山々をラクダで越えて、東から宝石や絹を、西からは黄金を運ぶ、まさに自由の民だ。考えようによっては、イスラエルの民もこのさき、自由の民となり栄華を極めるかもしれぬな」

 イラン系アーリア人のソグド人は当時、シルクロード商業に従事していた。居並ぶ男たちは、われわれと同族だと口々に言った。だれ一人、祭司長の行いを見咎める者はいない。いつものことなのだろう。口のそばのホクロが祭司長の卑猥な笑みを広げて見せる。

 祭司長は少年の股間から手をぬかずに、「見苦しい格好はやめるのだ」とテリトゥに言った。「おまえの生きのびる道はここにしかない」

「もともと奴隷の身分なので、平服を着せることを、父ははばかったのでしょう」とガディは嘲笑した。「祭司長の御前に召されるというのに、相応の衣を一枚ももっておらぬとは情けないことだ」

 男たちの笑い声が重なった。それが合図だったのか、柱の影から楽士と若い男女の集団が現われた。レビ人の楽士らは広間の隅に座して、横長の笛を吹き、立て琴をかき鳴らした。
 男たちは「おお!」と歓声をあげる。
 複数の女たちは、タンバリンを手に持ち打ち鳴らし、笛や竪琴の奏でる音にあわせて舞い踊りながら、テリトゥを取り囲む。
 思わず、あとずさる。
 宦官らしき側近は、王子が身につけるような薄紫の衣を頭より上に捧げもって進み出た。
 祭司の職服をまとった異国の男たちは、献上品の衣に触れ、武器が隠されていないかどうか、点検する。
 祭司長を守る男たちは、アッシリアの宮廷に仕える兵士なのではないかと、テリトゥは怪しんだ。滅びゆく北王国イスラエルを内側から滅ぼすのが役目なのだろう。

 性器を刺激されつづけた少年は我慢の限界に達したのだろう。小便で下ばきを濡らすと、床にうずくまった。祭司長は、役立たずと言い捨てると、別の少年の下ばきに手を入れる。その少年はまだ幼く、祭司長がまさぐっても、応えない。こんどは、バカめとののしり、腹を突かれた少年はくの字に折れる。

「わしがじきじきに授けてやっている恩寵を、なぜ、こやつは理解せぬ」と祭司長は吐き捨てた。「子供であっても悦びを知る体でいるのは、稀有な幸運なのだ」

 テリトゥの蔑みの目に気づいたか、祭司長は唐突に言った。汚れを知らぬ、碧玉(ダイヤモンド)のような少年がどうしても必要だと。

「着飾って、美味なものを食べる侍童(じどう)になりたい少年は、この地にいく人もいる。貴人を慰める女や、楽士になりたい男子も数知れぬ」

 華美な装身具を身につけた女たちの目は異様に輝いている。薄絹のベールと衣をまとい、白い手足をのばし、タンバリンを叩きながら全身をくねらせて踊る姿は、骨のない生きものを思わせた。嗅いだことのない香料の強いにおいが、ただよっている。
 テリトゥは顔を伏せた。
 女の一人がテリトゥに近づき、皮のひもを通して首に下げている山羊皮の小袋に触れようとした。テリトゥは女を凝視した。巫女は強い力に弾かれたように転倒した。それを目にした祭司の職服をまとった男の一人が、女に代わってテリトゥに手をのばした。
 険しい目つきのガディが、男の腕を押しのけ、テリトゥに近づき、耳元でうそぶいた。
「殺されたいのか。首にかけた小袋を見せろ」
 テリトゥは無言で小袋を差し出した。
 ガディは皮袋の中をたしかめた。「矢尻!? わが家に代々つたわる黄金の鍵をどこへやったのだ。まさか、売ったのかっ」
「焦るな」と祭司長は言った。「この者の目を見ろ。脅しには屈しないと言っておる」

 祭司長と称する男は、少年をまさぐったその手で口のまわりをぬぐう。

「アッシリアの新王シャルマネセル陛下は、第一○九代目である。尊き新王を城内にお迎えする事態となったおりには、王子と見紛う衣をまとい、おまえの持つ黄金の鍵を陛下に献上し、その身でおなぐさめしてはどうかと思うのだが――王都の民は戦禍を望んでおらぬ。わしはサマリアの民の身を思うと、夜も眠れぬ。パンものどを通らぬ」

 巷の噂では、祭司長は山上の高き木に日夜、香をたき、犠牲を捧げているという。聖なる場所とされる神殿奥の象牙の寝台に気に入りの少年と眠り、共食のささげものの子羊をたっぷり食しているので、衣をつくるとき亜麻布が二人分必要だと言われている。

 ガディは顎ひげを引き抜き、呻いた。「長子のわたしがなぜ、賎しき身分のおまえに頼みごとをしなくてはならないのか……」

 オリーブを塗ったように脂でぎらつく顔面が、テリトゥを値踏みする。

 祭司長はたれさがったまぶたの目玉をぐるりと動かし、
「先代のペカ王の時代、アッシリアの先の王・ティグラト・ピレセルに侵攻され、北王国は領土の半分を失った。南王国はこれをよろこんだ。なんと愚かな。このような話をおまえにしたところでなんにもならんが――」

 言葉をきり、丸い指で口のまわりとホクロを掻きむしる。無花果の樹液のせいで、むずがゆいのだろう。
 祭司長の口に無花果を入れた少年が、股間をまさぐられた少年二人を踏みこえ、祭司長のそばに近寄り、口まわりを布でぬぐう。
「おまえしか、おらんのか」と祭司長は独りごちる。
 少年は素早く祭司長の手を自らの股間に導く。祭司長は手を預けながら物憂げに少年を見やる。少年は祭司長の手に自らの小さな手を重ねる。

 祭司長はテリトゥにむかって首をまわし、
「現王のホセアが、側近の手を借りてペカ王を亡きものにしたことは正しかった。しかし、アッシリア王への貢納をやめ、エジプトのファラオ(王)・ソに、支援を求めるなどはあってはならぬことだ。案じた通り、ソは密議に恐れ慄き、アッシリアに内通した。それが、こたびの危機を招いたのだ。もはや、いくさは免れぬ」

「わたしとなんの関わりもありません」と、テリトゥは応じた。

 ガディは半身になり、拳を振りあげた。テリトゥはガディを凝視した。睨みつけられたガディは拳の腕を振り上げた姿勢で横向きに倒れた。彼はよろめきながら立ち上がり、再度、拳で打ちかかったが、テリトゥが一瞥すると後ろへふっ飛んだ。

「さきほどは偶然かと思ったが、どうやら、おまえのもつ力は本物らしいな。黄金の鍵の為せるわざなのか?」

 テリトゥはうつむき、祭司長の好奇の目を避けた。この力を知られてはならないと、養父から固く戒められていた。

「フェニキアのシドン人がつくった大海運国ティルス(現ツロ)を見習い、自国で作ったものを船で運び、必要とする国に売り、その国の特産品を持ち帰る。莫大な富を得られる」と祭司長は諭すように言った。「過去には、この国もユダ王国と協力して造船事業を試みたこともあったと聞いたが、浮かぶ前に沈んだそうだな」

 男たちは肩をゆすり、声をあげて笑った。嬌声に合わせたかのように、少年は恍惚とした表情になり、小さく呻いた。
 祭司長は濡れた手を嗅ぎ、指先を舐めた。

「他に類を見ない戦闘能力を発揮した王もいたようだが、それは一方で己れを危うくすると知るべきだ」

 祭司長は退屈そうに欠伸をもらし、用なしとなった痩身の少年を突き放し、所在なげに他の少年たちを見まわす。どの少年も空腹なのだろう、祭司長の目にとまろうと、秋波をおくる。年端もいかぬ年齢であっても、横暴で卑猥な男の寵愛を得たいと願っているようだ。
 あるじの祭司長は、愉悦を求めても得られないと知りつつ、少年らを凌辱することがやめられないのだろう。視覚を通して脳内で交わり、おのれの冷え切った性器に命の火をともしたいのだ。望んでも得られない快楽に惑溺したがっていることは誰の目にもあきらかだった。厚ぼったいぬめりのある唇から発せられる言葉が正常であればあるほど、祭司長と名乗る男はおのれの思考を酩酊させられると信じているかのようだ。

「交易の中継地として栄えてきたダマスカスのアラム人はアッシリアの先の王に完膚なきまでに叩きのめされ、軍門にくだったが、商人は別だ。彼らはいくさに加担せず、いまもキャラバン(隊商)を組織し、メソポタミアからアナトリア、エジプトまで広範囲の交易を可能にしている。もとを正せばバビロニア人から学んだことだ」

 バビロニア人はアッカド人から学び、アッカド人はシュメル人から楔形文字と占星術と算術を学んだと養父は言った。そしておまえの額には、目を表す楔形文字が描かれていたと聞いた。おまえの目には特別な力があると。

「すべては、唯一の神ヤハウェからはじまったことです」とガディが口を挟んだ。「天と地とすべての命あるものとを、わが神が創られたのです」

 祭司長はうるさげに、手を振り、
「北のイスラエルも南のユダも情勢にさといが、しばしば神との契約が邪魔をする。その偏狭な気質が、わしには我慢ならん。愚にもつかぬことに振り回されて、まつりごとのなんたるかを考えぬ愚か者の集まりだ。通行証がなくとも行き来できる南王国と争ってなんの益があるというのだ」

 まつりごとを論じる言葉とは裏腹に、祭司長は目を細めると、少年らの輪の外にいる褐色の髪の少年にむかって手招きした。少年は身動きしない。宦官が少年に近寄り、頬を打ち、引きずるようにして祭司長の前に立たせる。祭司長はテリトゥが目にしたことのない黄色い果実を、少年の口へねじこんだ。少年は嫌悪の表情をかくさず、祭司長の顔に果実を吐き出した。宦官が少年の頬をこぶしで殴ったが、少年は睨みかえした。

「陰嚢を切り落とせ!」と、祭司長は命じた。
「お待ちください」とテリトゥは止めた。「ご命令に従います」

「聞くところによると、おまえは、ヘブライ人の神も、カナン人の神も信じていないそうだな。呪術師でもなければ霊媒師でもない。しかし、おまえにはふしぎな力がある。なんとか、サマリアの地が破壊されないよう、おまえの持つ力をわしに貸してくれぬか」

 テリトゥは祭司長の真意を計りかねていた。

「たったいま、命令に従うと申したではないかっ。なぜ、返答をせぬ。シドンの職人の手になる薄絹の衣をまとい、黄金の装身具で身を飾ってみてはどうか? 祈りを捧げる祭壇の間へ連れて行ってやってもよい。黄金の放つ光を浴びれば、おまえの持つ黄金の鍵が、だれも目にしたことのない大いなる益をもたらすやもしれんぞ」
「黄金の鍵など、一度たりとも、目にしたことはありません」
 祭司長は怪訝な顔つきになり、
「言い伝えでは、ソロモン王は莫大な量の黄金と宝石を、ユダ王国の王都エルサレムの神殿ではなく、サマリアのいずこかに隠したという。隠された場所の扉を開けるには、黄金の鍵が必要だそうだ」
「黄金の鍵の話は、はじめて聞きました」

 テリトゥの耳にした話では、高き木の前にしつらえられた祭壇には、いくさの女神イシュタル像と、随獣の獅子の象徴である矢印の黄金が置かれているという。ふと気づく。矢尻と矢印とは似通っていると。

「聞こえないのか、テリトゥ!」
「すでに――王の護衛役を申しつかっております」
「おまえは、わしの意に従うと約したではないかっ」
「たしかに申し述べましたが、明日より王の護衛役を務めます故、今日一両日に限ってのことかと」

 テリトゥが答えると、祭司長は舌を鳴らし、うずたかく巻いたターバンの頭を左右に振った。

「おまえの養父エヒズキヤは、イスラエルの盟主であるエフライム族の長の一人に数えられていた。にもかかわらず、妻と子を見捨て、身元の定かでない子供を実の子として育てた。しかし、おまえを守護すべき兄は生死さえさだかではない」
「無割礼(陰茎から包皮を取り除いていない)の者に――」とガディは声を荒げた。「相続の権利などない!」
「おまえは、いまや保護する者のいない身の上。自由民でさえない者に、好き勝手な行動は許されぬと心得よ」と、祭司長は居丈高に言った。
 テリトゥはきびすを返した。

「どこへ行く!」
「帰ります」
「おまえに帰る屋敷はない!」と祭司長は言った。「本日より、屋敷はガディのものだ」

 祭司長は太い指にはめたラピスラズリの指輪をいじりなから、細身の少年に琥珀色の小瓶を手渡すように命じた。少年は小瓶の蓋をとり、祭司長に手渡した。祭司長は小瓶をかたむけ、中の液体を指に塗り、歯ぐきに塗った。少量だが指先に粘り気のある白い液体が付着した。祭司長は舌の先で指先を舐めると、少年に暗赤色の葡萄酒を注ぐように命じた。少年は燭台の光をうけてきらめくガラスの器にそそぎ、祭司長に捧げた。

 祭司長はひと口飲み、「おまえに与えられた長子の権利を無効とみなす」と言った。「だが、おまえが意地をはらず、わしに仕える者となり、黄金の鍵を差し出したあかつきには、兄を探し出し、ともどもこの世の栄華を約束しよう。ソグド人の隊商が運んでくる、バクトリアの産する青金石(ラピスラズリ)で、その身を飾り、身を守ればよい。知っておるか? 青金石は魔除けになる。この地の祭司らの売る護符とは比較にならん」

 養父は生前、本来なら傷ついた兵士に使用されるべき医薬を、神殿に住まう祭司長は、自らに仕える女や少年に与えていると憤慨していた。アッシリアの宮廷では宦官にすぎなかった男が、サマリアの北東部、ガラリヤ湖を望む地に商人という触れ込みでやってきた。
 その地はかつてイッサカル族が領地としていた。しかし、いつの頃からか、北からやってきた異国の民が地元の有力者が所有していた農地を買い取り、奴隷をつかって芥子の実を栽培し、乳状の液体をつくり、諸国に売るようになった。
 大金を手にした男は、北王国の政変と軌を一にしてサマリアに移り住み、長老らに近づき、祭司長の地位を手に入れたのだという。

「おまえの目に宿すふしぎな力を――こ、このわしに――」祭司長は舌がもつれるのか、「し、私欲にかられて、言っているのではない。サ、サマリアを存続させるために頼んでいるのだ」
「戯言を信じておられるのですか?」
 祭司長は大きく息を吐き、
「真意はさだかではないが、イスラエルが二つの王国に袂(たもと)をわかったとき、ソロモンの残した黄金の大半を、北の王国が秘匿したと言い伝えられている。この地のいずこに隠されているのか、知る者はおらぬが、黄金の在処が判明したとき、扉か、箱かはわからぬが、それ開ける鍵をおまえが所有していると疑る者がいる。もし、おまえが手にしているのであれば譲ってほしい」
 と上擦った声で言った。
「繰り返しになりますが、わたしはそのような鍵を、目にしたことはありません。養父が話したこともありません」
「“黄金の鍵”は、長子のわたしのものだ!」と、ガディが割って入った。
 祭司長はガディを片手で制すると、
「ただの伝承かもしれぬ。ソロモン王は魔法陣をもちいて、巨万の富を手にしたと言われている」
 祭司長の喉がごくりと鳴った。
「黄金はそもそもシュメルのエリドゥにあったものだと仄聞しておる。時の権力者が、黄金を手中におさめ、シュメルが滅びるときに失ったものだと……おまえと同じ名の王妃は自ら死したときく」
「祭司長はイスラエル王国のためではなく、ご自身のために黄金をお望みなのですか?」と、テリトゥは尋ねた。
 祭司長の顔が赤黒く染まった。
「おまえの養父の七日間の喪はとっくにあけている。ガディがその気になれば、おまえは孤児の奴隷の身分にもどる」
「祭司長のおっしゃる黄金の鍵が本物ならば、養父が王位につき、アッシリアを退け、今頃、栄華を極めておりましたでしょう」
 祭司長は玉座から身を乗りだし、
「おまえの兄を見つけだし、相続の権利の詳細について裁きの場に召喚し、審理を行う。おまえが身元を偽り、長子の権利を得たのであれば、斬首刑に処す」
 祭司長はガディを振り向き、肉づきのいい顎をしゃくった。
 ガディは訴えた。
「裁判人に訴状をとどけた矢先に、父はやまいに倒れ、ほどなく先祖の墓に入りました。魔女の子だと噂のある、この者に呪われたとしか思えないのです。だれの子かもわからない、そのような者の手に長子の権利を断じて許せません。譲り受けるべきは、このわたしであり、貴重なイスラエルの黄金をわたすわけにはいかないのです」

 テリトゥは顔を上げた。口を開かねばならないときがきた。

「亡き養父にかわって、弁明いたします。わが家の長子であるべきラマカルは一〇年前、突然、行方しれずになったと養父より聞きおよびました。以後、養父は、一二部族の祖先であったヤコブが、長子の権利を付与したヨセフを失ったときのように希望をなくしました。兄の記憶はさだかではありませんが、わたしは幼き頃より、剣と弓矢に励んでまいりました。兄にかわって、アッシリアと戦うと、心に決めております。矢尻を肌身離さず所持しているのは、己れの決意を揺らがぬようにするためにございます」

「アッシリアと戦うなどもっての他。子供のおまえが太刀打ちできる相手ではない。三代前のメナヘム王は貢納を停止したためにアッシリア軍に領土を侵されそうになり、ようやく己れの愚かさに気づき、サマリアの力ある者たちに銀五○シェケル(一一○㌦)を課税し、アッシリアの先の王、ティグラト・ピレセルに銀一○○○タラント(六六○万六○○○㌦)を支払い、アッシリア軍を退かせた。弱小国は大国の庇護なくして平穏に暮らせない。イスラエルとユダを狙う、シリア・エジプト・フェニキアの野心を抑えているのは、イスラエルではない。アッシリアなのだ。平和には対価がともなう。つかのまの平和であってもだ。いまこの国が為せることはホセア王自らが、進軍してくるアッシリア軍のもとに赴き、新王の足元にひれ伏して、命乞いをせねばならん! それができぬなら、ホセア王の王位を剥奪し、王笏とともにおまえの持つ黄金の鍵を陛下に献上するしかない。それもかなわぬなら、ホセア王に自ら命を絶ってもらう!」

 われを忘れたように踊っていた女たちと、楽士らはいつのまにか姿を消していた。男たちは戸柱の前でじっとたたずんでいる。テリトゥを見張っているかのようだ。祭司長の傍らではべっていた少年らも後方にしりぞいている。

 テリトゥは祭司長に言った。「養父は生前、申しておりました。イスラエルがアッシリア軍の進路を塞がず、つき従うのであれば、かの国はイスラエルを攻めないと確約するだろうと。しかし、それは、イスラエルの将兵を最前線に送り、後顧の憂いなくエジプト遠征の途につく戦略なのだと――」

 祭司長は葡萄酒の入ったグラスを床に叩きつけ、象牙の縁かざりのある青い陶器の足台を蹴飛ばした。砕ける音が広間に響いた。破片が四方に飛んだ。右の目に痛みが走った。
 恍惚師がふいに立ち上がり、「北王国は滅びる!」と叫ぶやいなや、マントを脱ぎ、円を描いて振りまわした。空中に白い粉が舞う。目くらましにあったようだった。テリトゥは息を止め、両手で口をおおった。
 床一面が白くなった。

「どうしても鍵は渡さぬと申すかっ!」と、祭司長は怒鳴る。「ありもしないものを、渡せと言っているのではない。現におまえは、屋敷から逃げる算段をしておる。ホセア王に黄金の鍵を献上するつもりであろう!」

 この場で命を奪われてもいいと、テリトゥは覚悟していた。王の護衛役だと、申し立てたことは偽りだったからだ。

 目の痛みをこらえて、テリトゥは言った。「鍵などなんの助けにもならないと、本心では思っておられるはず」

 テリトゥは目をしばたいた。靄がかかったようにしか見えない。

「黄金の在処がわかってこその鍵。仮に鍵が見つかったところで、黄金がなければ、なんの役に立ちましょう」と、テリトゥは抗弁した。
「おまえは魔女の子だ!」と、ガディは喚いた。
 テリトゥはカディの声のする方角に向き直り、
「エフライム族の養父が、レビ人の妻を娶り、子をなすことはありえない。養父はレビ人祭司をもっとも嫌っていた」

