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パチンコを通して秋元康の詞に触れる

パチンコ屋(以下パチ屋)に行くたびに「行かなきゃよかった」と思わされるのは、僕だけではないだろう。

パチンコというものは、娯楽の中でも底辺に位置するものだ。基本的には、誰がどのようにやっても勝率に差はない。その上、期待値がマイナスなので、やればやるほど負けていく仕組みになっている。頭では分かっていても、体がパチ屋に向かってしまうのが、パチンカーの性というものだ。

人がパチンコにハマるメカニズムを解説しよう。

①興味本位でパチ屋に行き、なぜか勝つ(ビギナーズラック)
②味を占めてもう一度パチンコ屋に行く
③めちゃくちゃ負ける
④取り返しに行く

といった流れだ。
その例に漏れず、僕はパチンコにハマってしまった。



9月中頃のある日、研究室を終えた僕は、家に帰るついでにパチ屋へと向かった。ちなみに、パチ屋は家とは反対方向にある。本当は行く気がなかった、という顔をしているが、実を言うと家を出た瞬間からパチ屋に行くことを決めていた。

というのも、Netflixで「まどマギ」を全話見終わり、感動してパチンコが打ちたくなっていたからだ。温泉に入った後に牛乳を飲むのと同じで、良い作品を見た後にはパチンコを打つのだ。

しかし、目当てのまどマギ台には先客がいた。
仕方がないので、その近くにあった乃木坂46の台で暇を潰すことにした。

乃木坂46の台では、パチンコを打ちながら乃木坂46のMVと歌詞を1番サビまで見ることができる。何度かライブにも足を運んだこともあり、馴染みのある曲は多い。しかし、歌詞の意味を考えながら聞いたことは一度もなかった。歌詞を文字で追いながら聞くのが新鮮で、たくさん曲がある中でも特に「帰り道は遠回りをしたくなる」の歌詞に陶酔していた。

以下歌詞

帰り道は遠回りをしたくなる

好きだった…この場所…

やめられない漫画を途中で閉じて
顔を上げて気づくように
居心地いい日向もいつの間にか
影になって黄昏れる

君と会ってすぎる時間
忘れるくらい夢中で話した
僕の夢は ここではないどこかへ

帰り道は 帰り道は
遠回りをしたくなるよ
どこを行けばどこに着くか
過去の道なら迷うことがないから
弱虫(弱虫…)
新しい世界へ 
今行きたい 行きたい 行きたい 行きたい
強くなりたい

「帰り道は遠回りをしたくなる」は22枚目シングルの表題曲で、西野七瀬さんの卒業ソングでもある。好きだった場所からの別れを惜しんで帰り道に遠回りをしたくなってしまう、という歌詞なのだが、僕自身は久しくこういう思いをしていない。
しかし、あまりに歌詞が素晴らしいので、精一杯感情移入ができるように努力してみることにした。

まずは、主人公の気持ちになりきってみよう。

好きだった場所…

好きなものでも、好きな人でもなく、好きな場所である。僕の記憶にある限りでは、
「好きな場所はどこですか?」
という質問をされた経験がない。突飛な質問ではないものの、いざ訊かれてみると、返答に困ってしまう。

正直なところ、「自宅」が本音ではあるのだが、歌詞の都合上「別れを惜しんで帰り道に遠回りをしたくなってしまう場所」にしておかなくてはならない。こじつけではあるが、引っ越しをする時なら「自宅」との別れを惜しむことになるのでは?と考えもした。
しかし、僕が好きなのは「誰も入ってくることのない空間」であって、住んでいる建物や地域ではない。よって、引っ越しをする時も「自宅」との別れを惜しむことはできないのだ。

好きな場所の候補として、「カラオケ」があるのだが、1人カラオケなので毎回1時間しか滞在しない。「別れ」と呼ぶには付き合いが短すぎる。好きな場所…………まさかこんなところで躓くとは思ってもいなかった。いや、諦めてはいけない。自宅を出てまで行きたくて、滞在時間がそれなりに長い場所…


パチ屋だ!

灯台の元暗しとはこのことである。
好きだった場所を「パチ屋」と仮定した途端に、歌詞の内容がスムーズに入ってきた。

やめられない漫画を途中で閉じて
顔を上げて気づくように……パチンコに明け暮れる
居心地いい日向…パチ屋
影なって黄昏れる…閉店間際になって気づいたら自分しかいない状態
君…パチンコ台
僕の夢…大勝ちすること
弱虫…大負けした人間のこと
新しい世界…競馬

もしかしてこの曲…パチンコを引退して競馬に挑戦しようと決意するギャンブラーが主人公なのではないか?


康……お前パチンカーだな?


一度パチンカーの曲だと認識してしまったら、もうそうとしか考えられないし、秋元康がパチンコで大負けしながら歌詞を考える姿が想像できてしまう。

多分こんな感じだ↓

作品は作者の手を離れると、独立した生命を持つ

よく言われることではあるが、それを初めて経験した。

消費者の分際で生意気かもしれないが、秋元康がどういう意図で作詞をしたのかなんてのは、どうでもいいことである。僕が、卒業する西野七瀬さんの気持ちを歌った曲だと思えばそうなるし、引退宣言をするパチンカーの曲だと思えばそうなるのだ。
エンターテイメントっていうのは、こんなにも受け手依存なのか…


確かに、エンターテイメントというものは、受け手が良いと感じるものが残っていくのであって、その数が多い人ほど人気者になれる。言わば、一種のデモクラシーだ。民主主義国家における政治家が創作者で、国民が消費者である。消費者の価値観が変化すれば、良いとされる作品も当然変化する。

「コンプライアンスのせいでテレビがおもしろくない」というのも消費者の責任であり、若者の視聴者がYouTubeやTikTokに流れるのもまた消費者の責任なのだ。人気なYouTuberやTikTokerのことを、おもしろくない、民度が低い、などと揶揄したり、それらを見ている人たちのことを嘲笑したりする人もいるが、コンテンツの中身自体には絶対的な優劣が存在しない。なぜなら、作品を良いとする基準は消費者自身にしか存在しないからだ。

それらをおもしろくないと否定したところで、
「お前がそう思ってるだけだろ?」
の域を出ない。そういう人が増えていけば、そのコンテンツはなくなるだけだ。続いているということは、良いとする人が存在しているというだけで、決してその内容が絶対的に優れているというわけではない。あるのは、相対的な差、つまり支持する人間の数の違いだけである。故に、他人が好いているコンテンツにとやかく口を出す必要性も、意味もない。自分の中で勝手に優劣をつけるのは構わないが、評論家ぶって講釈を垂れたところで、それは個人の意見の域を出ないということは理解してほしいものだ。

こんな無駄な考え事をしている間に、僕は3万円を溶かし、その後のまどマギ台でもしっかり負け、1日で4万円を溶かした。

ひどく痩せ細った財布と共に、その日の帰り道は遠回りをして帰った。

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