片耳の作業療法士 ~カルテNO,4~


#創作大賞2024
#お仕事小説部門

カルテNo,4  やる気って何だろう…


 掃除は、趣味の少ない私にとって最も有効な気分転換です。特に、模様替えが大好きで、気持を切り替えたい時は、三日位かけて大掛かりな模様替えをします。でもね、突然の聴力消失と三半規管の異常を感じた時、私は掃除機をかけていたの。その日は、三か月ぶりのお休みでした。

 新年度から、私の担当が呼吸器内科病棟に変わりました。内科は呼吸器内科の他にも、循環器や内分泌、自己免疫疾患等、多岐にわたっていて、ただでさえ人数の少ないOTを各病棟に効率的に配置する為には、呼吸器内科病棟の担当OTは、私一人でやらなければなりません。呼吸器内科の病床数は50人くらい。そこに、今まで担当していた外来患者さんも継続して担当するから、一日に担当できる入院患者さんの人数は、どんなに頑張っても半数程度。この時ばかりは、本気でパーマンに出てくるコピーロボットが欲しいって思ったものです。あ、こんな事言うと、年齢が分かっちゃいますね。でも、そんな空想は役に立たないから、PTやSTと協力して、患者さん達の為に、やるしかありませんよね。

入院患者さんと外来患者さんを担当する為には、病棟とリハビリ室を行ったり来たりする必要があります。だから、一番効率よく動けるように予定を立てるのがポイントです。まずは外来患者さんの予約時間を確認。次に、空いた時間に入院患者さんの予定を入れる。ただこれだけなんだけど、これが本当に大変なの。だって、PTやSTの動きを考えながら予定を立てる必要があるんですもの。同じ時間に予定を入れない事は当然だよね。でもそれだけじゃない。呼吸器内科の患者さんは、リハビリを連続で行う事が、体力的に難しいのです。PTが午前中なら、OTは午後というように、運動をメインとしたリハビリの間には、休憩を入れてあげないと、リハビリが拷問みたいになっちゃう。それでは、リハビリをやる意味が無くなっちゃうものね。

地味だけど、苦労して立てたリハビリ介入の予定時間は、立派なリハビリ予定表に姿を変えて、各病棟に貼り出されます。呼吸器内科の患者さんの多くは、意識や記憶のしっかりしている方が多く、貼り出されたリハビリの時間を確認して、楽しみに待っていてくれます。患者さん自身が動けなくても、看護師さんに確認して貰ったり、患者さんのご家族が確認したり。本当に楽しみにしてくれているのが、こちらにも伝わってきます。

患者さん達の顔を思い浮かべながら、考え抜いて立てた予定です。極力移動時間を減らして、効率良く外来と入院患者さんのリハビリを行おうとするんだけど、予定通りに動ける事なんて、めったにないのが現実です。だってね、外来の患者さんが予約時間に来ないのよ。理由は様々。外来の診察が終わらなかったり、道が混んでいて遅れたりね。中には、体調を崩されてしまう方もいて、これは本当に心配になります。来る気配が全くない時は、電話で安否確認をしたりもします。「忘れてた」って声を聴くと、ほっとしたり、がっかりしたり。まぁ、それでも他に待っている患者さんがいるから、大急ぎで気持ちを切り替えて、リハビリが出来そうな患者さんを探すわけです。でも、入院患者さんはオムツ交換の真っ最中だったり。同じような理由で、PTが予定を変更して、先に予定外の患者さんのリハビリをしている場合もあります。一気に予定が狂いだすよね。それでも、休憩なんてしていられない。だって、一日リハビリを休むことは、患者さんの元気になるチャンスを奪ってしまうもの。少しでも時間を有効に使おうと、リハビリが出来そうな患者さんを必死に探しますよ、私。でもね、やっと見つけた患者さんの血圧を測り終えた頃に、外来の患者さんが来たって連絡が来るのよね。外来患者さんを待たせる訳にもいかず、急いでリハビリ室へ逆戻り。時間だけが無情に過ぎて行くわけだ。いや、体力も気力も奪っていくよね、当然ながら。そんなこんなで、いかに効率の良い動きをしようと策を練っても、ことごとく打ち砕かれる訳。そういう日は、本当にくたくたになっちゃう。勿論、水分を取る暇も、トイレに行く暇も、どこにあるのかしらって感じ。夕方、リハビリ室に戻って来る私の後姿を見て、同期から「朝と夕方で、10歳くらい年取ってるよ」と心配される始末。笑いながら言われてるから、別に心配している訳じゃないのかもしれないけどね。

自分の意思に反して老け込んだところで、仕事は終わってくれません。毎日ではないけれど、業務終了後にカンファレンスが待っている事もあります。そんな日は、大急ぎで、今日の経過を含めた報告内容をまとめなきゃいけないわけだ。なんなら、業務前にも別の診療科の早朝カンファレンスがあったりします。途中で抜けて、毎朝の内科病棟の申し送りにも参加。どんなに疲れていても、常に誰かが、常に仕事が待っています。待っている人たちを裏切る訳にはいかないという私なりの正義感から、どんなに疲れていても弱音は勿論、休みをとる事も出来ずにいました。追い打ちをかけたのが、地域の介護教室や研修会、学会です。これらは全て休日に行われるんだよね。病院主催で行われる介護教室は休日出勤扱い。代休を取る余裕はないし、当時は職場にそんな前例も雰囲気もありませんでした。研修や学会は、自分の休みや有給休暇を消費して参加するから、もっと休みが欲しいとも言い難い。

そんなギリギリの生活を三か月間続け、やっと迎えたお休みの日。しかも祝日を含めた3連休です。連休初日に部屋を掃除して、頭をスッキリさせて、久しぶりの休日を自分の為に使おう。いや、学会発表の資料を作ろう。なんて考えながら、掃除機をかけていると、突然、本当に突然です。自分を取り巻く世界の様相がガラッと変わってしまいました。私の頭の中に入って来る音がおかしいのです。聞こえているのに、大きな岩で塞がれているような圧迫感。そして、部屋が斜めになっている。いや、自分がまっすぐに歩けていない。手足の痺れや麻痺は出ていないし、頭痛もない。これは疲労からくるのかな。慌ててイヤホンを探し、ステレオにつなげてみます。右側の聴力は大丈夫。でも、左側は全く聞こえない。笑ってしまうくらい、何も聞こえない。これは耳から来ているの?でも、ここ数ヶ月、眩暈もしていたし、水分補給も出来ていないから、血液がドロドロな状態かもしれない。もしかして脳から来ているかもしれない。怖い。患者さんたちが待っているのに、ここで倒れるのは怖い。リハビリが出来なくなるのは困る。