 ガディは叫び声を発したかと思うと、右手に握り締めていた矢尻をテリトゥにむかって投げつけた。テリトゥは風を感じて矢尻をつかみ取る。ガディは薄ら笑いを浮かべるやいなや、自らの左腕を突き出し、小刀の刃をあてがった。経札と呼ばれる羊皮紙でつくられた帯状の紐が肘から手首にかけて幾重にも巻かれている。紐と紐のあいだの皮膚に刃物で切りつける。

「おまえのせいで、イスラエル王国は滅びるのだーっ」

 レビ人の狂信的な若者は自傷行為をいとわない。テリトゥはふたたびきびすを返した。一歩も進まないうちに男たちに取り囲まれた。
 右目がはげしく痛む。目を閉じそうになる。男たちは、テリトゥの異変に気づいているのか、いないのか、囲みを縮めてくる。抗う手立てがない。

「さあ、どうする?」と祭司長は言った。「おまえはもはや、わしの手の中にある」

 祭司長がうなずくと、楽士らや女たちが嬌声をあげてなだれこんできた。
 壇上の少年らも一人をのぞいてこれに加わる。彼らは身につけているものを、脱ぎ捨てると、床に撒かれた白い粉を這いずり、舐めている。
 祭司と称する異国の男たちは、女や少年たちを獣をあつかうように足や手をひきずり、頭や尻を引き寄せる。床に散乱する衣や職服は敷物に早変わりする。白い粉を舐めた女たちと少年たちは半狂乱になり、異国の男たちの餌食になる。口から泡をふく女もいる。蛇がとぐろを巻くようにからみあい、ひたすら快楽を追いもとめる。
 テリトゥの足元では、長身の筋肉質の男が少年の背後を犯している。少年は歓喜の声を張り上げる。その様子に常軌を逸した女が、腰を浮かした少年の下に顔を差し入れ、性器をむさぼっている。少年はよだれを流し、白目をむいている。ガディは小刀で自身の腕を切り裂き血を流しながら、全身を戦慄かせている。側近の宦官は、象牙と陶器とガラスの破片を拾い集めている。交わっている者たちは破片を踏んでも、からだを傷つけても痛みを感じないようだ。

「よーく見るのだ。女や子供らはついこのあいだまで、この国の神に仕えていた。それが、このありさまだ。おまえも、この中の一人に加わるのだ」

 狂った目つきの裸の男が、テリトゥに飛びかかってきた。そのとき、床の白い粉を舐めなかった褐色の髪の少年が、裸の男を突き飛ばした。テリトゥは身をひるがえし、ガディが手にしていた小刀を奪い取り、跳躍し、男の喉首に向けて突き刺した。血が噴き出し、男はわが身に起きたことが信じられない顔つきになり、女同士で戯れている者らの上に横転した。悲鳴があがる。楽士らと女たちは先を争って逃げ出すが、まともに走れる者は少ない。白い粉を過剰に摂取した少年の中には息絶えている者もいる。床は汗と愛液と小便で濡れている。死体につまずき、濡れた床のせいで転げ、這いずっている者がほとんどだ。恍惚師はうずくまったままだ。
 小刀を喉に突き立てられた男の首から流れ出る血は止まらない。
 テリトゥは顔にかかった血しぶきを手のひらでぬぐう。
 祭司長は茫然としている。祭司長を騙る、この男は武器を手にしたことがないようだ。テリトゥが異国の男の首から小刀を抜き取り、身構えると、手で近寄るなと指し示す。テリトゥを救った少年は、テリトゥの腕をつかみ、逃げようというが……。

 神殿の護衛兵士がやってくる足音が聞こえている。

 もし、このとき、ホセア王の使いだという人物が広間に入ってこなければ、イスラエル人の護衛兵士に殺されていたかもしれない。父と同じ、エフライム族の長の一人であるアザリヤは、先代のペカ王に対して、養父エヒズキヤとともに、南王国を襲ったさいに捕らえた多くのユダ部族とベニヤミン部族の捕虜を帰すように進言した仲間の一人だった。
 老齢のアザリヤは広間の惨状にひと目もくれない。
 平常心の声で、アザリヤは言った。

「王命により、この者を連れてまいります。祭司長が新たな王に油をそそぐまでは、ホセア王の王位はゆるぎませんので」
「勝手にしろ!」と、祭司長は震える声で言った。

 祭司長は卓上のものをつぎつぎと手にとり、床に投げ捨てた。ガディはテリトゥの手から小刀を奪いかえすと、何かに取り憑かれたように悲鳴を上げながら、肘の下あたりを切り刻む。殺気立つ全裸の男たちは囲みをといた。そのとき、はじめて気づいた。広間の隅で、恍惚師の背後に潜んでいる男にーー。被り物のせいで、恍惚師のマントの一部のように見えていたのだ。恍惚師ではなく、この男が白い粉を撒き散らしたのではないのか。
 異様に光る黒い瞳が、テリトゥを捉える。

 テリトゥと少年はアザリヤに急かされ、あとに従った。神殿の外へ出ると、陽光がまぶしかった。頬に触れるものを感じた。祭司長が床に叩きつけたアラバスターの花瓶の破片が頬に刺さっていた。痛みはほとんどなかった。

 神殿の柱廊玄関でアザリヤに礼をのべたとき、アザリヤが「あっ」と小さく声をあげた。「血が、血が……」
 アザリヤが指差すので、テリトゥは頬に手をやった。手のひらに血がついた。アザリヤは、これで、おまえの父親との約束は果たしたと吐き捨てると、不吉のものを目にしたように立ち去った。アザリヤは、頬の傷に驚いたのではない。衣服もだが、顔中、血に濡れていたからだ。

 テリトゥは片手で頬を隠したが、手首に鮮血がしたたり、上着の袖の中に吸いこまれていった。神殿の広場では、犠牲の子羊を串刺しにし、薪で焼いているレビ人祭司らの前に人々がつどっていた。台座で小羊や子山羊を処理する祭司もいた。おびただしい血が流れていた。群衆の熱狂は頂点に達していた。テリトゥは少年をともない、宿屋にあずけた荷物を受け取ると、その日のうちに、王都サマリアを旅立ち、東部の背斜の峰を越え、ティルツァへむかった。どちらもマナセ族の領地である。少年はどこまでもついてきた。少年の名は、ハキームと言った。一二歳だという。ダマスカスに住むイスラエル人の子だったが、さらわれて売られたのだと。

「おいらは奴隷じゃねぇ。ヨセフの子孫だ」
「エフライム人なのか?」
「おっかあが白人どれいだったから、兄ちゃんたちは、おいらをバカにしてた。やつらがおいらを売ったんだ」
「ヨセフと似た身の上だからと言って、ヨセフの家系だとは言えない」
「わかってらぁ」

 前王の失政で領土の半分を奪われる以前の北王国の領袖、エフライムとマナセの二つの部族の祖先であるヤコブの子・ヨセフは、エジプトで宰相となり、パレスチナで飢えに苦しむ同族を助けた。
 これによって、ヨセフの息子のエフライムとその子孫は、一二部族の中でもっとも尊い家系とされた。また、カナンの地に入るさいに、指揮官をつとめたヨシュアが、エフライム族であったこともあり、もっとも肥沃な土地がエフライム族に与えられた。
 エフライム族の親族である盟友のマナセ族は、ユダ部族を牽制する意味もあり、ヨルダン川の西岸と東岸の二か所に領地が与えられた。
 二つの部族はアセル族の領地だったアッコ湾(現ハイファ)からギルボア山の麓ベト・シャンに至る回廊の南の中央丘陵地を占拠し、その支配力を地中海からヨルダン河の東にまでのばした。
 北王国イスラエルの国力は、領土の大半が砂漠の南王国ユダをはるかにしのいでいた。ヘブライ人の部族連合国家であったイスラエルの最初の王が、ベニヤミン族のサウルでなければ、そのあとをユダ部族のダビデが継承しなければ、聖なる都がエルサレムに定められなかっただろう。二つの国家に分断されることもなかっただろう。

第二章  タボル山

 乾季が終わり、雨季のはじまる前の三ヵ月間、天空に時折、暗い雲が浮かぶ。ガラリヤ湖の南西約二○キロ、エズレルの谷を見下ろすタボル山の頂にむかって、第一九代のホセア王は杖にすがり、おぼつかない足取りで急勾配の山道を登っていた。従者はロバの手綱をもつハキームと、弓矢を携え、腰に剣を帯びたテリトゥの二人。テリトゥの右目の視力はなくなり、瞳は白濁している。顔の頬を斜めに切り裂く傷跡も癒えていない。
 
「余は北王国イスラエルの最後の王となるのか……」とホセア王は唐突に口を開いた。「神殿に属さない預言者(ナービー)と称する恍惚師の預言が的中したようだ。神殿に属する異教の予言者(ローエー)の気休めの言葉は、一向に当たらぬのになぁ」

 嘆きつつも、こしかた日々をなつかしむ口調にテリトゥの耳には聞こえた。テリトゥは王の背中にむかって声をかけた。

「亡き養父、エヒズキヤは申していました。門前でさわぐ恍惚師の言葉に耳を貸してはならぬと」

 王は立ち止まり、振り返った。
「ペカ王の第四年に、ダマスカスのレツィン王と同盟を結んだと、伝令兵より報せを受けたとき、余は激しく動揺した。かつての反アッシリア同盟軍と異なり、馳せ参じる国や都市はほぼないと言っていいからだ」

 この時より一二六年前(前八五〇年)、シリアのオロンテス河畔の都市カルカル(現テル・カルクル)において、反同盟軍はアッシリア軍を迎え撃った。交易都市ダマスカスのアダド・イドリ王を盟主として、シリア(アラム)、北王国イスラエル、ハマト、フェニキアの港湾都市ビブロス、同じくフェニキアのアルワド、それにエジプト、遊牧民のアラブ人、ヨルダン河東岸南部のアンモン人などが結集した“カルカルの戦い”は敗れはしたものの、その後もダマスカスを中心にシリア同盟軍の抵抗は止むことはなかった。しかし、領土を広げるアッシリアに対抗する国や都市は消滅しつつあった。
 皆無と言うべきだろう。
 この戦いに思い入れのあったのか、養父は、亡くなる前年に、カルカルと名づけた子馬を大枚をはたいて買い入れた。いま愛馬のカルカルは、王の居城の厩にいる。居城のあるティルツァは北王国の最初の王、ヤラベアムが居住し王都としたが、ヤラベアムの一族を滅ぼしたオムリによってサマリアが王都となった。ティルツァからエズレルまで駿馬のカルカルなら半日もあれば来れる。王はしかし、望まなかった。ひと目につくことを怖れたのだろう。南北どちらの国にも、戦馬は数えるほどしかいない。腱を切ることを、神が定めているからだ。

「ふたたびダマスカスと手を携えれば、アッシリアに宣戦布告したにひとしい」と、王は食い入るように自らの足元を見つめた。「小心者の余は、北王国の行く末を案じたのだ。当時の余の目には、先の王ペカの為すことは、破滅にむかって突き進んでいるようにしか映らなかった。むろん王位を纂奪する野心など、余になかった。いや、本心ではない。言い訳にすぎぬ」

 テリトゥは被り物を頭のうしろに下げ、片膝をつき、王の言葉に耳を傾けた。長い黒髪は、頭の後ろでひとくくりしている。この三カ月、ホセア王の居城で寝起きしながら、片眼であっても、弓や剣が扱えるようにハキーム相手に訓練した。その努力が認められて、王の護衛役に選ばれたと思っていたがーー、

「黒曜石のように輝く、そなたの瞳は曇った日であっても輝きを失わぬ。まっすぐ伸びた黒髪も、そなたを一層、凛凛しく見せる。余の目は、ロバの哀れな目と似ていると思わぬか?」

 王の目には、テリトゥが右目の視力を失い、白濁している現実は映らない。髪型さえも、見えていない。なぜ、王は自分を従えるのか……。
 ロバをひくハキームは怪訝な顔をする。王が正常ではないと、子供ながら感じているようだ。

「余は、余のなすべきことがわからぬ」

 王はきびすを返し、ふたたび歩きはじめたが、すぐに足を止める。裾に切れ込みのある裾丈の短い衣に身を包む王は、心が乱れて足が思うように動いてくれない気配だ。杖を手から離すと、肩を落とし、膝を折り、小石の埋まった斜面に両手をついた。
 テリトゥは背後に神経を尖らせつつ腰の皮袋を差し出す。
 王は首をねじり皮袋を受け取り、ひと口、ふた口、水を飲み、精根つきたように身動きしなくなった。テリトゥは、ハキームに、ロバに積んでいる皮袋の水とパンで喉の渇きと空腹を充たすように言った。

「王妃と王子は今頃、余の “身代わり王”に驚愕し、嘆いておるであろうな……まさか、余が城中にいないとは夢にも思わず……余に見捨てられたと思っているのではないか……ああああ」

 テリトゥは王の繰り言に耳を貸す余裕はなかった。祭司長のいるサマリアの神殿で目かけたマントの男は恍惚師でもなければ、ローエーと呼ばれる異教の予言者でもなかったといまにしてわかる。
 物乞いなら、あの場にいなかったし、異教の予言者ならもっと身ぎれいにしていたはず。もしかすると、あの男はアッシリア軍の密偵ではなかったのか。そして、もう一人の黒衣の男はアッシリア軍の暗殺者ではないのか。
 もし、そうであるなら、彼らはホセア王を襲ってくる、かならず。

「側女らも嘆いておるであろうな、ああああああ!」王の嘆きは際限がない。

 王都サマリアの東約一八㌔、ホセア王の居城である、エバル山中に建てられたティルツァ城を密かに脱け出したときから見張られている気配がしていた。姿は見せないが、一定の距離をおいて何者かがついてくる。見晴らしのいいタボル山にさしかかって以後は、人の気配が消えた。が、王が立ち止まった瞬間に追跡者の気配をテリトゥはかすかに感じていた。

 敵が二人なら……倒せないかもしれない……。

 王は余程、疲れたのか、山道に身をゆだねるように座りこむと、おもむろに言葉を継いだ。
「余は幼き頃より北王国イスラエルの盟主であるエフライム族と、南王国ユダの盟主であるユダ部族とはけっして相容れないと父から言い聞かされて育った。分断した王国においては、まつりごとに関わってはならぬと戒められもした。しかし余は、モーセのしたためた五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)や歴代の王の事績を記した書物に目を通すうちに、反発し合う二つの王国を本来のあるべき姿――近隣諸国を併合したと伝承されているソロモン王の時代のように一つの国家にもどし、他国に攻めこまれない強靭な国家を築かねば、二つの王国に未来はないと考えるようになった。そのためにも早急に兵力を増強せねばならぬと――だが、焦りは下策を生みがちだ……」

 王の横顔から苦悩を察することはできても、イスラエル人としての自覚がないテリトゥにはわが身のこととして嘆き悲しめない。ハキームも同じなのだろう。いかなる感情も顔に浮かべない。
 それどころか、小麦のパンを頬張った口で、「なんでくずくずすんだよ」と、小声で文句を言う。

「理想と現実とはかくも異なるものなのか……」
 ホセア王は皮袋を握りしめた。水が溢れても気づかない様子である。
「先代のペカを愚かな王だと糾弾し、忌避すべき手段を用いて得た王位だった。しかし即位したその日から、玉座は呪われていた」

「陛下の企図したことではなかったと、養父は申しておりました。ホセア王こそ、王位を継承されてしかるべき、お方だと」

 王は上体を反転させ、テリトゥに皮袋を返した。テリトゥが低頭して受け取ると、王は急斜面の山道に腰を落ち着け、手入れのされていない直毛の顎ひげをつかみ、引き抜こうとした。ここまでの道中でなんども繰り返した仕草だった。
 ハキームは「またかよ」と言って、王に背中を向けて腰を下ろした。

「たしかに命じたわけではないが、側近が、わが意をくんで、ペカ王を亡き者にした。彼らに罪科はない」

 顎ひげをつたって、ひと筋の血がしたたった。イスラエルとユダの民がしばしば見せる嘆きや怒りを表わす所作の一つだ。頭髪や顎ひげを引き抜き、衣を引き裂き、かまどの灰をかぶる。
 テリトゥは、実の父にも勝ると慕ったエヒズキヤの一連の仕草を目にするたびに、自分はイスラエル人ではないという思いを強くした。

「先代のペカ王の行いは常軌を逸していた。その考えはいまも変わりない。メナヘム王の跡を継いだペカヒヤ王の副官として仕えていたにもかかわらず、ギレアデ(ヨルダン河東岸の都市)の兄弟団五〇人と決起し、在位二年目のペカヒヤ王を暗殺し、王権を強奪した――軍人の考えることは短絡すぎる!」

 王はいきなり右腕をのばし、骨張った拳で目の下の地面を打った。小石が四方に跳ねた。その一つが山肌を転がり落ちた。耳を澄ます。乾いた音が途中で途切れた。
 やはり、だれかいる。
 アッシリアの進攻が目前に迫ったいま、ホセア王の暗殺を目論む者は敵方だけではない。同胞であっても、力を誇示したい者は、アッシリアに朝貢し、新たな王に承認してもらおうとたくらんでいる。

 テリトゥは背後に潜む者の動向に五感を研ぎ澄ました。

「ペカの過ちは、南王国を軽んじたことだ」王の独白はやむことがない。

 前王のペカは同盟国ダマスカスとの混成部隊で南王国ユダに攻め入り、南王国の重きをなす者らを殺害し、摂政と将兵を捕縛した。くわえて、ユダ部族さえ、疎んじている隣国のベニヤミン族の女や子供を捕らえ、王都サマリアに連行した。

「捕虜がいれば、結束が尋常ではないベニヤミン族の兄弟団を思い通りに動かせるとでも思ったのか。愚かな! そなたの父エヒズキヤが、存命であったればこそ、ペカ王を説諭し、捕らえた者らをユダとベニヤミンへ帰還させることができた。しかし……即位して間もない南王国のアハズ王の誇りを傷つけた。アハズは短気な上に、大局的視野に欠ける。将来、敵となるアッシリア王に賄賂までつかって、同胞にひとしい北王国を鞭打った」

 ヤハウェがとらえてくださるようにという意味の名の、エホアハズ(アハズ)王の要請を受けた、アッシリアの王ティグラト・ピレセル三世はヨルダン河の東に領地をもつルベン、ガド、マナセの三部族を大軍団で撃破した。平原において戦車部隊に勝てるはずもない」
 翌年の紀元前七三三年(九年前)、アッシリアは北王国の北方の要である、ナフタリ族とダン族の支配する都市や村々を攻め滅ぼした。
 アッシリアは領土を奪っただけでなく、あらがった部族の貴族(一族の中心となる家系)、祖先を同じくする血族集団の氏族、兵士、女や子供、職能集団を捕虜にし、連れ去った。もしかすると、ハキームはそのときの子供ではないのか……。

「ペカ王の轍を踏むまいと、余は固く心に期していた。不退転の気持ちであった」

 テリトゥは、姿の見えない敵にどう対処すべきか、頭をめぐらした。敵はテリトゥの目にかかることを恐れている。それはたしかなことだった。王を襲う魂胆があったなら、ここに至るまでにその機会は数えきれないほどあった。追跡する者がいることを王に告げるべきかどうか、テリトゥは迷った。

 王は右手を握りしめ、暗い雲のたれこめた天空にむかってこぶしを突き上げた。
「恍惚師のホセアは言った。『わたしはもはやイスラエルの家(北王国)をあわれまず、決してこれを許さないからである。しかし、わたしはユダの家(南王国)をあわれみ、その神、主によってこれを救う。わたしは弓、つるぎ、戦争、馬および騎兵によって救うのでない』と」

