異聞エズラ記 Ⅳ
あらすじ
数日前、家畜小屋にサライを置いて逃げ出したナーマンとナエルは袂を分かち、ナーマンはエズラを追ってエルサレムへ向かった。ナエルはサライのために引き返した。一方、キャラバンのシェリフに囚われていたサライは逃げ出したあと、ギバルと再会するが、荒野に取り残されていた。ナーマンは一人になったあとさまざまな苦難に遭遇する。
登場人物
ナーマン・・エズラを憎みつつ憧れている。身の処し方に苦しむ。
サライ・・・ナエルに毒を盛られる。
ナエル・・・本名はジャミール。サライに毒を飲ませ、エルサレムへ。
エズラ・・・徴税官に神殿補修の費用を無心するが断られる。
ギバル・・・王の密偵だが、自身の考えで行動する。
カシム・・・ギバルやナエルの仲間。人身売買にもかかわる。
カリール・・ナーマンと仲間になりたいがために裏切る。
アガク・・・ペルシアの徴税官。醜い顔貌をしている。
クズラ・・・赤毛の男に買われた少年。カシムがアガクに売る。
第六章 ユダの背
1
ナーマンとナエルは夜半に家畜小屋を逃げ出した。アラビア人にあとをつけられているのではないかとナーマンは何度も振りかえった。
ナエルはなんども立ち止まった。
「どうしたんだよ?!」
先を急ぐナーマンに、ナエルは、あの子が気になると言った。
「あいつとは、かかわるな」
ナーマンは足早に歩きながら一時も休むことなく考えつづけていた。サライの素顔を目にしたときから、まがまがしい者に関わったのではないかという怖れにかられていた。母の形見の短剣の鞘に彫られている像は成人のうえに武装しているので、何もかもサライとそっくりというわけではない。サライは目もくれなかったが、黄金と見間違う短剣の柄には、剣と盾を持った戦士の像が彫られていた。サライとよく似ていた。
「なんたって、これは、俺のもんだしな」
「いいかげん、黙ってよ」ナエルは涙をぬぐった。
父と思われる男が母に短剣を渡したとき、自分もサライもまだこの世に生まれていなかった。ただし、その男は、この像は神の子だと言ったという。すっかり忘れていた付け足しの言葉がにわかに立ち上がってきた。ユダヤ人は神を形ある像として描かない。禁じられているからだ。この短剣にはいわくがありそうだ。所持していれば、いつか大金になるかもしれない。そう思うと、短剣は何があっても手放せないと思った。自分には、サライのように人を傷つける気概がないのだから、なおさら金になりそうなものを持って身を守る助けにしなくてはならない。
「あいつは本物の悪鬼なのかもしれない」
「あの子は、あたしたちと違って、まだ何も知らない子供なんだ」
「目の色が違っていた。薄気味わるい色をしてたじゃねぇか」
「あんたとあたしだって、どこの国の者かわからない顔つきと肌の色じゃないか。ペルシア人に見られたり、アラブ人に見られたり……あの子もおんなじなんだ……」
被りものが剥ぎ取られた一瞬に見せたサライの瞳の光は他に比べようもないほど凄味があった。逃げ足は速いが頭の回転は鈍い、どこにでもいる子供だと思っていたが、違っていたようだ。
ユダヤ人の教えでは、殺人は罪とされている。人を死なせた者は、かならず殺されなければならないと定められている(出エジプト21:12)。異教徒との戦闘をのぞいて、大方のユダヤ人は人を殺すことに躊躇する。ナーマンの住んでいた町でも、それは同じだ。母は公正とはいえないまでも祭司によって裁かれ、処刑されたのだ。サライのようにとっさの判断で、はじめて会ったにひとしい相手の喉首に刃物をあてがうことなどベドウィン以外はしない。
「あの子は……サライは、あたしを助けようとしたんだ。なのに……あたしは……」
「俺だって……助けようとしたじゃねぇか」
ベドウィンの首が切られ、噴き出す血を目にしたとたん、自分が斬られたように感じた。一瞬、石打ちの刑で絶命した母の姿が目の前をよぎり、恐怖と絶望を呼び覚ました。仲間を殺されたベドウィンらも同じ思いを抱いたはずだ。
仲間のギバルが助けてくれなければ、自分たち三人は殺されていただろう。内心の動揺を抑えられなかった。
「あのガキは何者なんだ?」
「ユダヤ人やアラブ人でないことはたしかだよ」
ユダヤ人の系譜を示す登録簿によくある名だが、肌の色もそうだが、近隣では見ない顔つきをしていた。見たことはないが、ギリシア人の子供かもしれない。しかし、ギリシア人の子供がイスラエルの寒村にいるはずがない。
アブラハムの妻の名がサライだった。名は似ているが、どう見てもヘブライ人には見えない。サライの母親は、わが子には彼らの先祖であるアブラハムの妻にちなんだ名を名乗らせたかったのか……。
ナーマンの母親は、息子がユダヤ人と異なる容姿であったために、ナーマンと名づけた。アラブ人の血をひく母はユダヤ人から穢れた者として扱われた。母が石打ちの刑にあったのも、虚偽の系譜を買ったせいだ。その系譜では、ナーマンの父を、昔のあるじだった祭司だと偽った可能性が高い。
そのことを、読み書きを習った収税人のウリに密告されたのだ。娼館をかねた隊商宿に泊まりにくるカリールという男の企みだった。
エズラの帰還ともなんらかの関連があるのだろう。エドムに近い僻地の村に住むユダヤ人の多く住む地域のレビ人祭司としては、新参者にひとしいエズラに権限を奪われないためにも粛正の必要があったにちがいない。
「とばっちりもいいところだ」
「独り言はいいかげんにしなよ」
レビ人祭司は世襲制であったため家系の浄さは重要なことだった。しかし、自分と同じように系譜のはっきりしないサライは、ナーマンの母親が欲した系譜を望んでいるように見えなかった。登録簿の存在さえ知らないのではないか。それだけではない。彼の知るかぎりにおいて、善悪のはっきりしたユダヤ人の物語に記されているどの人物とも気質が異なる。物知らずで言葉が足りないことは学んでいないからだとしても、そもそもがいかなる神に対しても畏敬の念をまったくもってない。神の存在を知らないから、血生臭いことが平気でできるのか――。
「なんかちがうよな……」ナーマンは巻き毛の髪をかいた。「あいつは俺たちの仲間じゃねぇし……」
「あの子……生きてる」ナエルは唐突に言って足を止めた。「あんた一人で行ってよ。どうせ、エルサレムへ行くんだろ。すぐに、追いつくよ」
「ギバルは腹を立てるかもしれねぇぜ。エズラと弟子を見張るのが俺たちの役目なんだからさ」
「あたしは自分のスキにするさ。どっちみち王の耳(密偵)に仲間なんていないんだし」
「勝手にしろっ」
「教えてあげるけれど、エズラの弟子にもらった金貨だけれど、値打ちはないよ」
サライを売るほうが大金になるとナエルは言い捨てて、たった一人で引き返した。仲間だと広言した以上、力を貸すべきだったが、悪態をついて別れた。
サライと一緒に旅をしたくなかった。
バアルの悪魔だと集会にいた女たちの吐き散らした言葉がナーマンの心を占める。同時に自らの心根を嫌悪した。嫉み心から発していると認めたくないのだ。
「あいつは、他者より勝れた者でありたいと思っていない。俺やナエルには、己れを勝れたる者として自負する一面がある」
ナーマンの独り言は止まらない。
「金銭に欲がないせいで、何事が起きても冷静でいられるのか?」
そのことがまた不快だった。何もかも偶然なんだと思う一方で、神との契約に偶然はない、どんなささいなことも神の御業によるというユダヤ人の思考が頭をもたげてくる。
思わず、唸った。自分はユダヤ人として扱われないとわかっていても、幼い頃から頭と心に刻みこんできた言葉の数々から逃れることは困難だった。不可能だ。何事もはじめに言葉ありきだった。
「あいつは異教徒にちがいない。いや、有形無形のものを信ずる心がない。ちがうな、心がないようにも見えなかった。素直で穏やかなやつだった。ああっ、面倒臭い。考えてもしょうがねぇや。あいつはあいつ。俺は俺だ」
旅はこの先、どこまでつづくかわからない。二度と出会うことなどない者のことで頭を煩わすまい。
「ベドウィンに襲われないよう移動することのほうが、肝心だ」
指で数えられるほどの短い日数で、独り言の癖は治らないが、彼なりに己れの身を守るすべを学んでいた。才知で人の上に立とうとしても、腕力で人を従える者たちに前途を阻まれては元も子もないからだ。焚火のあとを見つけると顔に煤を塗り、目元だ残して、頭と顔の大部分を被り物で覆い、どこの国の民かひと目では判別しにくいように装った。監察官の印章を押した通行証は役立たないからだ。自ら監察官の密偵だと名乗り出るようなものを、ギバルはナーマンに与えたと知り、「密偵に仲間などない」と言ったナエルの言葉が身に沁みた。
ナエルはサライを売るつもりなのか……。彼女の発した言葉がそれを証ししていた。しかし彼女は、歩きながら涙を流すほど後悔していた。
心を乱したナエルを、はじめて目にした。
ナーマンは気づかない振りをした。いまは、サライが捕われている村から一歩でも半歩でも遠くへ行きたい。エズラのあとを追って北に向かいたい。おそらく今頃、サライの命はないだろう。もしかすると、ナエルもとばっちりをくうかもしれない。
「俺のせいじゃねぇ!」
いにしえの道〝王の大路〟に沿ってひたすらどこまでも歩く。
2
サライは枯れ木にしか見えないオリーブの木を見つけ、枝にぶらさがり、体重をかけても折れない。固いことは知っていたが、これほどとは思っていなかった。小刀で傷をつけ、なんどもぶらさがった。小刀はギバルが置いていってくれた。これで生き抜けという意味だろう。
行き倒れたせいか、身動きするたびに骨がきしむ。
自らつぶやく。「……目を覚ませ……おまえはわれわれの一族……啓示を打ち砕く戦士……」
少しずつ血がたぎってくる。周囲を見回す。枯れ枝を拾う。
落石の多い峡谷に立っている。
サライは枯れ枝で岩を叩き、敵と見立てた。
ギバルの残してくれた食べ物と、革袋の水を少量ずつ飲み食いしながら、枯れ枝を使って、落石を敵の攻撃とみなし、瞬時にさけるすべを学ぼうとした。
動きを予測して先手を打つにはどうすべきなのか。
落石の真下に立ち、飛びのき、枯れ枝で石を打つ。これを繰り返した。
気づくと、魂につばさが生えていた。
カライを思って、竪琴をつまびくと、涙が頬を伝った。独りでいることにいつまで耐えられるだろう。
ひと眠りし、エルサレムへ向かう決心がようやくつく。水の入った革袋を手にとったとき、重みが増していることに気づいたが、気に止めなかった。ひと口飲んだ。味が変わっていた。吐き出した。遅かった。焼けつくような痛みが喉を切り裂いた。
3
サライから取り上げた銀貨一枚で、ラバを一頭、買った。
「ペルシアのミナ銀貨(約110㌦)か」農夫は言った。「使い勝手がわるいな。ペルシアは年毎に、銀貨をつくるとき銀の量を減らしているからな」
釣りを求めると、しぶしぶシェケル銀貨一○枚(約22㌦)差し出した。
儲かった気がした。ペルシアが鋳造する貨幣は値打ちがないからだ。巷に流通しているのは、アナトリア(トルコ)のものが大半だった。
「独りきりはどうもなぁ」
大がかりなキャラバンの後ろについて行くことにした。ラクダとラクダを繋げた長い隊列の進度は遅い。ベドウィンは砂漠のハゲタカの名に恥じず、一日に一○○㌔移動すると言われている。事実かどうか確かめようがないが、キャラバンの進みぐあいはナーマンの目には徒歩の旅人のほうが速いように感じられた。
日没前に、キャラバンの一行は両側の険しい谷の間の比較的平坦な交易路を上り下りしながらマムレの町に至る手前で進路を西へ変えた。塩の町に向かうらしい。エルサレムに行くものと思いこんでいたので慌てた。
「なんでだよー」愚痴が口をついて出た。
一行の連れのような素振りをして、マムレの町に入りこむ魂胆だった。母の言い残した言葉が頭から去らなかったからだ。契約の箱もソロモンの黄金も、アブラハムの住んでいたところに隠されていると母はたしかに言った。ナーマンは額帯に触れ、どうしてもここで一泊しなくてはならないと自らに言い聞かせた。
エルサレム、ベッレヘム、エタム、ペテズル、マムレ、ヘブロンは、〝ユダの骨〟と呼ばれ、ソロモン王が敷いた王の道=交易路は南北を繋げていた。
高地の狭い町の隊商宿で育ったナーマンにとって、木柵で囲まれた眼前の村はエドムの町と同じか、それ以上に寂れて見えた。片側が断崖の高地にあり、大木が鬱蒼と茂り、大気を重くしていた。
