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力の源

「英語を話せると将来役に立つから勉強しなさい」
「生徒会長になって内申点を稼いでおきなさい」
「いい大学に行っていい会社に行きなさい」
これらは学生に対する声掛けとして正しいのだろうか。


学生は素直だ。

塾講師のバイトをしていると、やる気のない生徒に勉強をするよう促さなければならない場面がある。講師としての体裁を保つために言葉をかけてはみるものの、やる気になってくれたことなんてほとんどない。勉強が嫌いだから勉強をしない、という単純明快な理屈であるが故に、難攻不落である。

嫌いなことと向き合うには、莫大なエネルギーを消費する。特に、0から1の部分…行動し始めるところで躓く人が多いように思う。これは人間の心だけではなく、物理法則にも当てはまっていたりする。摩擦には、動摩擦(物体が動いている際に発生する摩擦)と静止摩擦(物体が静止している状態から動き出す際の摩擦)の2つが存在する。これら2つを比べた時、必ず静止摩擦の方が大きくなる。ひょっとすると、人間の心とは物理的なものとして捉えることができるのかもしれない。


人間の価値観は人それぞれだとは言うけれども、傾向のようなものは存在すると思う。特に、人が何かを新しく始めるための原動力となる感情は、案外種類がないのではないだろうか。人間の行動力を後押しする感情は、

不安

好奇心

の2つが主だと思う。この2つはビジネスでよく利用されている。老後に資金が必要だから積み立てNISAを始めよう、万が一に備えて保険に入っておこう、ハズれてもいいから宝くじを買って夢を見よう、週末は時間があるからディズニーランドに行こう、などがいい例だ。

そして、世の中には

損得勘定

で物事を判断して行動する人もいる。電気代を節約するためにエアコンは付けないでおこう、あの映画気になるけど映画館には行かずにサブスクで配信されてから見よう、などである。


「不安・好奇心」からの行動と「損得勘定」からの行動には決定的な違いがある。

前者は、行動そのものが目的になる。保険に入れば不安は解消されるし、ディズニーランドに行けばそれだけで楽しい。

後者には、行動そのものが目的ではない。エアコン代を節約したところで、そのお金を使う目的がなければ成立しないし、映画がサブスクで配信されるまで待ったところで、浮いた時間とお金の使い道がなければ意味がないのだ。

これを理解していないとどうなるかというと、
「英語を話せると将来役に立つから勉強しなさい」
「生徒会長になって内申点を稼いでおきなさい」
「いい大学に行っていい会社に行きなさい」
こういう発言をしてしまう。
そしてこれらの言葉を言った後に、
「あなたのために言ってるのよ」
と追い討ちをかけたりするのだろう。

断言しよう、これらの言葉は学生のために言われていない。これらは、発言者本人の打算の結果が反映されているだけである。そんな言葉をかけられたところで、

英語が話せるからなんだよ
内申点があるからなんだよ
いい会社に入ったからなんだよ

と思うだけである。

打算が悪いと言っているわけではない。打算の先に目的がないことが問題なのだ。

英語を使ってやりたいことなんてないけど、いつか役に立つかもしれないから勉強しておこう
やりたいことなんかないけど、とりあえずいい大学に入っておけばいいことあるだろう

と思える学生が何人いるのだろうか。そして、今一度自分に問いただしてほしい。あなたはそんな風に打算だけで生きてきたのだろうか。


目的意識のない行動には体重が乗らない。大人の立場で子どもにしてあげるべきことは、打算の結果をぶつけることではなく、目的探しを手伝うことではないだろうか?

プロ野球選手になりたいとか壮大なものでなくていい、スポーツカーを買いたいとか、都会に住みたいとか、好きなアニメキャラのフィギュアで家を埋めたいとか、そんなのでいい。興味のあることから話を広げていったり、新しい体験ができる機会を与えたりすることで、見えなかったものが見えてくることもある。肝心なのは、自発的に動けるだけのエネルギーを自力で供給できるようにするということだ。

他人が正論をぶつけたところで、人間はそうそう変わらない。そうでなければ、タバコを吸う人間も、パチスロをする人間も、この世には存在しない。正しさは、人間が行動する理由として脆弱すぎる。大人でさえそうなのだから、学生に至っては尚更だ。

重複するようだが、打算で生きることを否定しているわけではない。しかし、他人が自分の打算で動いてくれるとは思わないでほしい。人によって、環境、時代、考え方、ポテンシャル、何もかもが違うのは当然だ。そんな他人の生き方をわざわざ変えようというのだから、目的探しという甚だめんどくさいことに寄り添ってあげてもいいのではないだろうか。

教育方針なんてのは、家庭によって様々だ。全ての家庭が、打算に支配されずに教育することができるわけではない。それでも、全ての学生に、目的探しの手伝いをしてくれる人が1人…誰でもいいから1人いてくれればと切に願う。そして、僕自身がその1人になれる人間になりたい。それこそが、僕が塾講師を続ける目的となっている。

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