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【小説】コーベ・イン・ブルー No.7(最終話)

   13

 このビデオは、黄金の葉っぱどころではなく、大木の枝になると、海人は八田組長に言った。
「今頃、ナニ寝呆けたことゆーとんじゃ!」
 山野辺は、いきなり海人に殴りかかった。
 反撃の体勢をとる前に、手下の石垣が、海人をはがいじめにした。
 海人の顔面を、山野辺のこぶしが直撃。
 一瞬、目の前が真っ暗になる。
「クソガキが、思い知ったかッ」
 山野辺が吐き捨てると、石垣は海人の頭をドアに叩きつけた。
 海人はその場にくずおれる。
「これは序の口やと思え。わかったかッ」
 これまでの鬱積が罵声に込められている気がした。
 海人は起き上がり、組長と二人だけで話したいと言った。
「まだゆーとるんかーッ」
 いきり立つ山野辺に、八田は、「もうええ」と言った。

 八田はしばらく天井を見つめていたが、警戒する山野辺をドアの外へ追いやると、葉巻をくゆらせながら、
「どういうこっちゃねん?!」
「録画を見せてもろて、気がついたことがあるんです。出だしに、映ってる女を知ってます」
「だれや?」
「それは、まだ言えません。舎弟頭が妙な動きをしたら、元も子もありませんから」
「わしにどういう儲けがあるんや」
 海人は言葉につまる。
「ゆーてみい」
「金にかえられん儲けがあります」
「お手並み拝見といきたいとこやが、二度目の失敗は許さんデ」
「結果がわかるのに、十日ほどかかると思います。それまでビデオの貸し出しは待ってください」
「よし、わかった」
 海人は、長谷川千賀の映っている部分だけをダビングさせてもらい、家に帰り、郵便局が開くのを待って名刺の宛先へ速達で送った。
 長谷川警部補がどう出るか、待てばいい。
 こちらの名前は書いていない。
 英美子の店のピンク電話の番号を書いておいた。

 洗面台などしゃれたものなどない家なので、台所の流し台で顔を洗う。柱にぶらさがっている、くもった鏡に顔を映すと、目のまわりが紫色になっている。まさに〝青タン〟である。この顔で仕事に行けない。
「このさいや」
 代理店業を廃業すると、断りの電話を藤原康介に入れる。
「ま、ま、まってください。し、し、仕事をどうするんです」と、つっかえながら焦った声が返ってきた。
「カノジョができたらしいな」
「ち、ち、ち、ちっがうんですぅ」
「あの女はひと筋縄でいかんやろけど、まぁ、お似合いやろ」
 海人は一方的に電話をきり、晴れ晴れした気分になる。
 今後、松木組と八田組の間で何事があっても、高見の見物ができる。
 康介の身に何が起きようと、本日入出港する船がどうなろうとそれこそ知ったこちゃない。
 爽快感と同時に闘志が沸き上がる。
 ロイが溺死体となって、ひと月と一日。

 へこましてやる、あの猫目女を。事情聴取をうけたときの、人を見下す口調と態度に辟易した。相手が女であっても、敵だと認定した瞬間から許す気にならない。

「どないしたン、その顔」
 寝呆け眼の英美子は不審がるどころか、
「気ぃつけて、歩かんと、あかんしぃ」
「デッキで転んだだけや」
「保険に入ってへんから、怪我しても病院に行かれへんねンデ」
 仕事を辞めたと言うと、英美子はいっぺんに眠気が覚めたらしい。
「どうする気ぃなンよ!?」
「おふくろの店、手伝うことにした」
「やめてよーっ!」
 英美子は海人の青タンより、息子が水商売にもどることを不安がる。
「山野辺が、店のあがりを、もってくの知ってるやないの。カイちゃんがヨソで働いてくれへんと、着るもんも買われへんようになるやン」
 ほとんどがカラオケの客だ。
 水割り一杯で長時間、歌う。
 英美子や海人が、からだで稼がないかぎり、経費とみかじめ料を差し引くと、手元に残る金はほんのわずかだ。
「十日、いや一週間でええ。おれのスキにさしてくれ」

 昼前に、店に着くと、隅から隅まで掃き掃除をし、雑巾がけをした。
 送ったばかりの小荷物が警察署に今日中に届くはずがない。わかっていながら、ジリジリしながら待つ。
 当然、電話はかかってこない。
 デカなら容易に、電話番号からこの店を突き止められる。
 海人は乾いた布でグラスを磨く。
 夕方の五時前に、英美子はやってきた。
 海人はサングラスをかけ、バーテンの仕事をこなす。
 福原でも南京町でも、よく働いた。
 これまでの人生が、頭の中に浮んでは消える。

 明日か、明後日になるか――決着をつけてやる。

 午前一時に、最後の客を送り出す。
 サングラスを外し、ボックス席に倒れこむ海人。
 何があったのかと、英美子はしつこく訊く。
「いまにラクさしたるから、ちょっと黙っといてくれ」
 看板のネオンを消した直後に藤原康介が入ってきた。 
「代行業の未払い分は、振り込んでくれ。そや、口座がない。じかに現金をわたしにきたんか?」
 半身を起こす海人の前に、康介は腰かける。
「今頃、なんやねん? おまえのせいで、おれがどんな目に遭うたか、知らんやろ。見てみい、この青タンを」
 顔を指さすと、
「自分は、自分は……」と言ってあとの言葉が続かず、康介は泣きだす。
 よく見ると、頬がこけている。
「どっか具合わるいんか?」
 英美子が海人に耳打ちする。「ややこしそうやから、先に帰るね」
「いや、こいつを追い出すのが先や」
 海人は、泣きじゃくる康介の腕を引っ張り、店の外へ出る。
「タクシー、ひろたるから、さっさと帰れ」
「クルマできてます」
「へぇ、金持ちはちがうな」
「自分は、金持ちではありません」
「いつから、〝ぼく〟が〝自分〟になってん。気色わるいな。まぁ、うちのオカンも、家では、〝うち〟と言うてるけど、店では、〝あたし〟になるもんな。どうでもええことやけど――」
 海人は、ダイエーに近い有料駐車場にむかって歩いていく。この近辺では、車を停めるのはそこしかない。
「ほな、帰れるな。ここで別れよ」
 二度と顔、出すなと言って、海人はきびすを返す。
 後ろを歩いていた康介とぶつかる。
「自分は、ずっと母親と二人暮らしでした。母親が病気で死んで、松木の家に引き取られたんです。もとは貧乏人です」
「取ってつけたような話も、金持ちの男前が口走るとBGMに聞こえるからふしぎやな」
 リップサービスのつもりかよと、海人はつぶやいた。
「自分の話を聞いてください。お願いします」
 涙を流した分量だけ、目の光が強くなっている。
「店におらんと電話がいつかかってくるやもしれんのに――おまえも女で忙しいやろ。とっとと帰れ。いまのおれは、おまえのせいで切羽詰まってるんや」
 夜道で押し問答できるほど暇ではない。
「せめて、クルマの中で聞いてください」
「じゃかましいッ」
 海人が怒鳴ると、康介は意を決したように、
「服部サンは殺人犯ですか……?」
「いま、ナニ言うた?」
「二件の未解決事件の犯人ですか」
 康介はたたみかける。
「だれが、おまえに教えた!?」
「柳沼深雪という女の警官です」
 柳沼という名前に記憶があった。
 海人が耳たぶに穴をあけた大学教授の名が、たしか柳沼だった。
 娘の可能性が高い。ひと月と一日前、店に変装してやってきたのは潜入捜査などではない。
 両親の恨みを晴らしたかったのだ。
 
 夜のとばりが肩に落ちてきた。

「――で、ナニがあったんや」
 康介は、柳沼深雪に脅迫されていると言う。
「それで、週に一回、お付き合いしてるわけか?」
「六日に一回、一時間です」
 彼の黒目が斜めにむく。遠くを眺めているような、近くを見つめるような焦点の定まらない眼差し。
「断れよ、大人なんやから」
 康介は力なく首をふる。
「上層部に証拠を提出して、再捜査すると言われて……」
「あの女が黒幕か……いや」と、海人は独りごちる。
「直属の上司にも気にも入られていると言ってました」
 長谷川千賀は、ロイの一件で海人を黙らせたくて、柳沼深雪をつかったのだ。柳沼深雪は英美子の店で藤原康介に出会い、心を奪われ、彼と関係をもつために事実に偽りを加えた。それだけでは飽き足らず、エラ女に運び屋の話をした。

 しかし柳沼深雪はいつ、だれから、運び屋の一件を耳にしたのか
……?
 山野辺と石垣の顔が頭に浮かんだ。
 敵は思っている以上に狡猾なようだ。
 いつのまにか、ただっ広い駐車場の敷地にきていた。
 箱型のクーペが停まっている。新車のように見える。