そうなの私、自分の心配よりも、待っていてくれる患者さん達の顔が浮かんだの。患者さん達や同僚の顔が浮かんで、倒れたら困る、この体調の変化をなかったことにしたいって本気で思ってしまいました。だから、病院に行くのも、ギリギリまで様子を見よう何て思っていたものね。本当に、ワークホリックだったな、私。

そんな思いをしたせいか、私は掃除機が嫌いになりました。何の罪もないのにね、掃除機の音が怖くなったのです。聴覚の問題もありました。遠くの音も、近くの音も、同じ音量で入って来るため、常に工事現場の中で生活しているような感覚です。だから掃除機の音は、とにかく恐怖でしかありませんでした。あんなに掃除が大好きだった私なのに、母に頼んで、掃除機だけはかけて貰う始末です。

だけどね、徐々に体力が戻って、変わってしまった聴覚にも慣れてくると、試してみたくなるんですよ。もう一度、掃除機をかけてみたくなるんです。掃除機をかけて、また何か失うのではないかという恐怖と、戦ってみたくなる。今はね、勿論、余裕で掃除機をかけていますよ。怖いと思う事も無くなりました。掃除機が壊れるほど、掃除機をかけた事だってあります。これ、本当の話ですよ。

病気って、健康な身体だけではなく、何か別のものを奪っていきますよね。それが何か、人それぞれ違うだろうな。奪われた何かを、もう一度取り戻すきっかけも、人それぞれ違うんだろうな。今となっては、掃除機が悪かったのか、耳が聞こえなくなったことが悪かったのか、一気に低下した体力が悪かったのか、何が悪かったのかわかりません。もしかしたら全部、全部が悪かったのかもしれません。心のどこかではわかっているのに、その時は掃除機を悪者にしてたけどね。ただ、今になって振り返ると、何にも悪くないと思えます。何なら掃除機にも、罪が無い事は明確です。あんなに便利で役に立つ相棒を、もう悪者になんかできません。きっと、悪者なんていないんだよね。ちょっとの勇気と仲間がいれば、怖いものなんてないんだから。


呼吸器内科の富子さんは76歳の女性です。肺炎を起こして入院しましたが、治療の経過も良く、退院へ向けてリハビリの処方が出ました。医師の予測では、軽いリハビリで早期改善が見込めた為、最初はPTのみの処方でした。でも、開始から一週間が経過してもベッドで寝ている状態が多く、体力が戻りません。担当PTの横尾さんが誘っても、リハビリをやる気力さえ失っているようでした。

「手足も問題なく動かせるし、麻痺とかは無いんだよね。たださ、誘っても、やりたくないって断られちゃって…。本当にやる気ないんだよね、廃用症候群って感じなのかな。勿体ないよ、動けるのにさ。忙しいとは思うけど、永野さんにも一度みて欲しいんだよね。どうにかしてあげたいからさ。お願いできるかな。」

横尾さんは、私よりも経験年数が二つ上の先輩PTです。とても勉強熱心な優しい先輩で、後輩が患者さんの治療方針で悩んでいると、いつも一緒に考えてくれます。それはOTの後輩であっても同じで、一緒に担当している患者さんならば尚更、業務終了後も治療の方法を一緒に考えて、指導してくれます。そんな優しい横尾さんです。富子さんの回復を一番に願って、私に相談してきたことが伝わってきます。

「明日にでも…。やっぱり今日中に、挨拶だけでも行ってきますね。」

「そうしてくれると助かるよ。」

横尾さんが伝えてくれる富子さんの情報を聞きながら、私の頭はぐるぐると回り始めます。どんな人だろう、どうしてリハビリしないのかな。出来ないのかな。私は何をしたらいいのだろう、何をしてあげられるのだろう。早く会って、話してみたいな。


横尾さんの情報を頭の中で整理しながら病棟へ向かうと、私のお腹が文句を言うかのように、『ぐぅー』と音を立てます。病棟は今、食事の時間でしょうか。お味噌汁のいい香りが、廊下の方まで漂っています。いつもなら血圧計や体温計、治療道具に予定表やメモ帳など、脇に抱えながら病棟へ向かいますが、今回は挨拶だけ、身軽です。疲れていても、空腹でも、自然と足取りは軽くなります。

「こんにちは、リハビリの永野です。富子さんですよね。」

病室のベッドに横たわる富子さんは、無気力そのものに見えました。夕食が並べられたテーブルも、邪魔だと言わんばかりに端によけています。声をかけられて、こちらを振り返ってくれた富子さん。でも、返事はありません。

「私、明日から、富子さんのリハビリを担当させて貰う事になりました。OTの永野と申します。よろしくお願いします。」

「私、リハビリはいいよ、やらなくて。」

私が来た目的を理解した富子さん。即座に断られてしまいました。横尾さんの情報通りです。だからと言って、逃げ帰る訳にはいきません。

「うーん、リハビリって言っても、私、一緒に散歩とかできたらいいかな、と思っているんですよ。散歩って言っても、車椅子に乗って貰って、私が押していくから、ただ座っていて貰えれば。」

「散歩かい。」

「はい、お散歩です。気分転換に、外の空気でも吸いに行くとかね。リハビリ室を見に行ってもいいし。勿論、富子さんが辛かったら、すぐに帰ってきますよ。」

少し考えている様子の富子さん。返答に困っているのかな。突然来た私がこんな話をしても、心を開いて貰えるとは思わないけど、少しでもリハビリが辛いものだという先入観を無くして貰いたいと必死です。でも、相変わらず無言の富子さん。ここは一旦引いて、明日に備えた方が良さそうです。

「じゃあ、明日、また来ますね。その時、富子さんの調子が悪かったら、マッサージしてもいいですよ。でも、少しでも気分が良かったら、一緒にお散歩しましょうよ。辛くないように、ちゃんと相談しながらやりますからね。」

相変わらず無言の富子さん。すぐに返事が貰えるとは思っていないけれど、会話が出来ないのって淋しいよね。それでも諦めずに、富子さんの為に出来る事を、少しでも元気になれる方法を、とにかく考えなくてはいけません。その為にまず出来る事は、案外、目の前にヒントがあるのかもしれません。よし、だったらまずは夕食を食べる事だよね。