ヘブライ人の祖先、アブラハムが、神から老いた妻に息子が生まれることを告げられた場所として名高い(創世18:9-14)。一族とこの地に入ったとき(B.C.20世紀頃)、神は忠実なしもべと契約を結び、アブラム(父は高いという意)という名からアブラハム(群衆の父の意)に、妻のサライ(争いを好む意)はサラ(王妃の意)に変えるように神は命じる。
このときから、四三○年後にエジプトを脱出したモーセによって、エジプトのシナイ山において律法契約〝十戒〟が結ばれる。この頃から聖書が書き始められたと伝承されている。
「一族がカナンに入ったと記されているが、こんな辺鄙なところじゃ、暮らしもままならなかったろうな」
アブラハムが、甥のロトと袂を分かったのも山羊や羊の食む牧草が足りなくなったせいだとナーマンは思う。ロトはペリシテ人やカナン人の住むソドムに天幕を張り移り住んだ。アブラハムはマムレの地から遥か彼方の低地に見える町々――ソドムやゴモラにもたらされた神の火による滅びを目にした。そのとき、アブラハムは、神の御業に怖れを抱いただろうか。それともペリシテ人やカナン人の滅びるさまに歓喜したのだろうか……。
アブラハムは何事も全地をしろしめすいと高き神のご意志と納得しつつも、甥の安否に心を悩ましたにちがいない。
「ここに契約の箱やソロモンの黄金があるとは思えねぇな。けど、万が一、見つけたらどんなことをしてでも運び出すぞ」
アラブ人を母に、どこのだれかもわからない男を父にもつ自分はいつかかならず、神によって風の前のもみがらのように吹き上げられるか、神の火で焼き尽くされるだろう。その日の到来まで生き残らなくてはならない。なぜなら、契約の箱とソロモンの黄金をこの手にして、ダビデのように宮殿を建て、都をつくり、王になって見せると思うからだ。そのときこそ、ユダヤ人の家系に生まれなかったことを喜べる。たとえ滅ぼされても悔いはない。
日没を待った。
ラバを下り、褐色の肌の色をごまかせるよううつむいた。木柵に近づく前に、テレピン油のとれる巨木の影にひそんでいた男たちに取り囲まれた。
「どうぞあなたに平安があるように。あなたの家に平安があるように。またあなたのすべての持ち物に平安があるように(サムエル上25:6)」
ナーマンはヘブライ語でダビデの言葉を引用した。先に、喉の渇きを訴えたかったが、そのことで危険にさらされたくなかった。
「アラブ人か? 通行証を見せろ」縞模様の長い被り物をかぶった男が、うつむきかげんナーマンをあやしんだ。目元だけは隠せない。
「持っていない」
耕作面積の少ない山岳地帯に暮らすユダ部族は同じユダヤ人でも都市生活者に比べて警戒心が強い。
「年端のいかない者の一人旅はめずらしい」部族の長と思われる壮年の男が言った。
「父親は、神殿の再建に従事している」
「どうして父親と一緒に行かなかったんだ」
「母親一人ではぶどうの刈り入れができません」
「お前は自分の言葉に偽りがないと神に誓えるか」
「母方の父祖はギレアデの住民でガド族でした。ダビデ王が、わが子であるアブサロムのもとから逃れたとき、王につき従ったと聞いています」
「お前らの部族は消えたはずだ」
「アンモン人の中に紛れて生き残った者もいます。イザヤの言葉にもあります。われわれの子孫と、その名はながくとどまると」
モーセの大業を引き継いだヨシュアは三十一人の王との死闘を経て乳と蜜の流れる約束の地を得たのち、十二の部族にそれぞれ土地を分け与えた。このとき、ヨルダン川の東岸沿い(トランス・ヨルダン)の牧畜に適した低地を分け与えられたのがガド族である。彼らは「勇士で、よく戦う軍人、よく盾と槍をつかう者、その顔は獅子のようで、その速いことは鹿のようであった(歴代上12:8)」と記されている。ナーマンの顔立ちは彫が深く、整っていた。
「なんとでも言えるからな」と、部族長は言った。
ガド族はルベン族やマナセ族とともにヨルダン川のそばに大きな祭壇を築き、ヨルダン川の西(シス・ヨルダン)の諸部族同様、エホバに忠実である証しとした。祭壇を築いたのは、ユダ部族と教義に厳格なレビ人祭司の支配下にある神殿に詣でることに抵抗があったのではないのか?
「あんたたちユダ部族は、俺たちガド族を嫌ってるからな。泊めてくれないならいいさ」
「そうは言ってない」
王国が分裂したさい、トランス・ヨルダンに住む三部族は北のイスラエル王国の側についた。のちにアッシリア帝国とのいくさに敗れ捕虜となったが、連行された先のハマトやメディア(当時のメディアはアッシリアの支配下にあった)から他の九部族とともに忽然と消えたとされる。戦闘能力の高いガド族が他の部族を率い、東に向かったと伝えられている。
明治維新後に、世界史に登場した日本人を、ユダヤ人の研究者の中には失われた十部族の子孫だと考える人たちが現われ、日ユ同祖論が唱えられるようになった。十部族はなぜ、祖先を同じくする南のユダ王国に向かわなかったのか? 圧倒的な軍事力を誇るアッシリア軍に恭順の意を表した南の王国を頼っても独立した国は得られないと判断した可能性が高い。
「イスラエルの民に祝福を――」
族長はようやく挨拶の言葉を返し、宿賃として、シェケル銀貨一枚(約2.2㌦)を要求した。法外な値だった。納屋での寝泊りなら、ゲラ銀貨十枚(約1.1㌦)でもお釣りがくるはずだ。
この男は、俺の嘘を見抜いていると思った。
出し渋ると、ラバを預かると族長は言い出した。ナーマンの言葉を信じてはいないが、宿賃は得たい相手の魂胆が見て取れる。言い値を払い、ラバを連れて納屋の中に入ると、鋤や鍬を置く囲いがあり、手前に藁が積み上げてあった。
柵の横棒にラクダが一頭、繋がれていた。ラクダの隣にラバの手綱をくくりつける。
積み藁の中から黒髪の男、ギバルが顔を見せた。濃い口髭と顎髭が、鋭い目をさらに険しいものにしていた。目隠しをされた鷹が肩に止まっている。
「ナエルはどうした?」アラム語だった。
人の心をのぞきこむような目つきも、横柄な口調も出会った時から気に入らなかった。ひと目で、ただものではないと気づく。
「ナエルに見限られたのか」ギバルは嗤う。「あいつは、俺の馬に乗って、サライを探しに行ったぜ」
ナーマンは口を真一文字に結んだ。徒歩のナエルのほうが、ここへ先にたどり着いたと知り、歯噛みした。
「おまえが、エドムの荒野でさすらっているとき、俺とナエルが助けてやらなきゃ、確実に死んでいた」
「王の耳にされたけどな」
ナーマンは息を殺して眠りについた。形見の短剣を腹の上で握りしめた。切れ味は鈍くとも、ないよりましだった。しぜんと、祈りの言葉を捧げていた。信念のない自分に呆れつつ、「『ヤハウェよ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びをみ心にとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈りに耳を傾けてください』(詩編17:1)」。そして、つけ加えた。「どうか、ギバルから災いを被りませんように、わたしをお救いください。契約の箱やソロモンの黄金を見つけても、けっして手をつけません」
子どもの悲鳴が聞こえた。
「金で買われたことを、忘れたのか!」
濁った男の声が小屋中に響き渡った。悲鳴はいつまでも止まない。
藁の乾いた音が聞こえる。
薄気味わるい声が重なる。悲鳴の相手がもがき苦しむさまをたのしんでいるかのようだった。関わりをもたないように、ナーマンは膝を折り背中を丸めたが、首だけは肩から上に伸ばし事のなりゆきを盗み見していた。
「おまえは、あいつの身代わりにならねぇ!」
十歳に満たないように見える子供の口に、赤毛の男が、性器を差し入れようとするが、子供は受け入れられず、泣き叫ぶ。
「おまえの親は下郎野郎だ。おまえを俺に売ったんだ。おとなしく、俺に仕えるんだ」
「静かにしろ!」ギバルが怒鳴った。「もしかして、おまえはシェリフの部下だった男か?」
赤毛は目を見開いた。暗がりだったが、わかった。
ギバルは、感情のないの口調で、「やはり、そうか。やつはどうしたんだ?」
「死んだよ。灰色の髪の少年に夢中になったせいでな」
「その少年はどうなった?」
「知りたいか?」
「金ですむ話なのか?」ギバルは言った。
赤毛の息つがいがかわり、「話によってはこいつを譲ってやらないでもないぜ。あいつに似ているが、じょうものとは言えん」
「知っているか? この村には、ソロモンの黄金が隠されているという噂がある」ナーマンはどうして自分が余計な口をきくのか、自分でもわからなかった。
「嘘もたいがいにしろよ」
赤毛は立ち上がり、酔っ払ったような足取りで近寄り、ナーマンの衣の衿をつかんだ。怪物のような影が眼前に迫った。六キュビット(約270㌢)の身の丈だったと伝えられているゴリアテにも勝るとも劣らないように一瞬、見えた。目を懲らすと、通常の背丈だとわかる。恐怖心にかられると、目が錯覚するようだ。
「だれが、そんな嘘を、おまえに吹きこんだんだ」
「殺されたおふくろが言った」
「貧乏臭い村にあるはずねぇだろ!」
「この村の連中は、知らないのかもしれない」
赤毛の男はナーマンの襟首から手を離し、その場に座りこんだ。
「知っていることをぜんぶ、教えろ」
ナーマンは、アブラハムの話をし、ソロモン王がいかに、先祖を尊んでいたかも語り、この地に隠したはずだと言った。
その間に、ギバルは、藁の中に隠した長槍を取り出していた。
ギバルは赤毛の男の心臓をひと突きで刺し貫いた。
ぼろ布をまとった坊主頭の少年が姿を見せた。月明かりが、少年の色素のない顔と底光りのする虚ろな目をあらわにした。サライとは異なる、この世のものでないような少年の容姿にナーマンは総毛立った。
「名は?」ギバルは尋ねた。
「クズラ」奇怪な容貌とは不釣り合いな舌足らずな物言いだった。
「どこぞのえらい行政長官と一字ちがいの名だ」ギバルは言った。
少年は痩せこけていた。ギバルはクズラの尖った顎に手をあてがい、ナーマンに見ろと言った。
半開きの口の中をのぞき込むと、空洞が広がっていた。
「売られる前に歯を引き抜かれたようだ」ギバルはふと思いついたように、「どうやらモアブ人らしい」と言った。
モアブは塩の海の東にあり、一帯は樹木のまばらな高原で、あちこちに深い渓谷があった。農地は肥沃であったため、イスラエルに飢饉やいくさがあると、ユダヤ人はモアブに移住し難を逃れた。
「モアブ人の女をわがものにしたユダヤ人の男は大勢いる。もともと兄弟同様の部族なんだから嫁にしても当然といえば当然なのになぁ。おえらい人のひと言で母親と一緒に村から追い出されたようだな。おふくろは別のやつらに売られたのか」
「死んだ」
ナーマンは、少年が自分と似た運命にあることに身震いした。エズラの帰還は、ユダヤ人の男たちに、身体に不具合のある子供をもつ異国の女を追い出す口実をつくった。エズラの帰還がなければ、この少年も自分も故郷で無事に過ごしたかもしれないのだ。エズラへの敵対心が、ナーマンを王の耳にした。
この少年も、おそらくそうなるだろう。
「遅れてしもたなぁ」訛りの強い小男が、小屋に入ってきた。
数日前に、家畜小屋で会ったカシムだ。
男はギバルの知り合いらしく、「あんたが、ベドウィンの仲間になったら、儲かるゆーから、慣れん言葉つこうて、入ったのに、なんやねん。もうちょっとで、あんたの槍に殺されるとこやったで。ここでも、はや殺ったんか?」
カシムは、死体と子供を見比べていたが、「アラビア人にかすめとられた子ぉとは、大違いやな」
「おまえはっ、俺たちを襲ったベドウィンなのかっ!」ナーマンは驚愕した。「仲間が、仲間を襲うのかっ!」
「交易路に巣食う盗賊を、わしらが始末してるんや。これも仕事のうちや」
「どうして、ナエルは、おまえと知り合いだと、俺に教えなかったんだ!」
カシムは狭い額の下の落ち窪んだ目をぎょろりと光らせると、事もなげに言った。「信用しとらんのやろ。ほんまの名前を教えんくらいやから」
ナーマンは絶句した。
「あくどい奴隷商人の手にかかったら、宿場町の慰み者で終わる」カシムはクズラをのぞきこみ、平たい鼻の穴を広げる。「ここはひとつ、世渡りのコツとやらを教えてやらんとな。わしの話がわかるか?」
クズラは上目遣いに首を前へまげた。
「この歳で、つらいことがありすぎたんやなぁ」