「なんや、このクルマ、庶民的やな」
 好奇心が抑えられない。
 康介がキーでドアを開ける。
「自分は、父の会社を継ぐ気はありません。ヤクザになる気はもっとありません」
「それで、このクルマか?!」
 海人は康介を押しのけ、運転席にからだを入れる。
「家を出る気なんか?」
 康介は前を回って、助手席に乗りこみながら、「ええ」とうなずき、「静かに、生きていきたいんです」
 ハンドルを握ると、機嫌がよくなる。言わなくていいことまで、ついしゃべってしまう。
「知ってるか? 松木組は、荷役が本業や。大卒を採用したら、最初に地下足袋を渡すそうや。下で働くもんの苦労を教えるためやと聞いた。おれはええ会社やと思うけどな」
「自分は、平凡な人間です。人を使うのも、使われるのもイヤなんです」
「課長になって、上手に業務をコナしてると聞いたぞ」
 康介はふっと笑い、
「ペルソナって知ってますか?」
 格調高い議論の不得手な海人は、阪急デパートのクレジットカードと答える。
 康介はフロントガラスを見つめたまま、
「ラテン語で仮面をさすんです。自分は、ずっと仮面をかぶって生きてきました。松木の家にきてからは義理の母が恐ろしくて、安心して眠ったことがありません」
「家は六甲の篠原通りか?」

 クーペにエンジンをかける。
 走りだしたとたん、後輪がスリップする。

「新車やのに、なんでやねん。ずっと置きっぱなしやったんか」
 康介はうなずき、「服部サンは、人を――」
「男を二人、刺したことはまちがいない」と、海人は言った。「後始末をしてもろた。徹底的に家宅捜査されたが、証拠は出なかった。時効にはまだ間ァがあるけどな」
 康介は頭を抱えて、膝に顔を伏せた。
「恐がらんでも、おまえを刺したりせん」と、海人はアクセルを踏む。
「自分は騙されて……」康介は顔をあげる。「死にたくなるような苦しい思いをしました」
「おれが、人殺しやいうことは、気にならんのか?」
「あの黒服のヤクザ、山野辺悟が、からんでるんでしょ?」
「なんで名前、知ってるねん」
「女警官に脅されてアパートに通ううちに見張られることに気がつきました。山野辺の手下です。あの女は、その手下とも関係しています」
 石垣と女警官とが? まさか、そんなことが……。
「捜査書類を見せられました。たしかに確実な証拠はないようです。しかし、ほかの事件で逮捕されれば、自白を迫られるはずです」
「別件逮捕ゆーやつやな。長谷川刑事はそれを狙っています」
「そやろな」
「自分なりに調べたんです。あいつらのことを――服部サンとおかあさんは長い間、事件のことで脅されつづけているとわかりました」
「一人目は中学一年のときに殺った。二人目は十七のときや。学校にはほとんど行ってない。いま捕まったら、大人と同じあつかいになるんかなぁ」
「もしそんなことになったら、弁護士を雇って――」
「おれがおまえのせいで、ヤクの運び屋をやらされてることは気がつかんかったんか」
 康介は目を見張った。
「そんな……知りませんでした。自分が、あの女の言いなりになりさえすれば、服部サンは無事だとばかり……」
「おぼっちゃんは、考えが甘い」
 話しながら、貧乏人は考えをめぐらす。
 柳沼深雪から藤沢康介を横取りすると、先手を打つことにならないか。
「ドライブするか」と、康介に声をかける。

 ポートアイランドへ向かう。
 進行方向の左手に、帆船をかたどった高層ホテルのイルミネーションが柿色の光線を撒く。

「おまえ、女ギライか?」
 さすがに、ゲイかとは訊けなかった。
「服部サンは、香坂課長の他に、付き合っているカノジョはいないんですか。いるでしょうね、モテそうですから」
 エラ女の苗字が、香坂だったことを思い出す。
「そんなメンド臭いもん、おるか」
「自分は、香坂課長が苦手でした。服部サンと、そのう……会社でウワサになってましたし……」
「契約を切られたら、学歴のない、おれの仕事がなくなる。おふくろが困る」
「それが理由だったのですか!」
「それ以外の理由で、うっとおしいオバハンと寝るわけないやろ。おれはな、金持ちの女を相手にするステッキ・ボーイなんや。ホンマ、こっちこそ、おまえのせいで――」
「自分は、自分は、自分は……」
 康介は膝の上で、両手を握りしめる。なんども、両のこぶしで膝を叩く。
「さっさと言いたいことがあったら言え。おまえの話を聞いてるとイライラする。なんで、女警官とヤル前に、本人のおれに事実をたしかめへんのや。すぐに教えてやったのに」
「自分は、あの女としてません!」
「へぇ。一時間もナニしてたんや。オセロゲームでもし――」
 康介は鼻水をすすりながら、柳沼深雪とは性器と性器の接触はあっても、結合しなかったと訴える。
「男のクセにびいびい泣くな」
 海人はハンドルを回す。
「勿体ぶらんと、シテやったらええやないか。減るもんやなし。体力は消耗するけどな。若いんやから、それくらい――」
「憎んでる相手とは、できません!」 
「好きな女の子とやったらイケルゆーことか」
 康介は激しく首をふる。
「そら、人それぞれやからな。おれは金をくれるんやったら、どんなババァとでも寝るデ、臨機応変に――うん、男は常に臨戦体勢にあるべきやからな」

 康介は、「服部サンのそんなところが好きです」と言いつつ、ダッシュボードを開け、カセットテープをセットする。
 スローテンポのメロディが車内に充ちる。
 車のスピードを落とす。

「デビッド・ボウイか?」
 海人はそう言って助手席を見る。
「与えるものもなく、取るものもないなんて、無自覚、無節操のおれにぴったりの歌詞やな」
 康介はフロントガラスに顔を向けたまま、
「見尽くした景色ですけど、見違えそうです……」
 きれいですと、海人の横顔を見つめてつぶやいた。

 頭上を、ポートライナーが見え隠れして走る。凪いだ暗い海のむこう、ランチの灯が点々とゆらめく。

「はじめて、あいさつしたとき、服部サンは言ったんです。『男前やけど、うっとおしい顔してるな』って」
「覚えとらん」
「そのあとで、『気やすく、話しかけんな』と言われました」
「おべんちゃらが言えたら、もうちょっとは生きやすかった」
「本音で話す人と出会えてうれしかったんです。服部サンに会うためだけに会社に通いました。自分でも信じられないくらい、想いがふくらんで止められなくなったんです」
「それで、オヤジに頼んで、目障りなオバハンを左遷したんか」
「頼んでなんかいません」
「――おまえ、あの晩、自分で認めたやないか」
「香坂課長は腕時計組だったのです」
「なんや、それ?」
「会社は、永年勤続者に記念品の腕時計を贈ってその労に報います。表面上は祝い事にして実際は、肩たたきです。それで、あの人は、定年前の人たちの溜り場になっている庶務課の資料室に配置転換になったんです。ぼくが移動する前に、部長から後進に道を譲るようにと内々の話があったと伝え聞いていました」
「自分が何者か、部長に話したんやったら、オヤジに頼ったことになるやろ。アホクサ。それを親の七光と言うんや。おれを見てみい。おふくろは、男にまがってる魔女やぞ」

 市街地と人工島をつなぐ神戸大橋まで上り坂。ギアをトップからセコンドへ。

「服部サンのそばにいたかったので、父親の力を借りたように見せかけたんです。少しは、自分を認めてもらえるかと――自分と付き合ってもらえるかと――」

 セコンドからロウへシフトダウン。

「そっちはなぁ、経験がないからなぁ……」
「ホントは、自分も男性との経験がないんです」
「童貞同士やったら、できんやろ」
「たぶん、だいじょうぶだと思います」
 海人を見つめる康介の瞳が、目の端で躍る。
「どうしたいか。毎日毎晩、考えました。あの女に弄ばれてからは余計に……」
「ダチの船員が、ちょっと前に港で溺れたんや。そいつはいつもえらそうに言うてたんや。イザというときは泳げるって――実際は、ブイまでしか泳げんかった」
 康介の顔にロイが重なる。似ているところなんてこれっぽっちもない。同じ種類のサミしさが見え隠れする。
「自分となんか、絶対にイヤですよね」
「イヤじゃない」と、言ったものの――、

 うすもやの立ちこめる、アーチブリッジにさしかかる。

「ほんとですか!」
「料簡の狭い生き方はしとらん」とタンカをきる。

 黄金色のタキシードを着て、めかしこんでいるような景色の対岸。
 鉄橋を縁取る街灯が走り抜ける車窓にくだけ散る。

「服部サン、あのう……」
「服部サン、言うの、やめてくれへんか。トシもほとんどかわらんのに、おっさんになった気分になるやろ」
「どう呼べば……」
「おれは、おまえをコウスケと呼ぶ」
「そしたら、自分は、カイトと呼ぶのですか?」
「ま、そんなもんやろ」
「ちょっとムリです。カイさんにしよかなぁ」
「アサリやシジミやないぞ、おれは」

