social proprietyの提唱-ポリコレに代わる価値-

ポリコレが話題である。

一見政治に関係のない事でも「政治的に正しい」表現をするべきだというポリコレという言葉は、基本的に批判的に利用される。
行き過ぎと畢竟独自の見解が混ざっているが、バカにも反論するのにコストがかかるので、炎上するに任せたまま企業などは炎上コストを考慮して表現を変更することが増えている。最近ではスープストックの対応が見事だったが、それくらいではあるまいか。

しかし、「政治的に正しい」とは誰が担保するのか。自由、平等、人権などの価値は時代によってどの程度保障されるべきかは変わるし、それを主張する人たちが真っ当な知識(少なくとも司法試験合格程度、もしくは大学の憲法学教授程度)、知識の適用方法を得ているとは思えない。弁護士にも頭おかしい奴はいるが。

また、「政治的に正しい」というのが至上の価値のように主張されるが、政治から離れた場所があるべきだ。LGBTQでも、わが国には昔から薔薇族という雑誌もあり、ゲイの人たちが運営する飲食店街もそれなりに栄えていた(東京では新宿2丁目、大阪では堂山町など。)レスビアンの活躍の場が少なかったが、最近のコンセプトカフェなどの一部にはそういう店もあると聞く。政治的がどうこうというまでもなく、人々は自分が生きる場所を探して、見つけていくのではないか。それを文化として許容し、特にそれを観光し、法に触れないのであればちょっと違うように思っても放置する。
そういう、政治から自由な場所が必要な世界もあるのではないか。

また、地方移住で都会から来た人と地方の人の価値観がずれていることから紛争になることは多い。結局、都会から来た人が地方を去ることになり、地方過疎化は止まらないが、それは地方が衰退の道を自ら選んだにほかならず、「死ぬ自治体はほっておけ」ということにしかならないと考えられる。ポリコレ派は「これだから地方は遅れている!政治的に正しくない」とかいうのだろうが、地方からしたらだからどうした?としかならぬのである。

結局、言いたいことは、「政治的」に「正しい」という意見をぶつけることはあまり生産的ではないということになる。

しかし、社会的に通用している価値観が変更を迫られるときがある。そこで何を基準とするべきか。

私は、政治的でなく社会、文化的に妥当性があるかどうか(social propriety)が肝ではないかと考える。社会、文化をどこまでの範囲で取るか(日本か、世界か、地方都市か、ムラか)は事案によって違うだろうが、そこは柔軟に考えるべきだということである。そして、なにより「正しさ」を追及するのではなく、「妥当性」を追及するべきだということが言いたいのである。政治的なことから離れるという意味で「社会、文化的」という言葉を用い、「正しさ」から離れるために「妥当性」という言葉を用いた。特に私が強調したいのは妥当性の観念である。
妥当性といった時、日本語では少なくとも、一人の意見ではなく、その意見がある程度の共通了解となっていることが前提とされる。法も政治も社会で動くべきものであり、そこには他者の了解を得た「妥当性」が必要なのだ。
押し付けられた「正しさ」は、相手に響かない。その結果、ポリコレは一部の炎上主義者の運動論にしかならない。それは、対応する企業や行政を一時的に変えるかもしれないが、民衆には反動しか生まないのではないか。

勿論、「社会、文化的妥当性」といったとき、選択的夫婦別姓制度などはどちらが正しいか非常に悩ましい。これは政治の話かもしれない。また、選択的夫婦別姓については、地方のおっちゃんと、都会のハイエンド女性では見える世界が違いすぎて、意志疎通は困難ではある。そこは「社会、文化的妥当性」では決着がつかない問題だろう。
つまり、ポリコレはなんでもその基準で解決したがるが、「社会、文化的妥当性」は全ての問題を解決しないのである。あくまで文化の範囲に限った価値観だからである。政治から距離を置いた分野を認めること、そして、その範囲では「妥当性」すなわち共通了解を探す事を重視すること、これが私の言いたかったことの雑な骨子である。

social proprietyは私の造語である。使いたい人はリンク張ってね。

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