「富子さん、お食事、冷めないうちに食べましょうよ。まぁ、病院食だから、あまり美味しくないかもしれないけど。ベッド、起こしますからね。」

返答を待たずに、ベッドを起こし始めます。でも、嫌がらずに、ベッドに合わせて、姿勢を調整してくれる富子さん。迷惑ではなさそうです。

「食べやすいように、配置はこれで大丈夫ですか?そしたら私、食べている所を見ていると、つまみ食いしたくなっちゃうから、帰りますね。」

「食べていいよ。」

長居をしては迷惑だろうと、早々に退散しようとした私に、そう返してくれた富子さん。優しいのか、本当に食べたくないのか。それとも、もう少し話がしたいのかな。

「あはは、本当に食べちゃったら、私、先生や看護師さんに怒られちゃいますよ。富子さん、少しでも食べて、栄養つけてくださいね。でも、有難うございます。富子さん、優しい。本当に私、お腹すいてきちゃいました。」

「いいよ、食べちゃって。看護師さんには内緒にするから。」

「え~、もっと怒られちゃうじゃないですかぁ。」

「そうなの?私が言わなければ、ばれないわよ。」

「富子さん、この会話、他の患者さんにもばれてますよ。大部屋だし、内緒に出来ないですよ。」

「あ、そうね。」

「酷~い。私を首にして、リハビリをしない魂胆かな?」

思わず、大笑いしてしまいます。大笑いしたら、何だか今日の疲れも吹っ飛んでしまいました。なにより、笑い声はその場を和ませます。敵じゃないよ、味方だよってメッセージを伝えられます。言葉だけじゃ伝わらない思いも、笑い声が補います。『私は味方だよ、富子さん』って、伝わるといいな。

「今日は、富子さんに会いに来て良かったです。私、富子さんに元気を頂いちゃいました。有難うございます。また、明日も会いに来ますね。」

大笑いしている私を不思議そうな表情で見ている富子さんに手を振って、病室を後にします。下膳で慌ただしくなってきた廊下を、邪魔にならないよう通り、急いでリハビリ室へ戻ります。


時計の針は、午後七時をまわろうとしているのに、リハビリ室は若いスタッフで活気に溢れています。まだ、誰も帰る様子はなく、これから20人分のカルテを片づける私も、淋しさを感じずに済みそうです。受付台では、横尾さんもカルテを書いています。

「横尾さん、少しお時間いいですか?富子さんに挨拶に行ってきたんですけど、ご相談したい事があって。」

「あ、どうでした、富子さん?リハビリ、やって貰えそうですか?」

「やる気は無いみたいですね。でも、明日、散歩に誘ったんですよ。車椅子で散歩とか、その辺からやってみたいと思って。なので、筋トレとかは、横尾さんにお任せしてもいいですか。私、やる気を出して貰えるようにアプローチしてみます。」

「うん、OTにはそうして貰いたいと思ってたんだ。筋トレとかは俺がやるから、任せておいてください。」

横尾さんは、快く私の治療方針を承諾してくれました。そもそも、筋トレや歩行訓練では、富子さんのリハビリに限界を感じて、OTに相談してくれたのです。横尾さんがやって欲しかったリハビリも、私の方針と同じだったようです。

急性期のリハビリでは、患者さんの問題点を評価して、そこへ直接アプローチします。富子さんの場合、体力低下が問題なのは明らかです。でも、気力の低下も大きな問題の一つのように感じました。

「それにしても富子さん、あまり食べてないんですかね。さっきも食事、拒否しているように見えました。」

「うん、けっこう残しているみたいですよ。看護師さん達も、すすめてくれているみたいなんですけどね。」

「体力、余計に戻らないですよね。」

富子さんに感じる違和感は何だろう。身体機能的には問題が無いのに、どうしてここまでいろいろな事が落ちているのだろうか。まるで良くなることを拒否しているように思えてならないのです。帰りの車の中も、帰宅後も、夢の中でも、富子さんのリハビリの方法を、声のかけ方を考えずにはいられません。


もやもやっとした違和感の理由は、一晩考えても分かる筈がありません。富子さんがリハビリをやる気になってくれる方法も、どんな声掛けをしたら良いのかも、何も答えが出なくても、朝はやってきます。それでも今日は、富子さんをベッドから連れ出す事が、一番の目標です。そんな決意を胸に秘めて、富子さんの病室へ急ぎます。

「こんにちは、リハビリの永野です。今日のご気分はいかがですか。」

「あまり良くないね。」

「それじゃあ、血圧を測ってみますね。お熱はなさそうですね。一応、測ってみましょうか。」

ちょっとご機嫌斜めな様子の富子さんですが、そこは気づかないフリを決め込みます。ここで怖気づいては、先へ進めませんものね。血圧計も体温計も、リハビリして大丈夫だよって言ってくれています。ここは、前進あるのみです。

「うん、大丈夫ですね、問題なしですよ。そしたら、お約束通り、気分転換に車椅子でお散歩しましょうか。」

「私はいいよ、ここに居る。」

「えー、そんな事言わないで、病棟をくるっと一周だけでも、してみましょうよ。起きて、そこの洗面所で手を洗うだけでもいいし。」

「手…。そうね、手は洗いたいわね。」

「でしょ、手を洗うと気持ちいいですよ。」

「でも、あまり動くのは…。」

「大丈夫、私がお手伝いしますから。辛くなったら、すぐにベッドに戻ってくるから、大丈夫ですよ。」

そうなのです。ベッドから離れないと、水道で手も洗えないのです。入浴はありますが、毎日ではないし。食事の前に手洗いをしたくても、タオルで拭くのが精いっぱいです。それだって、濡れタオルを用意してくれる家族がいれば出来るけど。本当に入院生活って不便だよね。

『手洗い』で気持ちが動き出した富子さん。ちょっと意外でした。昨日から散々悩んで、色々な誘い文句を準備していたけど、どれも的外れだったみたい。そうは言っても、無理強いをすれば、またベッドにもぐりこんでしまうかもしれません。ここは慌てずに、富子さんのペースに合わせるしかないよね。こんな時って、本当に緊張しちゃいます。

軽く身体を支える程度で、ベッドから起き上がれた富子さん。一人でも起きられそうだけど、不安にさせない為には、支える手は外せません。起きて座る事ができれば、次は車椅子です。