 ポートターミナルを通り過ぎ、トラックが爆音を立てる浜出バイパスへ。海岸通りの端を走る貨車の引き込み線を下に見て、2号線に乗り入れる。

「コウスケもおれも、マザコンかもしれんな」
「どういう……」
「女がこわい」

 カーブをきったとたん、康介は笑い声を上げる。
 彼はFMラジオに切り替える。
 美しい調べが流れる。

「グルックの『精霊の踊り』です」と、彼は言った。
「物知りやな」
「竪琴の名手だったオルフェウスは、冥界の王ハディスを音楽の力で動かし、死んだ妻のエウリディケを現世に連れ帰る許しを得るのですが、『振りむくな』という禁をやぶって妻を失います」
「なんで振り向いたらあかんのや」
「生前とは異なる醜い姿を、エウリディケは、オルフェウスに見られたくなかったのです。オルフェウスは、最愛の妻であっても蛆がわき腐った顔を目にしたとたん、逃げ出しました」
「なんでやねん」
「自分には、エウリディケの気持ちがよくわかります。自分の心もからだも、あの女のせいで穢れてしまいました」
「おまえが穢れてるんやったら、おれはどうなるねん」
「服部サンは――カイトは、オルフェウスです」

 2号線を北に折れてすぐ、カードレール脇に車を停める。
 回転灯の回る工事中の立て看板のむこうに、ビジネスホテルの明かりが見える。
 ラブホテルにすべきなのか、高級ホテルにすべきなのか、手ぶらで出てきている海人には決められない。
 なるべく目をあわさないようにして、海人は康介の肩に腕を回す。
 腕に、手に、康介の震えが伝わる。
 怯えているのかと思うほどだった。

 テイク・イージーと自らに言いきかす、落ち着けと。いまさら、迷うな。相手は山野辺じゃない。美形の藤原康介なのだと。

 こめかみが疼き出す。
 海人は肩に置いた手をハンドルにもどす。
「やっぱり、ダメなんでしょ?」 
 康介の声も話し方も、女がしゃべっているように聞こえる。
「おれさ、もしかすると、セックス自体に向いてないのかもしれん。さんざん、女の浅ましい姿を見てきたからなぁ。おふくろにしてからが――」
 ふいをつくように、康介は顔を傾け、海人の唇を唇でふさいだ。
 もとの姿勢に押しもどそうとした海人の手を、康介は強い力で押さえた。
 康介は海人の背中を抱いたまま、リクライニングシートに押し倒す。彼の唇が青タンの上をやさしく這う。
「コウスケ、待ってくれよ」
 康介は海人の顔にキスの雨を浴びせる。
 海人は目を閉じる。難敵をつぶすための、これは手段なのだと。
「かわいそうなカイト……この顔を傷つけたヤツを許さない……」
 康介の手が、うなじから鎖骨へとのびていく。
 海人は目を開け、上体に弾みをつけ、起き上がる。
「きょうは、このまま帰ったほうが――今後のことは次の機会に――」 
「……ぼくにまかせて……」
 かすれた声が、半開きの唇からもれる。

 もしかして、おれが女の側?!
 そんなのアリかよ。

 車をホテルの車庫に預けるときも、康介が受付のボーイと話し、キーを受け取り、チップをやり、エレベーターのボタンも彼が押す。
 康介は愛犬を従えるように、先に立って歩き、時おり、海人を振り返り、ついてきているかどうか確かめると、小さくうなずき、上気した顔で微笑む。
 考えてみれば、女が相手のときも、攻められる一方だった。
 海人から求めたことはただの一度もない。
 女たちは着ているものを脱ぎ、満足する行為をひたすら待つ。女に買われる仕事をはじめた頃は一日に何人も相手をした。女に合わせて抑制できるときと、できないときがある。二人の外国人の女に買われたときは交互に射精を強制され、しばらくの間は、性行為そのものが不可能になった。いつの頃からか、女の相手をした夜は、外界と自分とを隔てる暗闇に閉じこめられる夢を見るようになった。逃れようとすると、顔のない男がのしかかってくる。
 悪夢の中で死人に抱かれて漏らす夢精でしか射精できないと知ったとき、海人はこれが死ぬまでつづくと思った。
 二人の男を死においやった対価だと。

 山野辺を避けつづけたのも、悪夢のつづきを見るように思ったからだ。

 エラ女と寝るときと、同じなのだと口の中でくりかえす。体重と形状が異なるだけなのだと。ここを乗りきらなくては、長谷川千賀との闘いにも勝ちきれない。山野辺に報復できない。
 半ば、やけクソだった。
 部屋に入る前に、眉間を二、三度、指でつまみ、肩の力をぬく。

 男同士の密会の空間は、消毒液の臭いがした。
「恐がらないで」と康介は言った。
「だれが、恐がるねん」と強がり、着ているものを脱ごうとすると、康介は近づき、海人の手を止める。
「並んで眠ることを、ずっと夢見ていました」
 海人は安堵した。お互いに初体験なんだから、プラトニックでいいってことか。
 服を着たまま横たわると、康介は海人の靴を脱がした。
 ベッド脇の照明が消える。
 久しぶりの立ち仕事のせいで、五分もしないうちに寝落ちした。

 康介の吐息で目覚める。
 裸の足が、海人の下肢にからまっている。
 全裸の康介が、接着剤でも使ったように背中に密着している。
 思春期の女の子のように叫び声を上げそうになる。
「……ぼくにまかせて……」康介は同じ言葉を繰り返す。「お願いだから……」
 身につけているものが、一枚、一枚、剥がされていく。
 運命を変えるには、耐えるしかない。女刑事や女警官と闘う前哨戦なのだ。肉弾戦、いや、ボディ・ランゲージだと思えばいい。計画を変更できない。ビデオテープで女刑事を脅し、ついでに女警官を排除し、山野辺と石垣を抹殺する。八田組長とどう対峙すべきか……。

 思案しつつ寝返りをうつ。
 康介の目に歓喜の色がみてとれる。
「いとしいカイト……ぼくのカイト……」
「なんやねん、それ。寒気がする」
 康介は海人の背中に腕を回す。からだをすり寄せた彼は、海人の性器が萎えたままなのに、自身の性器が海人の腹部に触れただけで射精した。
「どんなに、この瞬間を待ちわびていたか……」と、康介は涙を流す。「この気持ちはカイトにはわからない」
「ほんなら、これで」
 やっとお役ごめんかと、海人はからだを反転させ、ベッドから降りようとした。この程度のことなら、エラ女よりあつかいやすい。
 康介は海人の腰に抱きつく。
「ええかげんにせぇよ!」と声を荒げる。「もう充分、泣いたやろ」
 康介はいつもの気弱な彼ではない。
「まだです!」
 二本の手が、海人の性器をとらえる。
 ふりほどこうとした。まだ足りてないのかと思い、そのまま放置する。
「あとすこしだけ……」
 女にゆっくり触らせたことがないので、掌におおわれる刺激に思わず声がもれる。
「うれしいよ、カイト……」
 快感の在処を知りつくしているかのような康介の掌は、管楽器の音色のように繊細かつ力強い。海人の昂ぶりの波を読み解くように指が上から下へ、下から上へ滑っていく。
 形容しがたい感覚に肌がアワ立つ。

「やめくれよ……謝るから……その気にさしたおれが悪い」
「カイト……落ち着いて……」
「そや、店の後片付けが残ってたんや」
「ウソをついても、わかるんです」

 康介の自信にみちた声はどこからくるのか、海人の背中に胸を合わせて離れない。
「嫌がることなんて、けっしてしませんから、ほんの少しの間、ぼくに身をゆだねてください」
「念仏でも唱えてたら、ええんか」
 冗談でかわそうとしたが、
「ぼくの鼓動に耳を澄ましてください。聞こえるでしょ?」
 言われるままに彼の胸に頭をあずける。
 彼の心臓の音と、海人の心臓の音が一つになって融合し、彼の熱い肉体が、海人の凍った心を少しずつ溶かす。
 全身の力がぬけてゆく――内部の興奮がリズミカルな抛物線を描く。
 いつのまにか仰向けの姿勢になっていた。これほど無防備になったことは外の世界を意識しはじめて以来、一度もない。

 彼の唇と舌は別の生きものようだった。
 軟体動物が海人の下肢に棲みついているかのように這い回る。
 抑えきれない衝動が沸き立つ。
「やめろっつってんだろがッ!」
 彼の前髪をつかみ、なぎ倒していた。
「カイト、お願いだから、ぼくを壊して……」

 彼に侵入し、一対になったとき、海人は性愛の極点を知った。同時に、こめかみに激痛が走る。
「カイト……ぼくのカイト……きみのためなら、死んでもいい」
 海人の胸の下で、うつぶせの康介は酔い痴れた声で嗚咽する。
 康介のうなじに頭を寄せる。泣き濡れた端正な横顔の下に影ができる。
「なんで、泣くねん」
「幸せだから」
 とっくに果てているにもかかわらず、康介は飽くことがない。
「カイトのすべてを飲みこみたい……」
「おまえを、海の底へ沈めたい」
 二つの異なる欲求が重なり合って渦を巻き、目眩に襲われる。
 心の座標軸が乱高下する――。

 明け方まで、海人は彼を犯しつづけた。
 シーツは凌辱されたあとのように涙と汗と血にまみれた。

 深い眠りから覚めたとき、康介は消えていた。
 ホテルの便箋にメモが残されていた。黒いクレジットカードが添えられている。

『いとしいカイトへ。
 ずっと探していた愛を与えてくれてありがとう。
 ぼくの好きな詩をきみに送るね。

  一時間、待つことは長い
  もし、愛がすぐ向こうにあるならば
  永遠に、待つことは短い
  もし愛が終わりにあるならば
      エミリー・ディキソン

 彼女は静かな一生を送ったんだよ。
 いまのぼくは仕事に追われているけれど、
 いつか、二人で彼女の生まれ故郷へ旅しようよ。
          きみに恋するコウスケより』

