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【エッセィ】蛙鳴雀躁 No.25

 半世紀前、D・H・ロレンス作「チャタレイ夫人の恋人」の削除された箇所をどうしても読みたくて元町の〝丸善〟で原書を購入しました。
 一語一語、辞書をひいたところで、私の拙い語学力では到底、理解できないとわかっていたのですが、三十六回もの裁判の末に、発禁処分をうけた問題の箇所には何が書かれているのか、何がなんでも知りたかったのです。

 アルファベットの行列を眺めるだけでいい、かならずや想像を絶する淫らな内容が書かれているにちがいないと大志ならぬ、妄想を抱いたわけです。

 いまでは、私同様に老いて黄ばんだ原書を手にとると、若い頃の涙ぐましい努力のあとが、うかがえます。肝心な箇所が抜けている「欠落本」と英文の原書を必死で見比べて、このあたりが足りないと見当をつけ、付箋をつけていくわけです。多くの日数を費やしたことは想像にかたくない。
 このように執拗な気質を、ほん少しでも勉学に傾けていれば人生はまったくちがったものになっていたのですが……。

 なんの確証もなく、削除部分であるらしい箇所を六ヶ所特定。もっとあったのだと思うのですが、見つけられませんでした。
 で、とにかく必死の思いで、目で、指でなぞってみたものの、どう淫らなのかが、よーワカラン。

 たとえば、原書の223ページ。“Come then!”以下からはじまる文章の下段から削除になっています。

“Eh,but tha’rt nice!”he said.suddenly rubbing his face with a sunggling movement against her warm belly.

 このあたりの文章を仮にスラスラ読めても妄想できる内容ではないと、なんとなく想像がつきます。と同時に、英語は解説向きの言語であって、官能小説向きでない気がしました。

 先にすすむと、“Ay!”とか“Yi!”とか、ビックリマークつきで出てくるのですが、これくらいは、当時の日本の官能作家の大家であられた川上宗薫氏はなんぼでも書いておられました。
 
 1996年に、伊藤整氏による完訳本(新潮社)の文庫が出版されました。すぐさま買って付箋をつけた箇所を読みましたが、どうして発禁処分を受けたのか、理由がわからない。日本だけでなく、米国でも英国でも裁判になったと完訳本の後書きで知り、さらに疑問は深まりました。

 文学的表現と言えばいいのか、訳者の腕が良すぎると言うべきか、完璧な文体で詳細に書かれているせいで、淫らな妄想の入りこむ余地がない。
 ポーリーヌ・レアージュ作・渋澤龍彦訳「オー嬢の物語」(河出書房)も同じで、流麗な長文での官能小説は、IQの高くないオタク脳が読むと、哲学か心理学の本を読んでいる気分になるのは私だけなのか?

 ポルノ小説愛好家と言ってもいい私は、古書店で、吉崎淳二編 「世界の発禁本」(大陸書房)を見つけ、それにそって読むことにしたのです。
 最初に取り上げられているのは、戦後の海外ポルノ小説の発禁第一号となったアルフレッド・ド・ミュッセ作「ガミアニ」。
 計四回、発禁になったといういわくつきのポルノ小説です。
 男装のジュルジュ・サンドの恋人であり、イケメンの天才詩人として名高いミュッセが、官能小説を執筆していたことも驚きでしたが、それよりも気になったのが解説書の吉崎氏の一文でした。

『本来ならば、もっと直接的な表現になっているだろうと思われる。しかし、猥雑な直接表現を極力おさえて表現している苦心のあとが非常によくわかる文章といえる』

 目からウロコの心境になりました。そうなのか。そうだったのか。
「チャタレイ夫人の恋人」の完訳本を読んだときの違和感はこれだったのかと。私は長く、付箋を付けまちがっていると思いこんでいたのです。読めないながらも、何か違うと感じていたからです。

「世界の発禁本」より、ガミアニ伯爵夫人と少女とのラブシーンの会話を以下に抜粋しておきます。

「いけませんわ! いけませんわ! あたくしを殺しておしまいになるの……ああ! あたし、死にそうですわ」
「そうよ、あたくしを抱きしめて、あたくしの子供、あたくしの愛人! しっかりと抱きしめて、もっと強く! 心ゆくまで……あなた、綺麗になってきてよ! 夢中になってね……いいでしょ、幸福でしょ……おお神さま!」

 同じ箇所が、1978年(昭和五三年)発行の須賀慣訳「ガミアニ伯夫人」(富士見書房)になると、

「だめ、だめよ、いけないわ、いけないわ! あなた、あたくしを殺すおつもりなの……ああ、あたし、あたし死ぬ!」
「そうよ、そう、ぎゅっと抱いて、かわいいひと、もっと強く、そうもっと強く抱いて! よろこびに浸っているあなたって、ほんとに美しいわ! あら、あなたって淫らなひとね……あなた、感じているのね、あなた、しあわせなのね……すばらしいわ! いいわ、ああ!」