 王は背後の暗殺者より、恍惚師の言葉を畏怖している。

「白目をむき、口尻に唾液をためた恍惚師の口走る“わたし”とは、だれを指すのか? 唯一無二のお方とホセアとは一つ心に一つ肉なのか? つき臼と杵のようなものなのか? 神の器で、滅びという名の香辛料を、ホセアは日々砕いているのか……。『エフライムは淫行をなし、イスラエルは汚された』と、かの者は、わが一族と王国をののしる。淫らな行いを為しているのは、わが部族ではない。異民族だ。中でも、祭司長を騙る男の淫行は目にあまる!」

 追跡者に気づいていない素振りをすべきだとテリトゥは判断し、相槌をうった。
「滅びを預言する者たちは意図して、マナセとエフライムの民の戦意を挫いていると、父は申していました」

 王はこぶしで胸を叩き、すぐさま首を縦に振った。

「出自がエフライム族であった、イスラエル王国の初代の王ヤラベアムは、ソロモン王も認める有能な役人だった。ところが、神の言葉を預かると言う者が身辺に現われて、布地を一二枚に裂き、そのうちの一○枚がおまえのものになると耳打した。ヤラベアムはその言葉を、一○部族の領袖となり、王国を建てよという預言だと真に受けた。悪魔の囁きに心を動かされたのだ。ユダ部族のソロモン王は王統を守るためにヤラベヤムを排除しようとした。国家の大事をなす問題だったからだ。ヤラベヤムはしかし、ソロモン王がこの世を去ると祖国にもどり、王国を分断した。新たな王国を建てるという誘惑には勝てなかったのだ」

 テリトゥは王が話し終えるのをひたすら待った。敵の動向によっては王を守りきれないかもしれない。

「人はみな、自らの心の奥底に隠している欲望に気づくと、抑えられなくなる。ヤラベアムは心のどこかで、老いたソロモン王を侮っていたのだ。自らが王となれば、さらなる強国にしてみせると自負していたにちがいない。書籍に埋もれて育った余は、うちなる声に惑わされまいと思えば思うほどに、粗布をまとい、火を吹くように語る恍惚師の発する言葉に翻弄されてしまった。耳に入っても、耳を傾けてはならないと自らを戒めていたにもかかわらず、気づくと、“いと高きお方”の代弁者と称する恍惚師の言葉に心を苛まれ、頭を射抜かれていた」
 ああ、と王は詠歎した。
「額に刺青をした恍惚師は自ら体を傷つけ、全身を痙攣させながらおそろしき言葉の数々を、よだれと一緒に吐き散らす。『わたしは、エズレルの谷でイスラエルの弓を折る』などと……アッシリアではなく、神が、北王国を滅ぼすのか……その男とわが名が同じとはいかなる巡りあわせなのかーー」

「王よ。日の暮れるまえに山頂に参りましょう。どのような用向きがあってお出でになられるのか、わかりませんが、山頂で一夜、明かすとなれば……敵の斥候の目に止まるやもしれません」

 テリトゥの言葉は王の耳に入らない。王は話しつづける。

「偶然か、故意か、わが名と同じ恍惚師は、名君だった六代前のヤラベアム二世王の四○年間の治世の末に出現し、二○年の長きにわたって、イスラエル王国の滅びを預言しつづけている。官職に就いたこともなく、神殿に仕える祭司のどの門閥にも属していない一人の放浪者が、権力欲に取り憑かれた者の心を揺り動かすのだ。甘い誘いの言葉も、諌める言葉も、一つの目的をもって発せられているとしか思えぬ」
 ホセア王は嘆き、顔を歪める。
「ヤラベアム二世はソロモン王に匹敵する働きで領土を回復し、国を富ませた。しかし、ホセアが現われて以後、余をふくめて六人の王が王笏を手にし、そのつど血が流れた。北王国の民は南王国の民よりはるかに豊かに暮らしていたが、相次ぐ政変で次第に民の身も心も疲弊した……」

 頬のこけたホセア王の顔面には疲労の色が隠せなかった。

「祭司の中には、ホセアを神の言葉を預かる“わざわい”の預言者だと述べる者までいる。一二部族の守護神ともいうべき、主なる神は、余を嘲笑されておられるのか。ホセアが、ホセアの統治する国の滅びを預言するなど、いと高きお方のお考えでなくてなんであろうか……」

 王は唸り、突然、悲鳴に近い声で神の名を発した。
「ヤハウェよォーー!」

「王よ、どうか、お心を静めてください。寛容な王こそ、河むこうと(トランス・ヨルダン)と北方(ガリラヤ)の生き残った兵士を一つとなし、導くお方だと、養父は死の間際まで申しておりました」
 
「余がいまから為そうとする行いは、浅はかで深慮に欠ける策謀だ……。迷いに迷った末に、タボル山に来る決意を致した」
「なんてこった」ハキームの独りごとは山肌に吸いこまれる。「やっとかよ」

 ホセア王とテリトゥとハキームの三人は、ティルツァの北の町ドタンを経て、ギルボア山の麓の町・エズレルから北端の町オフラを北上し、エスドラエロンの平原を横切り、ようやくエズレルの谷を見下ろすタボル山の中腹までたどり着いた。あと少しで、王の望む目的地だというのに、どうしてここへきて長々と演説するのか、テリトゥにもハキームにも合点がいかない。

「そなたの弟の引くロバに乗り、ホセアの言う“弓を折られる場所エズレル”にくるのに三日を要した」

 王の頭の中では、ハキームはテリトゥの弟と認識されているらしい。
 ハキームは笑顔を見せた。

「ヘビのように曲がりくねった山道をロバに背にしがみついて中腹まできたが――、急な坂道のせいで眩暈がした。試しに歩いたみたがたちまち、このありさまだ」

 王は農夫の姿に身をやつしていた。イスラエル王国の若き王の姿ではなかった。痩せ細った体にきつく締めた腰帯のせいなのか、荒い息が止まらない。縞模様の肩掛けを頭からかぶっているので、テリトゥの目には、足の萎えた老人のように映る。

「いまでは、タボル山が、わが北王国とアッシリアにくみする異国の民との境界となってしまった。この地は本来ならイッサカル族の領地であったが、アッシリアが進攻する以前に、異国の富める者たちに耕作地を所有されてしまった」

 王は登ってきた山道を見下ろした。エズレルの低地平原が彼方まで見渡せる。周辺に他の山はなく、球体の一部のような山からの眺望に王は目頭を押さえる。

「通商路は北王国に富をもたらしたが、異国の神々への信仰をも生み出した。武器をもって侵略してくるアッシリアはたしかに恐ろしい。しかし、もっとも恐ろしいのは、武力ではない。イッサカル族の貴族や氏族長は、金品と甘言をろうして近づいてくる異国の商人に対して無防備だった。目新しいだけのくだらい品々や異国の女や少年に目を奪われ、本来は民のものであるべき耕作地を売り払った。いまでは多くの民が奴隷の焼印を押され、異国の主人に追い使われている。多額の金を受け取った者どもはそれを見ても恥としない。己れと家の者さえ安逸な暮らしができれば、それで由としている。あの者らには、民を思う心がない!」

 風になびく草のにおいに混じって、火矢に用いる油のにおいがした。
 テリトゥは一層、五感を働かせる。

「父祖が辛苦の末に手にした豊穣の地、マナセとエフライムの大地が、失われようとしている。すべて、力なき余のせいだ。恍惚師のホセアは言った。『エフライムはもろもろの民の中に入り混じる。エフライムは火にかけて、かえさない菓子になる。他国人らは彼(エフライム族)の力を食い尽くすが、彼はそれを知らない』とーー」

「いつの日か、奪われた地を取りもどす日が、まいります」

 かならずと、テリトゥはうわの空で言った。アッシリアに割譲された土地には名も知らない異国の民が、ティグラト・ピレセル王の強制移住政策によってすでに入植している。いまさら現状を変えることは、イスラエル王国の取るに足りない軍事力ではかなわない。だれの目にも明らかなことだった。

「職人や女や子供はアッシリアの主立った都市アッシュル、ニネヴェ、王都カルフ(現ニルムド)などへ流刑に処せられた。男たちの大半はアッシリアの属国メディアに奴隷として売られたそうだ。城壁の建設に従事されられていると耳にした。かつて、エジプトにおいて、われわれの先祖ヘブライ人はファラオの墓の建設に徴用された」

 王は肩を落とし、両腕をだらりとさげた。
 
「ヨルダン川の西(シス・ヨルダン)に暮らす、ヨセフの子孫、エフライムとマナセが、“アッシリアの狼”の餌食になる時が、いよいよ巡ってきたようだ」

「永遠につづく国もなければ、永遠につづく苦難もないと養父は申しておりました。だからこそ希望を捨ててはならぬと」

 テリトゥはホセア王を慰めようと偽りを口にした。
 この国に希望はないと、養父は言った。
 アッシリアの捕縛を逃れたヨルダン川の東岸(トランス・ヨルダン)に住むマナセ族の兵士はヨルダン川を渡り、西岸(シス・ヨルダン)に居住する同族の領地へ逃げこんだが、他の部族は逃げ場を失い悲惨な目にあった。ルベン族の大半は敵対するユダ部族に組み入れられた。
 ユダ王国の都市に居住していたシメオン族はルベン族とガド族に加勢したために都市を追われ、エジプトとの境に住むエドム人との同化を余儀なくされた。ガド族はモアブ人の住む荒地(現ヨルダン)へ逃れたが、飢えと渇きで多くの戦士が辛酸をなめた。
 北方のゼブルン族はフェニキアのシドン王国に隷属した。

「なんで、ペカ王は、ヨルダン川のむこうに住む三部族や北方の部族を援けなかったんだよ?」と、ハキームが尋ねた。

 同じ、問いかけをテリトゥも養父にもした覚えがある。
 養父のエヒズキヤは溜息とともに言った。アッシリア王は初戦で、砂漠の宝石と讃えられたダマスカスを一瞬で廃墟にした。サマリア城にいたペカ王は震え上がった。イスラエル王国の兵士と民はこの時すでに、一○部族が北王国に属する民であるという意義を見失っていたと。それぞれの部族で交戦するか、降伏するのか、決断しなくてはならないと。

「なんで、北が一〇部族いて、南が二部族しかいなんだよ?」と、ハキームはテリトゥに尋ねた。

 王はうろんな表情でテリトゥとハキームを一瞥し、「ソロモン王は名君であったが、税の取り立てが厳しく、ベニヤミン族以外は、ソロモン王への不平不満があった」と言った。

 それだけではないとテリトゥは思う。エフライム部族こそが王統を継承すべきだと考える部族が多数を占めていたと。

「だったら、ユダ王国を攻め滅ぼせば、よかったんじゃないか」
 と言うハキームに王は、
「神殿がユダ王国のエルサレムにあるかぎり、それはできない」
「サマリアにも神殿があるじゃねぇか」
「神の顕現される聖櫃が、サマリアにはない」
 聖櫃について、テリトゥがハキームに教えると、
「ただの箱だろ?」

 王は天を仰いだ。

「イスラエル王国からユダ王国に嫁ぎ、ユダ王国の女王となったアタリヤのように血を流すことも厭わず、王位を継承すべきはずだったわが子を殺したユダの者らと戦いぬく気概が余にはない」

 テリトゥは山羊の毛で織られた膝下までしかない短い衣を身につけ、腰帯に短剣をさし、弓と矢筒を背負っていた。
 矢筒には、三○本の矢があった。
 矢を弓につがえ、放つのにどのくらいの時を要するのか、頭の中で動作を繰り返した。目の持つ不思議な力はすでに喪われている。自力で追跡者と闘わなくては、王を守れない。

「アタリヤの父は、アハブ王であった。皮肉なことにわが王国を滅ぼすユダ王国の現王アハズと似た名だが、意味が異なる」

 アハブはヘブライ語で父の兄弟を意味する。この父は、神を意味するのだろう。

「軍人だった父王の血を受け継いだアハブ王は、“カルカルの戦役”において、戦車二○○○両、歩兵一万を率いて戦った。同盟軍の中で戦車の数は最多であったが、騎兵を擁していない戦力に切歯扼腕したであろうな。反アッシリア軍の盟主であるダマスカス王の軍は、戦車一二○○両、騎兵一二○○、歩兵二万。騎兵さえ、ダマスカス軍に勝っていれば、アハブ王が全軍の指揮をとれたやもしれぬ。さすれば、その後の情勢は大きく変わっていたであろう。だが当時もいまも、戦馬と騎兵の育成の必要性をいくら説いても、いくさに関することとなると、頼んだわけでもないのにユダ王国からやってきたレビ人祭司の戯言に重臣どもは耳を傾け、神の定めた律法に忠実になりたがる。馬の腱を切れという者まで現われる。恍惚師は喚き散らす。戦力などなくとも、南のユダ王国は神に守られるとーー」

 テリトゥは養父の言葉を思い返した。アッシリアは、馬の背で領土を拡げたと。戦馬を擁しないわが国に勝ち目はないと。

「軍議を開き、兵を統括する指揮官が、騎兵と戦車の増強を訴えても、まつりごとにかかわる高官や役人が聞き入れない。戦馬や戦車は、律法で禁じられていると反論にもならない反論を平気で弁じる。和平策を講じる者は、自由民へ軍役を科せば徴税できなくなると抗弁する。一見、民をおもんばかっているように聞こえるが、本心は異なる。彼らの後ろには商人と地主がついている。富める者はいくさを嫌う。余が王都サマリアを去ったのは、不毛な議論に嫌気がさしたからだ。初代ヤラベヤム王が王都と定めたのは、マナセ族の都市ティルツアだった。余が育った場所でもある。統一国家だった頃から今日に至るまで、エフライムの王族は、マナセ族に守護されてきた。ヤラベアム一世は、わが先祖ヨシュアの直系ではない。これまでイスラエル王国の王位に就いた者の中に、エフライム族の王族はいない。余をのぞいて……」
              
 王は遠い目をした。

「一族を支えている矜持は、ヨセフの血統を守ってきたことにつきる」

 背後に潜む者は息を殺し、身じろぎ一つせずに、襲撃の機会を待ち受けている。気づいていることを、気取られてはならない。

「ヨシュアの子孫であるエフライム族は、なぜ、王位につかず、マナセ族に守られる立場になったのです?」

 テリトゥの問いに王は苦笑し、「ヨシュアは一族が統治者になることを望まなかった」と答えた。そして、寂しげな表情になり、「王国の置かれた地形と周辺諸国の動静をかんがみれば、王笏を永続的なものにするのは困難だとわかる。われわれの国は北王国も南王国も、いと高きお方の創られたこの世で、安堵して暮らせる日はこない。だからこそ、ヨシュアは、来たるべき日に備えて、血統の存続を重んじたのだろう。マナセ族は守護者となる道を受け入れた」

 背中に感じる視線がひと呼吸ごとに強くなっていく。

「われわれの周辺には、古くからの強国があまたある」と王は言った。「中でも、アッシリアはどの王国もなし得なかったほどの軍事力を有している。彼らは自由農民を部族ごとに組織し、戦利品以外にも、領土となった耕作地をわけ分け与え、軍役に応じぬ部族には、浚渫や灌漑などの賦役を科している。だが、新たな王の即位にさいしては、債務を帳消しにし、奴隷を解放している」

 テリトゥは、王を力づけようと、「王命とあれば、サマリア中のエフライムとマナセの自由民はつるぎを手にし、いかなるご指示にも従うはずです」
「余の真意を知れーーばそなたは立腹するであろう」
「立腹する身分ではありません」 
「夢にすぎん。剣にも弓にも触れたことのない、この手にできることは、書物を手に取ることだけだ。それが愚かな夢を見させるのだ。粘土板から写しとった古代の物語に、取り憑かれているのやもしれぬ。イスラエルの民もユダの民も、モーセの五書以外の書物になんの価値も認めないが、余には、レビ人の記した律法ほど退屈なものはないと思う。律法はいにしえの『ウルナンム法典』を模した、『ハンムラビ法典』を踏襲している」

 ホセア王は背を丸め、両手で顔面を覆いかくした。

「余は己れを制御できない。胸奥に沈殿した憤怒と悔恨のせいで時に血が凍り、時に沸騰し、気が狂いそうなのだ」
 王は指の間から言った。
「そなたは陽が沈む前に、余を恨むことになるだろう」

「王よ、何事が起きようと、お恨みすることはございません」

 低木のねずの木が、王の傍らに茂っていた。ところどころに、石灰岩が白い顔を突き出している。斜面をおおう色とりどりの小さな花々も、潅木林の間を埋めるようにいちめんに咲いていた。真新しい切り株が散見できる。登ってくる間にも、いくつも切り株があった。山頂には、木材が積み上げられているのだろう。

「もはや、引き返せぬ」
 王は、顔を覆っていた手を膝の上においた。
「小麦の刈り入れのすむ頃を見計らって、進攻してくると思っていた。エフライムとマナセに属する町や村には穀物倉庫がある。それらが大麦と小麦で満たされる時期を、アッシリア軍の司令官は待っている。糧食の心配をせずともよいのだから、ガラリヤの海(湖)からサマリア城までの兵站部隊の仕事は、武器の輸送と補充ですむ」
 と王は言った。そして、膝の上の手で両膝を叩いた。
「このたびのアッシリア王の親征は、わが国を威嚇し、遠征にかかる費用を調達したのちに、兵士に適する年齢の男子を捕らえ、エジプトとの戦いの最前線に送りこむつもりだ」

 王は、よろめきながら立ち上がった。ハキームが手を貸そうとしたが、王はその手を押しのけた。

「マナセとエフライムの地に住む王族と氏族はみな、一二部族の父祖ヤコブが長子の権利を与えたヨセフの末裔である。シス・ヨルダン(ヨルダン川西岸)に居住する、われわれエフライム族とマナセ族は先祖ヨセフの言いつけを守り、領土内のすべての要所に見張り台を立て、いくさに備えてきた」

 切り株の影に敵は潜んでいる。もし、矢を射かけられたら王を守るために身を呈するしかない。

 王は声を震わせながら、
「エヒズキヤの子なら、ヨセフの物語は存じておるな? ヨセフはおそらく生涯、何人も殺めなかった」

 テリトゥは地面に指で記した。背後に様子をうかがう者がいると。

「ヨセフの話をお聞かせください」
 わざと、大きな声を出した。逆に王は声をひそめた。
「文字が記せるのか? エヒズキヤから習ったのか? もしかすると、そなたは、アッカド語やアラム語の読み書きもできるのか? だから、エヒズキヤは余にあのような話をしたのか……」

 テリトゥの耳が、草を踏むかすかな物音をとらえた。

「――ヨセフは一七歳のとき、腹違いの兄たちに騙されて隊商(キャラバン)に売られた。銀二○枚(約四四㌦)だった。父ヤコブは非常に悲しんだ」
 王はわざとらしい咳払いをし、
「聡明なヨセフは奴隷の身分からエジプトの宰相にまで昇りつめた。そして、エジプトの王族である祭司の娘を妻に迎えた。ヨセフはカナンへもどる気はなかった。両親や兄弟のことも忘れていたかもしれない」
 王は、遠い眼差しになり、
「カナンの地が旱魃による飢饉に見舞われたとき、ヤコブの子らはエジプトに逃れ、それと知らず宰相のヨセフと面会した。エジプトにとどまる許しを乞う兄弟にヨセフは身分をあかし、彼らを許した。一族は喜び移り住んだが、ヨセフの死後、民の数が増したヘブライ人はエジプト人から蔑まれるようになった。定住しない遊牧民と定住する農耕民は相容れない」

「なぜでございますか」と、テリトゥは背後の者を牽制するためにさらに高い声で言った。

「青草の茂る土地を掘り起こし、種を播く者と、青草を食べる羊を飼う者とは、互いを敵視するようになる」

「あたりを見回したりなさらないでください」

 王は小さく頷き、
「大祖アブラハムはウルの遊牧民だった。家畜の群れを連れ、青草を求めて冬は低地に、夏は高地に移動していた。しかし、ある時、アブラハムは神の声に導かれ、シリア、カナンを経てエジプトに入り、そこからふたたびカナンへと旅した。牧羊者として富を得たアブラハムは、定住する土地を探し求めた。子らは各地に散っていった。もともと、モアブ人とアンモン人とエドム人はアブラハムの家系につらなる部族なのだ」