 こめかみがかったるい。
 ためらわずにメモを破り捨てる。
 ホテルの受付に電話をかける。時間をたしかめる。午後三時だった。康介がホテルを出た時間を訊く。午前六時だという。海人が目覚めるまでけっして起こしてはならないと言い置いたらしい。
 康介は眠らなかったのだ。
 あのからだで、仕事へ行けるのか……。
 外国人が船に女の子を連れ込み、思い通りにするのと、夕べの海人の所業に大きなちがいはない。切っ掛けがどうであれ、海人は康介を手荒にあつかった。しかし、やめてくれと言わない。精液と血にまみれた海人の性器をなんどでも屹立させた。
 狂ったと思った。狂い死ぬのかもしれないと怖れるほどに。

 シャワーを浴び、藤原康介名義のブラックカードでホテルの支払いをすませる。
 徒歩で家まで歩く。
 足取りが軽い。
 女を抱いたあとのように、悪夢にうなされなかった。
 しかし、二度とゴメンだった。
 心と体に修復不可能な凹みができてしまう。
 面倒な恋や愛のやまいにかかってどうする。
 闘わなくてはならない、どこまでも。
 曲がりくねった狭い道がつづくかぎり。

  14

 柳沼深雪は長谷川千賀と二人きりで、六甲山オリエンタルホテルで昼食をとった。山荘風の堂々たる建物で、正面玄関を入ると、階段に深紅の絨毯が敷かれ、ロビーまで続いている。ボーイが扉を開けると、フランス料理を出すフロアへとつづく。
「こんなところ、知ってたの」千賀は臆する口調で言った。「まさか、後輩のあなたに招待されるなんてねぇ」
 新緑を映す窓に面したテーブル席に案内される。
「夏休みに、両親と泊りにきていました」
 ボーイに椅子を引いてもらいながら、深雪は答える。
「だよね、大学教授のお嬢さんなんだものね」
「皮肉ですか。もう昔のことです」

 ふと母を思い出す。大学教授夫人という名に、母は誇りをもっていた。もしかすると、母は、父が大学を休職したあげくに退職しなければ自死しなかったのではないか……。母は妻や母親である前に、教授夫人でありたかったのかもしれない。深雪が大学に進学した当初からの母の口癖は、「お父さまの名に恥じないお相手を見つけなさい」だった。

「お互い、親では苦労するわね」
「長谷川警部補が――ですか?」
「大学では、大金持ちで通っていたけれど、うそっぱちよ。祖父が株で失敗して、もうさんざんよ。そうでなかったら、警官になんか、なるもんですか」
「意外です」
「でも、お爺さまは、大阪府警の本部長だったと――」
「使途不明金で、早期退職させられたわ。本部長でもなかっし」
 長谷川千賀は、前菜の前に赤ワインをボトルでオーダーし、グラスに注がれたワインを一気に飲み干した。
「噂をひろめたのは、私自身よ」
 千賀の目の色が、言葉を発すると同時に変化するように見える。それが深雪を不安にさせる。太刀打ちでそうにない。
「どうして……ですか」
「一度、おっこちたスティタスをもとにもどすのって、並大抵じゃないのよ。洋服だってそう。見栄を張るのにたいへんだったわ。おカネに困って、夜の仕事もしたわ」
「きれいだし……そんなことしなくても……」
「そうね、たしかに、私は美人よ。金持ちのお相手を探して結婚すれば、そこそこの暮らしができたでしょうね。あんたに教えてもらわなくっても知ってるわよ。常識や世間体なんてくそくらえよ」
 深雪はどう切り出せばいいのか、逡巡する。
「鬼ヒラとどうして仲違いしたのか、知りたいのでしょ? タッグをくもうなんて言ってたのにね」
 パンと前菜が運ばれてくる。
「あのオヤジ、油断ならないのよ」
 千賀はフォークを手に取り、
「敵か味方か、よくわからない。あんたも利用されないように気をつけなさい。わたしなんて、途中で、はしごを外されたんだから。私が、悪かったんだけどね。寝てやらなかったから」
 驚く深雪に彼女は、「あんただって、ヤってるじゃない。バレてないと、思ってるところが、かわいいんだけどね。いまに付け入られて玩具ににされるわよ、気をつけなさい」
 それ以上のことは、千賀は話さなかった。

 彼女は食事をすませると、勘定書きを深雪にわたし、タクシーを呼んだ。車が到着するまでの少しの間に、彼女は所轄の担当部署に電話を入れる。緊急通報が入っているらしい。彼女はあわてた様子で受付で電話を取り次いでもらい、数分、話していたが、すぐに電話を切った。 
 何事かと深雪が訊ねても、彼女は皮肉な笑みをうかべて答えない。
 ロビーを横切りながら、
「すぐにニュースが流れるわ」
 びっくりするわよと言って、二人はタクシーで港島警察署に向かった。
「ちゃぶだい返しよね。ムカツクけど、お見事としか言いようがないわ」

  15

 家に一歩入ると、玄関の履物がいつも以上に乱れている。
 もしやと思い、英美子が寝起きしている部屋の木枠のガラス戸を海人は引き開ける。
 色の褪めたサージのカーテンが揺れる。
 寝乱れた英美子が、布団にくるまっている。
 使用済みのティッシュがそこら中に丸まっている。
 掛け布団を蹴飛ばす。
「店に出る支度せぇよ。もうすぐ四時やぞ」
「いやン、眠たいねン」
 英美子は布団にもぐりこむ。
「熱があるねン。ちょっとくらい甘やかしてよ」
「ええかげん、甘やかしてきたつもりやけどな。名前もしらん男を二人も刺し殺したんやからなッ」
「あれは、カイちゃんのせいやないもン。そやし、殺したンは、カイちゃんやないもン。みーんな、うちがわるいねン」
「おふくろが、店に出んと、客は帰ってまうぞ。ウチはゲイバーやないんや」
 英美子は布団の隙間から顔を出す。疚しいことがあると、瞳にうすく膜がかかる。売れ残りのサバの目ン玉に似てくる。
「カイちゃんが、ひとりのときに、田丸サンが店に来はったら、うちのこと、病気で死にかけてる言うて欲しいねン」
「田丸ってだれや?」
 どうやら宝石屋と不動産屋を兼業しているハゲタコは、田丸という名らしい。

 英美子は赤い襦袢の襟元を引き寄せながらをもたげ、「怒ったらイヤヤで。山野辺が、組長サンを連れてきてん」
「いつの話や」
「夜中にきまってるやないの」英美子は唇をとがらせる。「カイちゃんがおらへんこと、なんで知ってたんやろ」
「寝たんか、山野辺の見てる前でか」
「山野辺と石垣は玄関の外で見張ってたワ。組長サンがカイちゃんに貸しがある言わはって――みんな、カイちゃんのせいや。うちかてイヤヤったけど、しゃあないもン」
「なんで、はっきり、息子と自分は関係ないって言わンかったんやッ。自分の身ぃくらい、自分で守れよッ」
 英美子は海人の機嫌をとるためなのか、
「田丸サンのときとちごうて、殴られへんかったデ。なんせ、酔ってはったから、なかなかおわらへん。もしかして、まだ若いのにアカンのかしらン。結局、ティッシュを使いきっただけで帰らはったわ」
「八田組のヤツら、ただではおかん!」
 この仕返しは、枝の葉っぱの八田組を、枝からもぎとるしかない。ヤクザ社会での地位を失墜させてやる。
 敵はあっちにもこっちにもいて忙しい。
 ひと晩かかって、手を打ったが、まだまだ足りない。
 あの役立たずのアホボンを味方につけたところで、後継ぎになる気がなくては八田組と対抗する駒になり得ない。
 どうすればいい!
 店に電話がかかってもいい頃だ。
 英美子がいなくても、店を開けるしかないのか……。
「カドが立つようなことせんといてな」
「カド(街角)がおそろしいて、表が歩けるかッ」

 海人は肩で息をする。足元のティッシュを蹴散らし、壊れかけのロッキングチェアに腰かける。うしろにのけぞりそうになる。
「こんどこそ臭うわ。知らんぷりしてもあかんよ。カイちゃんのことはなんでも、お見通しやねン」
 上目づかいの英美子は布団から這い出ると、「とうとうカイちゃん、お金持ちのボンボンと――気ぃもたせんとおしえてよ。めったにおらん美男子やから妬けるけど、ちぎって食べようなんて言うてないねんからぁ」
 いっそ、二人で共食いしてもらえればすっきりする。
「女とも男とも、せいぜいアソんでね」と、英美子は寝そべった姿勢で爪を噛む。「うちを踏み台にして」
「広いオデコが踏み台になるんか」
「おカネのために、厭(ヤ)な男とも仰山、寝てきたけど、なンもかンも親のツトメやと思て辛抱してきたもンね」
「面倒見きれん」
「イケズいわんかて――おばあちゃんになっても、カイちゃんのお世話になる気ぃなんて、これぽっちもないもン」

