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中国よりアメリカ

昔の話です
英語が好きで、学科の中で一番英語を頑張りました
大学では英米文学専攻で、卒論はサリンジャー
在学中にアメリカに短期留学し、
海外に行きたいと思ったきっかけは欧米、特に米でした
それで卒業後に派遣社員をしながら日本語教師の養成講座に通った
そして、日本語教師として海外へ行き欧米で日本語教師しようと思ったら
院卒くらいのレベルがなければ、ボランティアの教師しかなかなかない

柔らかな脳みそを持った自分はそこで対象をアジアへ切り替え
韓国、中国、台湾、etc
どれにしようかな、(→その国の人から見たらとっても失礼)
で、一番でっかい中国にした(これも失礼、ごめんちゃい)
つまり、子供の頃から中国に憧れていたとかではなく、行き当たりばったりでした。仕事が決まってから、中国語のアイウエオである拼音を勉強したくらい

そして、来中から数年たち、一時帰国中に東京で大学時代の友人と集まった
その時言われた言葉である

「行った先がアメリカとかだったら羨ましいけど、中国だったら羨ましいと思わない」

あらら……
でも、この年で親にお金もらって暮らすわけにもな
英語圏には行きたくても行けないんだよな
この一言は、印象的でした。

そして、それから長い時間が経ちました。頑張って勉強した英語は結構忘れちゃった。そして、予定外でしたが中国語を話すようになりました。
それについて思うこと。
確かに欧米文化に対する憧れはあったし、今もありますが、たまたまとはいえ中国語を勉強したのも良かったなと今では思います。

語学を勉強するときは、その国の文化に興味があるとか、そういう動機があるわけだけど、語学の勉強を趣味の延長として捉えるか、それとも生活の糧の一部とするかで変わってくる。違う行為なんだと思うんですよ。
こういう言い方を普段はしないのですが、ただね、ここで敢えて言うと、羨ましくないと私に言った子は女の子で、私も(当時は)女の子でした。男性だったらまた違う感想が出ただろうなと思います。当時、高度経済成長が始まった中国。これからは英語じゃなくて中国語だと言ったら、
「お、先見の明があるね!」
男性ならこういうふうにいう人が多かったんじゃないかなと。
私のお父さんとお母さんの時代は、大学に行ける人たちも少なかったし、海外旅行へゆくのもまだ珍しい。留学なんてもっと珍しい。それがあっという間に手に届くようになったのは、日本が高度経済成長という奇跡を成し遂げたからですね。お金があるから言える。『羨ましいと思えない』、なんじゃないかな。

英語を話している自分もアメリカで生活している自分もかっこいいよ。だけど、お給料がもらえないところへはいけない。これが私の現実でした。

そして、中国でこの大きな国がすごい音を立てながら(ここは比喩でもあるし、本当でもある。うるさい所なんだよ!)、豊かになってゆくのを見ながら、他のアジアの国にも行きたいなと思いますね。旅行ベースでいいからもっと他の国もみたい。
テレビで見ているだけじゃ知らないものを肌で感じに他国へ行きたい。もしも自分が子供のある身でなければ、まず間違いなくベトナムへ行ったと思う。またゼロからベトナム語を勉強し、英語を勉強しなおしていたかも。

ここで、説教みたいなつまらない話をすることをお許しください。
話がちょっと飛びます。昔、三代将軍家光が「わたしは生まれながらの将軍である」と言ったことがあるんだけどね、豊かになった後に生まれて育った日本人というのはこの家光に似てると思うの。豊かになった後の日本しか知らず、生まれた時からプライドが高いんです。日本が貧しかった頃というのはもう結構昔になってきましたから、今は家光のような(こんな比喩で使ったら家光が怒るかしら?)形の日本人の割合が高いと思うのですが、でも、その状態、真の意味で賢いと言えるのかな?