嘆きにも似たカシムの呟きを耳にし、胸を突かれた。人に対して、憐れみを感じたことがなかったからだ。母の営む隊商宿で働く女たちの境涯についても関心がなかった。ユダヤ人が自分たち親子に一線を引くように、自分や母とは異なる身分の女たちだと決めつけていた。文字は綴れても、「憐れみ」という言葉のもつ真意や行いを理解していなかった。二度とサライと会いたくないと思う気持ちも、彼に憐れみを感じなかったからだ。
勝手に入りこんだ集会所で、エズラの自分に対する扱いが悪いと難癖をつけたくせに、自分は誰も助けようとしない。エズラの弟子は追ってきて、金と食べ物を恵んでくれたというのに……。
いままで一度も考えたことはなかったが、自分は相手の心情よりも外見から受ける印象や話ぶりや身分で好悪の判断をしていたのではないか。心の奥底に憐れみの感情はなかったのではないか。
ナエルに惹かれたのはこれまで目にした娘の誰よりも美しかったからだ。ギバルに従う気になったのは、自分の知らない外の世界を見た者だったからだ。ダビデの物語に心を躍らせたのも、弁舌にすぐれ、琴を奏で、姿が美しいと記されていたからだ。たとえ彼が、自分と同じ部族の者を何千何万、殺めようと英雄とはそのようなものだと思っていた。エズラを憎みつつ憧れたのも、ユダヤ人でありながらペルシアの王に仕える律法学者であったからだ。
思っているほど俺は利口じゃねぇなぁ。
故郷の町でどれほど蔑まれようと、知識の多さや容姿においてユダヤ人より自分のほうが勝っていると心のどこかで自惚れていた。だから臆することなく顔を晒していられのだ。カシムのように歯のない少年に同情できないのも、サライの苦況を見捨てて先を急いだのも、計算高く利己的な気質のせいだとはじめて気づいた。
4
心地よい揺れだった。
自分がどこに運び去られているのか、はっきりとは意識できなかったが、遥かな時を遡っているような錯覚をサライは覚えた。
カライの物語る声がどことも知らぬ彼方から聞こえる。
「エンキドゥは神殿の巫女に手を引かれて、ギルガメッシュの建てたウルクに町に連れてこられた。夢にまで見て待っていたギルガメッシュは大宴会を催してエンキドゥを招いた。だがエンキドゥは断った。ギルガメッシュの送りこんだ巫女のせいで動物たちとの平穏な暮らしを失ったエンキドゥは招待に応じるどころか、宴会場の入り口でギルガメッシュを待ち伏せて、闘いを挑んだ。きっと、森の暮らしを奪ったギルガメッシュに腹を立てていたんだ」
カライはサライが物心つくかつかない頃、毎夜、サライの顔や手足を拭いてくれていた。同じことを、誰かがしてくれている。
「彼らは死力を尽くして闘って引き分けた。ギルガメッシュは闘いながら、自分がほんとうに求めていたのは自分にひれふす部下ではなく友だったと気づいた。かけがえのない友を得るためにエンキドゥを呼び寄せたのだと」
黒髪の男が去ったあと、杖を振り回していた。革袋の水を飲み、激しく吐いたことまでは覚えている。すべて白日夢だったのか。サライの記憶は、風と砂にまぎれて消えていく。エルサレムにたどりつくどころか、どこに向かっているのかさえ、わからなくない。
「ギルガメッシュは、王になる前の自分をエンキドゥの中に見たんだ。人の血で汚れていない頃の自分を――。エンキドゥはどうだったのだろう? 森から誘い出した巫女とでは分かち合えない絆が、ギルガメッシュとの間にはあると思ったのかもしれない。だから、傲慢だけれど勇敢で賢明なギルガメッシュの友情に信頼で応えようとしたんだ。それを思うと、悲しくなるんだ。俺がサライとほんとの兄弟だったら、すべてを分かち合えたかもしれないのにな」
声を出そうにも、声が出せない。涙があとからあとからこぼれる。兄さん、ごめんよ。おいらはバカだった。
「サライのように無垢な心の者は、人の言葉に自分を見失うことがあるから気をつけるんだ。無垢という意味も知らないくらいに善悪の判断もつかないんだから、とても心配だ。自分では違うと思っているだろ? いまはそれでいい。でもいつか、エンキドゥと同じ苦しみを味わうときがかならずくる。そのとき、サライはどんなにつらくてもギルガメッシュになることを決意しなくてはならない」
冷たい水が喉を通っていく。
「人を疑うことを知らないエンキドゥはギルガメッシュの催した宴会の食卓について、みんなと同じものを飲み、動物の肉をお腹いっぱい食べた。ギルガメッシュとの間に芽生えた絆のせいだ。ずっと一緒に暮らしてきた動物を裏切ってまでギルガメッシュの友情に報いたかったんだ」
もしかすると、自分はもう死んでいるのかもしれない。
「以前のような安らかな気持ちは二度と得られないとわかっていたけれど、もう後もどりできなかったのだとわかっていたんだ。女を知って、動物の無垢な愛を失って、生涯の友を得て、エンキドゥははじめて孤独を知った。だから、自分を嫌っていた羊飼いたちにまで気に入られようと、ともに過ごしていたライオンやオオカミを殺して彼らを喜ばせた。哀しいな。それが、神に与えられたエンキドゥの役目だったのかもしれない。彼を通して、ギルガメシュに孤独や悲しみを伝えることが……」
男の子なんだから泣いたりしないで……と聞き覚えのある声が耳元で囁いた。
「エンキドゥはウルクの人々に誉め讃えられたけれど、どうしようもなく寂しかっただろうな。汚れのない魂を失ってしまったことがとてもつらかったはずだ。だから、ギルガメッシュに杉の森を守っている妖怪退治に行こうと誘われても拒んだんだ。ちょっと前まで自分も森に住み、怪人と呼ばれていたのだからな。動物たちがたくさん暮らしている杉の森に住む者が妖怪であるはずがないとわかっていたからな。だが、ギルガメッシュは杉の森を切り払って、すべての悪を追い払おうと言ってきかない。エンキドゥは胸が張り裂けそうになっただろうな。妖怪と呼ばれているフンババは彼自身だから」
あたしがついてるわ、何も心配しないでと声の主は語りかけてくる。
「エンキドゥは森に住むフンババを悪者だと決めつけるギルガメッシュに抗ったと思う。でも、ギルガメッシュは、二人の名を永遠のものにしたいと言ってきかない。エンキドゥにフンババの退治を迫るんだ」
まさかナエルなのか?
「人間の生きる日数はしれているのだから名誉のために戦うべきだと彼は言って譲らなかった。エンキドゥは拒みきれなくなって、ついに承知する。エンキドゥが承知したのはもちろん名誉ためなんかじゃなかった。たった一人の友の心を失いたくなかったからだと思う……」
浮かび上がれない闇の底で、自分はギルガメッシュはおろかエンキドゥにさえなれないと思った。仲間だった者たちを殺してまでも、友でありたいと願う相手がこの世に存在すると思えなかったからだ。もしカライが生き返るなら、友と呼べる者を裏切るかもしれない。そう思う一方で、いつの日にか大切な友さえも裏切って、ギルガメッシュのように血の海に身を投じるような予感がした。
それは自分が自分でなくなることなのか、それとも本来の自分自身になるべく目覚めることなのか……?
ナエルらしき声は言った。「あんたが元気になったら、あんたを売るかもしれない。その日まで、いっしょにいよう」
ナエルが毒を盛ったのだと、直感した。自分のような両性を有する者は迷路から永遠に脱け出ることはないのかもしれない。
5
星々も眠りにつく真夜中、夜の闇が目を覆っていた。
「赤毛の骸(むくろ)をなんとかせんと、あかんな」
気がゆるみ、うたた寝していたナーマンの耳元で、カシムが耳打ちした。
寝呆け眼で月明かりの先を見ると、藁の中に赤毛が沈んでいる。
ナーマンは起き上がり、這って行って男をゆすったが、びくともしない。
「ギバルは?」ぐるりを見回し、訊く。
「急いでるそうや」カシムは平然としている。
「俺たちは、おいてきぼりにしてかっ!」
「罰は目の前っていうよってな」カシムは言った。「ろくでもないことをしたら、あっという間に報いを受けるんや」
「報いを受けるのは、俺じゃねぇ。ギバルだろ」
「なりゆきやな。いや、神の思召しやと思うたらええがな」
「ユダヤ人の神なんぞ金輪際、信じちゃいない。あんただって、そうだろ?」
「ユダヤ人の神サンのことなんて、ゆーてへんで。あんな恐ろしい神サンはうっとうしいばっかりや。わいな、毎日、飽かんと顔を見してくれる、お陽さんはありがたいと思てる」
「俺は、俺自身とラバの積み荷が無事かどうか、それだけを問題にしてるんだよ」
カシムは大男の懐から皮袋を取り出し、自分の懐にしまった。
「金は、砂漠の井戸と一緒で、どこで湧いてくるかわからへんな。行きは地獄やったけど、帰りはボロ儲けや。へへへ」
「逃げるしかないのか……」ナーマンは唇を噛みしめた。
「袖すりあうも多生の縁ゆーやないか」
宿屋の主人に黙って出発するしかない。同宿の男が不審な死をとげた以上、このまま無事でいられない。このさい、ラバとラクダが無事ならそれでよしとせねば――という気持ちに次第に傾いた。しかしーー、
「ラクダはどうした!」
「砂漠の舟(ラクダの意)は、ギバルが乗っていった」
「それはねぇだろ」
「あんたのラクダやないやろ。早いもん勝ちや」
足音を忍ばせて、ラバを納屋の外に連れ出した。
カシムもクズラをともなって出てきた。
「ちょっと待ってくれへんか」
忘れものだと言うが早いか、カシムは引き返した。赤毛の男の荷物を手にして戻ってきた。
三人は足音を盗み、薄闇の中を交易路を北へ向かった。
カシムに、ナーマンは尋ねた。「怪しまれなかったのか」
「もしものときは、奥の手があるんや」
カシムは衣の下を開いて見せた。性器に傷跡がある。
ユダヤ人は生後八日目に割礼(かつれい)をうける掟になっている。
「連中は、己れらの所有する奴隷や召使にも割礼をするんや」
「ユダヤ人の奴隷だったのかっ」
「さっさと、逃げんと、宿賃を払わされるでぇ」
「宿賃を払ったわけじゃないのかっ」
「納屋やぞ。なんではらわんならん」
巨木の林を抜けたところで、泊まっていた納屋から火の手が上がった。
「まさか!」ナーマンは棒立ちになった。「火をつけたのか……」
「逃げたもんの勝ちや。つかまるとひどい目に遭うよってな。わしは、名ぁより命を惜しむタチなんや」
カシムに慌てた様子は微塵も見えない。
「天を焦がす炎ほど気持ちのええもんはないなぁ」
納屋は焚火に油を注いだように燃え上がった。村人の騒ぐ声が風にのって聞こえる。とんでもない道連れだった。一刻も早く別行動をとらなくてはならないと思い、ナーマンは、ラバにまたがり、その腹を蹴った。
カシムは両手を広げ、行く手に立ちはだかった。
「話してもわからんと思うけど、そのラバはわいのもんや。鼻の横に傷があるやろ。そこらの百姓に預けてたんやけどなぁ。売りやがったな。なんぼで買うたんや。クズラを乗せるよって、あんたとわいは、歩きや」
「ラバは俺のものだ」
「たのんでるんやで」
「なんで、俺が、小汚いガキのために、ラバをゆずらなきゃなんないんだよ」
「そうか」
カシムは背中を丸め、目を下にした。
「どうあっても、わいのラバを返さん魂胆なんやな。恩を仇で返す気ぃなんや」
「お角違いもほどほどにしろよな。あんたのせいで、逃げなきゃならなくなったんだ。そっちが、恩を仇で返したんだろうがっ」
「口は災いのもとゆーやろ」
カシムはそう言って、ぶ厚い唇を突き出した。
「しゃあないな。理屈がとおらんゆーこっちゃな」
「それこそ自明の理ってもんだ」
石灰岩のように白い顔色のクズラが、歯のない口で薄く笑うと、サタンに乗り移られるような気分になる。
「お前が笑うと、身の毛がよだつんだよ。頼むから、こっちを向かないようにしてくれよな」
ナーマンにけなされても、クズラはだらしない口元をもとにもどそうとせず泣き顔のような笑顔のままだった。
内心で悔いた。年少の者にわざわざ醜いと吐き捨てる必要などなかった。
整っていない容姿だからと言って嫌ってはいけない。相手も自分も神の創造物なのだからと、心に言い聞かせた。
「追っ手がかかったらかなわんな。わしらは交易路から外れるよって――ほな、ここで」
カシムはナーマンを置いて西の丘陵地に向かった。
砂漠とは異なり、丸石と小石が多く、茨、野バラ、ヒカゲノガズラなどが生い茂る荒地だった。
人の住む地ではない。
先を急ぐはずだったナーマンは地理に疎い。知らず知らずのうちにカシムの後を追っていた。カシムは太陽が頭上にくる前に、飯にしょうとクズラに声をかけ、足を止めた。
「追いつかれたらどーすんだよ」
「なんで、いっしょの道をくるねん? あんたは勝手にどこへでも行ったらええがな。わいは、何をするやわからん男や。サライとかゆー子ぉも騙して、売ったんやで」