「車椅子に移りましょうね。支えているから、大丈夫ですよ。」

車椅子のアームレストに手を伸ばして、弱々しく立ち上がる富子さんの身体を、片時も離すことなく介助します。

「うん、上手に乗れましたね。」

リハビリで介入して、最初に車椅子に乗って貰う時は、どんな患者さんでも、私はいつも緊張します。一番、転倒のリスクが高いからです。でも、こちらの緊張が伝わってしまうと、患者さんに不安を与えてしまうから、何食わぬ顔で対応するように心がけます。絶対に悟られてはいけません。だから、上手に出来ると、嬉しさは倍増して、自然と笑顔になってしまいます。

「タオル、持って行きましょうか。」

私の言葉に、辺りを見回す富子さん。

「歯磨きも持って行っていいかしら。」

「勿論、いいですよ。歯磨きもしましょうか。」

この言葉には、私も嬉しくなっちゃいます。だって、すべて拒否だった富子さんが、自分からやりたい事を伝えてくれたんです。それって凄い事でしょう。でも、こんな当たり前のことで感動するなんて、可笑しいと思われちゃうかな。病院での生活って、それくらい窮屈で居心地が悪いですよね。でもね、居心地が良すぎて、退院したくなくなっちゃうのも問題ですけどね。

「そっか、そっか、歯磨き、いいですね。」

嬉しくなって、何度も声に出ちゃいます。富子さんのやりたい事をする、それが一番大切です。今日のお散歩は、体力的にも、時間的にも難しくなるかもしれません。でも、また明日があるからね。自分の立ててきた計画なんて、即座にボツです。

洗面所の前に車椅子を付けると、早速、水道の蛇口に手を伸ばす富子さん。固く、虚ろな表情が、少し和らいだようにも見えるのは、気のせいでしょうか。

「温水にもできますよ。でも、冷たい方が気持ちいいかな。」

「そうねぇ、まだ冷たくてもいいかしら。」

手を洗った富子さんに、歯ブラシを渡しながら、少しでも自分で動いて貰う為に、さり気なく提案をします。

「歯磨き粉、自分でつけますか。」

「そうね。」

こんな小さなことの積み重ねが、リハビリだったりします。

車椅子の背もたれから離れた富子さんの背中は、本当に小さい事がわかります。入院前はしっかりと背筋を伸ばして座る方だったのでしょう。こんなに体力が落ちても、その癖は健在のようです。

鏡を見つめながら、黙々と歯磨きを続ける富子さん。座位は安定しています。それならば、少しの時間、富子さんから離れても大丈夫。富子さんのベッドに戻って、化粧水を手に取り、大急ぎで富子さんのいる洗面所まで戻ります。病室内にある洗面所は、車椅子の患者さんでも使いやすいようになっているので、持ってきた化粧水を置いても十分に余裕があります。

「富子さん、せっかくだから、顔も洗いませんか。化粧水を持ってきたから。」

「そうね、洗いましょうか。」

PTの横尾さんから、富子さんは拒否ばかりだと聞いていたけれど、拍子抜けするくらいに私の提案を受け入れてくれます。嬉しくて、はしゃぎたい気持ちを必死に抑えて、声のトーンを変えずにいる私です。でも、浮かれてばかりではありません。富子さんの動きや息遣いを、常に確認します。もしもの時、すぐに助けられるように。でもね、嬉しい事にね、そんな私の心配をよそに、富子さんの声は、弾んで聞こえます。

「あぁ、気持よかったわ。久しぶりに顔を洗えた。」

「良かったですね。なんだか、一段と奇麗になりましたよ。」

「あらまぁ、こんなおばあちゃん、奇麗じゃないわよ。」

真剣に、鏡に映った自分の顔を見つめている富子さん。

「いえいえ、奇麗ですよ。元がいいからですよね。」

化粧水や歯ブラシを、富子さんのベッドサイドへ戻す間、富子さんには車椅子で待っていてもらいます。ベッドに戻りたいと言われても、その間は車椅子に座っていて貰えるからです。けれど、ベッドに戻りたいという言葉は、富子さんから出てきません。という事は、もしかして、もしかするかもしれません。

「富子さん、せっかくだから、少し病棟内を散歩してみませんか。私が車椅子を押すので。」

「そうねぇ、行ってみましょうか。」

心の中で『やったー!』と叫びたい衝動を抑えて、いつも通りの笑顔をキープです。

「では、病棟お散歩ツアーに出発です。」

気づかれないように時計を確認すると、既に予定時間の20分は過ぎています。でも、富子さんのやる気がある時に、少しでもベッドから離してあげたい。次に予定していた患者さんは、外来患者さんではないから、申し訳ないけれど、時間をずらして伺おう。意を決し、富子さんのリハビリ続行です。

病室を出て、薄暗い廊下を抜けると、明るいナースステーションが広がります。忙しそうな看護師さんたちが、各々の仕事をこなしています。私は、控えめにですが、声をかけてみることにしました。

「富子さん、車椅子に乗りました。」

小さな声に反応して、こちらを振り向く看護師さん達の目が、一斉に富子さんをとらえます。

「わぁ、富子さん、車椅子に乗ったんだね。どこまで行くの。」

「せっかくだから、リハビリ室も行ってくれば。広くて気持ちいいよ。」

そんな素晴らしいトスを投げてくれる看護師さん達です。すかさず私、富子さんに聞いてみる事にしました。

「富子さん、ご気分はどうですか。辛くないですか。」

「そうねぇ、まだ大丈夫かしら。」

「じゃあ、せっかくだから、リハビリ室も見に行ってみますか。今日はお散歩だから、見に行くだけだけどね。」

そう、急にリハビリ室に行くと言われて、また拒否されたら逆戻り。あえて散歩を強調します。

「そうね、見に行くだけなら、行ってもいいわね。」

「いいよね。行っておいでよ、リハビリ室。頑張ってね、富子さん。」

そんな看護師さん達の声掛けに背中を押されて、富子さんも勇気が出たようです。

「じゃあ、行ってきます。」

見送る看護師さん達に手を振る富子さん。まるで、戦いか何かに向かうみたい。そんなに恐ろしい物がある訳ではないけれど、初めてのリハビリ室です。異世界に向かうのだから、それなりの覚悟が必要なのでしょうね。

リハビリ室に向かうには、エレベーターに乗って一階まで降りる必要があります。一人であれば、階段を使って二~三分の距離ですが、車椅子に患者さんを乗せていると、五分程度はかかるでしょうか。移動の間、富子さんとおしゃべりをします。病院の中の売店の話や、リハビリ室の広さ・明るさについて、富子さんの恐怖が薄らいで、期待が膨らむように、絶え間なく話し続けます。