 表の露地に足音がする。
 海人は椅子から立つ。
 たしかに、人の気配がする。

 海人が警戒する前に、
「どないしょ!」
 英美子は布団をはねのけて、起き上がる。
 長襦袢の腰ひもがほどける。
 紙のように白い素肌が、あらわになる。
 英美子は玄関を指差し、
「お・ね・が・い」
 と両手を合わせる。
 尖った鎖骨が痛々しい。血の気の失せた唇がかすかに震える。
 痩せているのに、はだけた襦袢からのぞく胸はたっぷりふくらんでいる。

「ごめんやっしゃ」
 濁声といっしよに玄関の引き戸があく。
「この家を捜し当てるのに、ゆうに小一時間はかかったなァ。いやなに、今晩、店のほうに行かしてもろうてもよかったんやが、あんさんらが、お困りやと思てな」
 ハゲタコはほーっとひと息つき、
「隠れ家にもってこいのところに棲んではりまんな。窪地に建ってるさかい、表通りからは屋根の先っぽも見えまへん」
 この男は酔っているときよりも、物腰も言葉遣いも格段にていねいだが、古くさい型の背広に、皺だらけのズボン。金持ちだからといって、服装が上等とはかぎらい。
「こないだは大暴れしてすんまへなんだな」と先に詫びた。「酔うと、気がおおきなってつい、ハメをはずしてしまうんですワ。そうかというて、おんなごハンを殴ってもええわけやおまへん。大阪の掃き溜めで、地べたを舐めるようにして育つと、こないな、けったいなおっさんになってまうんですワ」
 襦袢の前をかき合わせ、腰ひもを結んだ英美子はからだを固くし、海人の腕にしがみつく。タンポポの綿毛に似た髪が、海人の肩に流れる。
「なかなか色っぽい景色でんな」
 田丸は物色するように細長い部屋を見回し、「兄ちゃん、アザはどないした? 男前が台無しや。だれにヤられたかは、想像がつくけどな」
 海人が用向きをたずねると、「色っぽいべっぴんサンが、ご存じのはずですワ」と田丸は答える。
 海人は一歩、踏み出す、英美子の顔が自分の陰になるように。
「ほん、きのうのことで、申し訳ないんでっけどな」と、田丸は物腰しやわらかく、海人を見上げ、「手違いで預けた品もんを、受けとらさしてもらえまへんか」 
「なんの話や?」海人は隣の英美子を見る。
 英美子は駄々っ子のように首を左右にふる。
「言わんとわからんやろ?」と言っても、小さい頭を、海人の肩口にこすりつける。

 開け放した玄関の外に立つ田丸は、崩れかけた家の軒先をしばし仰ぎ見る。

「きのうの昼、北野町のホテルで休憩しましたな。それくらい覚えてはるか?」
 すがりつく英美子の体温が高く、海人の腋の下が汗ばむ。
「若い証拠でんな。まだ肌寒いのに、襦袢一枚で寝るやなんて――
ほんまに息子かいな」
 田丸は舌打ちをした。
「連れ込み宿の風呂に入ってる、ちょっとの間ァのことでしたワ。わしがうかつやったと悔やんどりまんねん」
 酒焼けのした顔がさらに赤黒くなる。
「なにぶん、値ぇの張るイシでしてな。ゼロが四つ、片手で買えるほどのモンやったら、なんちゅうことあらしまへん。仲ようさしてもろたんやさかい、それくらい、いといまへんがな。この先も、手ぇからはみ出るお乳をぎゅっとつかみたいよってに」
 ぎらついた目が英美子をとらえる。
「うち知らん、知らん、なンも知らん」
 英美子は言いつのる。
「カイちゃん、信じて――なンも知らんしい」

 五分ばかり過ぎた。

「しゃあおまへんなぁ。座ァを立って出迎えてもらえる身ィやとは思てまへンなんだが――」
 田丸はてかてか光る、頭とも顔ともつかぬあたりをぴしゃりと平手ではたき、
「おくろぎのところ、お邪魔サン」
 ガラス戸の敷居に片足をかけると、土足のまま乱雑な室内に上がりこんできた。
 穏やかな口調とは裏腹なハゲ頭の行動が、英美子を怯えさせる。「ヒッ」と小さく叫び、逃げ出そうとする。
「その格好で、どこへ行く気や」と、海人は英美子の腕をつかむ。
「戦後、すぐに建った家でんなぁ」
 ハゲ頭の言葉は意表をつくものだった。
「土地はどないなっとります?」
「土地?」と、海人。
「私有地かどうか、尋(た)んねてまんねん」
 考えたこともなかった。英美子も同じだろう。石垣に連れて来られて以来、ずっと住んでいる。
「八田組が目ぇつけた言うことは、地主が疎開してる間に不法占拠した土地やな。なるほどなァ。ここら一帯をどかすとなったら大事や」
「どかす?」
「地主が破産して、競売にかけられたんやが、買い手がつかん。山野辺が、わしンとこへ、話を持ちこんできよったんや」
「買うつもりなのか」押し殺した声で訊く。
「そのつもりにしてたんやが、兄ちゃんのおかあちゃんに、買い値のイシを盗まれましたんや」
 海人は英美子を見つめる。
 英美子はぶるぶる震えはじめる。
「表ざたにしとうない。あんたらもそうやろッ」
 田丸は恫喝し、布団を土足で踏み、海人が座っていたロッキングチェアに浅く腰かける。
「条件はなんや」と海人。
「イシを返さんのやったら、わしが来ィたいとき、この家にくることが一つ目や。二つ目は、しィたいようにさせることやな」
「この前みたいに、カネを出さんと殴るいうことか」
「せや」
 英美子は海人の前に回り、立ちはだかる。
「カイちゃん、やめて!」
「どけッ。こんなハゲオヤジにええようにされてたまるかッ」
「宝石は、山野辺が持っていってん」と英美子。
「このハゲから、盗んだんか」と海人。
「山野辺に頼まれて――しょうがなかってン。カイちゃんを殺す言うねんもン」
 田丸は、内ポケットからハイライトを取り出し、白すぎる義歯でフィルターを噛み噛み、
「つまらんことで、わしは有為の青年を傷つけとうないッ」
「うちさえ辛抱したらええことやねんから、カイちゃんは、先に店へ行ってて」
 腹ワタがぐつぐつ煮えたぎる。
「おまえらは、なんの値打ちもないイシでおふくろをハメやがったな。鑑定書でもなんでも、ここへ出せッ」
「よっしゃ」と、田丸はくわえ煙草で懐から封筒を取り出した。
「なんぼだしたらええんや」と海人。
「おおきに出たな」と、書類を広げる。「五千万はくだらん」
 海人はジャケットのポケットにある、ブラックカードを出す。
「このカードの貸し出しは無制限や。おっさんも知ってるやろ」
 田丸は受け取り、
「ここでは、決済できんな」
「名義人の名前を見んかいッ!」
「松木組の若造か」と、田丸は煙草を捨て畳の上で踏み消す。「それがどないしてん」
「あいつはおれの男や。おれのためやったら、オヤジにたのんでなんぼでもだす」
「あんた、そっちもいけるんか。羨ましいこっちゃ。人生を二倍、たのしめる」
 ハゲタコは口元を歪める
 海人は引き下がらない。
「松木のオヤジが事情を知ったら、八田組もあんたもただではすまん。ヤクザとつるんで、か弱い女を騙したあげくに、ただ乗りしよういうのは、あつかましすぎひんか」
 鑑定書を破り捨てる。
「なにさらすんじゃッ! おまえらみたいな貧乏たれを松木のオヤジが助けるわけないやろがッ!」
 海人はロッキングチェアを蹴る。
 田丸は椅子こど一回転し、転げ落ちる。
「どないしはったの、トツゼン」
 ハゲ頭を壁に打ちつけた田丸は目をむき手足をバタつかせる。
「かわいそう」
 英美子は駆け寄り、しゃがんでハゲ頭を撫ぜる。
「やっぱり、ええ景色や」
 田丸の目は一点に釘づけになる。襦袢の奥まで、見えるのだろう。

 電話のベルが鳴る。
 長谷川千賀からだと、直感した。
 店にかけて出なければ、調べて自宅にかけてくるはず――、

『海人か? 八田や。山野辺が殺られよった』
 八田は湿り気をおびた声で言ったあと、
『ついさっき、警察から報せがあった。おまえが犯人かと思うたが、松木組のコウボンやった』
『康介が……』
『山野辺の銃で撃ち殺しよった。いま、テレビでやってるデ』
『康介は――』
『クルマごど海に沈んどるそうや。それから一つ、教えといたる。ビデオの女がだれか、わしは見たときから、わかってたデ。目端はきいても、考えの足りん若造の話に、わしが乗ると思うおまえはドアホや』

 海人は、脳天を撃ち抜かれる。

 あの詩は、そういう意味だったのか……。
『永遠に待つことはみじかい、もし愛が終わりにあるならば』
 あいつは一度きりの関係だと、さいしょからわかっていた。
 だから、おれを飲みつくし、死んでもいいと言ったのだ。
 おれは、あいつを海の底に沈めたいと言った。
 海人は受話器を叩きつけた。