「あんたも、エルサレムへ行くんだろ?」
カシムは板のようなパンを食べながら、クズラに乾燥したイチジクを分け与えた。ナーマンも手を出す。
「あつかましいやっちゃな。自分の食い物を食わんかい」
カシムは言ったが、パンとイチジクをナーマンとクズラに与えると、「わいはイナゴでも食うとするか」
カシムは羽と足をむしり取った体長五㌢ほどのイナゴを自分の食物袋から取り出すと、バリバリと音を立てて噛み砕いた。律法書の中で、イナゴは清い食べ物とされているが(レビ11:22)、人が食べるところを目にしたのははじめてだった。クズラも喜んで食べている。
「ベドウィンだったのか? だったらトカゲも食うのか?」
思わず訊くナーマンに、カシムは、
「トカゲはわいの口にあわん。磨り潰して粉にしたイモムシやったら持ってるけどな。これは粥の中に入れて食うと精がつくんや」
「イモムシって……あのイモムシか!」
カシムは顔の前を飛び回る蝿と薮蚊を手で追い払うと、昼寝でもするかと言って、大麻を噛みはじめた。
「のんびり休んでねぇで、さっさとトンズラしようぜ」
ナーマンは急かしたが、
「長追いは無益いう諺を知らへんのか。交易路ならともかく砂漠まで追っかけてくる者なんぞおらん。だいち、火消しにかかり切りのはずや」
カシムはそう言うと、ナーマンのロバに積んだ敷物を手早く広げ、午睡のための寝床をしつらえた。そこは俺が寝ると言う前に、ギバルは厚手の衣を頭からかぶって砂の上に寝転がった。
「食うたあとにひと眠りしたら、からだにええんや」
礼を言うべきかどうか迷っているうちに鼾が聞こえてきた。クズラは、頼みもしないのにナーマンが眠りにつくまで椰子の葉で編んだうちわで風を送ってくれた。召使に仕えてもらっているような気分だった。
後頭部を殴られたように、睡魔はやってきた。
午睡から目覚めると、カシムもクズラもいなくなっていた。懐の金はもとより、通行証も短剣もない。ラバの足跡さえ残っていない。あるのは額帯と身につけている衣と敷物だけだ。腰帯に隠した金貨は無事だったが――。
「カシムのやつ、こんど会ったらただじゃおかねーぞぉ」
雨が振ってきた。足元がどろ沼になった。悔しがる気力もない。
ラクダが見えた。カシムが戻ってきたと思った。
族長だった。
「下衆野郎はどこへ行った? お前らグルになって、納屋を焼きやがったな。こうなったら、代わりにお前を叩き売るしかねぇ」
ナーマンはとっさに石を拾い、額帯でくるんだ。ダビデはこれを投げて無敵のゴリアテを即死させたのだ。
「おとなしくこっちへこい!」
ナーマンは力を振り絞って、石でふくらんだ額帯を相手の眉間をめがけて投げた。
当たった!
「そんなやり方で、俺サマがどっと倒れると思ったのか。馬鹿め!」
伝説は嘘だったのかと思う間もなく、族長は石をくるんだ額帯を頭の上で振り回し、ナーマンに投げ返した。胸の真ん中を一撃されたナーマンは息が止まるほどの衝撃で膝を屈した。
「小賢しいのは口だけか、そのザマじゃあ、投石兵にもなれねぇな」
族長は苦もなくナーマンを縛りあげると、敷物をラクダの鞍に積むついでに縄の先をくくりつけた。
激しい雨の中、泥状の道を歩かされることになった。
天使の中でもっとも美しいと言われたルシファーは神の怒りをかい、天国から地獄に追放された。王の耳の一味のカシムは、イザヤの預言した救い主だったのかもしれない。クズラは人の心を試す天使だったのか?
彼らを粗略に扱った自分に鉄槌がくだったと諦めるしかないのか……。
彼方に集落が見え隠れするが、頭上には黒雲がたれこめ、不吉な予感しかしない。溺れ死ぬかと思うほどの雨量だった。雨に打たれ、過去の記憶の何もかもが流れていくように感じられた。
悪い者に平安はないと神は言った(イザヤ48:22)。ゴリアテを倒したダビデは羊飼いの身分からサウル王の道具持ち(武器を携帯する役目の兵士)へと出世をしたが、族長に叩きのめされたナーマンは奴隷の身分に転落した。
俺は、悪人ってことなんだな。
雨が止み、東の空が紫色におおわれると、地平線に見えていた集落が次第に大きくなり、泥道は少しづづ草の道にかわった。
椰子林が視野に入ると、村長は髭面をほころばせた。
ナーマンは思わず皮肉った。
「つまんねぇ取り柄だよな。女衒の真似事なんてしてねぇで、真面目に畑を耕せよ」
「お前と、お前の神を怨むんだな」
「クソくらえっ」ナーマンは喚き返した。
数えきれないターバンの頭の中に、殺しても飽き足りない男、カリールの顔が見えた。
「おとなしくしろ」
カリールはナーマンの肩をつかんだ。
「これが、お前の運命だったんだ。どれほどあがいても、お前に課された苦役からは逃られねぇのさ」
「収税人のウリとあんたが手を組んで、俺たち親子を陥れたのか?」
「そうじゃねぇ。やつのほうが一枚上手だ。俺がお前を連れ出したあとに母親を刑死させる段取りだったんだが、収税人の言葉を信じた俺が浅はかだったよ。おかげで、お前のために大金をはらう羽目になってしまった」
「あんたの本性もわかんねぇようじゃ、いいようにされてもしょうがねぇな」
自分の知らない広い世界を知っていると思いこみ、カリールを一度たりとも疑わなかった自分の愚かさを笑いたくなった。隊商宿の客だったカリールはキャラバンを率いて、定期的に泊りにきた。
「やけに素直じゃねぇか」
「死んだ犬のような俺を、顧みてくれる王に従うよ」
ダビデの仕えたサウル王は長子のヨナタンの将来を案じ、ダビデを殺そうと謀るが、ヨナタンはダビデへの友情から危機に陥るダビデをいくども救う。友情に厚いヨナタンは、わが子を次の王位に就けたいと願う父の真意はおろか、ダビデの野心にも気づかない。ダビデはサウル王を倒し、イスラエルの王となったのちに、かつての盟友ヨナタンの子に領地を与え情けを施した。ヨナタンの子はダビデに問う。
「死んだ犬のようなわたしを、どうして顧みられるのですか」と。
ナーマンは、この言葉を感謝の意味と解していた。ヨナタンの子は父の信義を裏切り、祖父を殺し、玉座を手に入れた新たな王ダビデに恨み言を言ったのだ。いまさら、善人ヅラするなと。
金輪際、誰にも騙されねぇぞ。
人間は己れの欲のためになら善良な友さえ裏切る。ダビデがヨナタンの死に涙したのは、己れの底なしの野心への嫌悪からではなかったのか。
サライのために引き返したナエルも、彼女自身への嫌悪からではないか。彼女は、密偵の仕事がどんなものか、わかっているのかとナーマンに問うた。母親の庇護の下で育った自分は、安易な道ばかりを選んで生きてきた気がした。ユダヤ人の集会所へ通わなくても、巻き物さえ手に入れれば、彼らより知識が身につくと思っていた。物知りになれば、何者にもなれると奢り高ぶっていた。
6
意識のもどったサライはラクダの背に揺られながら、ナエルの背にもたれ掛かっていることに気づき、赤面した。
「おいら、歩くよ」
彼女の腰に回している腕をほどき、上体をずらした。
ナエルは振り返り、
「熱が下がってないじゃないか」
「でも……」
「黙って、あたしの言う通りにすればいい。見捨てておいて、いまさらだと思うだろうけど、あのときは、ナーマンに脅されて従っただけなんだ」
サライは、ナーマンはそんなことはしないと思った。しかし、頭がぐらついて、それ以上考えられなかった。
「あたしのほんとの名前は、ジャミールって言うんだ。ナーマンも知らない」
「ジャミール……」
「いろんなところへ行くのが、仕事だから、偽名を使うんだ」
サライはいつのまにか、頭をジャミールの背に押しつけて眠っていた。
6
骨で固めたような石灰岩の荒涼とした景色がえんえんと続いたが、カリールにとっては天界を歩く心地だった。石灰岩に反射する太陽の光は眩しいが彼の行く手を祝福しているように感じた。山道をふさぐ木々さえも彼にとっては踏み越える壁ではなく未来へ向かって開かれた扉のように見えた。
カリールの率いるキャラバンは、起伏の多いユダの山地を尾根づたいにゆっくりと移動し、エルサレムとヘブロンの中継地点にあたるベツレヘムに向かっていた。
エルサレムの南一○㌔の地点にあるベツレヘムは小さな町だ。はるか昔は、ヘブライ人に敵対していたペリシテ人の前哨基地であったところである。ここで生まれた羊飼いの少年が長じてイスラエルを統一し、ダビデ王となった史実はユダヤ人なら誰もが知っている。ベツレヘムは主要な街道に面しているだけでなく標高が七七七㍍あり、石灰岩の山の背を見渡す場所に町が築かれているので防備に優れていた。
この時より五○○年ののちに、ローマの占領下にあったこの地で、ダビデの家系の子孫とされる〝油そそがれし者〟としてイエスが誕生する。
町に近づくに従い、谷間に入ると、積み荷を狙った追剥ぎの一団に襲撃されないよう、できるだけ物音を立てないようにカリールは部下に命じた。町の邸宅を襲う盗賊の手下だったカリールには、風のにおいだけで不穏な動きが感知できた。
一瞬の油断が命取りになる。
追剥ぎはベドウィンに限らない。
逃亡兵が徒党を組んで襲ってくることもある。ユダヤ人のあれくれ者のこともある。香木など高価な積み荷を奪って売れば、食いつなげるだけでなくひと財産もって故郷に帰れるからだ。
微かだが、馬のにおいがした。
カリールはラクダを下りると、信頼のおける部下の一人に合図を送った。
部下は護衛役の男たちに報せるために後方に走った。数珠つなぎのラクダをできるだけ一ヶ所に寄せて襲撃に備えさせるためだ。
馬に乗った数人の追剥ぎはカリールの思った通り、甲高い雄叫びをあげて突進してきた。カリールと一行はその場で待ちかまえた。キャラバンの護衛役に雇われた者の大半は武装集団が現れたとたん、ラクダを走らせ逃げ去る。居残って荷を積んだラクダを守ろうとしない。しかし、カリールとその部下は違った。彼が荷主から信頼を得たのは、けっして積み荷を奪われないからだ。
石投げ紐を手にしたカリールは先頭を駈けてくる馬の前に飛び出すと、猫の手のような俊敏さで馬の目を攻撃した。石で目を突かれた馬は前脚を高くあげ、馬上の男を地面にふり落とした。カリールの部下は馬から転げ落ちた男を膝の下に敷くやいなや、短剣で喉首を掻き切った。
そのときにはもう、カリールの石投げ紐は他の馬の目を突いていた。右手でも左手でも紐を操れるので手元にもどってきた石を瞬時に投げ返すことができるのだ。
護衛の者たちの半数はラクダの影に潜み、石投げ袋を用意すると、敵に向かって石を投げた。石のつぶては追剥ぎの武具に当たると、そのつど耳障りな音を立てた。残る半数の者はハイエナが獲物に食らいつくように矢で馬の脚を射、追剥ぎどもを地面に落としていった。相手の反撃にあっても、カリールの部下はひるまない。男たちはターバンや衣の下に頭部を守る皮製のヘルメットを被り、胸や膝や腕に武具をあてがっていた。ギリシア人の傭兵から奪ったものだ。
半時ほどで、馬と人間の死骸の山ができた。
男たちは手慣れた手つきで馬の皮を剥ぐ一方で内蔵をえぐりだすと、臀や胸の肉を血抜きし、焼いて食らい、余った肉は塩漬けにした。そして、追剥ぎの身ぐるみを剥ぐと死骸を交易路の外れへ蹴りだした。
呆然と眺めているナーマンを、カリールはふり返った。
「馬は生かして売りたいところだが、そうすれば俺たちのほうにも死人が出る」
カリールは世事に疎いナーマンに教えているつもりだった。
「馬の生皮はなめし職人に売れる。追剥ぎの所持品の買い手もいくらでもいる」
カリールは自身を抜け目がなく用意周到な男だと自慢した。
ナーマンが無言でいることを、彼は訝しむ。
「なぜ、黙ってるんだ?」
いつまで待っても賛辞の言葉が返ってこない理由が、わからない。隊長として水際立った活躍をしたというのに――。
従う部下はいても、聞き慣れないむずかしい言葉で讃えてくれる者がいないせいで、カリールは時に無聊をかこつことがあった。
隊商宿の息子のナーマンはカリールが各地で見聞した話を全身で聴き、憧れの眼差しで彼を見つめてくれた。それはカリールにとって数少ない喜びの一つだった。
手下どもがいなければ、オアシスでも違う接し方もできたんだが……。カリールは言い聞かせてやれば、気持ちも変わるかもしれないと思った。
「何を怒っているんだ? 俺に買われたことをありがたく思ってもらいてぇくらいなのによ。もし、あの場に俺が居合わせなけりゃ、誰のものになっていたか、わかりゃしねぇんだぞ」