だって、江戸幕府は長く続きましたけど、倒れましたよね?日本が永遠にお金持ちであり続ける根拠は?そして、お金持ちになる時代がずれているだけで、中国人だって他の国の人たちだって、追い抜け追い越せで豊かになろうと必死なんですよ。現に中国は日本を追い越してGDPで2位になりました。

かっこいいでは飯は食えない。でも、そういう余裕がある生活ができるのは、理由がある。アジアの国全部が日本が起こしたような高度経済成長を起こせるわけじゃない、歴史の節目節目に、社会に貢献して高付加価値を次の時代に残してくれた人たち、日本人ですが、が、いるからです。

趣味で語学を勉強する、とか、経済的な目的よりもより純粋な学術的な目的で学問をする、或いは芸術的な活動、それを私は否定しません。もともと自分という人間の芯の部分は、お金だけが重要ではないという観念でできていますから。ただ、言いたいのは、世界の中にあるすべての国に、そういう食ってくためのものの次にある文化的なものを楽しむ余裕があるわけではないということです。食ってける国にしてくれた人がいて、そして現在も、食ってくための部分で頑張ってくれる人がいるから、楽しむ部分を仕事にしたいなと思える人がいるってことだ。かっこいいを軸に働いたり、暮らしたりしてもいいけど、感謝はしろよと。

そして、想像力は持ってくれよ。中国人やベトナム人、他にもいっぱいいるアジア人に比べて、日本人である自分がお金持ちなのは(現在ではお金持ちの中国人は日本人より上かもしれませんが)、あんた個人が偉いのか?そして、一人一人の人間として、日本人の方が上で他国の人が下、つまりは同じではないのか?と。

お金持ちにしてくれた日本人の人が動かす船に乗るチケットを持ってるだけなんだよ。でも、船を動かす側の日本人がどんどん減ってしまったら、他の船に追い越されるし、船だってどんどんみすぼらしくなる。その時、客室でカクテルグラスを傾けながら、
「このカクテル、まずいわよ」
とか、
「音楽がいけてない」
とかのたまい、そのうちいよいよ船の速度が遅くなってきたら、風呂敷に荷物詰め込んで
「あんた、別の船に乗り換えたいんだけど、どうすればいいのかしら?」
あたふたとする。他の船に乗るにはチケットが必要だが、なかなか手に入らないんですよと言ってもごねる。
「そんなこというより、エンジン室に入ってあんたも修理手伝ってくださいよ」
「いやよ、あんな汚いとこ」
ぶっちゃけ、こんな人、海に落として船を軽くしたいのが本音だが、やりませんよね。とほほ。するとまた別の人が声をかけてくる。
「まぁまぁ、喧嘩なんかしないで、わたしが絵を描いて差し上げましょう」
「絵の具なんかねえよっ!」

ま、流石にここまで行き詰まることはないと思うんです。頑張っている人たちがいますから。

そしてまた、自分の若い頃のことを思い出す

若い時、日本にいたら何処かには所属できたろうし、もう少し楽に生きられただろうにどうして身ひとつで不便な海外に来たのか。当時はまだインフラも整わず治安も悪い中国に。若い時の苦労は買ってでもする、言葉はかっこいいよ。でも、実際にそれをやってみると、大変だったよね。ぎりぎりで踏みとどまったんです。一時帰国して日本から中国へ戻る飛行機の中で、飛行機は飛んでいるのに自分は落ちてゆくような気さえしてた。そのくらいギリギリでした。

ただ、そこまでやったからやっと、家光のように生まれた時からお金持ちで、プライドの高い日本人としての自分が、ものを見る目を手に入れられたのかな?
現代の豊かさを享受してもいい、しかしその豊かさは何もせずとも未来永劫まで保証されているものではないです。

それなら、自分は、船のラウンジでカクテルにオリーブが入ってないと文句をいう側に回るのか、それとも、エンジン室に入るのか。

自分は微力ながらもエンジン室かどこか、船を動かす側に立ちたいと思ってるのです。煤けた私の顔を見られればまた、「羨ましいと思わない」と言われるかもしれない。だけど、悲しくはない。あなたはあなたの姿が見えていないでしょう?あなたのそれ、どこがかっこいいの?と言えるからだ。

2024.04.10

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