リハビリ室までの長い廊下は薄暗く、この先に明るい部屋があるなんて、想像もつきません。でも、リハビリ室の扉を抜けると、木目調の床に、一面の窓。日の光が明るく広がってきます。そして、リハビリの若いスタッフが、あちらこちらで元気な声を上げています。治療台で横たわる患者さんたちは、富子さんよりも高齢の方も多くみられます。外来の患者さんは、一人用のベッドで、掛け声に合わせて筋トレをしています。みんな、何らかの病気やケガで大変な思いをしているのに、病棟とは違う活気があふれ、生命力に満ち溢れています。

「あら、本当に広くて気持ちいいのね。」

富子さん、素直に驚いた様子です。

「そうでしょう。リハビリ室、気持ちいいですよ。」

そこへ、PTの横尾さんが近づいてきました。

「富子さん、リハビリ室に来たんですね。凄いじゃないですか。」

嬉しそうに、でも、ちょっと悔しそうに、私に耳打ちします。

「さすが永野さん。」

嬉しさを隠していた私の口元が、少しだけほころびます。

「富子さん、洗顔も歯磨きもしたんですよね。奇麗になったので、今日は病院内をお散歩なんですよね。」

「そうね。散歩は気持ちいいわね。」

そう返事をしながらも、富子さんの目は、リハビリ室にいる他の患者さんを見ているようでした。


リハビリ室からの帰り道、富子さんから声をかけてきました。

「みんな、あそこに行ってリハビリしているのね。」

「そうですね。病室でリハビリをする場合もありますけど、リハビリ室に来てもらってリハビリをするのも、みんなが頑張っているのがみえるので、すごく楽しいですよ。」

なんだか、リハビリ室に興味を持ってもらえた気がします。これはチャンスです。

「富子さんも、リハビリ室に来てくださいね。私も横尾さんも、お誘いしますからね。」

「そうねぇ。でも、あんなに動けないから、行かなくてもいいかしら。」

そこまでの体力も勇気も無いわ、と言わんばかりに、首をかしげる富子さん。やっぱり、富子さんのリハビリは、気持を動かさないと、成立しないのかもしれません。

「富子さんは、好きな事とかって何ですか。」

唐突な質問に、一瞬戸惑う富子さん。

「お裁縫かしらね。家では良く、刺繡とかしていたわよ。」

「えぇー、凄いですね、刺繍ですか。私はお裁縫が苦手だから、尊敬しちゃいますよ。」

「そんな事無いわよ、型紙があるから、簡単に出来るわよ。」

趣味の話を始めた富子さんの声は、今までにない位、弾んで聞こえます。

「でもね、入院してからは、お裁縫なんてやってないからね。」

「お裁縫道具、ありますよ。リハビリ室に。」

「え、あるの?」

「はい、ありますよ。でも、針を無くすと問題だから、病棟には持って行けないけど。もしよかったら、リハビリ室に来て、お裁縫しませんか?」

「え、いいのかい?そんな事やっても。」

「お裁縫も、いいリハビリになりますよ。ちょうど、雑巾が必要で、縫わないといけないんですけど、もし良かったら、お手伝いしてもらえませんか?」

「そうね、何枚縫えばいいの?」

どうやら、興味を持ってくれたようです。


そうなれば、翌日からは、リハビリ室で裁縫です。富子さんの予約の時間は、お昼前にして、少し時間が伸びても、次の患者さんの迷惑にならないように調整します。裁縫セットと、雑巾用の布を用意して、自分のデスクに置いておきます。

富子さんを病室まで迎えに行き、少しの時間も無駄にしないように、血圧を測ります。大丈夫、今日もリハビリ室に行ける、と焦る気持ちを抑えて、安全に、でも急いで車椅子で病棟を後にします。

リハビリ室に辿り着いた富子さんを、いつもなら手指のリハビリをするテーブル席へ案内します。そこは、リハビリ室の奥で、壁沿いに並べられたテーブルが、広々としている空間です。壁を向いて座れるので、集中してリハビリをする時にも向いています。

「少し待っていてくださいね。今、裁縫道具を持ってきますね。」

体調も、座位も安定している富子さんです。束の間、一人にしておいても問題ない事を確認し、でも、念の為にリハビリ助手さんには遠巻きに見ていて貰えるように事前に頼んであります。万全の状態でその場を離れますが、それでも不安は付きまといます。急いで戻ってきた私は、呼吸を整えて、富子さんにタオルを渡します。

「富子さん、このタオルなんですけどね、雑巾を縫って貰ってもいいですか。」

「どんな風に縫えばいいの。」

「雑巾なので、畳んで、ここをぐるっと縫えばいいと思うんですけど、どうですか?」

「そうねぇ、やってみましょうか。」

そういうと、慣れた手つきで針に糸を通す富子さん。そこからは、すごい集中力で、あっという間に雑巾を縫い終えます。私は、と言うと、大切な患者さんに針を持たせている訳ですから、どんなに信用していようと、ハラハラドキドキ、片時も富子さんから目がはなせません。そんな訳で、お裁縫が苦手と言う理由を盾に、私は富子さんの見守りと、サポートに徹します。雑巾は縫いません。

それでも富子さん、本当にお裁縫が好きなのですね。そんな私の存在など必要ないほどに、本当に凄い集中力で縫い続けます。「もう一枚、無いのかい?」と、催促してくるほどです。あんなに無気力で、体力の低下している富子さんとは思えません。

「富子さん、凄く助かりました。有難うございます。疲れてないですか?そろそろお昼になるので、帰りましょうか。送っていきますからね。」

裁縫道具を素早く片付けながら、富子さんの表情を読み取る私。久しぶりの裁縫が、良い気分転換になった様子だけれど、長い時間座っていた事で疲れていないか、心配でもあります。そこへ、リハビリ助手の永浦さんが近づいてきました。

「雑巾、縫って貰って有難うございます。良かったです。凄く助かります。」

富子さんの目線に身をかがめて、目を見て声をかけてくれた永浦さん。嬉しそうに笑う富子さんから、お裁縫の疲れが吹っ飛んだように見えます。

リハビリ室の出入り口まで、一緒に歩いてくれた永浦さんは、リハビリ助手と受付を掛け持ちしてくれています。この忙しいリハビリ室を、一人でサポートしてくれています。永浦さんは、リハビリ室のスタッフから絶大な信用と、尊敬を受けています。永浦さんがお休みだと知ると、みんな決まってがっかりするほど、皆から必要とされている重要な仲間です。永浦さんの仕事ぶりや、その優しい物腰から、スタッフだけでなく、患者さんからも人気があります。それは、私が入職したての新人だったころから何も変わりません。