何を言っても、ナーマンは雨上がりの砂漠をぼんやりと眺めている。この青年の信頼を失ったことが、カリールの心に深い影を落とした。
「お前はどう思っているか知らねぇが、俺はまちがっちゃいねぇ」
カリールには誰にも話したことのない目論みがあった。大いなる野望といったほうがいいかもしれない。ナバテア人のカリールはエドムと隣接する砂漠の村で生まれた。両親を相次いで亡くし、親族から奴隷にひとしい扱いをうけなければ盗賊の手下にならなかっただろう。しかし、ひょんなことからキャラバンを警護する一人に加わり、ラクダに荷を積んで各地を巡るうちに、盗みを働く手伝いをするよりも多くの財貨を稼ぐ方法があることを知り野心が芽生えた。いまではエルサレムに住む荷主からキャラバンを任されるまでになったが、いつの日にか雇われの身から脱し、亜麻布で織られたギダリス(ペルシア王が着用するターバン)を被る身になってやろうと心に期していた。
キャラバンの隊長ごときで生涯を終えるつもりは毛頭なかった。
「俺は、いまに、のし上がって見せる。それには、お前の手助けがいるんだ」
彼は、ユダヤ人のように人が神の奴隷であるとかしもべであるとか感じたことは一度もなかった。他国の民のように多産の神や豊穣の神に祈願すれば望みが叶うとも思っていなかった。ほとんどの人間は神ではなく、力のある者に抗えない。一部の人間が大勢の人間を支配し、苦しみの下に置く。支配者から逃れるには自らが彼らに取って代るしかない。自由を得るとは、働いて税を絞りとられながら生きることではない、大勢の民から金銀や穀物を奪うことだと、カリールは思っていた。
じき三○になる。そろそろ勝負に打って出ていい頃あいだ。
かねてから目をつけていた聡明で姿形も悪くない青年をようやく手に入れたのだ。企みを叶えられる機会を得たに等しい。これまでも少年や若者を誘拐し、これと思うエラム人の行政官に差し出してきたが、宦官にされたあげくに奥方や子どもの世話係になるか、屋敷内での召使として酷使されるだけにおわった。宮廷に入り、書記官になれた者など一人としていなかった。下っ端役人のもつ権限など知れたものだと近頃、気づいた。王の側近に近づかなくてはならないが、その手立てがなかった。
「俺は、お前を奴隷だと思っちゃいねぇ。仲間だと思っている」
本能の命ずるままに生きてきたカリールにとって、人を欺くことも殺すことも日々の営みに等しかった。が一方で、読み書きができないせいで手の届く高さの壁を乗り越えられないという思いが人並み以上にあった。
それが、貧しさを知らずに育ったナーマンに対して強い羨望を生んだ。自分に好意を抱いてくれる聡明なこの若者となら、互いに欺くことなく高みを目指せる気がしたのだ。隊商宿の女将であるナーマンの母親さえ、自分の意図をくんでいてくれれば収税人のウリに阿漕な真似をさせることなく、野心を叶える方策を相談し、ともに旅立つことができたのだ。母親とウリが何もかも台無しにしてしまった。
「どうして、返事をしねぇんだ!」
短気なカリールは気づくと、ナーマンを平手で殴っていた。それでもなんの反応も返ってこない。能弁だった若者が痛いとも、やめてくれとも言わない。心を悩ます影がとめどなく広がっていく。盗賊だったこともあり、危ない橋も渡り、騙したり騙されたりとさまざまな苦い思いをしてきたが、胃がねじれるような苦痛は味わったことがなかった。
昨日まで健やかだった心身が、わけのわからない病にかかったようだった。しかし、意地でも後もどりはできない。他人の感情に一喜一憂することなどなかった男にとって、踏み出した道のおぞましさに身震いするのはまだずっと先だった。
「出発だ!」
カリールは部下に号令をかけた。男たちの頂点に立っているところを見せつければ、ナーマンの気持ちも変わると期待した。従うことで、いい扱いを受けたいと乞い願うはずだと。
彼はその気質のままに、暗雲を振り払うように何事も単純明快に考えようとした。
ナーマンが書記官に出世をし、自分を王宮の警護兵に推挙してくれれば、クセルクセス王を暗殺した者たちのように自分たちもアルタクセルクセス王を殺して帝国の主人となれるやもしれない。
とんでもねぇ野心を抱いてこそ、男というものだ。こいつにも俺の考えがわかるときが、いつかかならずくるさ。こいつにだって、野心がある。
崩れかけた石の門をくぐると、坊護壁とは名ばかりのどろ煉瓦の塁壁の入り口付近に駐屯部隊の兵士らが見張り番をしていた。ほとんどが外国人の傭兵で組織されている彼らは一様に冗舌でキャラバンの男たちにも話しかけてきた。ベツレヘムはヘブロンに比べて住人の人口は少なく千人にも満たなかったが、外国語が氾濫していた。
部下の男たちはカリールの命令に従い、言葉がわからないふりをした。
一行は、古びた灰色の石畳みの街路を無言で進んだ。貧しい石造りの家を囲む広場には雨期のはじまりを告げる湿った風が渦巻いていた。住民は板戸の窓を開け、何者かを詮索する目で一行を見ている。
エズラとともに帰還したユダヤ人の中にもベツレヘムの出身者がいた。覗き見しているのは、その連中にちがいないとカリールは思った。ユダヤ人の戦士と称する若者の集団がやってきて、帰還者である自分たちを襲わないかと怖れているのだ。
エズラの一行は、この町にすでに到着しているはずだ。エズラとその弟子たちの訪れる町はどこもかしこもユダヤ人の不平分子が騒ぎを起こす。懐に短剣を忍ばせ、真昼であっても敵と見れば平気で殺人を犯しかねない連中がうようよいる。
キャラバンを率いていることもあって、カリールは無益な争いを好まなかった。町に入ってから、もめ事を起こせば駐屯軍の守備隊長に睨まれ面倒なことになりかねない。
一行は柳の木(タマリスク)の大樹が繁っている狭い広場に面した隊商宿に着くと、カリールは羊肉を蜜で煮つめたスープをナーマンに与えた。そして、宿の女に頼み、湯を沸かしてもらい、自分とナーマンだけ頭髪から足の爪にいたるまで身ぎれいにした。
抗う気力も失せたのか、額帯のかわりに銀の飾り輪をつけ、じかに肌につけるぶどう色の麻のチュニックに銅鋲を散らした羊皮の短い袴を身につけるように命じられてもナーマンは黙って従った。
「これで、立派な従僕に見えるじゃねぇか」
カリールは独り悦に入った。彼は行く先々の役人に取り入る術は心得ていた。金品を欲する者には積み荷の一部を、奴隷を欲する者にはさらって差し出した。しかしこの地に滞在している徴税官は、カリールがいままで出会ったことのない種類の相手だ。
ペルシア人の総督や軍の司令官につぐ王の直属の高官だった。監察官と同じように軍隊に守られながら州内をまわり、本国のペルシアに、集めた税を送るために巡回している、この男を篭絡することができれば、ナーマンを宮廷に送りこむことも夢ではなくなる。
監察官と徴税官は同じ州内にいても別行動をとる。一方が帝国に敵対する者の企みを暴き、一方が帝国に必要な資金を徴収する。
連中はうまい汁を吸っていると、カリールは思っている。
シリアのダマスコ(ダマスカス)で遠目に見かけただけだが、常に頭巾をしている徴税官には鼻がないという噂だった。巷間に伝えられるところでは、大きな黒い穴があるだけだという。ペルシアの宮廷内で起きた先の王クセルクセスの暗殺事件に連座し、生き埋めの刑に処せられるところを鼻を削がれただけですんだらしい。現王の母后のとりなしがあったと聞いている。
ダレイオス王の即位に尽力したオタネスの娘である正妻のアメストリスは、息子のアルタクセルクセスが即位して以後、宮廷内において彼女の権力に勝る者などないと言われ、人事権も王母にあると噂されている。
「わかっていると思うが、お前にとっても悪い話じゃねぇ」
カリールは部下の男二人をともない、宿の外にナーマンを連れ出すと、徴税官の滞在している屋敷に出向いた。
「ユダヤの神は、己れに敵対する者たちすべてをいずれの日にか滅ぼすというが、滅ぼしたのちは随分と退屈な世の中になると思わねぇか? 俺やお前の知る悪とは別の空恐ろしい者がこの世を支配することになるんだぜ。やつらの崇める神には底知れねぇ悪意があると俺は思っている」
カリールは熱弁をふるった。
「俺は神に負けねぇ力を手にしてぇのさ。利口なお前なら先刻承知だろうが、俺に手を貸してくれりゃ、俺たちは思いもかけねぇ金銀を手に入れることができる。高い身分もな」
聞き手は聞いているのか、いないのか、よそ見をしている。
「いつものように、うまく受け答えしてくれよ。心配はいらねぇ、俺がついている」
カリールは力づけているつもりだった。
屋敷の門の前までくると、緊張で頬が強ばった。こんなことはついぞ経験したことがなかった。
広い中庭のある二層の屋敷は、住民の訴えを裁定する場所も兼ねていた。
門番に案内を乞うと、家令とおぼしき男が顔を見せた。
クセルクセス王の時代にユダヤ人の長老が居住していた屋敷は、今では徴税官と同族のアマレク人の所有物になっている。
屋敷内を取り仕切る役目の家令に取り入らなければ、徴税官に面会できない。
「願い事があるなら、まず申してみよ」
「いえなに、そのう……こいつを――」
カリールは咳き込んだ。
家令は、ナーマンの顔を目にすると、意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「ひと足、遅かったな」
「どういうことで……」
舌が回らない。
「アガグ様は、お前らに会われないだろうよ」
カリールは家令に多額の金を握らせた。徴税官に会えるなら、カリールは荷を任されている傭い主を欺き、預かった金銀を使うことも厭わなかった。
「宦官になりたいという少年がついさっき来たところだ」
「何人いてもいいんじゃねぇ……でしょうか」
家令は小馬鹿にした目つきでカリールを一瞥した。
「バビロニアから毎年、五百人の少年が選ばれて王宮に献上されているんだ。アガグ様はその者らに優る者――男の用を果たせなくなった年寄りの大臣にさしあげたいようだ。大きな声では言えないが、アガク様はバクトリア総督の地位を狙っておられる。今の総督は王の義兄だが、気が効かぬらしいのでな」
家令は、少年を献上にくる者たちに同じ言葉を囁いて袖の下をとっているのだろう。カリールは強欲な家令に辟易しながら手持ちの銀貨を皮袋ごと差し出した。うまくいけば、これの倍の手間賃をはずむと言いそえることを忘れなかった。
7
屋内の壁には漆喰が塗られ、床の敷石もよく磨かれていた。
奥の部屋から徴税官のアガクが姿を見せたとき、ナーマンは驚きの声を上げた。鼻の先のない男が従えていたのは薄気味悪いクズラだった。垢じみた身なりはこぎれいな衣服で整えられていたが、萎びた老人のような体つきも、髪のない頭部も、暗闇以外では濁ったような瞳の色も変わりなかった。これほど人目をはばかる顔貌の組み合わせもないほどアガクとクズラが並ぶと畸形という言葉しか思い浮かばなかった。
「どこの馬の骨だ!」
徴税官はナーマンを一瞥し、割れ鐘のような声で問うた。乱暴な言葉づかいの裏に驚きと賛辞が入り交じっていることを、ナーマンは聞き逃さなかった。
カリールは、家令に教えられた通りに深々と頭を下げた。
「わたしめはナバテア人の商人にございます。先の宰相であられた縁戚の閣下におめもじが叶い光栄に存じます」
慣れない言葉づかいのせいで、その口調はしどろもどろだった。
「さっさと用件を申せ!」
カリールにかわって家令が答えた。
「これに控える若者は、下層民らしからぬ博識を有しておりましてアラム語はもとよりユダヤの書物にも詳しく、ユダヤ人の宦官どもの鼻をあかせるやも知れませぬとのことにございます」
「ふむ……」
「美しさにおいても先ほど召し抱えられた者より、はるかに勝っておると存じますが――ペルシアの王族のお気に召すかと――」
多額の謝礼を期待する家令は主人の気を惹くように言上した。
「見ればわかる」
アガクは吐き捨てた。
「わしを無学な軍人と侮るなよ。かつてはアマレク人の王であったアガクの名を継ぐ者だ。下々の者に易々と篭絡されると侮るでないぞ」
「閣下のご名声に恐れ入るばかりでございます」
カリールは家令に教えられた言葉を述べて平伏した。
「エジプト、バクトリアとの二度にわたる戦役が終わったとたん、王の側近だというだけで、わがもの顔にふるまうユダヤ人の宦官どもは法律や財務に精通しておるのをよいことにして若い王を篭絡し、かつてのクセルクセス王のようにわれわれアマレク人の地位を貶めておる」
アガクは話すことで、さらに怒りが増すようだ。