 同じ文章を翻訳しても、違っていることがわかりますよね?
「あたし、死にそうですわ」は推量ですし、「あたし死ぬ」は断定しています。ビックリマークの数は同数ですが、ニュアンスのまったく異なる箇所は、つぎの「あら、あなたって淫らなひとね」のひと言が、前文にはないことです。
 細かいことなんですが、ガミアニ夫人は、少女の大胆な行動に行為の途中で驚いているんです。おそらく「淫ら」という言葉を削除したためだろうと思います。そして決定的な違いは、前文には、「おお神よ!」があることです。後文には、「いいわ、ああ!」しかない。

 キリスト教国の場合、たとえポルノであっても、原文では「神さま」をくっつけたのではないかと、私は愚考するわけです。しかし、訳者の須賀氏は、それを入れると、気分がしらけると思われたのではないか?
 ちなみに、ジョルジュ・サンドはレズビアンだったとアポリネールは暴露していますが、ピアノの詩人と謳われたショパンに乗り換えられた腹イセで言ったのかもしれません。

 このエッセイを書くにあたり、集めたポルノ小説を書棚から選びだすと、出てくるわ、出てくるわ、渋澤龍彦訳のマルキ・ド・サド作品群は別格として、中には読んでいないものまでありました。

 ギ・ド・モーパッサン作・小宮圭一郎訳「大佐夫人の従姉たち」
(北栄社)

「女の一生」を書きはった、あの大先生もポルノ小説を!

 でもまあ、私としては、詩人のギョーム・アポリネール作・須賀慣訳「一万一千本の鞭」(角川文庫)がイチ推しでしょうか。
 画家のマリー・ローランサンにフラれたイケメンです。天才詩人は恋に傷つきやすいのか、自ら志願して普仏戦に赴き、負傷し夭折します。
 それはさておき、この小説には、日本人の若い娼婦が登場するエピソードがあります。読みながら、ほんまかいなとびっくりしました。事実うんぬんではなく、19世紀に生まれたアポリネールは日露戦争を知ってはいても、実際の日本女性を見たことがあるのか、ないのか? どっちでもいいことですが、気になったのでその部分を紹介します。
 舞台となる場所は、203高地に近く、日本軍に包囲された町、旅順です。世界各地から集まった芸人のいる寄席があり、淫売屋もあります。こちらも世界各地の女たちがいます。

 主人公のロシア軍に味方するブカレスト出身の将校は、捕らえられたゲイでハンサムな男と対面します。ヨコハマからやってきたドイツ人の男は、死体の衣服を剥いで盗むだけでなく、スパイで、女衒でした。主人公は部下に命じ、男にさるぐつわをし、主人公と兵士らで輪姦し、鉄串しで体を貫き、そして、この男に売られた日本人の娼婦を連れてきて、串刺しにされた男の上に乗せます。この女はいまも、自分を売った男を愛していて、その男に再会したのちに死を望んでいたからです。
 ここで不思議なのは、1919年にアポリネールは亡くなっています。にもかかわらず、ドイツと日本が1936年に日独防共協定を締結し、ともに敗戦することを、彼は予感していたのでしょうか。

 ドイツ人の男と日本人の女が性行為の体形をとって惨殺されたあとの、主人公の会話文と地の文です。

「わたしはおまえの願いをかなえてやった……今頃は、日本では桜の花が満開だろう。恋人たちは舞い散る桜の花吹雪の中をそぞろ歩いているだろう!」
 こう言って拳銃をつきつけると、彼女の頭を撃ち砕いた。

 訳者の須賀氏は、後書きで、「一万一千本の鞭」は日本軍兵士の男根を暗示しているのではないかと、書いています。
 アポリネールは、ウタマロやクニサダの枕絵のファンだったそうです。当時のフランスでは、枕絵の影響で、日本男性は巨根であるという伝説が蔓延っていたので、このタイトルになったと。
 へぇ、ほぉ、と感心する一方で、いずれの国においてもデマと事実とが混在しているのだと改めて思いました。
 
 日本人作家の官能小説では、沼正三作「家畜人ヤプー」(角川文庫)が忘れがたい。SFファンタジーノベルといってもいい作品です。
 亡き石森章太郎氏は劇画にしておられましたが、売れなかったのではないでしょうか? 原作が長文であるうえに、一冊の劇画本では書ききれない内容だからです。
 白人女性を恋人にもつ日本人の主人公が、白人至上主義の世界へ恋人とともにタイムスリップするところから物語ははじまります。作者はおそらく、戦後の日本でご苦労されたのだと思います。沼正三は、ペンネームなので、いまもだれが書いたのか、わかりません。