 テリトゥは唇を動かさないように、ゆっくりと言った。「わたしが杖を手にしたら身を伏せてください」

 王はまぶたを上下し、
「神の文字を記した聖なる書に疑いの言葉をさしはさむことは許されないが、同じ家系の者たちと争う必要など微塵もなかったのだ」

 矢が飛んでくる音を右の耳がとらえた。

 テリトゥは振り向きざまに王の杖で火矢を叩き落とした。ターバンで顔の半分を覆った黒衣の男が、切り株の影から現われ、鈍色に光る短剣を振りかざして駈け登ってきた。
 テリトゥはハキームの手渡す矢をつがえ、放った。
 男は矢をよけ、数歩手前に迫った。テリトゥの左目は相手を射通すような眼差しで凝視した。黒衣の男は短剣を手にしたまま一瞬、立ち止まった。
 ハキームが矢の先で、男の膝を突いた。黒衣の男はハキームに切りかかる。テリトゥは腰に帯びた剣で男の肩にかかった顔を覆いかくす布を切り裂いた。
 男は稲妻に打たれたように山道を転がり落ちていった。

 テリトゥがハキームに、よくやったと褒める前に、

「やはり、そうなのか、やはり……そなたには不思議な力があったのか。ヨシュアがエリコを陥落させたときのラッパのような……。レビ族の子でありながら、エジプトの王子として育ったモーセは雷をともなう雲の柱に導かれて数十万におよぶ一二の部族を率い、紅海を渡り、エジプトを脱した」

 ホセア王は歓喜した表情を見せた一瞬ののちに、暗い影を目に宿した。

「おまえはイスラエルの民でもなければ、ヘブライ人でさえもない」

 王は、「われわれは神に選ばれし民」と言って頷き、「シナイ半島をさすらい、ヨルダン河の東側に至ったとモーセは記している。四○年間、三世代にわたる大移動だった。いと高きお方の導きがなければ、困難な旅だったろう。為しとげられたのは、唯一無二のいと高きお方と交した契約と約束があったからだ。一〇の戒めに忠実であれば、神は約束の地カナンへ導くと」

「神はお一人なのですか?」口にしてはならない言葉だった。

 王は目を見開き、「われわれの父祖は、主なる神に選ばれた民なのだ」と力をこめて繰り返した。「そなたはエヒズキヤの息子となったときから、まことは、エフライム族の男子とならねばならなかった。しかし、エヒズキヤはそうしなかった」

 無割礼であるばかりか、行為と責任の義務を負うための男子の成人の儀式バル・ミツヴァを受けさせなかった。
 そのわけはーーと王は言いかけたが、口を閉ざした。

第三章 ホセア王の躊躇い

 主従は頂きを目指した。勾配がきつくなるにつれ、王は荒い息をし、足元をふらつかせる。そのつど、皮袋の水を求めるので、疲労が増す。王はとうとう山肌に尻もちをついた。そして、王自身にむけて語りはじめた。
 テリトゥとハキームは、山肌を背にし、彼方の景色を眺めた。小麦の穂が黄金色に染まり、きらめく波がどこまでもつづき、タボル山だけが周辺を見下ろす位置にある。

「ーーヨセフの息子、エフライム族の直系であるヨシュアは、モーセ亡きあと、ヘブライ人の指導者となり、ヨルダン河を渡り、月の都市と呼ばれるカナン人の住むエリコに至った。“乳と蜜の流れる約束の地”を目前にしたヨシュアは八○歳を越えていたが奮い立ったに相違ない。ヨルダン川の西岸(シス・ヨルダン)には諸国民がすでに居住していた。われわれは“神に選ばれし民”だという自負がヨシュアを突き動かしたのだ。地元民と戦わねば、約束の地を所有することはできない……」

 テリトゥは先を急ぐために振り返り、
「だれも殺さなくてもよい、人の住んでいない場所は、シナイ半島のどこにもなかったのですか?」

 王は笑みを浮かべる。

「モーセの五書には、大祖アブラハムは移動するたびにその地の定住民と交渉したと記されている。どこへ行こうと、土着の民がいた。モーセに率いられた民が、シナイ半島からパレスチナに至るさいにネゲブ砂漠を避け、海沿いに居住するアマレク人の領地を通過する許可を求めたが、得られなったので迂回している」

「遊牧民は土地をもてない取り決めでもあったのですか」

「もてないのではなく、もつ必要がないのだ。青草の生える大地を求めて国の境など気にせず、羊やロバや山羊とともに彷徨する。天幕で寝起きし、羊の毛を紡ぎ、山羊の乳を飲み、羊の肉を食し、羊や山羊を売り買いすることで暮らしが成り立つ」

「砂漠の民のベドウィンはいまも遊牧民です。ヘブライ人はなぜ遊牧民を嫌うのです?」

 王は、やや気色ばみ、
「ヤハウェは神の定めた掟に忠実である民を選び、カナンの地を与えると約束されたのだ。ヘブライ人は信じた。“神に選ばれし民”が、悪神を崇拝する異民族を征服し、汚れた地を清めなくてはならないと」

「王が、ヨシュアなら、同じ決断をなさいましたか?」

 王は哀しみを湛えた眼差しになった。

「ヨシュアは、二○歳以上の男子の人数に応じて、平定する土地を割り当てた。部族間で、いずれ争いが起きることを予見していたのだろう。割り当てる土地を決めるさいに苦心したあとがうかがえる。くじで定めたと記されているが、そうは思えぬ。エフライム族の長であるヨシュアは、自らの先祖を人買いに売った首謀者のユダ部族の子孫とは、境界を接しないように配慮している。カナンの地の平定後に、兄であったマナセ族の子孫には万が一、ユダ部族と戦端がひらかれたとき、彼らを抑えられるようにヨルダン河をはさんで、東と西の二ヶ所に振り分けて割り当てている。早晩、ユダの子孫に背中を刺されると案じていたのだろう。その判断に誤りはなかったが」

 テリトゥは尋ねた。
「神は、ヘブライ人に与えた約束の地が、北王国と南王国に分裂することも、ご存じだったはずでは?」

「何故に、このような事態に至ったのかといく夜も眠らずに考えた。堂々めぐりの果てに、一つの結論にいきついた。まず第一に、先祖は母親が同じ兄弟であったレビ族とシメオン族をカナン各地の都市に散らしたことだ。第二に、成人男子の数が二番目に多かったダン族に、多くの諸国民の混在する土地を割り当てたことだ。これらのことが後の世に禍根を残した」

 王は、頭をおおっていた肩かけをうなじにずり下げた。ターバンを低く巻いた頭部が現われた。

「一二部族のうちの一族として、他の部族と共に法的な正式の身分を有していたシメオン族は荒野をさすらう間、祭司職のレビ人とではなく、ガド族やルベン族と共に行軍した。ダン族はアセル族やナフタリ族とならんで宿営した。ダンとシメオンの二つの部族は、勇気と忠誠さにおいて遜色なかった。ヨシュアは、ダン族なら大海 (地中海)に面したペリシテ人の土地を奪えると思ったのか……」

 テリトゥは、ヨシュアの子孫である王の怒りをかうかもしれないと思ったが、「ダン族の力を削ぐためだったのでは――?」

 王はテリトゥの問いには答えず、「ダン族は、ペリシテ人をはじめ、ヒビ人、エブス人、カナン人ら異民族との戦いに疲弊した。他の部族の援けを得たいと思っても、それぞれ己れの領地を守るいくさに奔走していた」と王は言った。

 二○○年の時を経て、エジプトからカナンにもどったヘブライ人は、エリコを陥落させたときのように一二部族が一つになって戦う戦術では、他民族からなるカナン全土を征服するのに時がかかりすぎると考えた。それぞれの部族が定められた土地を得るために戦った。戦線が広がるのは致し方のないことだった。
 それは他の部族と競うことにもなった。領地が隣接するエフライム族が、ダン族に助力するべきだったが、深い絆で結ばれたマナセ族の領地が盆地であったために防備がむずかしく、そちらに兵を差し向けた。孤軍奮闘したダン族は戦線を離脱し、馴れ親しんだアセル族やナフタリ族が手中に治めた領地に近い最北端の都市を征服し、移り住んだ。
 居残ったダンの民は、諸国民と共存した。神との約束――義務だった割礼を、わが子に施さない者も現われ、いつしか、異国の民が信仰する神を崇めるようになっていった……。

「イスラエル王国の初代ヤラベアム王は、エフライム族の都市ベテルに幕屋(移動式の神殿)を建てたと養父は申しておりました」

 黒衣の男を撃退したあとも、視線を背中に感じた。

「その頃は、父祖のヤコブとヨセフの墓地があるシェケムが、王国の中心だった」

 シェケムはエルサレムの北約四八㌔に位置し、マナセ族の領内にあるエフライム族の飛び地の都市だった。パレスチナ中央部を横切る東西および南北に通じる道が見渡せた。水が豊富に得られ、すぐ東に肥沃な平原があり、城壁で守られていた。

「ヨシュアは晩年シェケムで過ごしたが、ユダ部族の隆盛ののちは、エフライムの領地であった他のいくつかの都市とともにシェケムは、レビ人に割り当てられた」

 襲ってきた男の他にもう一人いる。その男からは殺意は感じられない。何者なのか? テリトゥ記憶をたぐりよせる。片目の視力を失った時点で、何をしていても違和感がぬぐえない。

「ヨセフの子孫エフライムの王族は、ユダの子孫の策略に抗する手立てをもたなかった。それでも高慢だと揶揄されるが――」王の声が間遠く聞こえる。

 確信はもてなかったが、テリトゥは背後の眼差しに心当たりがあった。神殿前でテリトゥを出迎えた白人奴隷の銀の耳輪に見覚えがあった。養父のエヒズキヤは七年間、仕えた奴隷には律法にしたがい、自由を与えていた。
 別れにさいして、しもべだった男に与えた耳輪だ。男に抱き上げられ、耳輪に触れた記憶がある。なぜ、神殿前で気づかなかったのか……。

「ヨルダン河のむこうを割り当てられたガド族、ルベン族、マナセ族も先住民のアモリ人やアンモン人やモアブ人と共存するしかなかった。ソロモン王は“王の大路”を黒い石で敷き、通商路とし、トランス・ヨルダン全域を王国の領地であるかのごとくに誇示したが、ソロモン王亡きあと、ヨルダン河のむこうのイスラエル人が完全に掌握できたのはギレアデ周辺だったろう。ユダ族にしても、海岸沿いの都市ガザやアシュケロン平野を領有するペリシテ人や、その南の地域に定住するアマレク人の脅威にいまも晒されている。北王国の北の境界はダンの町、南王国の南の境界はベエル・シェバと言われてひさしいが、いまではそれもさだかではない。支配権のおよぶ限界だという意味ととらえればわかりやすい」

 栄光の時は短く、苦難の時は長いと王はつぶやき、胸に溜まった悩みを、すべて吐き出すような息をついた。

「シメオンとダンの二部族には、トランス・ヨルダンに住む半数のマナセ族の領土を割譲するべきであった。勇猛果敢なことで知られるルベン族とガド族と隣接する土地をシメオン族とダン族が得ていたなら丘陵地の多い地形であっても、協力して城壁を築いていただろう。先年、アッシリアに攻められたとき、互角に戦えたやもしれぬ。何を言っても詮ないことだとわかっている。土地を巡っての争いは、この世が果てるときまでつづくであろう……」

 テリトゥは不可解に思うことを口にした。

「なぜ、土地に執着するのです? 遊牧民として生きる生き方のほうが、自由に暮らせるように思えますが」

 王は眉をしかめ、首を大きく横に振った。

「王国を築いてこそ、民は自らが何者であるのか、知れる」

 自らが何者であるのか、テリトゥは知らない。

 王は続けた。「戦士となれる男子の数が少ないという理由で、シメオン族は、ユダの領地内のいくつかの飛び地の都市に散らされた。男子の数が一番多かったユダ部族の領地は、一二部族の中でもっとも防備にすぐれた地を得たが、耕作地に適さない荒地がほとんどだった。大半が切り立った山々と砂漠で占められていた。それに比して、マナセ族とエフライム族はドーム型の肥沃な丘陵地を得た。オリーブ、葡萄、小麦など大量に産することができた。雨の多い気候にも恵まれた。大海に面した平地はわずかだったが、背後が断崖であったせいで防備しやすかった。おかげで、富を貯えられた。嫉みは憎悪を生じさせる」

「憎悪を――?」
 
「ソロモン王の建てた聖都エルサレムを、ユダ王国は有しているが、国力においてはイスラエル王国に劣る。レビ人祭司らは北王国の王と民の不信仰は巻き物(書物)に書きつらねても、自国が、諸国から小国とみなされていることはしたためない」

「言葉で民を欺いていると、陛下は考えておられるのですか?」

 王は肯定も否定もしなかった。「『あなたを呪う者を、わたしは呪う』と神はアブラハムに告げられた」と王は言った。そして、最大にして最悪の選択が、モーセの家系のレビ人のみを祭司職に定めたことだと王は言った。

「一二部族の中にあって、数えられない民となったレビ人は王国が分裂する前に、カナン全土の飛び地の都市を領地とした。四八もの都市を貰い受け、そのうちの六つは避難都市と呼ばれ、どのような罪を犯しても、逃げこめば許される。これらの都市からレビ人祭司と恍惚師はやってくる。いくら追い払っても、いなごの群れのように連中は途絶えることがない」

「北王国はなぜ、レビ人祭司を追い払わないのです?」

「各都市の集会所に仕えるレビ人祭司は一○分の一税を徴収する。それは由としよう。常に裸足で歩き、神のみ使いであるかのような振る舞いを見せているが、影では私腹を肥やして、事あるごとに神の名を用いて、律法をひけらかす彼らの存在が、分断の遠因となったことは否めない。軍役を免除されている彼らはユダ王国の代弁者となり、神との契約を第一義にせよと常に言て立てる。年に三度、エルサレムの神殿に参詣することを民に義務づけたのも彼らだ。地方の貧しい民にとっては、苦役にひとしい。戦闘の最中であっても、七日の一度の安息日には戦ってはならないと広言し、いくさの足枷となる。いったい、彼らは何が為したいのか……武具を備えず、いくさをせず、どうやって国を守るのか……」
 王は目を閉じた。
「ダビデ王もソロモン王も鉄鉱石を貯え、戦時に備えた。また二人の王は異国の者を排除せず、兵士として雇い、異国の力ある者の娘を後宮に迎えている」

 ヨシュアの死後、紆余曲折の末にユダ部族のダビデが、王としての主権を所有し、ユダの領地エルサレムに幕屋が建てられた。これによってユダ部族が王統の永久相続者となった。定められたかのように、ダビデ王の後継者であるソロモン王の死後、北の一○部族と南の二部族に分裂した。

「エフライム族の長こそが、王であるべきだと、一○部族は考えたのだ。ヨシュアは死の直前に、シェケムにすべての部族の長を集めて、ヤハウェに仕えるようにとみなを励ました。もし、ヨシュアが初代の王となっていれば――時をもどせるものなら……」

 テリトゥはロバの背にかけたラクダの毛で織った毛布を取り、丸く削げた石灰岩の岩の上にひろげた。尻もちをついていた王は目を開け、立ち上がると岩の上に腰をおろした。背後の気配に意識を集中する。銀の耳輪をした者に殺意はない。

「われわれの始祖ともいうべきヤコブには、一二人の息子がいた。それがもとで一二部族となったが、ヤコブは臨終にさいして、二人の息子シメオンとレビを非難した。彼らがかかわった暴力行為が許せなかったのだ。『彼らの怒りは激しいゆえに呪われ、彼らの憤りは、はなはだしいゆえに呪われる』とヤコブは言った。そして二つの部族はイスラエルの中に散らされると預言した。ダンについては、『道のかたわらのへび、道のほとりのまむし、馬のかかとを咬んで、乗る者をうしろに落とす』と預言した。ヨシュアの頭の中には、ヤコブの言葉がこびりついていた。『その殺戮の武具は暴虐の器』と言われたほどだったシメオン族は、有能な戦士であったことはまちがいない。男子の数が著しく減少したのも、その勇敢さ故だっただろう」

 ホセア王は南にひろがるエズレルの谷を指さした。

「この地がベニヤミン族に与えられていたら……。いまではユダ部族に従っているベニヤミン族は、ヨセフのすぐ下の弟の子孫だ。母親も同じだったので、ヨセフは弟をとても愛していた。民の数は少なかったが、エジプトからカナンに至る間、近しいマナセ族とエフライム族と共にあった。やしの木の茂るエリコを陥落させたのち、ヨシュアはベニヤミン族にエリコを与えたが、モアブ(ガラリヤ湖の東)の王にすぐさま奪い返された。そののちベニヤミン族は、エフライム族とユダ族、この二つの部族と隣接する狭い丘陵地を割り当てられた。それが不運だった」

「なんで不運なんだよ?」と、ハキームは言った。「両方の部族から守ってもらえるのに」

「ベニヤミン族の若者は家族をもたない」と王は答えた。

 王族につらなる貴族や領地を治める氏族と異なり、血縁によらない自由民の兄弟団の結成が、北と南の両王国のまつりごとに多大な影響を及ぼした。兄弟団は氏族と時に和合し、時に敵対した。彼らは、都市に住む貴族や商人ともしばしば対立した。裁判官でもあるレビ人祭司も彼らを抑えることはできなかった。兄弟団において、男性同士の性交がなかったとは言い切れない。なぜなら、旧約聖書において、男と男は寝てはならないという警告の言葉が繰り返されているからだ。

「妻子のいないベニヤミンの兄弟団は結束が固く、恐れを知らない。半ば、意識を失ったような状態で敵の真っ只中に躍りこみ、血に飢えた獣のように殺戮を繰り返す。女を犯し、子供を串刺しにするーー」

 相手が異民族の場合はそれも許されるが、ベニヤミンの兄弟団はギベアの地で、レビ人の側女を襲い殺害する罪を犯した。その者らを引き渡すようにと被害をこうむったレビ人から訴えられたが、ベニヤミンの兄弟団は従わなかった。そのため、レビ人と同行していたエフライムの氏族との間で争いとなり、絶滅しかねないほどに男子の数が減少した。そのときは、氏族長らの話し合いで生き残れるように計らったようだが……二つの王国に分かれるとき、ベニヤミン族がユダ部族に従ったのは、エフライム族への怒りがあった故だろう。

「初代の王は、ベニヤミン族のサウルだったと養父より聞きました。サウル王はギベアの出身だったと」

 王は皮肉なものだと言った。

「サウルは丈高く、美しい若者であった。ヨシュアの亡き後、統一国家の最初の王に選ばれたサウルは王都をギベアに定めた。最強の兄弟団を率い、獅子奮迅の働きで、イスラエル全土の領地を守り、さらに広げようと奮闘した。われわれにとっては、神から与えられた“約束の地”であるが、戦わねば、エリコのように奪い返される。サウルは、三人の息子と共に戦いぬいたが歳を重ねるごとに当然のごとく力が衰えた。このタボル山のはるか南にあるギルボア山において、ペリシテ人との戦いに敗れ、道具(武器)持ちに自らを斬り殺せと命じたが、道具持ちは恐れた。サウル王は自らの剣の上にその身を突っ伏した」

「ダビデ王は、サウル王の道具持ちではなかったのですか? なぜ、他の部族は、サウル王に加勢しなかったのです?」

 ホセア王は眉間に深い皺を刻み、
「晩年のサウル王は人望を失っていた。自らの若い頃のように聡明で美丈夫のダビデを恐れたのだ。ダビデを殺めようとさえした。そのせいで、ダビデはペリシテ人の軍に加わった時期もあった」

「敵方に寝返っても、王となれるのですか?」

「神の掟を破ったという理由で、サウル王の存命中にダビデは“油そそがれし者”となった。恍惚師と呼ぶべきか、預言者と呼ぶべきか、彼らの託宣で王位が定まる。サウル王が終生、戦った相手は預言者だったのかもしれぬ。王は気を病み、呪術師や占い師にすがるようになった。しかし、息子たちのために死の間際まで戦った。領地を広げ、息子らに王位を継がせたかったのだろう」

「サウル王の子はなぜ、王になれなかったのですか」

「当時のエルサレムはエブス人が支配していた。ベニヤミン族の領地ギベアが本拠地だったサウル王は、目と鼻のさきのエルサレムを落とせなかった。当時はウルサレムという名だった」と王は自嘲気味に言った。