「むろん、ペルシア人もメディア人もエラム人もわれわれと同じ思いであろう。近頃では、陛下は三人の宰相はおろか、六人の大臣、六人の顧問官、マゴス神官団の長よりただ一人の侍従長を頼りにする始末だ」
彼の怒りは洞穴のような鼻からも吹き出した。
「六という数字はペルシャ人にとって特別な数だ。ダレイオス王に六人の同志がいたからだ。彼らだけは取次なしに王に会えたのだ。それがどうだ。いまでは宦官の侍従長の取りつぎなしでは謁見さえゆるされない。なんのための顧問官か、大臣か。このような事態が長く続けば、陛下に建議する者もいなくなり、帝国に破滅をもたらしかねぬ。何より忌ま忌ましいのは、やつらが内心では、われわれの信ずる最高神アフラ・マズターをあなどっておることだ」
家令はすかさず、
「ならば是非、この者をお召し抱えになられてはいかがかと――母后のお目に止まるやもしれません」
徴税官はナーマンに顔を向けた。
「ペルシア語はむろんのこと、アッカド語の読み書きに不自由はないのであろうな」
「教えれば、短い月日で習得するかと思われます」
またもや家令が代わって答えた。
「ならば考えてやってもよい。宦官になるための施術で死ぬ者も少なくないのでな。補充要員としてなら連れもどってやってもよい」
徴税官の言葉が終わるやいなや、ナーマンは口を開いた。
「あんたは、ユダヤ人のサムエルに切り刻まれたアマレク人の王、アガクの子孫か」
「そうだ」
アガクは短く答えた。
「情けねぇなぁ。ユダヤ人の侍従長に先を越されたってわけか」
からかうと、剥き出しの黒い穴が、ヒューヒューと肌寒くなるような音を立てた。
立腹しているのではなく、哄笑しているようだった。隣で平伏しているカリールの怒りが肌身に伝わってくる。
「なんで王は、宦官の言いなりになんだよ」
「宦官とは、不思議な生きものでな。王もその母后も、連中を無私の心で仕える者たちだと勘違いしておられる」
「なんでだよ?」
「奴隷ごとき者に話してなんになる?」
「もったいぶらねぇで教えてくれよ」
「卑しき者が、知る必要のないことだが、教えてやろう。宮廷内には女たちだけの住まいがあり、そこでは正妻と言わず、側女と言わず、陛下の寵愛を独り占めしようとして争いが絶えない。この女たちに近づけるのは子種のない宦官しかいない。連中はそれをよいことにして、女たちを使って陛下の心を自在に操るのだ」
ナーマンは身を乗り出していた。エズラもそうやっていまの地位を得たのか……?
「先のクセルクセス王はこの術中にまんまとはまった。現王は、その点に関しては案ずることなどないのだが、側近にユダヤ人を登用している」
「王に忠告する者はいないのか」
「そんなことをすれば、己れの首が飛ぶ」
「宦官にならなくったって、俺は、まわりのアホどもを、あっと言わせる自信があるぜ」
「おえらい旦那の前で、血迷ったことをぬかしおって――」
カリールは拳でナーマンを殴りつけた。
「この者はわざと粗雑な物言いをしておるのが、お前にはわからんのか」
徴税官はそう言って目を細めると、
「天の神アフラ・マズターの教えでは、義人は死したのちに己れの分身に出会うそうだ。腕が白く、姿の美しい、すらりとした肢体の十五歳の乙女になって現われるらしい」
「俺が、分身に見えたのか。肌はしろくないぜ」
ナーマンの声は侮蔑を含んでいた。
「一瞬だが、生きながら会えたような気がした」
「笑わせるぜ、おっさん。言っとくが、俺はあんたの分身なんかじゃねぇ!」
「心配するな。お前は、老いた男を歓ばす術を知らぬようだからな」
アガグはそう言うと、クズラの髪をわし掴みにし、青白い顔を仰向けさせた。
「この者の口を見ろ。歯がない。鼻のないわしと同じように醜いが、年寄りの宰相には美醜など問題ではない」
「いつの日か、俺がペルシア王の道具持ちになったら、あんたやカリールが杭に掛けられるように取り計らってやるぜ。気長に待っててくれよな」
「お前はこののち、傲慢さ故に気が遠くなるような苦しみを味わうだろう。そうしてようやく善悪のなんたるかを知ることになる。しかし、その頃にはもう、その美しさも失われておるだろうがな。人間は邪悪な生きものだ。試練に遭えば、さらなる闇に堕ちる」
「お前らに服従するくらいなら、喜んで闇に堕ちてやるさ」
召使が入ってきた。
「行政長官のエズラ様と随行の者が、ご挨拶にお見えになられました。いかが致しましょう」
ナーマンは飛び出しそうになった。
「ラビ・エズラ! 聞こえるか! 返事をしてくれっ」
カリールはふたたび拳を振り上げ、ナーマンを叩きのめした。
「もういっぺん、声を出してみろ! 命はないと思えっ」
「命の一つや二つ、いつだってくれてやるぜ」
徴税官は、静かにせんかと一喝し、両刃のつるぎをナーマンの喉首に突きつけた。その腕は重量のある武器を水平に持ち上げているが、微動だにしない。
「エズラを通せ」
音もなく入ってきたエズラは、この光景を目のあたりにしても何も見えないかのように祝福の言葉を述べた。
「徴税官の上に平安が訪れますように。定めのない時まで健やかであられますように」
従う二人の男も、平伏した。二人ともガザの集会所では見かけなかった。
「〝王の友〟が、徴税官ごときになんの用だ。エルサレムの視察に訪れた総督にへつらうほうが、得策じゃないのか」
アガクは家令に椅子を二つ持ってこさせると、抜き身の長刃を手にしたまま腰かけた。エズラにも座れと指差した。
エズラは立ったままだった。
「このたび、こちらの町に伺い、徴税官のご威光を反映して多くのユダヤ人が感謝して暮らさせていただいている有り様を目のあたりにすることができ、この上ない喜びを感じております。つきましては、徴収された税の一部をエルサレムの神殿再建のためにご用立ていただきたくまかり越しました」
「あまたいる宦官の中でも、ユダヤ人はとび抜けてずる賢い。バビロニア人の宦官やメディア人のマゴス神官団など足元にも及ばぬ。しかし、わしは陛下のように貴公の口舌に惑わされんぞ。ユダヤ人は謎の部族だ。エジプトから逃れてきた貴公の先祖は、わしの先祖の土地を侵そうとして撃退されたことを恨みに思って報復の機会を待ち続けたのだからな。恐れ入るよ」
「滅相もございません」
「貴公の先祖が、約束の地と称するカナン人の土地に至る道中で、それぞれの地に住むあまたの部族を殺戮した事実は未来永劫、消えることはない。ペルシア王の書記官である貴公にはなんの関わりもない話と思うだろうが、貴公がユダヤ人だと知れば信頼を置く気になれん」
「お言葉ではございますが、わたくしは一介の書士にすぎません。徴税官閣下を欺こうなど夢にも考えたことはございません」
「川向こうの知事が、どうして金を払ったのか、わしが知らぬとでも思うのか。先に、多額の賄賂を渡し、その一部を相手が返してきただけだとな」
ナーマンは驚きで、声も出なかった。随行員の二人も知らなかったようだ、動揺の表情が見てとれる。
「貴公は、王妃の一人だったエステルの庇護者、モデルカイを見知っておるはずだ。知らぬとは言わせぬ。同じユダヤ人のよしみでさぞ、親しかったであろうな」
「かつて宰相であられたモデルカイ様は先のクセルクセス王のご聖恩を賜り、お仕えしたと聞き及んでおります。さすれば、わたくしより遥かに年長でございます。今もご存命かどうかさえ、わたくしは存じあげておりませんし、ましてやバビロンで育ちましたわたくしと、スーサの宮殿におられた方と面識があろうはずもございません」
「わしらの一族はかつて、ベニヤミン族と戦った。しかし結局は、ユダヤ人に父祖の地を奪われ、散り散りとなり各地に移り住むことを余儀なくされた。言わずとも知れたことだが、宿敵とも言えるベニヤミン族の子孫のモデルカイに宰相の地位を奪われたハマンとわしとは同じアマレク人だ。これを聞けば、貴公がどんな些細なことも、わしに頼めむとわかるであろう!」
「過ぎし日のことにございます。いまは互いにアルタクセルクセス陛下にお仕えする身にございます」
「ユダヤ人はアマレク人のハマンとハマンの息子十人だけでは飽き足らず、われわれ一族とそれに近い者たちいく人も杭にかけたのだ。千年も前の恨みの報復だったのだろうが、なんという連中だ。ご丁寧に、その日を祝いの日(3月初旬にあるプリムの祭り)と定めおった」
「仰せの意味が解しかねます。それらの事に関しては、すべて王命によるものと公式の文書にも記録官が記しております」
エズラは釈明した。そして、千年の時を経て、復讐するなどありえないことだとつけ加えた。
カリールとともに部屋の隅に控えさせられたナーマンは、徴税官とエズラのやりとりに耳を澄ました。モーセの五書には、神に導かれたヘブライ人は神への敬意が足りぬ故に約束の地へ入ることが許されず、アマレク人やカナン人に敗北したと記されている。
アンモン人やモアブ人がユダヤ人に土地を焼かれ滅ぼされたときは、神の目に正しくない部族と記述され、男子はもとより女と子供に至るまで殺されている。
「文書がどうであろうと、ユダヤ女の諌言でクセルクセス王の忠実な臣下が極刑に処せられたことは周知の事実だ。すべてモデルカイの入れ知恵だった。かろうじて生き残った一門の者は、ユダヤ人にならって一時たりとも恨みは忘れておらぬ」
「書記官としてのわたくしの主たる務めは、過去から未来へ連綿とつづく王家がその時代に行なった事績を正しく書き記すことにございます。陛下のしもべである者として、まつりごとに口出しをしたことはただの一度もございません」
「貴公もユダヤ人であろう! いまこの場においてもユダヤ人のために当地にやってきているではないか。しかし見方を変えれば、貴公は陛下に見捨てられたのだ。陛下はエジプトの反乱を平定されたあと〝宝蔵文書〟の作製を打ち切られた。お前の役目も終わったということだ」
「そのことと先の事件とはなんの関わりもございません。いまここで、お力添えいただけないのでしたら陛下にお伝えしなくてはなりません。わたしは王命で、ここに参っております」
二つの黒い穴が、エズラを凝視した。
「キュロス王の治世に帰還した者らによって神殿の再建は成ったはずだ」
「仰せの通り、二○年かけて再建いたしましたが、その時からさらに四○年余の月日を経ておりますので補修の必要が生じております」
「貴様らは財宝をもってエルサレムに帰還したはずだ。なぜ、それを使わぬ」
「多少の金銀で補修が叶うのでしたら、こうしてお願いに参上いたしておりません」
エズラたち一行は帰還したおり、四三○○万㌦相当の金品を所持していたと伝えられている。
「お前らは金の亡者かっ」徴税官は語気を強めた。「わしは黄金より名誉を重んじるのだ。忘れるな」
「重々、承知いたしておりますが、わたくしも神と陛下の義のためなら、いかなる犠牲も厭いません。死をも恐れはいたしません」
間隙を縫うように、
「ラビ・エズラ! 俺だよ。ガザで会っただろ。助けてくれよ。宦官にされそうなんだ」
ナーマンは大声で言った。
「こやつの知り合いか」徴税官はエズラに問うた。
「いいえ」
「そうか」
徴税官はやにわに立ち上がるとエズラの前に回りこみ、胸元をめがけて抜き身の剣をひと振りした。エズラの怜悧な面差しには一瞬の慄きも走らないばかりか、一礼することもなく、部屋を出て行った。
「おい、エズラ、神の子じゃねぇのか!」ナーマンはその背にむかって喚いた。「悪人に謀られるのは諦めがつくんだ。お前こそが人の心を欺くサタンだ!」
神の子の目の端に、ナーマンの姿はとまらなかったようだ。
「こやつは騒々しい」連れて帰れとアガクは言った。
カリールは恭しく低頭し辞去したが、その目は憤怒で血走っていた。
屋敷の外に出るやいなや、カリールは部下の二人に命じてナーマンが立ち上がれなくなるまで殴らせた。
「いくらお前に金を使ったと思っているんだ!」
ナーマンは痛めつけられながらも、何も考えずに記憶していた物語の断片が、頭の中で整理され別の意味をもって立ち上がってくるのを感じていた。
俺は何を読んできたのだ……。
イスラエルの王となったサウルに部下のサムエルは神の言葉として伝える。
「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼし尽くせ。彼らを許すな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊もラクダも、ロバも皆、殺せ(サムエル上15:3)」と。
それは真実、神の言葉だったのか?
