黒い政治

 埴谷雄高の政治論集を一時期読んでいたことがあった。そこでなるほどと思ったこと。
 曰く、政治は黒い死をその中に携えている。
 曰く、政治の目的は「奴を殺せ」
 
 なるほどだから政治という得体の知れないものは一定の力を持ち、そしてあんなにも攻撃的なのだと腹落ちする。
 
 ※ここで語ることはあくまで私の解釈である
 ※ここでいう政治はあくまでも選挙や政治闘争といった文脈のものであり、例えば社会保障や年金、自治体法はあくまでもシステムといった方がしっくりくる。

 政治はありとあらゆる手段でまず内にあるもの(構成員や国民)の生死を握る。もし異端なるものや反逆者がいれば力を行使してわからせるか、黒い死を与える。構成員にマイノリティはある意味で存在しない。結局はどこを分類して構成員に組み込み、そこからあぶれたものは自然とマイノリティになる。ただマイノリティという言い方はしない。マイノリティとはマジョリティの反対であるが、構成員からあぶれるものはマイノリティとすら呼ばず排除すべきものとして扱われる。わかりやすい例は公園の寝そべりにくいベンチだったり、入管職員による暴力であったり。
 ありとあらゆる方法で弾圧し、弱らせ、そして最後には死へと至らしめる。

 政治のもう一つの側面、敵を作り、倒すこと。徒党、連立、団結、排除、選挙。これらは敵と味方を明確に区別し、そして敵を倒すまで血みどろの戦いを続ける。
 清き一票とはよく言ったもの。民意を問うとはこれまた皮肉なもの。候補者の誰一人として、国民のため、市民のためと思っているものは皆無に近く、ただひたすらに対立するものを倒すことしか考えていない。そしてそれらに勝ったものは、黒い死をその手に掴むのである。

 現在の民主主義は須くして、以上に述べた政治の論理によって運営されるところとなっている。(と個人では思ってる。)
  システムがうまくいかないなら欠陥を修正すればいい。だがシステムを修正したところで、そのシステム自体が欠陥を生み出しているのならば自らを飲み込む蛇が如く、どこかでシステムそのものを停止しない限り破局を迎えるまで稼働を続けることとなる。

 政治がある限り、そして民主主義がそこに根ざしている限りは、真の意味で、人が人として尊重され、生きて行ける世界は訪れえないと確信している。

 我々は破局のその日まで、ただただみっともなく走り続ける。そんな悲しい生き物なのかもしれない。

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