  16

 殺人事件は捜査一係が主導するが、鬼ヒラは部下の二人に加えて柳沼深雪を従え、ポートアイランドの南端にある埋め立て地に向かう。コンクリートミキサーで生コンを注ぎこむ作業はすでに始まっている。山を削った土砂を積んだトラックが数珠つなぎに道路を往来している。
 砂埃が一面に舞う。
 警察車両は赤灯をつけ、大型トラックと大型トラックの間を縫うようにして進む。
「服部海人を逮捕する前に、実行犯の山野辺悟が先に死ぬとは、夢にも思わなんだな。これで長谷川警部補も打つ手がない。あと一人の実行犯、石垣隆太に吐かすしかないな。しかし、あいつは山野辺の言いなりになる手伝いにすぎんからな」
 鬼ヒラはうれしげに話す。長谷川千賀と何が原因で揉めたのか知りようもないが、服部親子にかかわることであることはまちがいない。
 ギョロ目は運転しながら、「服部海人は悪運がつよいですね」と
笑いをふくんだ声で言う。助手席の猫背も、「ほんまでんな」と相づちを打つ。

「藤原康介は、若いのに船会社の課長や。オヤジが松木組の社長やぞ。大吾組の直参やしな。いずれ、本部の執行役員になる。わしやったら、ゼッタイ死なん。この先、なんぼでも、おもろいことがあんのに」
「カネで解決がつかんことが起きたゆーことですやろ」と猫背。
「生きてたら、そんなこともあるわな」と、鬼ヒラは深雪をちらりと見る。「惚れたらあかん相手に、惚れてまうもんや」
 藤原康介から八田組の山野辺悟を殺害したと連絡が入ったとき、電話を受けた通信課の担当者はいたずら電話だと思ったそうだ。
 藤原康介本人の希望で、長谷川警部補のいる六甲山オリエンタルホテルに電話をつないだという。
「ちょうど長谷川から生活安全課に電話がかかったんやと」
「昼間っからホテルで何してたんでしょうね」とギョロ目。
「藤原と山野辺は、お互い、合意の上で死ぬことにしたと、うとうた(自供した)そうや。こうなったのは、長谷川警部補のせいやとも言うたらしい。なんでやろな?」
 空とぼけた口ぶりだった。
「いろいろ探られたからと、ちゃいますか」と猫背。 
「山野辺は若い舎弟と同棲してるねんデ。だいち、あんな下衆男に男前のボンボンが惚れるはずない。心中に見せかけた殺人やとわしは思とる。山野辺は若い男に目がないという噂や」
 深雪は、興奮気味に話す鬼ヒラの声を、聞いているようで聞いてなかった。タクシーの中で、長谷川千賀から聞かされたときに話の内容はおおよそ理解したが、実感がともなわなかった。
 明日、藤沢康介は、深雪のアパートを訪れるはずだった。
 深雪の愛した男はいま海の底にいる。

「ここだけの話やけどな、山野辺は掘られるほうらしいデ」
「えーッ! あの強面がですか」と猫背。「人は見かけによりませんなぁ」
「ちゃいますやん。長谷川警部補が原因やと、藤原康介がなんで言うたんか、訊いてますねん」と、ギョロ目の声は苛立っている。
「あの女に、山野辺と抱きおうてるところでも見られたんとちゃうか。ほんで、脅されたんやろ」
「そんなことくらい、松木のオヤジに言うたら、すぐにカタつけてくれますやん」と、猫背が頭をかしげる。

 深雪とのいびつな関係を、彼が受け入れつづけるはずがないとわかっていた。
 服部親子を追いつめる次の手立てを、深雪が思いつく前に、彼は服部海人のために行動した。
 藤原康介がはじめて、深雪のアパートを訪れた日――、
 彼が服部海人を愛していると知った瞬間から、服部海人を追いつめることに心血を注いだ。母の恨みを晴らす気持ちなど忘れていた。康介を自分のものしている短い時間だけが、生きている実感があった。充足できないからこそ、見果てぬ夢を追い求めるように彼を支配したかった。
 いつしか、手段が目的と化していた。

「ヤナギ」と、鬼ヒラは、深雪を呼ぶ。「顔色がわるいぞ」
「なんでもありません」
「ほんならええけどな、夜勤明けがつらいんやったら、帰ってもええぞ。昼メシ、食いに行って、テレビ見てびっくりして、もどってきてくれたんやろ?」
 本気で言っているのなら、事件現場に同行するよう命じなかったはずだ。
「ヤナギの恨みは、まだ晴らせんな」と、鬼ヒラは唐突に言った。「せっかく苦労して、追いつめたのになぁ。わしらはただ見てるだけやった」
「もうちょっとで、ヤクであげれたのになぁ」とギョロ目は話をそらす。
「あのボンボンもただもんやない。先手を取られましたな」と猫背。「まさか、男もイケると思てませんでした」

 深雪は彼らの交わすひと言ひと言で、自分が監視されていたと思い知る。秘密の逢引きだと思いこんでいたおのれの愚かさを、彼らは内心で嗤っていたのだ。
 石垣に見張り役をやらせたが、それを、鬼ヒラやギョロ目や猫背は見張っていた。
 しかし、彼らの知らないことがある。
 康介や石垣との間で交わされた深雪の痴態がどのようなものであったかを、彼らは永遠に知り得ない。

 母の亡霊が頭をよぎる。
 化粧をきらい、派手な身なりを嫌った母は、常に眉間にしわを寄せていた。
 母にとって快楽は忌むべきものだった。深雪が物心ついた頃から、両親の寝室は別々だった。それが当たり前ではないと気づいたのはいつだろう。母は性にかかわる、どんな小さい出来事も毛嫌いした。深雪が初潮を迎える時期になると、新聞から性に類する記事を見つける、切り抜き、破り捨てていた。しかし、それは一面に過ぎなかったのではないか。母は父に求められないことで、渇ききってしまったにちがいない。

「長谷川警部補も終わりですね」と猫背が言った。「証拠もないのに、再逮捕するつもりやったんですから」
「警部補は、刑事部長とねんごろになってましたから、なんでもできると思てたんとちゃいますか?」と、ギョロ目。
「ちゃうねん」と、鬼ヒラは顔の前で手をふる。「あの女、服部海人に弱みを握られてたんや。ほんで焦りよった」
「なんですか」と猫背。
「みんな身内みたいなもんやから、教えたってもええわ。実はな、ひと月ほど前に、この近くでアメリカ船の水夫が溺死したやろ」
 覚えてるかと、鬼ヒラは深雪にたずねる。
 深雪がうなずくと、鬼ヒラは得意げに話した。
 長谷川千賀が外国船の船員に輪姦されたとき、アメリカ人の水夫に助けられた。それを服部海人を知られた千賀は、彼を逮捕する策をめぐらしたというのだ。

「学生時代は売春もしてたらしい」と鬼ヒラ。「それがバレて、Ⅰ種の試験に通ったのに、警察学校に行くことになったんや。警官になってからは、出世につながる相手とは、すぐに寝るようになった」
「ネタ元はどこから――」と、猫背は興味津々のようだ。
「ちょっと言えんけどな。ま、ええか。週刊誌にネタをタレこむやつらや」
「船員に輪姦された話もそっからですか」と、ギョロ目。
「八田組の組長や。証拠のビデオがあるそうや」
「とんでもない話ですな」と猫背。
「服部海人に運び屋をやらしてるやろとカマかけてやったら、びっくりこいて、ビデオのことをしゃべりよった」

 服部海人が運び屋をやらされてると鬼ヒラが当て推量で言うと、八田組長が驚き、長谷川千賀の輪姦ビデオの話を鬼ヒラにしたと言うが……。
 日頃の鬼ヒラの言動から察すると、おそらく話は逆だろうと思った。脅した相手も八田ではない。
 鬼ヒラは山野辺を脅したにちがいない。鬼ヒラは山野辺が行方不明事件の実行犯である証拠を握っているにちがいない。長谷川千賀は鬼ヒラから事件の証拠を引き出すために近づいたが、果たせなかった。山野辺は見逃してもらう条件に輪姦ビデオを渡した。むろん、八田も承知の上で……。

「八田は、なんで、長谷川警部補の顔を知ってましたんや」と猫背。
「毎年、地方新聞に載るやないか。移動したり、昇進した連中の顔が」
 猫背は、後部座席に身を乗り出し、「あんな小さい写真で、わかりますか」
「連中は毎年、警察署の近所に、メシのくえんライターを張りこましてやな、これと思う人間の顔写真を撮るんや」
 偽りだと口を開きそうになる。警察幹部の写真を、鬼ヒラは、組の幹部に売っているはずだ。

 現場検証の間中、深雪は、自分が命じられたことを忠実にこなした。規制線を張り、タイヤ跡を探す。
 土砂に埋まっていた山野辺の死体は掘り起こされ、その場で深雪は肛門で体温を計る。鑑識が写真を撮る。
 埋め立て用のミキサーは、規制線の外で一時停止している。
「後頭部を撃たれている」と、鑑識係が捜査一係の課長に告げている。争った形跡はなく、精液が衣服に付着していると。

