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南欧の旅2011年6月① パリでの素人が彫った仏像彫刻展示会

そのときは、2度目のパリだった。
そしてそのパリ滞在では、面白いことを考え、実行した。
ただ、普通にパリに行ってもつまらないと思ったのだ。
仏像彫刻を始めて、10年ほどが過ぎていた。
それを始めたきっかけは、大学に付随している生涯学習センターのパンフレットを見たときだった。
『誰でも気軽に彫れる仏像彫刻』というキャチフレーズだった。
素人でも、彫れると書いてあったので、試して見る気になった。
だが、やはり素人には、すぐには彫れるはずもなかった。
その教室の先生は榎本先生といい、早期退職の予定のサラリーマンだった。
20代から日曜日など利用して彫りだして40年歴の人だった。
「半分を見本に彫るから、他の半分を彫るように」と渡されても、5分も削ればその後は
どうして良いかわからない状態だ。
結局、先生が再度自分のところにまわって来て、先生が彫る手元を見ているだけ
出来上がった作品の90パーセントは、先生が彫ったものと言っても良かった。
わたしは、榎本先生教室の1期生だった。
同じ教室に参加したS氏も同期で、現在も違う教室で、続けているが、彼の腕前は現在、先生と互角になっている。


毎年、生徒たちの作品を集めて展示会をおこなっているのだが、海外でもと話が広がり、
花の都のパリでやろうということになった。
パリに行きたい人有志12人の、ミニ展示会となった。
パリに行くなら、南仏まで足を延ばそうと話は、更に進んだ。
パリの展示会は、成功とは言えなかった。
展示会は知り合いの画廊でおこなったが、その画廊のある場所はとんでもないところだった。
パリから地下鉄で20分程の町で、住民をみると労働者の町のようだった。
ヨーロッパのビルは道路に面しているが、扉の向こうに中庭があり、その奥にまたビルがある。
画廊は中庭の奥のビルの中だった。
道路からは全く見えないところで、通行人が気軽に入って来れる場所ではなかった。
その画廊もただ広いだけの空間で、コンクリートむき出しだった。
まるで倉庫の内部のようだった。
勝手にイメージしていた画廊との落差に全員が絶句し、硬直してしまい何の言葉もでなかった。
しかし、展示会の案内は出してあり、ポスターも張り出されていた。
気を取り直し、準備にかかった。
展示会は毎年おこなっているので、参加者は手馴れており、準備は着々と進んだ。
一人が一つの台を作って、そこに自分の好きなように仏像を並べた。
日本から持ち込んだ日本的布や箱で、当初の倉庫がすっかり変わっていた。
準備を終えたわたしたちは、早々にルーブル美術館にでかけた。
展示会は5日間だったので、毎日当番制にして誰かが残った。
当番でない人は、観光に出かけた。
この展示会で小物の販売も試みた。
日本的な工芸や手作り絵葉書。
わたしは小さな地蔵様を20個を彫り、それも売り場に出していた。
売上金が目的ではなく、自分の彫ったものがパリの人の手元に残るのが楽しいと思い、彫ってきた。
未熟なわたしの地蔵様は、どこか変だった。
首をかしげていたり、笑顔がオーバーだったりと、背丈や太さも違い、同じなものは一つもなかった。
まだまだ、顔など左右対称には彫れず、そこに奇妙な味が生まれていた。
留守番をしていると、若者が熱心に展示されていたわたしの地蔵さまを見ていた。
そして手に取り、買いたいと言った。
その地蔵様は背も低く、にんまりと笑っているものだった。
買いたいと言われ、わたしの方がびっくりした。
値段は10ユーロー(1200円ほど)だった。
手持ち金がなく、これからお金を下ろしてくるので、待っていて欲しいと言われた。
彼が戻ってくると、嬉しそうにそれを手にした。
彼曰く、
この地蔵さまは、日本の漫画で大ヒットしたドラゴンボールの“くりりん”にそっくりだと言うのだ。
日本の漫画やアニメは、世界中で大人気である。
嬉しそうにしながら、地蔵くりりんを大事そうに抱えていた彼の姿は、いつまでも残った。
さらに、売れた。
満面笑顔の地蔵さまを、手に取った女性がいた。それを見ながら、笑っていた。
その地蔵は、わたしのお気に入りだった。
誰でも、それを見ると大きな声で笑った。
正規の仏像彫刻から見ると、それはもう仏像ではないであろう。
その地蔵の笑顔は、人の笑いを誘うものだった。
それを見た人は、わたしに「ごめんね」と言いながら笑う。
作品を笑うのは失礼と思うのであろう。
だが、わたしもそれをみると、ついつい誘われて笑ったものだ。
※写真はパリの部屋で仏像彫刻の手直しをしている
 
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