永浦さんの優しい声掛けによるサポートが功を奏してか、帰り道の富子さんは、興奮冷めやらぬ様子で、積極的に話しかけてきます。

「明日もまた、雑巾を縫うよ。あと何枚縫えばいいかしら。沢山縫っておけば、しばらく使えるでしょう。」

やる気一杯の富子さんが、目の前にいます。にも関わらず、残念な事に、雑巾用のタオルは、もう無かったりします。何より、患者さんに雑巾ばかり縫わせているのも、気が引けます。でも、こんなにやる気の出ている富子さんです。筋トレを強要するのも違う気がします。

「もう、雑巾は大丈夫なので、他の事をしませんか。私、用意しておくので、次回の楽しみという事で、どうでしょう。」

お裁縫だけではなく、とにかく細かい手芸などが好きだと聞いていた私です。学生の頃に実習で作った、段ボールのフレームを思い出しました。それから、兄が放り出したネクタイが、自宅に沢山あります。これを利用することは出来ないかな。そう、段ボールとネクタイでフレーム作りをする。これなら、お金もかからず、長時間の作業が必要になります。やってみる価値はあるかもしれません。

そんな訳で、早速材料集めです。経費で落ちないから、とにかく安上がりな材料を揃えます。助手の永浦さんに相談して、段ボール箱は備蓄庫から拝借し、ネクタイは、自宅に帰ってから選ぶ事にしました。


翌日、富子さんとリハビリ室まで移動する間、段ボールとネクタイを使ったフレーム作りの説明をします。

「何だか難しそうじゃない。私に出来るかしら。」

「大丈夫ですよ、富子さん、とても器用ですもの。お裁縫はしないですけど、細かい作業がお好きなら、きっと楽しいですよ。不器用な私にもできましたから。」

「そう、楽しみね。」

昨日と同じテーブル席に場所を陣取ると、前日に準備した部品を広げます。介護施設などであれば、時間をかけて行えるため、段ボールの裁断から始めますが、ここは急性期の病院です。時間をかける余裕はありません。なので、段ボールは事前に裁断し、ボンドで張り付けるだけで済むように準備済みです。ネクタイは、数本持参して、好きな柄を選んでもらいます。

「このネクタイなんかどうですか?」

「え、でもいいの?まだ使えるわよ。勿体ないじゃない。」

テーブルに並べられたネクタイは、様々な色やデザインがあります。どれもまだ使えそうなネクタイばかりです。

「私の兄、沢山ネクタイを持っているんですよ。もう使わないからって、放ってあったから、勿体ないので、富子さんに使って貰えたらと思って持ってきました。ここで使わないと、捨ててしまうので、ぜひ、使って貰えませんか?」

「それじゃあ。」

そう言うと、若草色とレモンイエローがチェックになっていて、差し色にロイヤルブルーのラインが不規則に入っているネクタイを手元に手繰り寄せた富子さん。

「これ、奇麗な色ね。」

富子さんは、ワクワクした表情で、こちらを振り返ります。私は頷きながら、富子さんのワクワクを更に後押しします。

「これ、一番奇麗だと思っていたんですよ。私たち、気が合いますね。」

「あら、じゃあ、使ったら悪いかしら。使わないで取っておく?」

「あはは、いいんですってば。富子さんに使って貰いたくて持ってきたんですから。」

そんなやり取りも、楽しそうな富子さん。リハビリを拒否していたなんて、嘘の様です。

「じゃあ、私がネクタイを解いておくので、まずは土台から作りましょうか。」

段ボールの部品を組み立てて見せ、完成形をイメージして貰います。イメージが出来たら、早速ボンドで張り付ける作業に取り掛かります。でも、あっという間に予定時間の20分は過ぎていきます。まだまだ体力のない富子さんです。20分を超えて、作業を続けるのもはばかられます。

「土台の完成は、もう少し時間がかかりそうですね。ボンドが乾く時間も必要ですし。今日は、この辺で終わりにして、お部屋に戻りましょうか。」

私の声掛けに返事はしてくれますが、手元から目を逸らそうとしない富子さん。少しずつ後片付けをして、ボンドが乾かない段ボールの土台は、壁に立てかけます。

「こうしておくので、次のリハビリまでには乾くと思いますよ。大丈夫、私がお預かりしておくので。」

「そう、もう少しやりたかったわね。」

名残惜しそうに、作りかけの段ボールのフレームから目を離せない富子さん。私もまた、このやる気を中断させる事が名残惜しいと感じながらも、病棟へ送り届ける岐路へとつきます。

「昨日の夜はね、久しぶりに、ぐっすり眠れたのよ。やっぱり、お裁縫をして疲れたのかしらね。」

唐突に、富子さんが話し始めます。

「入院してから、動いてないでしょう。昼間、昼寝をしちゃうせいもあるのかしらね。夜、あまり眠れなかったのよ。でも、昨日は久しぶりに、本当に良く眠れたわ。」

「そうだったんですか。でも、そんなに疲れさせちゃってごめんなさい。今日も、疲れちゃいましたかね?」

「ううん、楽しかったわよ。どんな風に出来上がるのか分からないけど、本当に楽しみ。それにね、リハビリして疲れたけど、よく眠れた事も嬉しかったのよ。」

「そういって頂けると、有難いです。確かに、リハビリを始めたばかりの他の患者さんも、疲れて良く眠れるってお話される方が多いですよ。皆さん、本当に辛い中、頑張って頂いているので。富子さん、細かい作業で、疲れたら言ってくださいね。私、肩こりを治すマッサージも出来ますからね。」

「そう、その時はお願いしようかしら。でも私、肩こり知らないのよね。」

終始、楽しそうに話しをする富子さん。楽しい時間はあっという間です。話は尽きないけれど、病棟へ戻って来てしまいました。

「富子さん、また明日、お誘いしますからね。しっかり食べて。まぁ、美味しくないかもしれないけど。栄養付けておいてくださいね。」

「あら、まぁまぁ美味しいわよ、ここの食事。上げ膳据え膳だしね。」

「それから、PTの横尾のリハビリも、一緒にやってみてください。横尾さん、とても優しいし、頼りになりますよ。」

「・・・そうね、やってみようかしらね。」

一瞬、間があったものの、快諾してくれました。


リハビリ室に戻った私の元に、横尾さんが駆け寄ってきました。

「永野さん、富子さん、凄いですね。リハビリ室、来てくれてましたね。」

「そうなんですよ。20分、なんならもっと長い間でも、座っていられますよ。」

「あれ、何を作っているんですか?」

「段ボールとネクタイで作るフレームです。手作りテーションって言って、学生の時に取り組んでいたんですよ。急性期の病院なので、なかなか出来る患者さんはいないですけどね。」