 康介に呼び出された山野辺は欲望に勝てず、彼の車に同乗し、人気のない埋立地にまできた。
 なぜ、危険だと思わなかったのか。 
 深雪と同じ理由だ。
 あの夜、英美子の店にいた山野辺は康介に一目惚れしたのだ。
 端正なたたずまいと知的な眼差しに惹かれ、魅入られたのだ。
 冷酷な堕天使だと知らずに。

 海底から引き上げられた車両からおびただしい海水が流れ出る。
 運転席から引きずりだされた康介は蝋人形のようだった。深雪はすがりついて号泣するかわりに、彼の肛門に体温計を差し入れた。
 モンブランの万年筆を砕いたときから、彼は決心していたのだ。
 服部海人のために、深雪と山野辺を天秤にかけ、どちらを殺すか。
 幸運な相手は、山野辺だった。
 陶酔の頂で死ねたのだから。
 凶器の銃は沈んだ車の周辺の海底をさらったが、発見できなかった。事件性がないとされ、帳場は立つこともなく、被疑者死亡で処理された。
 県警本部の刑事四課・組織犯罪対策部は、松木組と八田組の抗争事件になると色めき立っていたが、双方とも事を荒立てる気がなかっただけでなく、松木組は八田組と親子の杯をかわし、八田組を傘下に加えた。
 深雪は書類の整理に追われた。

 二ヵ月後――。

 長谷川千賀は長田区内の交番勤務に左遷された。
 ビデオの複製が市中に出回ったせいだ。
 鬼ヒラは灘署の刑事課一係に転任した。地域課の係長の役職を解かれたので昇進とは言えないが、望みの部署にもどれたことは鬼ヒラにとって喜ぶべきことだったろう。
 送別会の席には、ハンチング帽をとり、かつらをかぶって現われた。
「心機一転、本名の平田にもどって、若返ってがんばります!」と、あいさつし、ヤンヤの喝采を浴びていた。

 深雪は実務研修が終わり、庶務課への打診があったが、地域課の係長となったギョロ目に交番勤務にもどしてほしいと願い出た。 
「なんでやまた? ここが気にいらんのか?」
「とんでもありません。長谷川さんが左遷されたのに、私だけ、のうのうとしていられません。一からやり直したいんです」
「長谷川は警察におるかぎり、交番勤務や。ヤナギもそれでええんか」
「その覚悟です」
「まあ、そら、あんたと犯人の藤原康介との仲が取り沙汰されてるからな」
 ギョロ目はほっとした表情を見せた。深雪が言い出すのを待っていた気配だ。深雪が署内の廊下を歩くと、視線が気にかかる。この所轄に歓迎されていないことは火を見るよりあきらかだった。
 その日のうちに、東雲署の交番勤務の辞令がおりた。

 先輩の小堺は侮蔑の言葉で歓迎してくれた。
「よりにもよって、ヤクザの息子と関係をもつやなんて、サイテーやな。おれやったら、警察によーおらんワ」
 噂は、近隣の所轄に広まっているようだ。
「今後ともよろしくお願いいたします」
 警官の出で立ちをした深雪は、深く頭を下げた。
 ほどなく長谷川千賀が、深雪の住むアパートを訪れた。
「諦めちゃダメよ」と、まず彼女は言った。「勝負はこれからだと、私は思ってるの。あんたが、私と同じ処分にしてくれって言ったと聞いて、うれしかったわ。鬼ヒラをハメる算段はついてるの。あんたのことはかならず引き上げるから、待っててね」
「私は交番勤務でいいと思っています」
「ナニ、言ってんの。男に負けてどうすんのよ」
 長谷川千賀は母とはまったく異なる生き方をしているが、性愛をしらない、その一点に関しては同じなのだ。たった一人の夫とでも、大勢の男と関係しても、性に惑溺した経験のない者は似たような生き方になる。
「いまも、あんたのまわりをうろついている虫ケラは、上に手を回して、なんとかしてあげるわ」

 石垣は四六時中、深雪の住むアパートの周辺を徘徊している。
 康介の死後、部屋に引き入れていない。
 石垣は行き場のない野良猫のようだった。
 ひと目で浮浪者と知れる身なりをしている

 翌日、自転車で巡回に出た深雪は、アパートの前でたたずむ石垣に声をかけた。
 石垣は憔悴しきっていた。「兄貴がおらんようになったら、わいはどないしたらええか、わからん」
 高価な腕時計も金の指輪もしていない。質屋で買い取ってもらったのだろう。組長には、縁を切られたという。
「行くところがないの?」
「わいは、落ちぶれてしもた……」
 しかし、深雪に話しかけられたことがよほどうれしいのだろう。
 涙ぐんでいる。

 深雪は自室に石垣を迎え入れる。
「ええんか、ほんまにええんか。仕事中やろ?」
「きょうはいいの」
 深雪は二ヵ月前のように、下着姿になり、ハイヒールをはく。
 石垣は嬉々として支度をはじめる。
 途中で手を止め、「わい、臭うろ?」
 深雪が首を横にふると、石垣は笑顔で全裸になり、敷物の上に頭をかかえて、膝と肘をついて丸まった。
 深雪は鞭をふるう。
 石垣は悲鳴をあげる。
 バスローブのひもで口を結わえていないので、
「かんにん、おかあちゃん、かんにんしてくれ……」
 と泣き叫ぶ。
 深雪は足蹴にし、上向かせると、股間にまたがり、からだを繋げる。
「どない、したんや」と石垣は怯える。「なんか、あったんか」
「どうして、わからなかったのかしら。バカだったのね」
 石垣の凹んだ目は深雪を見上げ、顔色をうかがう。
「あたしには、あんたしかいない」
「ウソや、そんなはずあらへん。わいみたいなもんを、好いてくれる女なんて、この世におるわけないんや。一銭もないし、住む家もあらへん」
 腰を引こうとする石垣におおいかぶさり、彼の顔を両手ではさみ、黒ずんだ唇を吸う。
「なんすんねんな……あの男が死んだからゆーて、わいを笑いもんにする気ィやな……」
「わかってよ!」
 深雪が下肢を押しつけても、石垣の小さな性器は深雪に侵入する手前にある、やわらかい襞に触れただけで白濁した液体をもらした。
「もう、あんたしかいないのよ!」
 深雪は泣きながら石垣の首を絞めた。
「わかった。思いクソやったる!」
 石垣は深雪の腕を外すと、その手で深雪の太ももを開かせた。乳首が固くなる。腰痛でくるしんだ上半身を彼の上に沈めると、石垣は丸虫のように背骨を前へまげ、痩せ細った両足を深雪の背中に巻きつけた。その姿勢で深雪を前へ後ろへ揺らす。揺りかごのようだった。石垣は野卑な外見と異なり、二人の性器が離れそうになると、右手で深雪の臀部をつかんでひきよせる。赤ん坊が母親の乳房に吸いつくように乳首を舌の上でしゃぶりながら、左の掌で扁平な胸を撫でさすり、親指と人差し指で乳首をひねる。
 深雪は彼の動きに合わせてからだを前後にゆする。燃えるような感覚に襲われ、膣が脈を打つ。深奥が攪乱され、からだ中が痙攣する。快感とも異なる振動が背骨を通って脳髄に達した。
「知らなかった……何も」
 石垣は深雪を抱き上げ、ベッドに寝かせると、彼女の両足をひろげ、彼の指と舌で、深雪が自らを慰めるときよりも強くやさしく刺激する。とろける感触が時間の観念を消す。望んでいたことがなんだったのか、深雪のからだは生まれる以前から知っていたのかもしれない。
「あんたがいないとーー生きてけない……」
 石垣の下肢が躍動する。ええぐあいや、ええぐあいやと喘ぎつつ。
 深雪は両足を石垣の肩に乗せられ、彼の性器と密着し、揺さぶられ、抉られ、感じたことのない悦びを覚えるーー意識が溶けていくーー。

 犯罪者に恋い焦がれた堕天使は、海に沈んだ。
 ナルシスはもはやだれのものでもない。

 キノコのような性器を両手で握りしめ、舌をからませると透明な液体が湧き出る。吸い上げる。やめてくれ、もうあかん、死んでまうと石垣は呻き、身悶えながら射精した。深雪は美酒をのむように放出された甘い液体を飲みほした。
 ほんのいっとき、痩せた胸に上体を預け、折り重なって眠った。
 
 深雪はゆっくりと身を起こす。からだの隅々まで潤い、満ちたりている。ベッドから下りると、机の抽き出しにいれてあった辞表届を取り出し、引き破る。藤原康介を盗み撮りした写真、服部親子の捜査資料をハサミで切りきざむ。
 ビニール袋へ入れる。過去のすべてが消滅する。
 ハサミの音が気にならなかったのか、余韻に浸っている全裸の石垣に銃口を向ける。銃を手に入れるために交番勤務にもどったのだからーー。
 気持ちが伝わったのだろうか、眠気のぬけきらない、ぼんやりした顔をこちらに向けながら、
「そうか、そやったんか。わい、うれしいで」
「あたしの男は、あんたひとり」
「わいに気ぃつかうことない」と、首をふる。「警官の服、着てくれへんか。最期にもっぺん見たいんや。ほんまのことゆーたら、はじめて会(お)うたときから、スキやったデ。ずぅーと、警官でおってくれな」
 深雪は制服を着用する。
 二人でいっしょに死ぬつもりだった。
 石垣は震える手で銃口をくわえると、自らの手で引き金をひいた。
 脳みそが顔と制服に飛び散る。
「あんたがスキよ、ずっとずっと前からーー言う通りにするね」