サウルも同じことを思ったのではないか。ユダヤ人の王サウルは、アマレク人の王アガクを許し、羊や牛の良いものを彼らから分捕り、値打ちのないものしか滅ぼさなかった。部下だったサムエルは怒り、神の名においてアガクを切り刻み、サウルを王位から退けた。皆殺しにしなかったサウルを諌める神とは、何者なのか?
カリールが盗賊とその馬を殺したこととどこがどう違うのか?
逆境に置かれるまで書物は自分の暮らしに関わりのない過去の物語に過ぎなかった。文字を目で追っていたが、物語の裏に隠された真実を読み取っていなかったことにようやく思い至った。
言葉の羅列を、そのままに受け入れていた。
収税人のウリから習った「終わりのとき」のダニエルの預言を、少年だったナーマンはどれほど恐れただろう。
その期間は「一時と二時と半時(12:7)」。
約三年半かかってこの世界は滅びると聞いた夜は眠れなかった。ネブカドネザル王に仕えるダニエルに「終わりのとき」を告げた、御使いは人の形をし、電光のように輝く顔をし、目は燃えるように赤く、緑柱石(黄色または緑色の準宝石)のような胴体をもち、腕と足は青銅のように輝いていたという。
「あなたの民は救われ、地のちりの中に眠っている者の多くは目をさまし、神の裁きののちに永遠の命を得る」と告げたあと、「終わりのときまでこの言葉を秘し、この書を封じておくように」と命じた(12:4)。
預言の通りなら、この世はとっくに滅びていなくてはならない。ユダヤ人ではない自分にまで、秘された言葉は知られているのだから。
生き延びてやる、なんとしてでも。
無慈悲で、理不尽な神を許すわけにはいかない。思えば思うほどに、エズラへの憎悪で胸が張り裂けそうになった。
8
曙光が空一杯に広がりはじめたとき、馬上のナエルことジャミールはエルサレムの町に入る前に越えなくてはならない谷を見下ろす地点に立った。
大きな岩の突き出た場所から黄ばんだ砂礫の丘を一気にくだり、岩山を登ると、花崗岩の岩棚の間にかくれていた視界が飛び出したようにひらけた。
ほの白く舞いたつ砂塵の彼方に、雨上がりの聖都が浮かび上がった。
瓢箪の形に似ているとジャミールは思った。瓢箪の上部にあたる地域をシオンの山、下部の広い地域をモリヤの山と呼ぶ。
この地を訪れるのは二度目だった。一年前、シリアのダマスコから南下したので全景を眺望するのははじめてだった。三方が急な斜面――ギデロンの谷、ティロペオンの谷、ヒンノムの谷に落ち込む形の台地の上にある、この町に近づく唯一の道は北側にしかない。ユダ王国が滅ぼされる以前のように塔や稜堡が城壁に沿ってあるわけではなかったが、いったん東側のギデロンの谷を昇り、北に向かう道に入らなくてはならない。
標高約七五○㍍。当時の世界でもっとも高い場所にある都の一つだったが、東に約八八○㍍のオリーブ山、北に約八二○㍍のスコボス山、南と西は八三五㍍級の丘陵地で囲まれているせいで高地に向かっている感覚はない。
ヘブロンからエルサレムまで、〝ユダの骨〟とも〝パレスチナの背骨〟とも呼ばれる尾根に砦というべき町が作られている。
ダビデ王に征服されるまで、この都市と周辺地域はサレムと呼ばれ、ヘブライ人と祖先を同じくする山岳民族のエブス人が居住していた。エブス人は、大洪水を生き延びたノアの孫、カナンにはじまる十一部族(アモリ人、ヒッタイト人、ヒビ人、ギルガシ人など)に属したが、エジプトからもどってきたヘブライ人と約束の地をめぐって死闘を繰り広げた。〝神に選ばれし民〟という自負と誇りがなければ、先祖を同じくする部族とのいくさに勝利をおさめられなかっただろう。
紀元前一○七○年、モリヤ山にあったエブス人の砦は、地下水路の立坑から侵入したダビデの腹心の配下ヨアブの奇襲攻撃に遭い、呆気なく陥落した。それ以後は〝タビデの都市〟として知られるようになり、エルサレムと名を改めた。エブス人はこの地の主人となったユダ部族の奴隷となり、その子孫はソロモン王のもとで大建築の造営に従事した。ヘブライ人はカナン人とも混血し、彼らの宗教の影響を少なからず受けた。
「――もう少しの辛抱よ」
意識のないサライを励ましながらも、ユダヤ人の血を一滴も受け継いでいないジャミールは、聖都を目のあたりにしてもなんの感慨もわかなかった。それどころか、自らの意志で訪れることはけっしてないと思うほどこの都を嫌っていた。
ジャミールにとって恐ろしい者は神ではなく監察官の他にない。
あの男は今日明日にも、あたしを小姓にすると言い出す。
日毎夜毎、寝所に呼び入れ快楽の相手をさせるために――。もし拒めば、裏切り者として抹殺される。殺人者の役目はギバルのはずだ。
ギバルは、裏切り者に温情をかけたりしない。
密偵の仕事をするうちに、人間にはふた通りあると彼女は気づいた。自らの意志で生きる道を選択する者と、自らの意志をもたずに他者の言いなりに生きるしかない者に分かれると。他者とは、人である場合もあるし、神である場合もある。
カシムは後者だが、ギバルはあきらかに前者だった。監察官の部下でありながら、自らの意志で行動している。事と次第によっては監察官さえ裏切るだろう。
ジャミールは自らをどちらの側でもないと思っている。欺いたサライを救うために監察官の愉悦に手を貸したのだから……。
どうして、これほど心が揺れ動いてしまうのか。
気紛れとは異なる、これまでジャミールが一度も感じたことのない熱い感情に戸惑う。同時に抗いがたい力で、何か形容しがたいものが、血肉の内側でうごめいているのを感じる。監察官の慰みものとなっているつかのまに現われる幻影が、そのものの正体なのかもしれない。姿も見えないし、声も聞こえない。しかし、そのものは、彼女の心とからだに巣食う生きもののようにしだいに領分を広げている。
サライがこのまま息絶えても平気でいられると思う一方で、一刻も早くギリシア人の医師に診せてやりたいとも思う。
ジャミールは自分の手にサライの生死がかかっていると思いたくなかった。毒を盛ったのは、自分であって、自分ではないと思っている。
ギバルの馬にこれ以上、鞭は入れられない。鼻から血を流している。
馬が死ぬのと、サライが死ぬのとどっちが先か、ぼんやりと考える。
乾燥した荒野の端にあるエルサレムは、主要な二本の交易路からやや外れている。最短距離でエルサレムに向かおうとしたが、ダマスコからアカバ湾に至る、古代の街道〝王の大路〟を荒らしまわる追剥ぎの一団を避けるために、東西に走るヨルダン川流域から地中海沿岸に至る曲がりくねった悪路に迂回するはめになり無駄な時を費やしてしまった。
馬の鞍に縄でくくりつけたサライは、かすかに呼吸をしている。生き永らえていること自体が不思議だった。少年ながら超人的な体力を有しているようだ。
「ほら、見える?」
ターバンで黒褐色の縮れた髪を包みかくし、小姓の衣服を着用したジャミールは反応のないサライに語りかける。
"ユダの骨"とも〝パレスチナの背骨〟とも言われる深い谷の周辺の丘陵には刈り入れのおわった大麦畑が広がっていた。そこに黒い羊の毛でつくった天幕が密集し、戦車がひしめいている。総督のトリタンタイクメス麾下のペルシア軍が駐屯しているのだ。これから羊の群れの冬ごもりがはじまる。青草を食む家畜の群れを追う子供らの姿もまばらに見える。彼らは、イスラエルの民の流刑後にもどってきた北の部族のカナン人のようだ。
「ベエル・シェバよりもこの地は、肥えているのよ」ジャミールは独りごちる。
都市の周囲は緑の草木がこんもりと生い茂っている。
「けっして枯れない泉もあるし……」
平安を意味するエルサレムはかつては鷲の要塞と呼ばれていた。その名に相応しい城塞都市としての機能を果たすうえで必要とされるすべての条件を満たしていた。いくさになると、岩石の絶壁は天然の要塞に早がわりし、長期の攻防にも耐えられた。
荒地にいただく王冠のようにヒンノムとギデロン両渓谷の合流点の山の頂きをつないで聖なる地はそびえ立っている。
流刑地から帰還したユダヤ人が住み着いた地域の範囲をさす言葉として、「ベエル・シェバからヒンノムの谷まで」と人々は言った。北西のベニヤミン族の住む地や北のイスラエル王国のあったサマリアの地は除外されている。
手を額に置いて、彼方を眺めた。
都市の城門はかつて、ヤコブの十二人の息子たちの子孫からなる十二部族にちなみ、十二門もうけられていた。
バビロニア軍の去ったあと、石組みの城壁は打ち砕かれたままだ。あらたな支配者ペルシア人が許さないからだ。
眺望するジャミールは目を見張った。黒点が数珠つなぎにつづいている。キャラバンか、それに類する家畜の列にちがいない。
どういうことよ!
ペルシアのキュロス王の民族解放令が出たのちに流刑地のバビロンから四万を越えるユダヤ人が帰還したにもかかわらず、盗賊の棲み家のようなエルサレム市内に居住する民はほとんどいなかった。彼らが神殿の礎を築き、建物を再建しても、安全を確保する城壁と兵力をもたない都市は人の住む町として機能しないからだ。それは先頃、エズラの帰還によっても変わりなかった。
ジャミールは急いで馬を降り、手綱を引いて、検分の門と呼ばれていた城門の跡地に徒歩でむかった。
馬を死なせてはならない。ギバルの言うように、ここには医者がいるかもしれない。
坂道に差しかかる遥か手前から、かます(縄で編んだ袋)に入った穀物を山積みにした何台もの荷車が市内を目指して上っている。山のように荷を背負ったロバやラバを急き立てる商人とは反対に道をくだり、耕作地に向かう農夫たちや、キャラバンの長い隊列で狭い道は混雑していた。どの顔もユダヤ人ではないように見える。
トカゲが這い出るように異民族がどこからかやってきて入りこんでいるようだ。ユダヤ人はエドム人をはじめアンモン人やアマレク人やペリシテ人などあまたの部族と戦い、六○もの都市を滅ぼし、エブス人から奪い取った聖なる都は今では誰のものともわからない無国籍都市へと変貌していた。
廃墟と化した町をいくつも目にしてきたジャミールには信じられない光景だった。
エルサレムは蘇っていた!