 ダビデは即位したとき、ヘブロン(ユダの南端に近い都市)にいた。七年ののちに、ダビデの部下は片側が崖の難攻不落の都市を攻略した。エルサレムと名を改め、王都と定めた。神殿を建て、モーセと神の交した一○の契"十戒"を記した石板、モーセの兄が所持していたアロンの杖、シナイ半島をさすらったときに飢えた民を救ったと伝えられているマナの壷。それらの入った“契約の箱(=聖櫃)”をエルサレムの幕屋に運び入れた。エフライム族の家長は承服できなかったであろうことは想像に難くない。

「なぜです? タビデが王位に就くことは、他の部族の同意があったからではないのですか」

 王の目が宙をさまよう。テリトゥは王と目を合わせないように気づかう。退屈しきったハキームは座りこみ居眠りをはじめる。イスラエル人の子なら、目を輝かせて聞く話も、ハキームの関心をひかない。ダマスカスで生まれたという話はおそらく偽りだろうと、テリトゥは思った。幼いながらも偽って生きなければならない理由があったのだと。

「サウルがそうであったように、ダビデも強力な兄弟団によって支えられていた。その中には、異国人の傭兵も数多くいた。どの部族も、兄弟団を有していたが、ダビデの配下の兄弟団に対抗できる者は少数だった。しかも、ベニヤミンの兄弟団も従えていた。他の部族は狂暴な彼らの報復を怖れたのだ。エフライム族とガド族は彼らを嫌い、それぞれ自らの領地に神殿を建てた」

「どうして部族ごとに神殿を建てては、いけないのです。わたしには理解できません」

 ダビデが王政をしくまで、ヘブライ人は部族連合体だったので、都市に居住する貴族や商人よりも、地方の氏族ーー戦士となる若者を率いる土地所有者のほうが力があった。

「カナンに定住するために、ヤハウェの名のもとに、諸国の民を滅ぼすことが許された。もしも、神が唯一の存在でなければ、その手が血で汚れていると認めなくてはならない。多くのヘブライ人は戦いつづけることに疲れていたが、兄弟団は血に飢えた狼の集団のままだった」

 王は声を出さずに嗤った。

「アッシリアの先の王、ティグラト・ピレセル三世が、世襲の権利のない余を王位に就けたと、ユダの民だけではないサマリアの民さえ信じている。それが事実なら、ピレセルに感謝しなければならぬな」
 馬鹿げた話だと、ホセア王は吐き捨てた。
「過ぎし日を思うと……余は幸運だったのか、不運だったのか。わが一族はベニヤミン族同様に、死に絶えることがなかった。ティルツァを領地とし、代々、受け継いできた。余が安心して過ごせる都市はティルツァしかない。そなたが余の立場ならいかが致した?」
  
 ホセア王は何事かを迷っているようにうかがえた。「余はそなたに……いや、あとで話そう」

 一二部族の先祖とはなんの関わりもないテリトゥに、北王国の王として命じなくてはならないことがあるようだ。

「余が即位して何年になるのか……」

「即位なされた年も数えますので、九年目かとぞんじます」

「ピレセルが死去したのを機に貢納をやめたのは、耕作地をもたぬ小作人や債務奴隷を見かねてのことだった。アッシリアでは代替りのたびに権力争いが起きる。強き者が王となる。新王は貢納を二年間、猶予してくれた。運河の浚渫と堰の建造に手間取り、徴兵が遅れたせいなのか、あるいは神の御心のなせる業か、そんなはずはない。われわれイスラエル王国は、異国の神々を敬い、崇めた。神の目に正しくないことを行なった。主なる神の怒りをかい、御前から退けられた」と王は溜息をつき、「寛容であることが、果たして罪なのか……。土着の民の信仰する神をことごとく排除するなど、ユダ王国であってもなし得ない……それに……」

 王の胸中には、飲み下せない塊があるようだ。

「イスラエル王国の王は、初代のヤラベアム一世と一○代目のエヒウ王をのぞいて、油そそがれし者はいないと、ユダ王国からやってきた恍惚師のホセアはサマリア城だけでは飽き足りず、ティルツア城の門前にまでやってきて、狂人のごとき形相で喚き散らしている。ユダ王国には、イザヤという名の恍惚師が現われ、正気とは思えぬ振る舞いで預言を叫ぶと聞いた。イザヤは言うそうだ。北王国のすべての高い塔と防備を施した都市はすべて掠奪にあうとーー神の目に正しくない行いのせいだと」

 さほどに滅ぼしたいのかと、王はかすれた声でつぶやき、
「弱さは不穏を招き、反乱となる。国内の乱が外敵を誘う。平安のためには絶えまなく兵を動かさねばならないが、北王国の重臣らは戦う王を好まないどころか、排斥さえする。余のように優柔不断な王を、奸臣は有り難がる。余は、余は……即位した日にできることなら、貴族の地主どもから土地を召し上げ、小作人と債務奴隷に分け与えてやりたかった。奴隷は七年目には、解放されると律法で定められているが、何も持たない者たちが、どこへ行けばいい」

 イスラエル王国の最後の砦である、王都が攻め滅ぼされるかもしれない、この時期に、ホセア王は雑念にとらわれ、いかに身を処すべきか、明確な判断を下せない状態にいるようだった。

「恍惚師のホセアが言うには、『エフライムの栄光は鳥のように飛び去った』そうだ。預言してもらわずとも、承知している。いと高きお方の奇跡でこの窮地を一時的に脱したとしても、大軍を率いる新たな強国がかならず現われる。戦力なき国は四方を見回し、どの国につくべきかと苦慮する。国論はかならず割れる。和平派と交戦派に。百家争論のあげくに、ホセアの言うように『アッシリアと契約を結び、エジプトに油をもっていく』ことになる。余も同じ過ちを犯した。土地も富も人もすべて奪い取られてゆく……」

 ああああああああああ!と王はまたもや嘆いた。

「レビ人祭司どもは読み書きが達者だ。王国が分断したのちに記された巻き物には、北王国と王を貶める事柄しか書かれていない」

「北王国の書記官はどうして、自国の王の物語を記さないのです? 初代のヤラベアム王の御代では、レビ人祭司は去ったそうですが、なぜ、いまは神殿にいるだけでなく、役人を監督したり――」

「余の書物庫には、書記官の記した巻き物がある。穀物の収穫高や徴税額、王宮にかかる経費、神殿への供え物など、あらゆる収支が記されている。言葉より雄弁に、時の王の事跡がわかる。しかし、南の王国ユダの預言者の記す呪いの言葉には勝てない。美しき詩の数々に対抗し得る言葉があるだろうか」
   
「巻物なんて、いらねぇじゃん。おいらが、ちょっと破いただけで、叩き売りやがった」と、ハキームは吐き捨てた。「奴隷の子だったからさ」        

 東から風が吹き、ひとときのやすらぎを運んできた。

「だれが記したのか、『タボルとヘルモンは御名を喜び歌います』というくだりがある。よい響きの詩だ。雪をいただくヘルモン山は、もはやわが領土ではないが、残ったタボル山が聖なる山とされる理由を存じておるか?」

 王は足元を流れる、ひと筋のせせらぎに手をのばし、澄みきった水を手のひらにすくい、喉を潤した。

「この水はヨルダン河に流れる。ひとしずくが大河となる」

 王は濡れた手を見つめ、せせらぎにもう一度ひたした。

「ロバは河の水に沿って歩きます。わたしたちを源へと導いてくれるでしょう」

 テリトゥが言うと、王は微笑した。

「タボル山は平野の真ん中に屹立しているが、遠くから眺めたとき、丸い形がなんとも微笑ましく目に映るのは、気のせいだろうか。タボルとは、ヘブライ語で中心を意味する」

 テリトゥは皮袋にせせらぎの水を汲みなおし、腰帯に結びつけた。

「そなたの持つ皮袋の水を、わたしが口にすることは二度とないかもしれぬ」と、ホセア王はふいに立ち上がり、「『エフライムが語ると、人々は震えた。彼はイスラエルで際立つ存在だった』」と、エズレルの低地平原にむかって大声で言った。そして、「いまいましいが、ホセアの言葉は時に心を奮い立たせてくれる」と言い足した。

 ふもとに近い、日陰の斜面を覆う葡萄園を王は見下ろした。山羊の群れは石塀で囲われ、葡萄園も柵で区切られていた。泥煉瓦の家々は平地を避け、日当たりのいい場所を選んで建っている。彼方にオリーブの林も見える。

「われわれの祖先が遊牧民と呼ばれる、そのずっと以前のことだ。アッシリア人の先祖、アモリ人(アムル人)と同じ流浪の民だった。アモリ人はシリア砂漠を南下し、パレスチナをふくむ北部一帯に広がっていった。われわれヘブライ人の祖先はメソポタミアの各地をさすらった。多くの時が流れて、サマリアの民は農耕と牧畜の民となった。雨期には大地が泥沼となるが、乾期には、民が飢えることのない充分な穀物を黒い土がもたらしてくれた」

 眼下に見える、エズレルの谷につづく平野には小麦の穂が波打っていた。鎌を手にした農夫の姿が、褐色の波間に散見できる。空は曇っていたが、神の恩寵が感じられる光景がそこにあった。

「過ぎ越しの祭り(四月の初旬~中旬)の前に大麦を刈り入れ、七週の祭りの前に小麦を刈り入れる。色とりどりの花が咲く。なんとうるわしい光景だろう。雨期の洪水に苦しみ、遊牧民の掠奪や、地元民との諍いに難儀しながら耕しつづけた父祖には感謝と敬意しかない。飢饉のときもあったが、どうにか乗り越えて、やっとの思いでここまできた。長い長い道程だったが、もうすぐ終わりの時を迎える」

 いま目にしている彼らが債務奴隷でなければよいのだが……と王は言いよどみ、顎ひげをつかみ、むしった。

「相続地は、部族内でしか売買できない取り決めがある」

 これを悪用する者らがいると王は言い、顔を上から下へ撫でおろした。

「不作だったとき、農民は日々の暮らしにも困り、近隣の力のある者に金を借りる。その金が返せず、土地を奪われ、小作人となる。彼らはわずかな食い扶持をもらって働く。債務が大きいと奴隷になる。時には、子供さえ抵当にとられる。奴隷売買は大きな利益を生む。遊牧民の掠奪とさほどかわらない。いまでは、ほとんどの土地が地主と呼ばれる貴族や商人の所有物となっている。あるいは、王と王族の領地だ」

「父は、アッシリアが強国となったのは、鉄鉱石を産するアルメニア山(カフカス山脈)を支配しているからだと申していました」

「よく存じておるな。エジプトには塵のように黄金があると言われているが、鉄はない。いまもわが国同様、武器の大半が精銅製である。戦力の差は歴然としている。それなのに、なぜ、エジプトに援助を仰いだのか、不思議に思うのであろう? 余の手足となってくれる者たちも、口にはせぬが、同じ疑念を抱いていることはわかっている」

「そのような……」

「わが国の為政者は、大神殿を建立したソロモン王の時代でさえ、北は“ホムス・パルミラ回廊”を越えたことはなく、南は、“エジプトの奔流の谷”から先へ野心を広げたことはない。強国に囲まれて出口を塞がれていることもあるが、それ以前に鉄鉱石を買い入れ、精錬する炉をつくることに興味がない。いくさに必要な鉄器の重要性に気づいていながらそうしなかった。北王国と南王国に分裂して以後は、武具を整え、戦う意志を見せれば、強国の不興をかうと恐れたのだ。いまこの瞬間も和平は黄金で贖えると南王国の王は信じている。北王国の祭司らは貴族や商人と結託して、人々の関心を信仰へむけさせる。言葉とは便利なものだ。一言一句、いと高きお方の御言葉だと言えば、すべて真実となる。しかし、こんな戯言を、臣下や祭司の前で口走れば、異教徒だとののしられるだろう」

「王は、ヤハウェを頼みとされていると、父から伺いました」

「信じていなければ、前へ進めない」と、王は引きつった微笑を見せた。「持てる者たちは権利を侵されないために、他国の兵士を雇ってまで不当に所有した耕作地を守っている。兄弟団は彼らと諍いを起こしながら、金銭を通じて貴族や商人に依存している。その結果、恍惚師どもが横行する事態になった。彼らは祭司にかわって、民の窮状を救わんとするかに見える。しかし、彼らが口にするのは、異国の民と交わり、異国の神を崇めることで災いが起きるという預言だった。民を裁く祭司ども同様に、小作人や奴隷を自由民にするどころか、現状に甘んじさせた」

 なぜだ! と王は涙を流した。

「ユダの都エルサレムに巡礼に出かける、金も余裕もない者たちにとって、カナン人の信仰する天候神バアルの石柱へ豊穣と安寧を祈願することは自然な感情だった。この地に住む異国の者との和合の意味合いもあっただろう。それがなぜ、神の怒りをかうのか……」
 王は手のひらで涙をぬぐうと、鼻にかかった声で言った。
「そなたは不思議な力を使って、神殿に住む予言者になろうと思わなかったのか」

 王は手のひらをテリトゥにむけた。

「答えずともよい。神殿に仕える男子のすべてとは言わぬが、娼婦と変わらぬ。ユダ王国の神殿もそれは同じだ。神に犠牲(生け贄)を捧げ、護符をいただき、ついでに神殿にいる娼婦や男娼と戯れることを、人々は愉しみの一つだと考えている。祭司はそれと知りながら見てみぬふりをしている。それが許されるから、異国の神々に犠牲の煙をくゆらせることも、主なる神への裏切りだと多くの民は考えないようになる」

 いくら不義だとののしられても、人々の行いをただすことは不可能に近いと、王は言った。

「歴代の心ある王は、悪弊を絶とうと一度は試みるが、いずれも失敗に終わっている。エフライム族の中で重きをなす者であった、そなたの父も同じ思いであったろう。諸国の神々の石柱や像をいくら打ち壊しても、きりがない。この地に住む外国人のすべてを排斥すればよいと言う者もいるが、それでは、交易によって豊かになった都市に住む者らの反感をかう。異国の商人は貴族と手を組んでまつりごとにかかわってくる。利害と利害がぶつかりあって、結局のところ何事も決定できない。いまとなっては、王都の神殿にさえ異教徒が入り込むありさまだ。モーセは、祭司職は自らの出身母体であるレビ人と定めたが、アッシリアに領土の半分を奪われたわが国にとって、大祭司にかわる祭司長がだれであろうともはや問題ではない」

 いつまでも話しつづけるホセア王に、テリトゥは、「何か召し上がりますか」と尋ねた。「凝乳(チーズ)が少しあります」

「いつまでもこうしていられない」

 テリトゥは杖を捧げ持ち、王の手に戻そうとしたが、王は手に取らなかった。

「神殿に居座っている祭司長を騙る、あの男は幼き頃、宦官となったがために情欲の虜になっている。偽りの言葉の数々を、民のあいだに、まことしやかにひろめることもだが、あれこれ理由をならべたてて王宮の金銀を勝手に持ち出している。なんとしても阻まねばならぬ」

 しかし、知恵のある男だと言って、王は口の端で笑った。

「知恵があると――?」テリトゥは問い返す。

「貨幣の算術において、あの男の右に出る者はいない。諸国の実情にも通じている。もし、あの男が王なら、この難局を打開するだろう。民から絞りとった金を用いてな。それが毎年つづいても、あの男の懐は重くなる一方だ。あの男には余にはない才覚がある。余がもし、強権をもって異教を廃し、狂人と変わらぬ恍惚師を食卓に侍らせ、ホセアの言うがままにヤハウェを崇めれば、災禍から逃れられるのだろうか……都市の外に住む小作人や奴隷が安寧に暮らせるのか……」

 そなたのもつ黄金の鍵があれば……と王はテリトゥの胸元を見つめた。

「この小袋に鍵など入っておりません」

 テリトゥは落胆した。うんざりする長い演説もとどのつまり、そこへいきつくのかと。神殿に居座る宦官の祭司長とどれほどの違いがあるだろう。

「そなたは、余と目を合わせないように努めていた。そのわけを知らぬとでも?」

「国王に対して、非礼があってはならないと……」

「隠さすともよい」と、王は言った。

「右目の視力をなくしたとき、力も失いました」

「さきほど、目の力で、男を蹴落としたではないかっ」

 王に付き添い、ハキームと供をして旅をしたが、王はここに至るまで虚ろな眼差しでほとんど口をきかなかった。それが徒歩になったとたん、独り言をもらしはじめた。結論のない堂々巡りの話になんの意味があったのか。少し前に、ハキームの助力がなければ、王も自分も死んでいただろう。
 二つに分かれた王国の話にテリトゥはなんの興味もなかった。北のイスラエル王国が滅びることは、先頃、病死した養父から何度も聞かされていた。その日がきたら、自分を置いて東にむかって逃げるようにといくども言われていた。それでも、耳を傾けたのは、王が王たる者の務めを果たすと信じたからだ。

「おまえの兄、ラマカルはかならず生きている」

 護衛の役目が済み次第、兄を探して旅立つと、テリトゥが言うと、「いまはまだ行かないでくれ。あと少しで、おまえの役目はおわる」と、王は意味ありげに言った。

 養父のエヒズキヤは、亡くなる前日の夜に、「兄とまみえる日が近くなれば、サマリアの神殿を占拠している祭司長を騙る男が、かならずおまえを呼び出す。ティルツァ城におられるホセア王にも召される」と、遺言した。
 
 そのときから、テリトゥの運命の歯車は動きだしたのかもしれない。
「傷はもうよいのか」とホセア王は尋ねた。

「お見苦しいでしょうが、なんともありません」

「いずれ、黄金の鍵の在処も話してくれるだろう」

 ホセア王はいまのテリトゥにとって、命の恩人である。サマリアを去り、行く当てのないテリトゥを警護兵として雇ってくれたこともだが、テリトゥがいつ旅立ってもいいようにまとまった金子を用立ててくれた。ハキームが同行することも許してくれた。ただし、タボル山まで随行することが条件だった。

「そなたはヤハウェを畏れていないとみなが噂しているが、ほんとうなのか?」
 
「恍惚師は神の声を聞くそうですが、信じられません」

「余も同じことを思っていた。死の門に近づいたいまは……いと高きお方の声を、この耳で聞きたいと思う」

「なぜでございますか?」

 ホセア王はしばらく黙った。そして、
「エヒウ王の曾孫であったヤラベアム二世はダマスカスとハマトの両王国を進貢国にし、イスラエルに繁栄をもたらしたが、子牛崇拝を続けたせいで神の怒りをかい、王の死後、後継者のセガリヤはシャルムにとってかわられ、二年の間に二人の王が代わった。余は常に暗殺者の影に怯えている。本来なら、そなたの養父エヒズキヤが王位につくべきであった。余が即位したとき、エヒズキヤは羊飼いのアモスの言葉を引用した。『イスラエルでは町が一○○○人出兵しても一○○人しか残らず、一○○人出兵しても一○人しか残らない』と」

「滅びることが、定まっているという意味でございますか……」

「ユダ王国の書記の記す、余の王としての事績は不名誉なことばかりになるだろう。そのことはどうでもいい。まつりごとを行なう者のもっとも重要な務めは己れの身がどうなろうと一人でも多くの民の命を救うことだと、余は肝に命じてきた。しかし、こうも思う。われわれの祖先は神の名において、諸国に攻め入った。先住民の恨みをかった。代償を支払う時がきたのだと」

 ホセア王は肩かけを左肩におき、後ろから右腕を通して持ち上げ、胸の前を横切らせて引っ張り、もう一度左の肩越しに後ろへたらすようにして、右腕を脇にたらした。被りものを差し出すテリトゥに首を振り、あと少しで頂だ、みなが待っていると言った。そして、歩をすすめる前に王は深く息を吸った。