「いいなぁ、俺も、そういう事がやりたかったな。富子さんには、いいですよね、そういうの。」

変な話ですが、PTとSTは、私のこの作業を用いて治療をする方法に共感してくれます。羨ましがっても貰えます。でも、何故かOTからは、冷ややかな視線を感じます。誰も、興味を持って声をかけてくる人がいません。それでも、めげてはいられませんよね。だって、患者さんが必要としてくれているんだもの。自分で自分を叱咤激励し、明日の段取りを考えながら、少し遅れて昼食へ向かいます。


翌日も、その翌日も、フレーム作りは続きます。すると、富子さんに変化が出てきました。PTの横尾さんと始めた歩行練習の成果を披露したいと思ったのでしょうか、車椅子をリハビリ室の入り口に止めて、作業テーブルのある場所まで歩くと言い出しました。

「私、あそこまで歩くわよ。ほら、みんな、ここに車椅子止めているものね。いいんでしょ、車椅子はここに置いておいても。」

拒否も頑なだった富子さんです。やると言い出したら、それもまた頑なです。でも、これは嬉しい変化です。反対する理由もありません。

「じゃあ、手を貸しますね。」

差し出した私の手を、優しく振り払う富子さん。

「いいわよ、一人で歩けるから。でも、傍で見ていてちょうだいね。」

「はい、勿論です。」

嬉しくて、泣きそうになるのを堪えながら、私は富子さんの歩行の邪魔にならないように、傍らについて歩きます。手を伸ばせばすぐに支えられる距離で、歩幅を一緒にして、呼吸も一緒にして、ゆっくりと歩いて行きます。

「ほらね、歩けたでしょう。」

誇らしげに私の顔をみる富子さん。涙ぐんでいる私に気づいたのか、私の腕をつかんで、椅子の方へ引き寄せてきます。

「さぁ、先生も座って。昨日の続き、やりましょう。」

こうなってくると、どちらがリハビリの先生なのか、分らなくなります。


日に日に体力も、笑顔も戻ってきた富子さん。病棟でも、富子さんが元気になってきた事が話題になっています。でもね、急性期の病院です。元気になった先には、お別れが待っています。

「ねぇ、永野さん、知ってた?」

「え、何ですか?」

「富子さん、独居なんだって。誰も、引き取り手がいないらしいよ。だから、退院したら、施設に入居になるらしい。」

「え、でも、富子さんなら一人暮らしでも大丈夫なんじゃ?」

「それがさ、住んでたところ、引き払っちゃってるらしくてさ。戻るところが無いらしいんだよ。だから、施設は決まりらしい。」

「え、あんなに元気になったのに。」

そうなのです。富子さんは、帰る場所が無かったのです。どう言う経緯で、住んでいた場所を手放したのか、それは分かりません。ただ、そこには事実のみが存在します。

「お裁縫の友達もいるって、話していたんですよ、富子さん。そんな、帰れないなんて。」

「だからなのかなぁ、最初の頃、リハビリ拒否してたの。」

リハビリを拒否する理由は様々です。単に、体調が悪くて出来ない場合もあります。誰かに介護して貰っている方が楽だから、甘えている場合もあります。そして極まれに、死を覚悟して、リハビリも、食事や飲水でさえも拒否する人もいます。富子さんは、どうだったのでしょうか。


翌日には、富子さんの退院の日程が決まったとの連絡がありました。

「来週の金曜日に退院だって。」

退院に向けてのリハビリをしていると分かっていても、いざ日程が決まると複雑な気持ちになります。富子さんのような患者さんの場合は、特に。

「横尾さん、私、お願いがあるんですけど。」

「え、何ですか?」


私は、大至急でネクタイフレームを仕上げる事にしました。もう、40分でも、一時間でも、許されるだけの時間をかけてもいい、富子さんの為です。OTからは、白い目で見られますが、知った事ではありません。他にも、リハビリを必要としている患者さんがいる事も分かっています。でも、自分のお昼を削っても、富子さんに、ここで作った作品を残してあげたいと思うのです。


「もうすぐ仕上がるね、富子さん。」

「そうねぇ、最初はどんな物が出来るのか分からなかったけど、なかなか良い物ができたんじゃないかしら。」

「そうですよね、段ボールとネクタイを使って、写真たて作るなんて、想像できないですよね。」

段ボールで出来た写真たては、フレーム部分にネクタイが奇麗に張られて、写真を入れてしまえば、段ボールで出来ているとは分からない程の仕上がりになりました。手先の器用な富子さんだから、細部までしっかり、仕上げられています。

「そしたら、仕上げに紐を通すのは、私がやっておきますね。ボンドが乾いてからじゃないと、ずれてしまいそうだから。」

「そう、お願いね。でも、出来たわね。写真たてでいいのよね、これ。」

「そうですね。写真を入れてもいいし、絵葉書を入れてもいいサイズにしてありますよ。」

仕上がった作品を手に、表にしたり、裏にしたり。満足そうに眺める様子は、いつもの富子さんです。

「富子さん、明後日が退院ですね。だから、明日が私のリハビリ、最期になっちゃいますね。」

「そうね。」

「明日は、またお散歩しましょうか。明日、天気が良かったら、ちょっと外に出てみませんか。」

「え、外に出られるの?」

「はい、そこから、芝生が見えるでしょう。きっとね、気持ちいいと思うんですよ。」

富子さんとの最後のリハビリは、また振り出しに戻って、お散歩です。

「明日は、おしゃれして散歩しましょうね、富子さん。」

「なぁに、おしゃれしても仕方ないでしょう、こんなおばあちゃんだもの。」

「何を言っているんですか、こんな若くて奇麗なおばあちゃん、居ませんよ。」

いつも通りの笑い声。そう、富子さんは何も変わらない。出会った時から、さよならするまで、富子さんの置かれた環境は、何も変わっていないのだから。


富子さんのリハビリ最終日。これでもかっていうくらいの青空が広がっています。

「富子さん、ちょっと、髪を梳かしてから行きましょうね。」

そう言って、病室の洗面所の鏡の前に、富子さんを連れ出します。富子さん、すっかり体力も戻り、今では歩いてリハビリ室まで行く事が出来ます。

「お部屋からリハビリ室まで、お散歩しますからね。」

「あれ、外にも行くんでしょう。上着、持って行った方がいいかしら。」

「そうですね、念のため、持って行きましょうか。」

ブラシと交換で、上着を手に取ると、急かすように病室から出ます。ゆっくりではあるけれど、しっかりとした足取りで、長い廊下を歩いて行きます。そして、いつものようにリハビリ室の入り口を抜けると、雲一つない青空が、外に出ておいで、と語りかけてくるようです。