9
ベツレヘムで一泊したカリールのキャラバンは渓谷を眼下に見る険しい山道を西へたどっていた。エルサレムに向かうものと期待していたナーマンは、男たちの話から方角が異なることに気づき落胆した。彼らもまた塩の町に向かうようだ。
縄につながれ、裸足で歩かされるナーマンの足は血に染まっていた。奴隷の焼き印を押された額は夜も眠れないほどの痛みで疼いたが、宦官にされる屈辱に比べればまだしも耐えられた。
小休止のとき、雇われたばかりらしいが頑健な体躯の男がカリールの目に止まり、ナーマンの額に焼き印を押す役目を仰せつかった。
「実はさ、俺の衣に金貨が縫いこんであるんだ。縄をゆるめてくれたら、くれてやってもいいんだぜ」
「嘘をつくな」
男はそう言いながらもカリールの目を盗み、手首の縄を弛めてくれた。ナーマンは脱力し、しばし思考が停止した。はじめての体験だった。目覚めているかぎり、頭の中はめまぐるしく何事かを考えているものだと思っていたからだ。
「金貨はどこだ」男は媚びるように言った。「なぜ、隊長に金貨を差し出して謝らなかったんだ? 焼き印などされずにすんだかもしれないのに。せっかくの男前が台無しだ」
ナーマンは殴られながらも悪口雑言を吐き散らした。ペテン師の大悪人だの、女衒だのと言いたい放題だった。激高したカリールはナーマンの履き物を取り上げ、額に焼き印を押し、ラクダの後ろを裸足で歩かせた。
額の焼き印は野獣の崇拝者であり、ユダヤの神に敵対する者とされる。カリールはそれを知っていて、ナーマンをもっとも低い身分に貶めたのだ。
「隊長の機嫌を損ねると、酷い目に遭うとわかっていたはずだ」
「この先どうなるんだ?」
「鉄の採れる山に送られるか、塩田のあるビブロスで働かさせるか、引き船の漕ぎ手に売られるか、男娼にされるかだろうな」
「いろいろ使い道があるんだな」
額がチリチリと疼く。
「引き船の漕ぎ手にでもしてもらおうか」
負け惜しみを口にし、傷ついた額に触れる。腫れている。
何者かに祈ろうとは思わなかった。未知なる存在に導かれているという思いを一瞬でも抱けば、心を強く保てない気がした。もはや、自分の行いを神がどう思うかなど知りたいと思わなかった。もしこの先、自分を従わせようとする者があれば嘘もつくし、騙しもする。殺すことも厭わないと思った。
俺の魂は神のものなんかじゃねぇ。俺自身のものだ。
ベツレヘムの町をのぞむモアブの山々が紅玉石の色に染まる頃、火の海かと思える砂嵐が荒れ果てた丘陵地帯に群生した茨を砂塵に舞う短いつるぎにかえた。
「止まれっ!」カリールが隊列に命じた。
塩の海の東に位置するモアブは、イスラエルの民と同族の人々の住む地でありながら不道徳とバアル信仰の故に滅ぼされるとイザヤは預言し、その通りになった。ユダヤの神ヤハウェの計り事である裁きは成就したのだ。
エズラになんぞ、負けねーぞぉ。
背を二重に折った。砂嵐が通りすぎたのちも、その姿勢をもとにもどせなかった。からだそのものが自分の意志に逆らっていた。万軍の神ヤハウェは、常にダビデとともにあったと記されている。自分とともにあるのがサタンなら、なんと力なき悪神だろう。生と死の境界にいるしもべを、みすみす神の裁きの手にゆだねるのか――。
精根尽き果てたナーマンはその場にうずくまった、俺は自由の身だと呟きながら。
鷹がナーマンの頭上で羽音を立てた。
「おまえとサライは双子のようだな。運命の糸で、繋がれているらしい」
低い声が頭の上でした。
ひざを屈したナーマンが虚ろな眼差しで目を上げると、ギバルが目の前に立っていた。
粗布の衣をまとった彼はラクダを従えていた。
ナーマンはゆっくりと顔を上げた。
ギバルは、銀貨二○枚(約44㌦)で、カリールからナーマンを買った。
「ユダがヨセフを売った価と同じとはな」ナーマンはうそぶいた。「俺は、エジプトの宰相になれるってことか」
ギバルは、しゃがみこみ、嗤いを含んだ声で言った。
「エズラの弟子になり損なったらしいな」
ナーマンは無言で、額帯を握りしめた。
「蛇に見える焼き印だな。知っているか? フェニキアの医術の神は蛇なんだぞ」
ヘブライ語のアルファベットの第12字、ラーメドとそっくりの焼き印だった。詩編作者は八つの節(詩編119:89-96)で冒頭にこの文字を用いている。
「――で、これからどこへ行くつもりだ」
ギバルは何事もなかったように訊く。
「……エルサレム」
「まだ諦めてないのか。しぶといな」
ナーマンは返事をする気力も失せていた。
「権力を手にした者はかならず自由を奪う。そうまでしてエズラの奴隷になりたいのか」
「奴隷……?」
「エズラに従うことは、神の奴隷になることだ」
ギバルは水の入った皮袋を投げてよこすと、一気に飲むなと言い足した。
おかまいなしに飲みつくしたナーマンは、ギバルが肩にかけた皮袋から取り出した炒ったイチジクとパンをもらい、むさぼり食った。いまなら馬の飼い葉でも食べられると思った。
死の淵から生きかえり、頭の血の巡りがよくなり、好奇心が蘇る。
「王がエズラを気に入っているということは、王も神の奴隷なのか?」
ギバルは声を立てずに嗤いながら、
「エズラに傾倒する者は何者であろうと、武勇を誇る者はいない。王とて変わりない。王位につくために父親を殺してくれた義兄と狩りに行き、王より先に弓を射たという理由で追放したやつだからな」
「なら、好都合だ。武芸は自信がねぇからな。行先はバビロンでもいいな」
「バビロンで、いったい何をするつもりなんだ?」
「王の側近になって、天を裂き、山を動かしてやるんだ。そうさ、俺をコケにしたやつらぜんぶを杭に掛けてやるのさ」
「側近は毒薬で邪魔者を消すんだ」
日焼けした顔をふちどる黒髪までが笑っているように見えた。
「その焼き印は、滅びを受ける立場の者たちにつけられるものだ。王の側近になるには、ラクダが針の門(エルサレムにある門の名前)をくぐるよりむずかしいだろうな」
「どんなに狭い門でも潜ってみせるさ。俺はかならず、俺の能力にふさわしい地位についてみせる」
「エズラを見習って、一物を切りとることだな」
「宦官になるくらいなら殺されたほうがましだ」
「それが嫌なら、そこらの貴族の子のように金を積むしかないな。なるもならぬも金次第さ」
ギバルはそう言ったあとでつけ加えた。
「金のない者は〝ソロモン王の黄金〟でも見つけるしかないだろうよ」
「六六六タラント(約16㌧)の黄金のことか」
ナーマンは気力がもどる。
「たしか、オフィルからヒラムの船で運んできたって書いてあったな(列王上10:11)」
「大海に面したツロのヒラムはともかく、オフィルという名の町は地図にない。そこがどこなのか、誰にもわからない」と、ギバルはつぶやいた。
エルサレムが陥落して以来、無数の者が一攫千金を夢見て、オフィルの場所を捜した。黄金を産する鉱山を見つけるためだ。
「お前は、ユダヤ人の書物に詳しい。それらしい記述はないのか」
「契約の箱とソロモンの黄金の行方は、五書には一行も記されていない。書いてあるとすれば、偽典だろうな」
「そんなものがあるのか」
「見たことも読んだこともないが、俺が習った収税人が言うには、好き勝手にこっそり書くやつが山ほどいるそうだ」
ギバルは裾まである粗布の上着を脱ぎ捨てると、
「托鉢僧にでも化けて、この荒地を乗り越えるんだな。お前とお前の神にその気があれば、いつか目的の地に行きつけるだろう」
喪服でもある粗布の衣を身にまとえば、巡礼に見えるとギバルは言う。
「冗談じゃねぇぜ」
「肌の色はどうにもならんが、地獄の一丁目で俺に出くわしたということは、何者かがお前に味方してくれてるのさ」
「イスラエルの神は、俺の避け所にも砦にもなってくれねぇ」
つい弱音を吐いた。
「避け所や砦はどこにでもある」
路銀の足しにしろと言って、ギバルはシェケル銀貨五枚をよこした。そして、毎日、額に塗るようにと言って、山羊の皮に包んだバターのようなものを、小袋に小分けしてくれた。いい匂いがした。
「テリアカだ」
これが、マムシを煮詰めたものに、クレタ島の酒とアッティカの蜂蜜を混ぜた解毒膏なのかと感心して眺めた。
「痛みが和らぐし、傷跡もさほど目立たなくなる」
「なぜ、エズラの弟子になれない、俺を助ける?」
ギバルはラクダにまたがり、手綱を手にしながら、
「宮仕えは、お前が考えてるようなものじゃないが、行って、その憎しみの目で確かめてみることだな」
「俺の考えでは、黄金はバビロンの地下水路(カナート)にあるって気がするんだ」
謝礼のつもりで秘密を明かしたが、ギバルは両手を上げ、それはないという仕草をした。
「バビロニア軍の将軍が黄金を持ち帰ったのなら、そのことを隠しおおせるはずがない。いまのところ、預言者のエレミヤが契約の箱の中に黄金を入れて砂漠に隠したという説がもっとも信憑性がある」
「それであちこち、うろついてんのか」
「エレミヤは無理遣り、エジプトに連れて行かれたと記されている」ナーマンは得意げに言った。「そんな大層なものを砂漠に隠せる余裕なんてなかったはずだ。己れの身ひとつ守るのが精一杯だったと思うぜ」
「俺たちは預言者でも勇者でもない」
俺たち、という言葉にナーマンは首を傾げた。手だれのギバルと無力な自分との間に何の共通点もないように思えたからだ。
「おっと忘れるところだった。ユダヤ人の巡礼に化けるなら頭を剃れよ。通行証を見せなくてすむ」
そう言って、この先に井戸があると教えてくれた。
「石の道標もな」
「あんたは、どこへ行くんだ」
「生憎、お前とは反対方向だ。ヘブロンにもどる用事がある」
ギバルは槍を担いだ背を向けた。
「ナエルに会ったら、よろしく言ってくれ」
ナーマンは金輪際、口にすまいと思い定めていた名を口にした。
ギバルは振りかえり、
「ナエルは、病に倒れたサライを連れて、エルサレムへ向かった」
「エルサレムに? ナエルはサライを助け出したのかっ」
「やめとけばいいものを――ペルシア人の宰相だった父親の正妻に、側女だった母親と弟を殺されているからな。弟のように思えるらしい」
「母親も弟も殺されたのか……」
「あいつは女だったから生きのびられた。父親が監察官に預けたおかげでな。しかし、それは密偵となることでもあったのさ。十歳のときから五年間、自力で生きてきたんだ。女ながら、たいしたもんだ」
ついさっきまで、ここから先へは進めないと諦めかけていた。生きているうちにハゲタカについばまれることまで考えたが、ギバルの言葉でもう一度、立ち上がる気持ちになった。ナエルのたどってきた道に比べれば、自分の道は平坦に思えた。
「女のあいつに出来たことが、男のお前に出来ないはずがない。生きるも死ぬもお前自身の力だ」
ギバルは片頬で笑うと、荒地を去って行った。
後ろ姿は見る見るうちに陽炎になった。そして、かき消えた。
雨が振ってきた。
「待ってろよ、エルサレム。這ってでもたどり着いてやる」
なんとしても、この苦しみの炉から脱け出してやると、ナーマンは吠えた。
神から疎まれ、見捨てられようと、自分自身であろうとする自らの力を信じて歩きつづける――何が正しくて、何が正しくないのかを識るために。
シオンよ、覚めよ、覚めよ、力を着よ。
聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
割礼を受けない者および汚れた者は、
もはやあなたのところに、はいることがないからだ。
(イザヤ52:1)