 みなが、待っている……。テリトゥはその言葉に凍りついた。

 王は目を山頂の一点に定めると、意を決したように、
「ダビデ王なくば、イスラエルもユダも存在し得なかった。しかし、ダビデ王なくば、王国が分裂することもなかった。ガドとナタンによって記されたと言われている、ダビデ王の生涯は英雄にふさわしい物語が綴られている。だれも疑わない。神の代理人、大祭司から油をそそがれた王であったからだ。過ぎし日々にもどすことは不可能だが、わたしは、ダビデ王のように自らに尽くしてくれた友を裏切る生き方はしたくない。初代サウル王と、三人の息子が戦死したのち、ユダ部族をのぞく各部族の長老らはサウルの功績を考慮し、生き残ったサウルの子を後継者に選んだ。二年後、サウル王の子は暗殺された。ダビデは敵対する王の死を悼み、暗殺者を処刑した。余には口封じをしたとしか思えない。余の犯したおぞましい陰謀と、何がちがうのか。二つの王国では、いくども王とその一族が殺された。どれほどの美談で語ろうと、血を流して得た王位は、血を流しておわる。ダビデが暗黙のうちにわれわれに示したことなのだ」
                    
第四章 エズレルの谷

 この地で咲く花は短い間、ほんの二週ほどしか咲かない。だからこそ、何よりも美しいのだとテリトゥは養父から教わった。テリトゥは花をつむふりをし、王から下賜されたひと袋の銀貨を、ハキームに無言で手渡した。

「ダビデ王が領土を拡張し、ソロモン王が繁栄を築いた」と王は歩きながら言った。「分断した王国は宗教的立場の違いから互いを敵視したとされるが、諍いのもととなったのは“ダビデ契約”だったと余は思う」

 王は杖を使わず、小石の道を踏みしめるように登っていく。テリトゥは何が起ころうと、ハキームだけは生きのびさせなくてはならないと思った。

「ダビデの子孫からメシアが誕生するという、神の言葉をそのままに受け取れば、ダビデの血を受け継ぐ者だけが、王となる資格をもつことになる。われわれの祖先であるヤコブは死にさいして、飢饉で苦しむ父や兄を救ったヨセフを祝福して言った。『兄弟の中から選び出された者の頭のてっぺんにとどまる』と。その一方で、『王笏はユダから離れず、司令者(司令官)の杖も離れない』と言い残した。ヤコブの遺言がどうあれ、恍惚師が何と言おうと、人々を混乱させた遠因は、サウル王の娘を正妻に迎えたタビデにある。サウル王の出身母体であるベニヤミン族の領地にあった“契約の箱”を、平和の都と名づけた要衝の地エルサレムに移し、ダビデの血を受け継ぐ者だけが、王になる資格があるとダビデは宣言した」

 王は迷いを払拭するように、頭を左右にふり、
「袂を分かって二○○年近い時が流れたというのに、エフライム族とユダ族の関係は何一つかわらない。ヨルダン川の西岸(シス・ヨルダン)の南北に位置しながら地形の違いが変わらぬように、互いの心の行き違いも変わらぬ。周辺の国々は短い間にめまぐるしく変貌したが、イスラエル王国とユダ王国の為政者にあるのは、互いへの憎悪だけだ。難局を乗り切る術をもたず、強国に媚びへつらうことしかしない。むろん、余もその一人だ。アッシリアへの貢納をやめる前に、エジプトのファラオに戦馬と戦車の供与を内々に依頼した。アッシリアと戦うためではない。防備を固めれば、進攻を防げるかもしれないと考えたのだ。ファラオは使者を通してであったが、内諾してくれた。信じた余が愚かであった。国と国の間の信義など、あってなきにひとしい。裏切られたのではない。エジプトがかつてのエジプト――エズレルに攻め上ってきた頃の王国ではなくなっていることに、気づけなかった余に非がある。わが国がアッシリアを食い止めれば、それはエジプトの国益にかなうはずだ。しかし、かの国の思惑を見誤った過ちは死をもってしても償えない。エジプトも南王国も、わが北王国をアッシリアに差し出せば、自国は安泰でいられると勘違いをしている」

 愚かだと王は言うと、別人になったかのようにしっかりした口調になった。テリトゥに隣を歩くように言い、従うと話しつづけた。気持ちを切り替えれば、足の運びも軽くなるようだ。ハキームはロバを引き連れ、けんめいについてくる。

「イスラエルの七代目のアハブ王は娘のアタリヤを南王国のヨシャバテ王に嫁がせ、二つの国を一つに結ぼうとした。ユダ王国の立場に立てば、併合しようと企んだことになるのであろうな。かの国の書物には、アハブ王とその妻イゼベルは悪鬼のごとく記述されている。たしかにアハブ王は異教の神の神殿を建てた。同時に、アッシリアと戦い、サマリアの城壁を築き、エリコを再建し、ソロモン王が要塞化したメギドに、倉庫や兵舎を建て地下水道までひいた。すべて、イスラエルとユダが手を携えて進攻してくる国と戦うためだった。いまアハブ王が存命であればどうしただろう。“アッシリアの狼”と戦っただろうか? 朝貢しただろうか?」

 王は立ち止まり、首をつよく振った。

「富裕な貴族の土地を召し上げ、小作人と奴隷に分け与え、戦費をまかなうために商人からは税を徴収し、異なる部族であっても兄弟団を再編成し戦ったにちがいない!」
   
 王は懐から地形を描いた羊皮紙を取り出し、傾斜した地面にひろげると、メソポタミア平野の北端に位置するアッシリアを指さした。テリトゥに見るように促す。

「アッシリア人は、シリア北部の遊牧民だったアモリ人を先祖にもち、シリア、フェニキア、パレスチナに定住し、次第に勢力を強めていった。彼らは長い歴史をもち、ヘブライ人が統一国家を築く以前に、強国であったミタンニ王国を滅ぼし、メソポタミアの北部一帯を支配した」
 と、指が羊皮紙にそって動いていく。
「そののちも繁栄と衰退を繰り返しながら群雄割拠の時代を経て、西アジアの覇権を掌中におさめたのだ。が、それだけでは飽き足らず、さらに版図をひろげ、服属国を維持するために、圧倒的な軍事力で周辺諸国を威嚇した。通商路の確保と大海へ乗り出せる海港の獲得が、彼らのもっとも手にしたい戦果だ」

「養父は、ホセア王ほど英明なお方はおられぬと申しておりました」

「役に立たぬ知識にこだわるのがわたしの悪癖なのだ」と、王は笑いながら言った。「アッシリアは、バビロニアやヒッタイトがなし得なかった広大な版図を有する強大な国家となった」

 王の細い指は羊皮紙から離れない。

「アッシリアの歴代の王は北は黒い海(黒海)、南は下の海(ペルシア湾)、西は大海(地中海)。これら三つを結ぶ巨大な通商路の制圧をもくろみ、軍事遠征を繰り返した。いくさに必要にものは馬と鉄だ。狼と畏怖される帝国は鉄鉱山を支配するために、北方のウラルトゥ国(トルコ・ヴァン湖周辺)と毎年のように戦い、駿馬を求めてザクロス山脈を越えた。守勢をきらい、東の隣国メディア(イラン高原)をいくさで負かし、西のカルケミッシュ(シリアの古代都市)などユーフラテス河沿いの国々を恫喝し服属させ、地中海沿岸の諸都市には貢納に応じさせた。かつての宗主国バビロニアでは王権を掌握した。彼らの為すことには、ためらいがない」

 ホセア王は皮肉めいて口調で言った。

「恍惚師のホセアは、『サマリアの王は水のおもての木切れのように滅ぼされる』と預言した。ダマスカスのレツィン王は、木切れより酷い目に遭った。レツィンが神に選ばれし民でなかったせいなのか……。神に選ばれるとはいかなることなのか、余には未だにわからぬ。かつてヨシュアに率いられたヘブライ人は、約束の地カナンを安住の地となすために土着の民と戦い、多くの血を流した。奴隷だった同胞に安住の地を与えるためには、アッシリアと変わらぬ所業が求められたのだ。神の正義とは何か?」
 
 木切れとなる運命の余にはわからぬと、王は言った。

「ティグラト・ピレセル三世麾下のアッシリア軍は馬がひく二輪、長短二種類の弓をもつ騎兵、槍兵と弓兵からなる大軍団を率いてユーフラテス河を渡河し、シリア砂漠を越え、肥沃な弦月地帯の中核をなすダマスカスにまず進攻した。シリアのダマスカスは、アッシリアに抵抗する近隣諸国の拠点となっていたからだ。ついでにわが国も蹂躙され、国土を半分失った。服属させる意図もあったが何より、兵士への報奨のためだったろう」

 今度ばかりはなんとしても食い止めねば――と王は言う。

「他国に侮られない国となるには、戦馬や戦車を備えなくてはならない。しかし、そなたも存じていると思うが、ヤハウェはなぜかそれらを不要なものとされる。暴虐のかぎりを尽くすことを許す神と、戦馬や戦車を厭う神とは同じ神なのか?」

 ホセア王はこぶしで自らの額を打った。

「わが国はまだしも、国力の乏しいユダ王国にはいくさへの備えがほとんどない。北も南もヤハウェへの信仰が深い者ほど、万軍の神が奇跡の勝利をもたらしてくださると信じて疑わない」

 王は、律法のせいだと嘆息し、
「アッシリア軍の兵士は乗馬にたけ、攻撃に機動性がある。破城槌車で城壁を破壊し、攻城梯子で城壁を乗り越え、城門を開き、弓兵二人が乗る二輪戦車を城壁内に突入させる。応戦する兵士は、弓兵と騎兵の放つ矢に射抜かれつぎつぎと倒れされる」

「アッシリア軍に弱点はないのですか?」と、テリトゥが尋ねると、

「アッシリアの狼は、砂漠の宝石と謳われた商業都市ダマスカスを蹂躙し、破壊した。粗野な彼らは書物や建造物の価値を知らぬ。レツィン王と主立った者らは、ティグラト・ピレセル王の面前に引き出され、目玉をくりぬかれ、皮膚をそがれ、串刺しにされ、城門にさらされた」

 王の目は恐れと怒りに満ちていた。

「後世にのこる彼らの戦勝記念碑、黒いオリベスクに、簡略な言葉で戦果が記されるであろう。『カルフを出発し、ユーフラテス河を越え、シリアのダマスカス、イスラエルのギレアデ、ナフタリ、ガラリヤ、そしてサマリアを占領した。商人から貢ぎ物を受けた』と」

「父は不吉なことは、言葉にするなと申しておりました」

「わが国の未来には凶事しかない」と王は言った。「われわれが膝を屈してアッシリア軍を歓迎しても、彼らは金銀、食糧、武器、家畜などあらゆるものを掠奪し尽くす。例外はある。商人は生かし、成年男子は混成部隊に組み入れる」

 人の使い道は知っているようだと、王は独りごちると、
「現アッシリア王の父、ティグラト・ピレセルの強制移住政策で、ダマスカスは一旦、衰微したが、いまでは地の利を生かした交易でふたたび賑わっている。エドム(現ヨルダン南西の高地)から移住した者も少なくない。商人さえいれば、アッシリアから連れてこられた住民も、その地に自然に根づくもののようだ。狡猾なアラム人のことだから、いくさの始まる前に逃げ出し、こっそり舞い戻っているのだろう。商才にたけ、公用語のアラム語が話せる者たちにとって、どの国に住み、だれが支配者であるかなど問題ではない。商人は思考が柔軟で、軍事強国のアッシリアに足りないもの――他国との交易の駆け引きに優れている。もしかすると、神は、われわれにもそのようになれとおっしゃられているのか……」

 アッシリア軍は、エジプトに密議をもちかけたホセア王を罰するために、イスラエル王国にむかって進軍してくる。三度目となる今回の進攻は、イスラエルの王都を攻め滅ぼし、周辺諸国に反アッシリア同盟の愚かしさを示さなくてはならないからだ。

「シャルマルセル王の率いる軍は、かつてのイッサカル族の領地メギド(ハルマゲドン)にむかっている」

「なぜ、メギドなのですか」

 テリトゥが尋ねると、王は手渡した羊皮紙を広げるように命じた。そして、メギドの位置を指で示した。

「メギドは十字路にあって、古来より要衝の地として知られている。泉が充分にあり、このように街道が四方向に通じている。北の道は、ヨクアネムの近くでエズレルの谷に出る。南の道は、タアナクの近くでイズレルの谷に入る。そして、中央の道はメギドに至る。東の道にすすめばシリアのダマスカスへ至り、西にすすめば丘陵を越え、平野を横切り、シャロンの街道へ行きつき、ペリシテから遥かエジプトまで通じている。かつてエジプトのトトメス三世が進攻してきたとき、命じた。『メギドを攻め取ることは一○○○の町を獲得することだ。断固として攻め取れ、断固として』と。戦った相手は、十一の部族からなるカナン人の首長らだったが――。アッシリアはかならず中央の道からくる」

 後年、ユダ王国のヨシヤ王は名君として臣民の尊崇をうけたが、戦略的な要衝地であるメギドで、エジプト王のネコと戦い、戦死した。

 ホセア王は西の方角を指差した。
「余が逃げるとすれば、エスドラエロン平野に面したヨクアネムの道を選ぶ。平野の北西の端にあるせいで、ダマスカスとの交易路としては適していないが、山道が低いので通過しやすい。それに西側の入り口が途中で枝分かれしていて、海港ドル(フェニキア南部)へ通じている。ヨクアネムを北上すると、アッコ湾(現ハイファ湾)に面した町に至る。平坦な道がつづくので早駈けにはもってこいだ。駿馬がいないのが、残念だ」

 一八世紀、ナポレオンはエジプトに進攻したさいに、反フランス軍の陣頭に立つイギリスのネルソン提督によって戦艦を沈められ、エジプトに封じこめられた。海路を絶たれたナポレオンはわずかな兵を率いて、シナイ半島を横断し、パレスチナを縦断し、アツコ湾へむかうヨクアネムの道を選び、危機を脱した。

 王は早足になった。テリトゥとロバを引くハキームは懸命に王の背中を追う。
「まずはメギドだ」と王は言った。「そこで阻止せねばならん」

「メギドの峠をアッシリアの戦車が越えてくるのですか?」

 テリトゥはタボル山の東のふもとのクファル・タボルから東にむかう街道を見下ろし、王に尋ねた。ハキームも並んで見下ろしている。王が指差した方角と異なることに、テリトゥは気づかなかった。ハキームが正しい方角を指さした。
 
 王は、「斥候には弟のほうがむいているようだな」と言い、「峠は狭いが戦車の通行にさしつかえない」とつけ加えた。「エジプト軍の将軍らはエズレルの谷に出る、北か南の道をすすめたが、トトメス三世は中央の道を選んだ」

 第一次世界大戦では、“メギドの戦い”として知られている。イギリスとオスマン帝国(トルコ)とはこの地で戦った。エドマンド・アレンビィ将軍の率いるエジプト遠征軍はドイツの援助を受けるオスマン帝国が死守する陣地へむかって、メギド峠とヨクアネム峠を同時に進軍した。アレンビー将軍はトトメス三世の記録を読んでいた。メギドの名が、黙示録のハルマゲドンを象徴する言葉となったのは偶然ではない。現代のイスラエルにとっても、この回廊はパレスチナに住む反イスラエル勢力との軋轢の場であるからだ。

「緑にあふれ、風がわたり、なんの不足もない土地」と王は立ち止まり、呟いた。「この地のことではない。かつてバビロニアの地を治めていたシュメル人が、“天国”とも“日出る国”とも呼んだ場所が、東の果てにあるそうだ。行ってみたいものだ」

 頂に近づくほどに、聞こえるのは互いの息づかいと風の音だけになった。とげのあるロータスの木を残して、潅木は伐採されて石灰岩だけになっていく。クロイチゴの茂みを見つけたホセア王は声をあげて喜んだ。

「なんと愛らしい!」

 王は幼い頃から屋敷内で過ごし、書物に囲まれて育ったという。ホセア王の父エラは、長子である王が出歩くことを嫌ったようだ。命の危険にさらされていると感じいたのかもしれない。
 テリトゥは王を気の毒に思った。
 山頂に近づくほど、テリトゥは、王の言う「みな」とは一人のことかと疑った。話し声がまったく聞こえてこなかった。気配すら感じられない。
 あと少しと思った瞬間、数十人の頭が、テリトゥの目に飛びこんできた。 
 王とテリトゥとハキームはロバとともに駈け昇った。

第五章    従いし者                 

 タボル山の頂は草原だった。薄曇りの空の下に、物乞いのような風体をした兵士らがホセア王を出迎えた。
 みな、いっせいに膝を折り、王を仰ぎ見た。
「どうか王よ、とこしえに生き永らえられますように」
 矢と刀による傷を負った兵士らは声をそろえて言った。
 王は感極まったのか、絶句した。
 しばらく沈黙が支配した。

「馬の蹄の音が聞こえる」それが王の第一声だった。つづけて、「兄弟よ、神の声を聞く大預言者でなくとも敗戦は予見できる」と言った。

 草原の一角には切り倒された潅木や、岩や麻の網にいれられた石が積み上げられている。メギドを越えてきたアッシリア軍をここで足止めし、南側の広い低地平原で最期の戦いを試みるつもりのようだった。頂の中央には、薪の山があった。

「王とイスラエル王国のために、最後の一兵まで戦いぬきます」
 ホセア王を即位させるために、ペカ王とその子を殺害したと言われている、エフライム族の戦士ジクリは王の言葉に応えて言った。

 王は笑みを浮かべ、声を張り上げた。
「イスラエルとユダの二つの王国は、アッシリアが台頭するまでもフェニキア、ペリシテ(ガザを中心とした地域)、アラム人のシリア、ダマスカスなどあまたの都市国家の政治的駆け引きに翻弄されてきた。宗教の影響も受けてきた。統治する者の偏狭さ故に、イスラエルの民は、心をひとつにして敵と戦う闘争心に欠ける。しかし、この戦いで何もかも終わる。新しい世がくる。南王国の王も民も気づいていないふりをしているが、建国したときから彼らの盾となってきた北王国が滅びれば後方の小国、南王国も早晩、滅びる。どのような刑罰がわれわれイスラエル人を待っているのかさだかではないが、こののち、平坦な道を歩むことはないだろう」

「なんとしても、サマリア城を陥落させてはなりません!」とジクリが大声で言った。「丘陵地に囲まれた小高い山に築かれた城には三重の城壁があり、万が一、それらが崩されても、山道をかねた保塁がいくえにもつらなり、アッシリアの騎兵を阻むことができます。何より王宮の基壇は、切り石が積み上げられた城壁で守られています」

「民を救うことを、第一義に考えねばならぬ」と王は言った。「民の多くはいくさで死なずとも、捕われるか、逃れた先の国でも奴隷になるだろう。国が滅ぶとはそういうことなのだ」

 兵士らは、ぼろ切れのような衣服をさらに裂いて、声を放って泣いた。ヨルダン河の東、ギレアデで戦ったガド族、ルベン族、マナセ族、シメオン族、さらに北方の部族も加わり、生き残った兵士らが最期の一戦と心に期し、この場に集っていた。

「『イスラエルの民は移し替えられ、ユダの民は散らされる』と預言者は言う。それも神の恩寵なのだろう。どのような未来であっても、子孫が絶やされることはないらしい。恍惚師のホセアは一日も休まず、唾を飛ばして喚いている。『わたしはふたたびイスラエルを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことはしない』と。いと高きお方の御言葉を信じようではないか。われわれイスラエルの民はアッシリアに滅ぼされたのちに、集って他の場所へ移動できるのだと。その地でふたたび、国を建てることが、できるのだと」

 武具もろくに持たない彼らはひたすら涙した。

「わたしはこのいくさに一縷の望みを託しています」とジクリは王に訴えた。「かつてカナン人と戦ったバラクは、ナフタリ族とゼブルン族の兵士をこのタボル山にあつめ、戦勝を誓いました。車輪に鉄の刃のついた戦車と戦い、勝利したのです」

 王は微笑した。

「これから起きるであろう悲惨な出来事は突然、起きたわけではない。二○年前、ヤラベヤム二世王没後、度重なる政変で、われわれ一○部族は王国の統治権をすでに失っていた。周囲の強国の中にあって、二○○年近く持ちこたえられたのが、奇跡だったのかもしれない。フェニキアやアッシリアに富を奪われることで保ってきた平安であった。われわれ王族や貴族は、犠牲になることを厭い、そのために多くの民を苦しめた」