 深雪はビニール袋をゴミ捨て場に投げ捨てる。
 交番所へもどり、自転車を置き、公衆トイレに入る。
 和式の便器をまたぐ。
 口汚くののしる、小堺巡査が清掃するはずだ。
 くすりと笑い、立った姿勢で、こめかみを撃った。

  17

 海人は総ガラスのトップライトに目を転じる。
 オペレーターの背後からコンテナの移動するさまを眺める。
 六本足のストラドル・キャリアが眼下の軌道を走る。
 ガントリー・クレーンがカマ首をもたげる。
 ハーバーライトの照明に赤く染め上げられた俎状の甲板に、大型棺桶もどきの金属性長持ち――四十フィートのコンテナが一分半に一個の割合で積み重ねられていく。
 子供が積み木遊びをするように……。

 服部海人は松木組の社員になって二ヵ月足らず。代理店の代行業務とは異なる荷役の仕事に忙殺されている。覚えなくてはならない事務作業も山のようにある。
 好奇の目にさらされると案じていたが、社長直々のお達しが効を奏したのか、同じ部屋で働く社員はだれ一人、嫌味や当てこすりを口にしなかった。
 英美子とは、別の場所に住んでいる。
 といっても、店の入っているビルの三階なので、会いたいときはいつでも会える。
 貸事務所だったところを、康介は借りていた。
 三ヵ月前のあの夜、康介は山野辺に、「この上を借りている」と言ったのは、口から出まかせではなかった。
 
 ベッドとデスクがあるだけの簡素な室内だったが、海人にとって、
この世界で心を解き放てる唯一の場所だった。
「カイちゃん、改装のお祝いに八田サンが来てくれはったで」
 英美子が呼びにきた。
 ようやくこの日がきたか――、
 海人は抽き出しから、弾倉が回転するリボルバーを取り出し、ベルトの後ろに差しこむ。初夏にふさわしい上着に腕を通す。日焼けした顔を上から下へ撫でおろす。
 連発式のリボルバーは山野辺が所持していたものだ。
 康介は山野辺を撃った直後に、この部屋にもどった。
 銃を置き、ポートアイランドの南端にもどり、車ごと着水したのだ。
 父親宛に遺書も残していた。服部親子をよろしくたのむと。

 八田は海人を警戒して、この建物に寄りつかなかった。
 松木社長から土砂を運ぶ運搬業の仕事を回してもらい、ようやく
傘下に入ったと実感し、安堵したようだ。
 貸切の札のぶらさがった店に入ると、松木組の若手が数人と八田組の総勢十人とが、立錐の余地もない店内でどんちゃん騒ぎをしている真っ最中。
「カイト、こっちゃへ来い」と八田は上機嫌だった。「なんもかも、おまえのおかげや」
 海人は八田の真正面に座る。
「知っとうか? 女警官が丸裸の石垣を撃ったあと、公衆便所で自分の頭を撃ったんや」
「ニュースで知りました」
「襲われて抵抗して、撃ったあと、自殺したことになってるけど、ちゃうよな。あの女もスキものやったんやな。ここのママといっしょや」
 海人は右手を背中に回し、リボルバーをベルトから抜き、八田の眉間に狙いを定める。
 英美子がグラスを落とし、小さな悲鳴をあげる。
 耳をつんざく音楽はそのまま鳴りつづけている。
「なんの冗談や。わしは、松木の親分と、親子の杯を交わしたんやぞ。おまえなー、頭がおかしなったんか」
「おれが、そのように計らってくれと康介のオヤジに頼んだ。出入りで仰山、死ぬのは親分も望んでない」
「おまえがッ! ウソこけッ!」
「組長が銃を向けられてるのに、なんで、おまえの組のもんは黙ってるんや」海人は静かに言った。「頭がおかしいのは、おまえやろ」
「おれ、おれを殺したら、おまえは刑務所行きやぞッ」
「後始末は、いまの舎弟頭がする。やりやすいように、土砂を運ぶ仕事が回ったんや。港では、仕事中の事故で死ぬこともめずらしない」
 八田は子分たちに叫んだ。「おれが死んだら、石垣みたいになるんやぞ」
「ならん」と海人が言った。「おまえのあとは、おれらが引き継ぐ」

 弾丸は空気を切り裂き、八田の眉間を突き抜けた。

 英美子は顔をおおい、その場に崩れ落ちた。

 エピローグ

 宵の口、摩耶埠頭・2突GHバースの丸い大型ビットに、作業服を来た海人は腰を据える。頭には社名入りのヘルメット。足元は地下足袋。沖合に見える入港船の接岸を待つ。この時間に入ってくる船はアジアからくる船がほとんどだ。
 陽が沈む。潮風に晒される。
 港のすみずみまで茜色に染まる。
「あの船、ふらついとるやないケ」
「老眼やよってに、遠くは、よう見えるはずやのになぁ。岸壁が見えんのや」
「爺サン、昼メシ、食うとらんのとちゃうか」
「パイロット(水先案内人)にも定年制をしくべきやデ」
 綱取り業者の面々はジープに乗ったまま、それぞれの口調で高齢の水先案内人をコキ下ろす。
 海人の頬がゆるむ。
「おっ、松木組の兄ちゃんも早やばやと、来とんな」
 中の一人が目ざとく海人を見つける。
「あんたンとこの担当か」
 海人は中腰になり、ひょいと頭をさげる。「あんじょう頼んます」
 声をかけた男はジープを降り立ち、ビットの横にしゃがむ。
「ふむ。だいぶ、それらしいになってきたな。そのトシで荷役のカシラやと言われてもなぁ、さいしょはどないもこないもならんと思うたけど、だんだん、ハマの顔になってきたがな。習うより慣れろとはよう言うたもんや」
 男はぼそぼそしゃべる。
「そんな顔、あるんですか」
 海人は疑いの目をむける。
「あらいでか」と、男は節くれだった手で日焼けした頬を叩き、「雪をあざむく上品な顔が、十年でこないなる」と、笑わす。
 ひと夏へるこどに、瀬戸内の潮風をもろにうける皮膚は黒く、ぶ厚く、皺くなっていくと男は力説する。
 海人は自分の頬をつまんでみる。
「兄ちゃんとこの、荷役のおっちゃんらを見てみい。裏か表かようわからん、ご面相がようけいてる」
 話好きの男はそう言って、海人と自分の煙草に火をつける。

 あたりが黄昏はじめる。
 
 数分前まで黒点だったタグボートが次第に形を現わす。
 追走する黒い物体――やや大きめのタグボートは静かに波を切る。
 波音がしじまに広がる。星空の冴える藍色の空の下、金色のさざ波が海のおもてを走る。綱取り業者が着岸地点を報せる、青と白のチェック模様の旗、通称N旗を岸壁に設置し、掲げる。顔見知りの代理店、船舶電話の連中も出揃っている。
 男たちはひたすら待つ。
「ぼちぼちやなぁ」
 岸壁の突っぱなで空もようを見ていた男が、みなを振りむく。
「よっしゃ、いてこましたろ」
 海人と肩を並べていた男が足踏みをする。両の手に、ペッと唾を吐きかける。
 月影を映す港内。船は滑るように進む。二隻のタグボートが船体の前後を固め、岸壁まで誘導する。
 船首が角度を変える。接岸と同時に船尾に白い波が立つ。見上げると、首がだるくなるような高さの舳先から太いロープが投げ落とされる。
 数人の男が駆け寄る。腰を低くかがめ、ロープをたぐり寄せる。
 胸の下にロープをつかむ。
「せぇーの」
 掛け声もろとも、男たちはいっせいに上半身をたわめる。
 代行業の仕事をはじめた頃、この眺めに心が踊った。まさか、五千トンクラスの船が人力で着岸するとは思いもしなかった。
 職種は変わっても、その気持ちは変わらない。
 錨を下ろした船のタラップを、帆船が風をはらんで走るように海人は駆けのぼる。
「アンニョン・ハシムニカ」
「コンバンワ」
 互いの国の言葉であいさつを交わす。二言三言、無駄口をきく。
 昨夜からぶっ通しの仕事もこれでエンド・マーク(終了)かと思えば手足に力がみなぎる。口も軽くなる。
 キャプテンに荷役の許可をもらう。
 顔見知りの船員が岸壁の一隅を指さす。学生とおぼしき女の子数人、艀(はしけ)が海面に寄りかたまるように群れている。
 こんなとき、女好きのロイがいればと、海人は指を鳴らして残念がる。

 女嫌いのあいつがいれば……なんて言うだろう。
 今にも頭上に落ちかかってきそうな大空。
「目頭が熱くなるぜ、コウスケ」
 水星(マーキュリー)が西空低く、またたく。
 あいつが、うなずいているようだった。詩人の生まれ故郷、アメリカのアマースへ行こうと。

  完


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