 物語に登場する日本人男性は、異世界における有色人種の同胞の置かれている境遇に驚愕します。ある者は、舌人形となり、白人女性の自慰のお相手をつとめています。ミニチュアの日本人も造られていて、小さな箱の中で日本人同士を戦わせて遊ぶ「ハラキリショー」などもあり、まさに家畜のあつかい。奇々怪々な場面満載です。
 物語の最後、主人公の男性は、かつての恋人のハンモックとして生きることになります。男性が女性の椅子になる話は江戸川乱歩作品のほうが先なのですが、「家畜人ヤプー」はその先を描いている気がします。両手両足を縛られて宙に吊られ、激しい苦痛を強いられます。ハンモックはいずれ捨てられる運命にありながらも、白人男性との戯れを間近に見せられると嫉妬に苦しみます。しかし、女性が気に向いたときに彼の背中や臀部に横たわると、彼は、自らの置かれた境遇に感涙するのです。

 悪夢を見そうな小説です。

 装丁としては、谷崎潤一郎作「鍵」(中央公論社)。渋澤龍彦作「菊燈台」(平凡社)が美しい。とくに、後者の挿し絵と帯に書かれている一文「いっしょに死んで……」はたまりません。
 ポルノはロマンだと思うゆえんです。

 久しぶりに「菊燈台」の挿し絵を見て気分が高揚しまして、第九を聴きながら、「コーベ・イン・ブルー」の最終話を一部、書き直しました。
 noteのAIサマに嫌われると気づかい、女性警官とヤクザの小男の死に至る箇所を抑えて書いていたのですが、ポルノ愛好家としては書き足りていませんでした。もうね、羞かしいトシでもないし、大勢に読んでいただいてるわけでもないし、思い残しのないように書かしてもらいました。スッキリしました。

 ほとんど読み手のいない拙作を、なぜ書き直したのか。

 89年発行の掲載誌を読み直して、いちばん、思ったことは、当時の社会の風潮を色濃く反映していた点です。その風潮はいまも脈々と続いていますが……。
 仕事がデキル年上の女性と、大卒のイケメンとが、結ばれるラブストーリーだったのです。
 いま読むと、港の情景描写以外は寒気がします。自分の愚かさに吐き気がします。
 当時は、そんなふうに書かないと、編集者サマや読者サマに気に入っていただけないと本気で思っていたのです。自分がもっとも苦手とする気質や経歴の女性が主人公でないと、受け入れられないのだと。
 ヤクザがゴロゴロいる、自分の暮らす下町を舞台に選ぶなど、もってのホカ。その頃は夢にも考えませんでした。
 山の手の人たちというか、知識層へのコンプレックスがハンパやなかったせいです。なぜ、嫌っている人たちに気に入れられたいと思っていたのか!?
 家庭環境が複雑であったうえに、不登校で、勉強嫌いという事実と向き合えていなかったのだと、いまならわかるのです。
 だから、中途半端な小説しか書けなかった。いまもその点に関してはさして変わりないのですが、ただもう、社会で認められているエライ人やススンでる人らが主人公の話は書きたくないと思うようになりました。
 その人たちと面と向かうとき、素直な態度で接することは子供の頃から皆無でしたが、文章化するとき、気持ちが負けていました。
 アホを見破られたらアカンと健気に思っていたのです。若かったんですねぇ。

 アホでスケベなんですと、広言できるようになったぶんだけ、ボケて大胆になったと言ってもいいかと思っています。
 日本文学全集やら岩波の古典全集やら、読みもせん本を積み上げたのは、コンプレックスによるものでした。いまもありがたく本棚に残しています。しかし、熟読したのは、BL漫画と官能小説でした。
 意外に思われるかもしれませんが、詩集と宗教本はいまも好きです。絵や写真も。
 文庫本の「チャタレイ夫人の恋人」の表紙の挿し絵、妖しげな薔薇の絵が本文よりも気に入ってます。あまり知られていませんが、トニー・デュヴェール作・志村清訳「薔薇日記」(新潮社)の作者の写真がイケメンで読むたびに写真に見入ります。こんなに男前やのに、女性より男性を好むところに惹かれるのです。もはや、病気です。

 ここまで万が一、拙文をお読みくださっている辛抱つよいお方がおられましたら、深く御礼申し上げます。ただし今後も、ろくでもない小説しか書けないことを、申し添えておきます。


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