 兵士らは感動のあまり、号泣した。

 王は顎を引き気味にし、「勝利者は一切合財を奪いつくし、敗者は斥けられる。いまこのときも、神からの言葉を預かると称するホセアは、『刑罰の日は着た。報いの日は来た』と城の門前の喚いている。『主はその不義を覚え、その罪を罰せられる』と。民は怯え、ユダ王国へ逃げ出す者も多数いる」

 悔いの涙は枯れはてたと、王は言った。

「いまはもう、神の裁きを待つばかりとなった。しかし、兄弟よ。この場に集った者は少数だが、アッシリアの進攻を一時でもいい、押しとどめようと心に定めた者ばかりだ。城内に逃げ込む者、他国へ逃亡する者、民がそれぞれに己れの行く道を選べるようにしてやりたい」
 
 ヤハウェはもはや、奇跡的な勝利をイスラエルにもたらさないと、みな、わかっていた。それでもなお、唯々諾々と無慈悲なアッシリアの軍門にくだるわけにはいかないと不退転の決意をおのおの口にした。

 ジクリは声を振り絞った。「ユダのアハズ王が、アッシリアを引き入れるようなことをしなければ……」

 王は小さく笑い、
「ユダ王国の三代目の王アサは、シリアに北王国を攻めさせ、ラマ(南部の都市)を破壊した。彼らはわれわれの背中を二度刺した。軍を動かさずに、わが北王国を揺るがしたことも再三あった。南王国には策士がいる。おのれの為すことを正義と信じて疑わぬ、不寛容な恍惚師を飽きもせず送りこんでくる。彼らはイスラエル王国を構成するわれわれ一○部族が“タビデ契約”を重んじず、他国の神を礼拝し、ダビデの子孫を王と仰がぬとののしり、あげつらう」

 王は後ろに控える兵士から順に、一人一人の顔を見つめた。

「一一○年前、北の脅威であったシリアの軍勢をギレアデの陣で見張っていた一人の司令官がいた。みなも存じている、のちのエヒウ王である。南のユダからきた恍惚師のエリシャは、エヒウに油をそそぎ、アハブ王の子ヨラムと一族を滅ぼす使命を説いた。敵は北のシリア人ではない。ヤハウェに従わぬイスラエルの王であると言ったのだ。名立たる剣士であったエヒウはこれを聞き、反乱軍を率いてエズレルにむかって兵車を走らせた。シリアとの戦いで負傷していたヨラム王が、前線をはなれエズレルに滞在していることを知っていたからだ。南王国ユダの若き王アハジャが、叔父であるヨラム王を見舞いに訪れていたことも、エヒウの野心を駆り立てた」

 このとき、北王国と南王国は擬似同盟関係にあった。アハブ王の娘アタリヤがユダの王・ヨシャバテに嫁ぎ、ヨシャバテ王の死後、アタリヤの弟ヨラムが北王国と南王国、二つの国の王となり、七年間両国を統治した。そののち、紀元前八四二年、アタリヤの子アハジャに、ヨラムはユダ王国の王位を譲った。

「エヒウの動きを察知したヨラム王は、単身兵車に乗り城門の外へ出た。おそらくヨラム王は自軍の兵士が裏切ると知っていた。母と甥のアハジャを救うためにも城内に立てこもらなかったのだろう。アハジャ王は危機をさっし逃がれたが、エヒウの部下に見つかり、捕らえられて致命傷を負った。アハブ王の孫のアハジャは、ユダの王となった年に、メギドの地で死んだ。エヒウは、ヨラム王を自慢の大弓で射殺し、町に入った。『われは、油そそがれし者である』と宣言しただろう。そのひと言で、悪業も正義となる」

 信義など陰謀の口実にすぎぬと王は言った。

「統一国家となり、北の強国シリアに対抗することが、アハブ王の生涯の願いであったが、タビデの子孫であるヨシャバテ王の長子であっても、ユダ王国の民と祭司はアハブ王の血をひくアハジャを王にいただくことを由としなかった。それはイスラエルの主立った者も同じだっただろう。アハブ王の遺志を引き継いだヨラム王は戦いつづけたからだ。戦費の調達に貴族や商人は難色を示し、民は徴兵にあらがった」

 ホセア王はつづけた。声に張りがあり、聞き入る兵士の胸に染み入った。

「イスラエル軍の司令官も兵士も、エヒウの非道を糾弾しなかった。こぞって、エヒウに忠誠を誓った。サマリアの氏族も一致してエヒウへの忠誠の証として、アハブ家の縁者とそれに類する者をことごとく殺害し、首をかごにいれてエヒウに送りとどけた。エヒウはそれらの首をエズレルの門のかたわらに積み上げ、さらしものにした。それだけではない。エヒウは、息子に付き添っていたイゼベル王妃を、王妃の側近に命じて塔から突き落とさせた。血が壁に飛び散ったと記されている。エヒウは王妃の遺体を馬の脚で踏み付け、犬に食わせた。その直後に、自ら食事をしたと記されている。南王国では預言者として名高いエリシャは述べた。ヤハウェの裁きに熱意を示したエヒウに報い、四代までエヒウの王朝がつづくことを神が約束したと。これが神の代弁者の言葉か! なぜ、恍惚師どもは、ダビデの王統には疑義をさしはさまぬのに、われわれ北王国の王統に異議をとなえ、野心のある者に甘言をろうするのか!」

 王は預言者への不信感を隠さない。

「もっとも邪悪な王妃として記されているイゼベルは、フェニキアのシドン王の娘だった。アハブ王は、各国の王族の娘を娶ったソロモン王を見倣ったにすぎない。祭司の中には、異国の女を娶ってはならぬと言う者もいるが、モーセの妻はエチオピア人であった。アハブ王にとって、イゼベルとの婚姻は北の強国から自国を防衛するための政略結婚だった。しかし、アハブ王がイゼベルのバアル神崇拝を正式に認めたために、祭司と預言者はこれを糾弾しつづけた。王妃が北王国に邪悪な神像をひろめたことは、ヤハウェへの背信行為であり不義とみなされた。イゼベルは国内にいるバアル神の預言者を保護し、ヤハウェの預言者を全員殺すように命じたと記されているが、ヤハウェの預言者らは身をかくし、難を逃れたとも書かれている。アハブ王の配慮があったと推察できる」

 この日のために一言一句、あやまたないように王は、幾日も口の中で反芻したのだろう。

「エヒウは王になり、何をしたか。シリアを攻略したアッシリアにトランス・ヨルダンの統治権を与えたうえに、朝貢までしている。神の恩寵でエヒウの王朝はたしかに四代つづいたが、エヒウ王朝の為したことはアッシリアの要求をすべて受け入れる慣例をつくったことだ。先の王ペカは、ギレアデの若者らと決起し、アッシリアの王に一○○○タラントを支払った王の子を殺害した。それは父祖の代での屈辱があったからだ。怒りに耐えられなかった先の王に、余は死をもって報いた。傲慢にも、自らが王となれば短慮な企てはせず、強国と渡り合えると愚かにも考えた故の決断だった」

「王よ……」ジクリはあふれる涙を手のひらで拭った。

「いつもいかなるときも」と、王は言った。「預言者と称する恍惚師の言葉がわれわれを苦しめてきた。馬の腱をきり、戦車を減らすことが神の意に添うと信じた王さえいた。金銀を支払えば、強国に攻められないと信じた王もいた。余はそれらの考えをただし、失った領土を取り戻す決意で王となったが、何もできなかったばかりか、いま、心ならずも王都すら失う事態を招いてしまった。民はもとより、信じてついてきてくれた臣下には、ひたすら詫びるしかない」

「王よ! あなた様はわれわれの唯一の希望です」ジクリの言葉にみな、うなずいた。「王なくば、われわれもなし!」

 銀の耳輪をした白人の男が、ゆっくりと頂に登ってきた。その場にいる者たちより、頭ひとつ大きい。肩幅や胸幅も広い。
 神殿で見かけた大男だ。エヒズキヤのもとでは家令だった。五歳だった兄を連れ去ったのもこの男だったのではないか。もしかすると、この男が人さらいの首謀者だと養父は知っていたのではないか?

 耳輪の男は、ジクリのそばにひざまずき、言上した。
「偵察に行かせた者の話では、アッシリア軍は、ダマスカスを出立し、ガラリヤの海に沿って一列縦隊で南進しています。兵が多勢であるため、歩兵の隊列が切れ目なくつづき、最後尾の兵站部隊がメギドに至るには少なくとも一○日ほどかかるかと存じます」

  この背の高い男は何者なのか?

「商業都市ダマスカスは、強国の進攻を防ぐために四方に伸びる交易路は道幅が狭い上にアスファルトで舗装されておらず、軍用道路に適しておりませんので、いましばらくの余裕があるやもしれません」

 男の言葉に王はうなずき、「射兵と戦車の総数は?」

「射兵は少なく見積もっても、三万。大型戦車は六○○両、兵車は一二○○○両。アッシリア軍の総数は、一○万余かと」

 数頭の馬に引かせる戦車には通常、四人が乗っている。内訳は御者が一人、弓矢を携えた戦士が二人、敵の矢を防ぐ盾持ちが一人。片や兵車の乗り手は一人で、ながえ(長く突き出た長い棒)とくびきによって動きの速い馬につながれ、矢筒、弓入れ、盾、槍などを装備していると男は詳細に説明した。

「戦闘がはじまると、ご承知と存じますが、手綱を腰か太股に巻きつけ、空いた両手で武器を使っています。手ごわい相手です」

「わが軍には、兵車の分団が二つあります」とジグリは耳輪の男ではなく、王にむかって言った。「兵車隊の半分の隊長がいます。彼らが射兵と槍兵を指揮し、アッシリアの戦車を食い止めてみせます」

 王は力なく首を横に振った。「われわれの先祖は羊飼いだったが、アッシリア人の先祖はアッシュルの商人と呼ばれていた。ユーフラテス河やタウロス山脈を越えて、西方のアナトリア高原の町カネシュまで旅していた。乗馬にたけた彼らには、生まれながらに機動力が備わっている。神に与えられた約束の地を持たない彼らは、一つところに留まることを知らぬ」

「このまま何もせず、戦わず、領地を明け渡すと、王はお考えなのですか」と、ジグリは詰め寄った。「ご決断を!」

「イスラエルが二つの王国に分かれたあと、われわれイスラエル王国は周辺国の脅威に絶えず晒されてきた」と王は言った。「北方のシリア(アラム王国)の各都市と時に戦い、時に和合し、合従連衡を繰り返した。異国の民を傭兵にし、役人に取り立てながら、彼らと交わってはならないと祭司から戒められる。騎馬民族のアッシリア人は、力こそ正義だと、なんの疑いもなく信じている。われわれが領地を維持することに力を注いでいる間に、アッシリア人は馬で大地を駆け抜け、帝国を築いた。われわれと彼らの何が違ったのか――、敢えて言うなら、われわれイスラエル王国は商人や貴族に牛耳られ、最低限の兵力しか持たず、富を貯えることに専心してきた。それが裕福な者と貧しい者に間に軋轢を生んだ。いま、商人が往来する道をアッシリア兵がやってくる。『エズレルの谷でイスラエルの弓を折る』とホセアは宣告している」

 ジクリは王を励ますように、「何があろうと、エズレルの谷から先へは一歩も入れません!」と断言した。

「冷静になるのだ」

 王はジグリの言葉をさえぎった。テリトゥは話が核心に近づきつつあると感じた。              

 王は言った。「アッシリアは平地でのいくさを得意としている。エズレルの谷は低地の平原だ。彼らは、時を要する篭城戦を避けたいがゆえに、大軍で押し寄せ威嚇し、城門を開けさせる。かつてアッシリアと戦ったダマスカスは、兵糧の貯えがさほどなかったせいで膝を屈するのが早かった。サマリアは異なる」
        
「どのようなご命令にも従います」とジクリは言った。

「ではーー、余の命ずるままに動いてほしい」と王は言った。

 兵士らは射るように王を見つめた。

「わたしと、このテリトゥをタボル山に残して、みな、城へ引き返してくれ。怪しまれぬように数人単位に分かれて城門をくぐるのだ。祭司長の息のかかった守備隊の兵士の目をごまかし、無事に通りぬけられれば、城内にいる裏切り者をまず殺めよ。祭司長を騙る男とその配下だ。宮廷の高官の中にも内通者はいる。その者の名は書面にしたためてある。殺した後、籠城の準備をせよ。おまえたちを阻む者がいれば敵とみなし、切り殺せ!」

「それで王は……ここで何を?」不審な表情のジクリが問うと、

「余はテリトゥと弟の三人で、そなたたちがつくってくれた、岩や木材の山を崩して敵の進軍をすこしでも遅くする。おお、斥候の役目をしてくれたシャダイもいる。この者は、サマリアの神殿で門番を務め、偽の祭司長の動向を探ってくれていたのだ」

 兵士の間に動揺がひろがった。シャダイと名乗る白人の男に疑いの目をむける者も少なくなかった。

「その者はともかく、残る二人はまだ子供です。そのような大事が為せるはずがありません。王もいくさ場の経験をしておられない」

 王は並み居る兵士にむかって、声を張り上げた。「案ずるな。何年も前から考えてきたことなのだ」

「せめて、わたしが残ります」と案ずるジクリを王は諭す。「そなたしか籠城戦の指揮をとれる者はおらぬ」

「しかし……そのような者はここにもおります」

「三年、持ちこたえる覚悟を城に残る兵士にさせよ。三年あれば、どこかの国か都市がかならず動く。動かずとも、アッシリア軍が手こずれば手こずるほど、自国の反乱分子を抑えられなくなる。無敵に見える国もかならず、ほころびが生ずる」

「王よ。旗頭となるお方が不在では、城中の者らの士気があがりません」

 兵士らはこぞって、ホセア王の名を呼んだ。

 王はみなに静まるように両手で制すると、「わが長子がいる。まだ幼いが、自らの為すべきことはわかっている。王の証となる杖も残してきた」

「王よ……」ジクリは言葉に詰まった。「一刻も早いご帰還を」

「聞くところによると――」と、王は話を転じた。「シャルマレセル王の即位に同意していない兄がいるという。敗け知らずの先の王と異なり、いくさ場の経験不足が否めない新王は、司令官らの信頼は得られていないうえに、王自身、遠征を好んでいない気配があるそうだ」

「それは耳寄りな話」と、ジクリはようやく安堵した表情を見せたが、王の次の言葉で表情がくもった。

「余はこの者らと、アッシリア軍を驚かせたあとすぐさま、フェニキアのシドンへむかう。かの国の王はかねてより、アッシリアの暴政を苦々しく思い、一矢報いたいと機会を狙っている。ゼブルンの氏族長とともにシドン王を説得し、アッシリア軍の背後をつく所存である」

 ジクリと兵士らの顔から不安の色はぬぐえなかったが、そのような作戦であれば、城を守る兵士も納得すると思ったのか、承知つかまりましたと、そろって低頭した。

「ここを立ち去る前に頼みがある」と王はたたみかけた。「薪を燃やし、のろしを上げてもらいたい。大軍がいると、見せかけたいのだ」

「勝利はわれらに!」と声をあげた兵士がいた。「わたしはアセル族の者です。シドンに恭順したゼブルン族に怒り、悲しんでおりましたが、王に同行し、半旗を翻すよう彼らを説得いたします」

 若い兵士は陽になめされ、赤銅色の肌をしている。小柄で、いかつい顔をしている。

 王は、半信半疑の表情をした兵士らを宥めるような口調で、
「サマリア城が持ちこたえれば、ゼブルン族は必ず反旗を翻す。シドンの首長とともに狼の背後を突く。どのように強い軍も、挟み撃ちに遭えばひとたまりもない。みなはアッシリア軍を引き寄せ、疲弊させるのだ。馬の脚はロバより弱い。城壁の陵保から油を流し、火矢を射ればひとたまりもない。アッシリアの馬は、サマリアの馬と異なり、丈高く、脚が細く長い。まず馬を射よ。敵軍の破城槌車も、山のいただきに建つ城の城壁にたどりつくことはむずかしい。さらに困難にさせるために押し上げる者と綱で引っ張りあげる者の呼吸が合わぬように、ラッパを吹き鳴らすのだ。攻められたさいにもっとも警戒すべきは攻城梯子だ。歩兵が数人かがりで障壁に梯子をかけ、のぼってこようとするが、あわてて投石してはならない。梯子の先端が城壁にもたせかけられ、兵士の頭が見え隠れした瞬間に長槍で鎧を押せばよいと、みなに伝えよ!」

 王の声は弾んでいた。道中、テリトゥが耳にしたことのない声音だった。

「夜襲はかけるな。わかっていると思うが、兵士一人一人の命を重んじよ。一日でも長く戦うためだ。みなをたのみにしているぞ」

「王よ、王よ、王よ……」ジクリは顎ひげを引き抜き、衣の裾を引き裂いた。

 王はふたたび、兵士の顔を見回し、サマリア城での再会を誓った。
「いま語ったことは、戦術だが、もっとも重要なのは、兵站をいかにするかということだ。王宮の穀物倉庫には、サマリア城内の兵士が食する三年余の食糧が備蓄されている。余はこの日に備えて、王宮の地下に密かに武器を貯えてきた。みな、急ぎ、帰城し、鍛冶職人に武器を作らせよ。そして、城内に逃げこんだ民の一人一人に弓矢とつるぎを持たせるのだ。さぁ、兄弟よ、立って、のろしを上げてくれ。わが心は常にそなたたちとともにある」

 みな、天空に響くような大声で泣いた。

「ユダの民が獅子なら、われわれイスラエルの民は、天を駈けるユニコーン(一角獣)なのだ」と、王は言った。「主よ、イスラエルよ。自由のあけぼのを見よ。神のみ名はほむべきかな」

 薪が燃え盛るやいなや、煙が立ち上った。それを合図に町や村の穀物倉庫に火が放たれた。王の迷いはこのことだったのかと、テリトゥは合点がいった。穀物倉庫が消失し、アッシリア軍が攻めのぼってくれば民は餓死するか、殺されるかのどちらしかない。

第六章 王の裏切り
 

 ジグリらが去ったあと、暗い雲がたれさがってきた。残ったのは銀の耳輪をした長身の白人奴隷のシャダイとアセル族と名乗った若者。それに、王とテリトゥとハキームの総勢五名のみ。

 王は言った。「そなたの持つ黄金の鍵を、出してもらおう」

「なんとおっしゃいました? わたしはそのようなものは所持しておりません。偽りを申しているわけでは――神殿でも、同じことを申し上げました。門前にいたその者が存じているはず」

 アセル族と名乗った若者はテリトゥにほほ笑みかけた。そして、「わが妹よ」と呼びかけた。たしかに髪は黒い。年齢も二つ違いの兄の年齢に近い。しかし、目の色が違う。兄だという男の瞳の色とシャダイの瞳の色は同じ碧眼だった。

「黄金の鍵は、シュメルのウルクに城壁を建てたギルガメッシュ王が、所持していたものだという。そうであったな? ラマカル」と、王は女のような細い声で言った。

 ラマカルとは、アッカド語で、霊力を意味する。黒髪の若者は深くうなずき、「小袋にあるのは矢尻の形をした鍵です。母から聞きました」

「母……?!」養父の側女は、土着民の下女だった。

 テリトゥは後ずさった。カナン人に碧い瞳の者はいない。下女が病に倒れ、身まかったとき、養父は「すまない」と何度も謝っていた光景だけは頭の片隅に残っている。
 矢筒と弓を背負ったハキームは何事が起きたのか、理解しないながらも、テリトゥの側から離れない。

「わが民の先祖であるアブラハムは、シュメル人の築いた都市ウルの城外で暮らす遊牧民だった。アブラハムがいかなる経緯で、黄金の鍵を手に入れたのかはわからぬ。たしかなことは、神の七つの力をもつ“メ”と呼ばれていた黄金の扉を開ける鍵を失ったシュメル人の王はアッカド人によって滅び、ソロモン王の建てた王国も黄金を得たが、いま、その一つが滅びようとしてる」と王は言った。

 シャダイは、王の言葉を引き取るように、
「天の星が石になり、矢尻に姿を変えたとエヒズキヤから閨で聞いた。おまえのもつ矢尻の本来の力はひと時の権力を手にするのではない。多くの民を従え、永遠の都を建てることなのだ。この夢を叶えたものはいない」

