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「ばらの女」と理想の人。

パリにいた頃の話。ある日の午後の昼下がり。
カフェで叔父さんとお茶していた。

行き交う人々は姿勢が良くて、それぞれの個性が華やいでいた。そんな過ぎゆく人たちを眺めながら、敬愛する叔父さんと理想の人の話になった。

可愛い人、綺麗な人、賢そうな人、強い人、ハンサムな人。
いろいろな形容詞を人につけて、ああでもない、こうでもないと叔父さんと語り合っていた。

その時、叔父さんが話していた理想の人。
それは、マリー・ローランサンの「ばらの女」のような人である。

マリー・ローランサン「ばらの女」(1930年)マリー・ローランサン美術館所蔵

「え、実在してない人じゃん。この人のどこが理想なのさ?」と少し呆れて問う私。
「何言っているんだ、実在してようとしてなかろうと、理想は理想だ。僕はこの人の醸し出す柔らかい雰囲気が好きなんだ。これは感覚の問題だね。言葉では表せないものさ。だいたい人のことを言葉で定義しようっていう心が野暮な話なんだ。」叔父さんはゆっくりと語り出す。

「人はみんな感覚で感じ取って、さまざまを判断したり、思わずに直感で行動したりする生き物なんだ。論理的な思考だとか、客観的視野が大切だと左脳的な思考に価値を置くけれども、結局のところは、そこに情緒的な美しさや、心を打つような、一瞬で惹きつける魅力みたいなものに人間は引っ張られるのだよ。」とコーヒーを啜りながら熱弁する叔父さん。

「まあ、確かにそうかもしれないけれどさ。やっぱり論理的な思考や客観的な視点もみんなが共通理解をするには必要なことでもあると思うけどな。」と返す私。

「詭弁を言うね。共通認識が必要な世界ではそうかもしれない。でもね、恋に落ちる時や何かこの人いいなと思う時なんて、感覚的な部分で引き寄せられているのじゃないか?論理的に恋するのだろうか?一瞬で惹かれて盲目的に好きになることだってあるだろう?シェイクスピアでもそう語っているからね。考えて恋するのかい、君は?」と叔父さん。

うーん。
そう言われたら、論理的に考えて恋することってあんまりないなと思う。
確かに、恋の始まりは、直感的な何かに響いていて、いつの間にか始まっていることが多い気がする。

誰かに「あの人のどこがいいの?」とか、「どこが好きなの?」と聞かれて、言葉で即答できる恋って、確かになんか情緒がないようにも響く。好きという感情や直感を言葉というツールで説明することは相手にはわかりやすいけど、本当に自分の直感的に好きだと判断したことを伝えられているのだろうか?

「この人はファッションセンスが良くて、可愛くて、料理うまくて…」とか、「この人は背が高くて、〇〇大学卒で、スポーツ万能で、かっこよくて…」と言う理由。

これも好きという理由の一つなのだろうけれども、なんだか表面的にしかその人や、自分の好きという気持ちを表現できていない気がする。

叔父さんが理想の人だと語ったマリー・ローランサンの描いた「ばらの女」はパステルカラーで終始描かれており、その女性の詳細は細かく描かれず、その人の持つ印象を中心に描いている。

透き通る白い肌。黒い瞳。
真っ赤な口紅に彩られた唇。ブロンドの美しい髪。
そして手に持っている桃色のばらの花。

けれども、これらの周辺的な印象よりも、
この女性の持っている雰囲気はなんだか魅力的。

叔父さんはこの、一瞬の印象のことを「理想の人」だと語った。
それは叔父さんにしかわかり得ない感覚で、叔父さんにしか見えていない世界観でもある。だから万人に理解される感覚ではないかもしれない。けれどもそれは、その人にしかない感覚と世界観だから、それはそれで美しいのだろう。

理想の人は千差万別。
その人がいいと思った心や感覚があれば、それでいい。それが美しい。

マリー・ローランサン展で飾られていた「ばらの女」を目の前に、数年前の叔父さんとの会話を思い出し、ニヤリとする。

「叔父さん、この人でしょう?あなたの理想の人って。」そう心の中で叔父さんに語りかける。なんだか天国で叔父さんが高笑いしているような気がした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
Bless you :)

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