 祭司長は、黄金の箱か扉を開ける鍵だと言ったと、テリトゥは抗弁する。

「バビロンには、楔形文字を記した粘土板を収集した建物がある」と王は笑い堪えながら言った。「シュメルのウルクにあったものをバビロニア王国が継承したと仄聞し、粘土板の写しを、祭司長に少年や女を世話してやり、取り寄せたのだ。あの者は、物語だと言って鼻先で嗤ったが、余はモーセの五書と同じように真実の物語だと思った。解読できぬあやつには、偽の情報を流してやったのだ」

 テリトゥの嫌悪の表情にも、王はたじろがない。それどころか、矢尻こそが、天からの贈り物である宝なのだと言い張る。養父のエヒズキヤは奪われないために、鋼の中に天の石を砕いて埋め込んだのだと。

 テリトゥは小袋の中の矢尻を手に取り、
「父はなぜ、そこにいる兄に託さなかったのですか?」

 王は頷き、「おまえに不思議な力があったからだ。その力はもはや失われた。われわれが手にするときがようやく訪れたのだ」と言った。

 養父が七週祭の二日目に涙を流しながら夜明けまで歩いたのは、シャダイとラマカルの二人が姿を消したせいだ。シャダイは養父から矢尻の秘密を閨で聞いたと言った。養父が死の床にいる下女に詫びたのは、ラマカルが、シャダイの子だったからだ。夫ともいうべき男に捨てられ、五歳になったばかりのわが子を奪われた奴隷女は生きる希望を失ったのだ。それは養父も同じだった。養父がある時期を境に長老会に参じなかったのは、神の目に正しくない行いをしていたからだ。養父が未婚だったのは、理由があった。奴隷市場でシャダイを買い入れ、解放するまでの七年間、養父は幸せだったのか……。

「王は、二人が私たちの後をつけていることを、ご存じだったのですね?」
「おまえの力を試すためだった」と王は言った。「来たるべき“エズレルの日”のためだ」
「エズレルの日とは?」
「移し替えられたイスラエルと、散らされたユダがふたたび、一つになる日のことだ。そして、その日、われわれはすべての民の頭となる」

 移し替えられたイスラエルとは、北王国の十部族をさし、散らされたユダとは、南王国の二部族をさす。二百年前に分裂した民がもとに戻ることも不可能だし、ましてや、あらゆる部族の頂点に君臨するという話に至っては口にするだけでも馬鹿げている気がした。

「ホセアの預言をお信じになられるのですか?」テリトゥは尋ねた。
「アッシリアの新王は正式に親書を送ってきた。降伏するなら、許してよいと言ってきた。余は民のために囮になれと――バカげている。余は、東の果ての国で、新しき国を建てる」
「お待ちください! それでは、籠城する者たちが――」
「何程のことができるのか知れぬが、やれるだけのことはやってみるつもりだ。余は恍惚師を見て気づいた。ホセアは、イスラエルの民と異民族、氏族と兄弟団、地主と小作人を言葉をもちいて対立させた。不満を敵意に変えさせた。アッシリア人は戦いには優れているが、言葉を駆使して人心を惑わす術はたけていない。残酷だが狡猾ではない。余はホセアの預言を実現してみせる」

 王は上気した顔で言った。

「そなたもわれわれとともに東へ向かい、わが民を率い、あらたな国をつくり、ふたたびイスラエルの地へ導くのだ。そのとき、余は、すべての民の王となる」

 テリトゥは王が正気ではないと思った。

「王よ。わたしはイスラエルの民ではありませんし……全能の神と称されるヤハウェを信仰していません」
「そなたが、恍惚師や預言者や祭司のようであれば、頼まぬ」
 王は懐から地形とは別の羊皮紙を取り出し、「これを見よ」と言った。テリトゥが躊躇っていると、王は読み上げた。
「イスラエルの民の数は海の砂のようになり、量ることも数えることもできないほどになる。『あなたたちはわたしの民ではない』と言われた場所で、『生きている神の子たち』と言われるようになる。ユダの民とイスラエルの民は集められて一つになり、自分たちのために一人の長を選び、そこから出ていく。エズレルの日は大いなる日となるのである。(ホセア書1章10―11節)」

「まやかしだ」と、テリトゥはつぶやいた。

「おまえは王に従わぬのかっ」と、ラマカルは声を荒げた。

 王はきびすを返し、テリトゥの背中に回り、「余がまだ見ぬ地へ赴き、その地の王となりたい」と言ったかと思うと、ラマカルがテリトゥの首に腕を回し絞めた。振り払えない。彼はテリトゥの後頭部をこぶしで一撃し、前のめりになったところを突き倒した。ハキームは間に割って入り、ラマカルに殴りかかろうとしたが、大柄なシャダイに首根っこを押さえられ、地面に叩きつけられた。

「畜生め……クソヤロウ!」

 ハキームは素早く起き上がり、弓に矢をつがえようとした。
 シャダイはハキームの手から弓矢を払い落すと、少年の顔面を砕く勢いで殴打した。気を失ったハキームをシャダイはうつ伏せに蹴転がし、下肢をむき出しにすると背後にのしかかった。

 王は目を両手でおおい、悔しがる。「殴るだけでよいではないか。相手が子供とはいえ、おまえがそのようなことをせずとも……余はいやじゃ」

 ハキームが殴られている間、ラマカルはテリトゥを押し潰すように背中にのしかかり、テリトゥの両手両足におのれの両手両足を重ね、体重をかけた。テリトゥが抗えば抗うほど罠にかかった小動物のように手足の自由を奪われる。おのれの非力さを、テリトゥは思い知らされた。
 覆いかぶさるラマカルは父親のシャダイに似ず小柄だったが、全身から発せられる荒ぶる力がすさまじかった。白濁する前の眼力を使ったとしても、ラマカルには通じなかったかもしれない。テリトゥの倍近くあるこぶしで耳のうしろを殴られたとたん、首が真横にねじれ、呼吸が一瞬止まった。

 剣や弓の鍛錬はこんなときのためにあったのではなかったのか……。

 揺らぐ心を、テリトゥの裡に宿る魂は許さない。おまえは、おのれが何者であるのか、忘れたのか。

 おおつむじの風のごとく、敵にむかって狂気と禍いを襲いかからしめよ!

  光と闇をつらぬく、風と嵐をつさどる龍神となれ!

 胸奥の何者かがテリトゥに語りかける。

 ラマカルの手がテリトゥの衣服を剥ごうとした瞬間、強風が山頂に襲い、黒雲があたりを覆い、雷鳴がとどろいた。驚き、立ち上がろうとしたラマカルを稲妻が直撃した。

 ラマカルの体は死人のように横たわった。一見、欲望を吐き出し、陶酔しているかのように見える。シャダイと王もそう思ったに違いない。 

「火が消える。どうなるのだ」消え入りそうな王の声に、シャダイは呵々大笑する。「アッシリアの神・アッシュルは、あなどれんな」

「町や村に火を放った者たちが、女子供を連れてここへ逃げてくるやもしれぬ。一刻も猶予はならぬ」と、王は涙声でシャダイに訴える。「みな、エフライムとマナセの者らだ。怖がらせてはならぬ。女はともかく、男と男とは――神は禁じておられるのだ」
 シャダイは王に言った。「王よ、この者らは無割礼の異教徒です。凝らしめているのですぞ。この者を連れていき、王のしもべとします。存分に愉しんでください」
 王は激しい雨に打たれながら山頂を行き来し、いやじゃ、いやじゃを繰り返していたが、シャダイがハキームから離れると、そばに駆けより、「王宮の金は持ってきてくれたのであろうな」と耳打ちし、しなだれかかった。「牛や羊を飼い、遊牧民となり、余は東の果ての地へ旅するのだ」
「私はともかく、王の神が、お怒りなのでは?」
「じらすな」
 シャダイは片手で王の背中を抱きあげつつ、残った手で王の屹立した性器をさぐり当てる。風雨が王の欲望を搔き立てるのか、雷鳴にも屈せず、全身を痙攣させた。王はうわごとを言う。

 わたしは、エズレルの谷でイスラエルの弓を折ると。

 嵐を跳ね返すような笑い声をあげるシャダイは、よろけながら立ち上がったテリトゥの胸にぶらさがる矢尻をむしり取ろうと手を伸ばす。
 養父の形見と思い、大事にしてきたが、シャディと養父の関係を知ってからは、こんなもののためにとこれほどの屈辱を味あわされたと思うと、血反吐を吐きそうになる。

 テリトゥはハキームの下肢に衣を着せかけると、顔を濡らす雨を手でぬぐい、「矢尻はやる」と、シャディに言った。「ただし、少年は私のものだ」
「いいだろ。こっちも急いでいるんだ」
 テリトゥは矢尻を投げつけると、ハキームを揺り動かした。
 ハキームは「殺してくれ」と小声で言った。
 テリトゥは少年を励ました。「立って身繕いをしろ」
「おいらは、穢されてしまった」
「穢れているのはヤツらだ」
 テリトゥはハキームの褐色の髪に手を入れ、「生きのびて報復するんだ」と耳元で囁いた。
 いつまでも起き上がらない息子のラマカルが、半死状態でいることにようやく気づいたやシャディは、醜い形相に変わり、「二人とも殺す!」と叫んだ。

 テリトゥはハキームの手を取り、稲光のする天空に向かって、宙に舞った。
 タボル山の頂が真下に見えた瞬間、白光に包まれた。
 頭の中がぐらぐら揺れる。骨と肉が粉々に砕け散ってゆく。
 これですべて終わるのか――。まだ自分が自分であることを、魂が知り得なかったときにも、同じように落ちていった。そのときは、荒れ狂う海だった。血の涙を流す女性が、意識の底にいた。

第七章 逃亡の果てに  

 丸い器を伏せた形状のタボル山から落下したテリトゥとハキームは偶然、通りかかったアモリ(アムル)人の牧羊者に助けられ、一命を取り留めた。
 気づいたとき、テリトゥは記憶がないことに真っ先に気づいた。あきらかに、自分より年少に見える少年が、テリトゥと呼ぶので、それが自分の名だと認識するしかなかった。

「おれたちは無二の親友だったんだ。わすれたのか?」
「いつから?」
「子供のころから、いっしょに育った。おれたちはお互いに孤児だったから、売られたんだ」
「だれに」
「親に決まってるだろ」
「わたしの親を、おまえは知っているのか」
「覚えているわけないだろ。四、五歳の頃の話を」

 ハキームと名乗る少年の口調に説明できない違和感があった。何かが違う。鋭い目つきで話す少年の声は、テリトゥの裡なる魂に響かない。
 アモリ人の羊飼いの娘たちは、凛々しいハキームに心惹かれたようだ。とくに、今年、十五になる長女は、ハキームと目が合うだけで頬を赤らめている。

  西方のセム語族であった彼らは、シリア砂漠からメソポタミアに流入してきた遊牧民である。シュメル語ではマルトゥと呼ばれる,アモリ人はあまたの王朝を建国してきたと言われている。イラク南部のバビロン、ラルサ。北部のアッシェル。ユーフラテス川流域では、マリ。ディヤラ川ではエシュヌンナなどである。先祖は同じ遊牧民であっても、バビロニア人もアッシリア人も同族とは欠片も思っていない。

 テリトゥは彼らとの暮らしに馴染めなかった。

「なぜ、わたしたちは、遊牧民とともにいるのだ」
「逃げてきたからじゃないか」
「どこから」
「うるさいんだよ」

 娘は四人いても息子のいない牧羊者は傷の癒えたハキームを羊飼いとして雇い入れた。テリトゥはハキームの兄だということで、ともに旅することを許された。南下してくるアッシリア軍を避けるためもあったが、牧草地を求めてヨルダン川を越えて、東へ移動した。テリトゥは右足の腱を痛めて歩くとき、足をひきずるようになつた。

 白濁した右目の下に切り傷がある。

 顔面の片側は塑像のようにうつくしい、しかし、もう片側は、目は白濁し、頬に傷がある。テリトゥは、羊飼いたちから「死の天使」と呼ばれるようになった。一方のハキームはあばら骨を数本、骨折したが、他に怪我がなかったので三月もすると、その後は背丈ものび、いまでは、テリトゥより逞しくなった。それでも、テントで寝起きする牧羊者の家族と離れて草原でラクダと眠るテリトゥのあとについてくる。
 テリトゥは何度も言った。ついてくるなと。

「もう、私は何も覚えていない」
「おれたち友達だったろ。神殿の祭司長に仕える侍童だったことも覚えてないのか」
「だったら、なぜ、ここにいるんだ?」
「十五になれば、お払い箱になるか、宦官になるしかなかったんだ。おれたちもうすぐ十五になるだろ?」
「十五……おまえとわたしが、同じトシ……」
 剣も弓も、ハキームのほうが優れてる。そのことも、テリトゥを苦しめた。記憶はないが、修練を積んだ過去は掌を見ればわかる。
「友達……おまえと、わたしが?」
「毎晩、こうして寝てたことも忘れたのか」

  横向きに並んで寝ていたハキームは、テリトゥの腰巻におおわれた性器をいきなりつかんだ。

「おれたちは、こんなふうにして、いつも遊んでいただろ?」
 テリトゥはハキームの手を払いのけた。
「おれより、おまえのほうが、夢中だったじゃないか」
 ハキームは息を荒くし、衣服を身につけたままのテリトゥの下肢に自らの性器を押し付ける。そして、テリトゥの名を哀しげな声でなんども呼びながら夜ごと果てる。こんなことに、自分が夢中だったとは信じられない。
 ハキームがテリトゥの羊の毛皮を穢すたびに嫌悪感がつのっていく。

 なぜ、記憶がないのか?
 
 牧羊者の一家は、流血の都市と呼んで、アッシリアの王都ニネヴェを怖れている。しかし、テリトゥはアッシリアの名を耳にするたびに、激しい怒りに襲われる。アモリ人は一日の終わりに、アッシリアを呪詛する言葉を唱える。「草原での支配が終わりますように」と。

「終わらない」と、テリトゥは無意識につぶやく。

 ある日、牧羊者の家長である父親は、テリトゥに一行から離れるように命じた。気づくと、アブの月(七月から八月)になっていた。果実の実る季節だ。
 未知の世界へ旅立てば、何か思い出すかもしれない。

 ハキームに知られることなく、旅立つ方法はないものか。

 テリトゥは牧羊者の父親に頼んだ。ハキームを長女の許嫁にしてもらえないかと。父親は承諾し、テリトゥにマントと水の入った皮袋とわずかばかりの食料と路銀をわたした。

「明日の朝、ハキームを、ダマスカスの市場へやる。羊を売りに行かせるのでしばらくもどらない。それでいいか?」

 テリトゥはその夜も、草原で眠った。めずらしく、ハキームはやってこなかった。安堵した。十五歳だというハキームは一年も経てば、立派な羊飼いになり、妻を娶るはず。その頃には、テリトゥのことなど、すっかり忘れて平穏な日々を送っているだろう。

 満天の星空の下、テリトゥは自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

  わが息子よ、光と闇をつらぬく者となれ!

 アアアア……ククルル……マッシュマッシュマッシュ……

 翌朝、ハキームは旅立つ前に、テリトゥに会いに来た。

「出立の用意で忙しかったんだ。みやげは何がいい?」
「みなで行くのか?」
「ああ、このあたりの羊飼い、みんなで売りに行く。でないと、言い値で買ってもらえないからな」
「そうか、気をつけて行けよ」
「どこかに行ったりしないよな」
「この目と足で、どこへ行く」
「だな」

 燭光が、陽の光を虹色にかえる。
 羊飼いの一行がラクダにまたがり、羊を伴い、ダマスカスへむかって、草原の彼方に消えるまでテリトゥは見送った。
 羊飼いの親子らは、ハキームが振り返るたびに、その視線は自分たちに向けられていると信じて、許嫁となるであろう娘は頬を赤らめた。
 羊飼いのあるじは、ハキームの一行が見えなくなったとたん、テリトゥに去るように命じた。

「ハキームのあとを追ったら承知しねぇ。わかってるだろうが、おまえがいると、まがまがしいことに巻き込まれる。死の天使はさっさと消えてくれ」

 砂漠のオアシス・ダマスカスへ行くには、荒地を北上しなくてはならないという。困難な旅になることは、想像がつく。羊の群れとそれを率いる羊飼いの男たちはそれでも岩山や乾いた川底(ワディ)を越えていく。
 三ヶ月分の油や酒や食料を買い求めることもだが、町の市場に行けば、さまざまな国の言葉や習慣、そして何より、アッシリア軍の動静が知れるからだ。近隣諸国の住民の多くは、イスラエル王国は恭順の意をしめし、戦闘には至らないと思っていた。一方で、いくさがはじまれば、兵站の準備で一帯の商人は、アッシリアやイスラエルとの交易の増大に期待できた。軍隊の動きに合わせて、財貨も移動していくからだ。

 彼らとは道をたがえて、テリトゥも旅立たなくてはならない。喪った過去を求めて放浪の旅に出なくてはならない。記憶がないことに気づいたときから、ここから立ち去らなくては何もはじまらない気がしていた。
 足の悪いテリトゥの歩ける距離はしれている。半日、歩きつづけて、草原から砂漠に至った。

 ベドウィン族の遊牧民が天幕(テント)を張っていた。
 テリトゥを哀れに思ったのか、迎え入れてくれた。砂漠のハゲタカと呼ばれている彼らは、穀物の刈り入れを終えた村を襲い、略奪を働き、若い娘を凌辱し、時にさらう。しかし、焚火を囲む彼らは穏やかで親切だった。
 十数人の一族で移動しているようだった。
 羊の肉と干した無花果をもらい、焚火にあたらせてくれた。
 彼らの中の一人に盲目の老人がいた。老人は、テリトゥを気配で察したのか、手招きした。

「おまえの運命は、戦うことが定められている」と言った。「竜神がついておるからの」
「爺サンの言うことは気にするな」と、部族を率いる長(おさ)が言った。「おれたちはマリへむかう。おまえもいっしょにくるか。その足では行き倒れて、ハゲワシの餌食になるだけだ」

 マリはダマスカスよりはるかに遠いが、住む人間の数がちがうと彼らの噂話から知った。しかし、アッシリアの王都・アッシュル(=アッシュール)に比較すれば話にならんと言う。
「アッシリアのアッシュル神に勝てる神などおらん」と、長が言った。「わしらは、おおげさな神など信じてはいない。生きのびることさえできればいい」

 ユーフラテス川沿いの交易ルートに位置する、要衝の地マリは当時、交易から最大の利益を得ていた。シリア砂漠を越えて、地中海に出られることも、功を奏した。反面、この地を巡って諸国が争った。マリの王家は、紀元前一八世紀頃、アモリ人の王シャムシ・アダドによって滅ぼされる。シャムシ・アダドは、東西はチィグリス川とユーフラテス川の間、南北はバビロンとの境界からトルコの山岳地帯の広大な版図を支配した。しかし、その後、四百年は衰退を招き、群雄割拠の時代となる。

 アッシュルを目指そうと、テリトゥは決める。

 紀元前八世紀、千三百年以上の歴史があるアッシリア帝国が時代の覇者であることは、明白だった。軍事においても他に類を見ない戦力を有していた。地理的に有利な条件にも恵まれ、アナトリア(現トルコ)、シリアおよびメソポタミアを結ぶ、遠距離交易活動を優位に展開した商業国家でもあった。
 アッシュルに行きたいと、テリトゥが言うと、長は、「太陽の昇る方角に向かってひたすら歩け」と言った。運がよければ、生きのびるだろうと。

 アッシリアのアッシュルに向かうには、シリア砂漠を越え、ユーフラテス川を越えてチィグリス川を北上しなくてはならない。杖をつき、頭陀袋一つでたどり着ける距離ではなかった。
 早がけ用のラクダに乗る彼らは、灰色にうねる砂漠を見る見るうちに越えて行った。

 草原の彼方に見える地平線、その向こうにあるものを知りたい。夢の中で聞こえる謎に満ちた言葉、その意味を知りたい。おのれが何者なのか、だれかがテリトゥに伝えようとしている。


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