「やっぱり、リハビリ室は気持ちいいねぇ。」

「うふふ、富子さん。そしたら、約束通り、外まで行ってみましょうか?休憩は?しなくても大丈夫ですか?」

「大丈夫、行ってみましょう。」

力強い声で返事をしてくれる富子さん。

私は、リハビリ室を見回し、横尾さんの姿を探します。永浦さんにも、目で合図を送ると、待ってましたとばかりに、富子さんの周りに集まって来てくれました。

「富子さん、今日はね、みんなで写真を撮ろうと思うの。」

「え、写真?」

「そう、明日退院だからね、みんなで記念写真。」

「いいよ、写真なんて。恥ずかしいよ。」

「いいから、ね。髪も梳かしてきたし、上着も素敵だから、写真を撮るには、完璧ですよ。」

そう言うと、富子さんに関わった全てのスタッフが、富子さんの周りを囲みます。

「富子さん、笑ってくださいね。」

横尾さんが、富子さんをリラックスさせようと、声をかけます。

「みんなも笑ってくださいね。」

研修に来ていた学生にカメラを託し、富子さんとの記念写真です。

「あぁ、恥ずかしいよ。」

そういう富子さんですが、しっかり笑顔を作ってくれています。

「最後のリハビリは、写真撮影だね。」

「いえいえ、富子さん。写真を取ったら、少し休憩して、お部屋まで歩いて帰りますよ。そこまでが、最期のリハビリです。」

写真が撮り終わると、各々が自分の仕事へ戻っていきます。賑やかだった富子さんの周りから、笑い声が消えて、私と二人きりになりました。そしてまた、病室まで薄暗く長い廊下を歩いて行かなければなりません。

「さてと、休憩も出来ましたし、そろそろ戻りましょうか。」

「そうね。そろそろお昼ご飯の時間だものね。」

どんなに頑張って関わっても、どんなに切なくても、私が関われるのは、ほんの一瞬です。リハビリの時間だけです。だから、辛くても、悲しくても、一瞬一瞬を笑顔で過ごしたいと思っています。辛いリハビリでも、そこに笑顔があれば、辛いだけの思い出にならずに済むかもしれないから。だから、この薄暗い廊下も、私の笑顔で、明るく感じさせてあげたい、そう思って、私は今日も笑いながら、くだらない世間話を続けます。


退院当日の朝、私と横尾さんは、富子さんの病室を訪ねました。ベッドの上には、小さなボストンバックが乗っています。そして、ベッドの片隅に、普段着姿で座っている富子さん。既に退院の準備は整っているようです。

「富子さん、リハビリの永野です。今日も来ちゃいました。」

「富子さん、僕も来ましたよ。」

「あら、今日もリハビリやるの?もうすぐ退院よ、私。」

私は横尾さんと顔を見合わせ、思わず笑ってしまいました。

「富子さん、今日は、退院ですから、リハビリは残念ながらお休みですよ。でも、退院前に、顔を見たくて、永野さんと一緒に挨拶に来たんですよ。」

「そうそう、本当は一緒にリハビリしたいんですけど、今日は富子さんの旅立ちの日ですものね。」

そう言って、後ろ手に隠しておいたフレームを取り出します。

「はい、これ。富子さんが作ったネクタイフレームです。完成したので、一緒に持って行ってください。」

「え、出来上がったの?持って行ってもいいの?」

「もちろんですよ。富子さんが頑張って作った物ですから。」

差し出された手の中に、そっとフレームを置きます。そのフレームの中には、昨日リハビリ室の前の庭で撮った、記念写真が入っています。

「あら、写真まで入ってる。もう現像出来たの?」

「うふふ、どうですか?良く取れているでしょう。」

「そうね、でも、もう少しオシャレして撮ればよかったかしら。」

「富子さん、十分奇麗ですよ。」と横尾さん。

「それからね、富子さん。その写真を、一度外してみて貰えますか。」

「え、写真を外すの。そうね、入れ替えが出来るって事かしら。」

少しばかり苦戦しながら、丁寧に写真を抜き取る富子さん。大切な思い出が破れないように、壊さないようにしているみたい。

「あら、何か書いてある。」

「発見しましたか、富子さん。これね、富子さんに関わらせて頂いたリハビリ・スタッフみんなのメッセージが書いてあります。ちなみにこれ、私です。」

「僕はこれですよ。」

富子さん、無言で何も言いません。顔も上げてくれません。ずっとずっと、フレームに書かれた文字を見つめています。私も横尾さんも、ちょっとオロオロし始めました。どうしよう、汚い字だから、読めずに困っているのかな、と本気で心配し始めた頃でした。

「こんなに書いて貰って。一生の宝物だわ。ありがとう。私、ずっと大切にするわね。」

やっと顔を上げてくれた富子さんの目には、涙が溢れていました。そんな表情をされたら、もう、抱きしめずにはいられません。富子さんを抱きしめながら、私まで泣いてしまいます。

「富子さん、退院、おめでとうございます。」

「富子さん、お疲れさまでした。退院、おめでとうございます。」

私も横尾さんも、本当は昔の家へ、友達のいる場所へ帰りたい富子さんの気持ちを理解しています。でも、何も出来ません。せめて、ここで頑張った記憶を、共に戦った思い出を、フレームに込めるしか方法がありませんでした。


富子さんは、予定通りに退院していきました。フレームの入った小さなバックを大切そうに抱えて持って行ったそうです。


「拒否してるって言ったけど、本当は、違ったのかもしれないな。」

リハビリ室へ戻る途中、横尾さんが呟きました。

「なんか、やるせないよな。」

「はい。」

リハビリって、何て無力なんだろう。元気にする手伝いをしているつもりだったのに。富子さんの気持ちに気づけなかった。拒否という言葉で片づけて、富子さんの寂しさに気づけなかった。

「本当は、ここで死にたかったのかもな。」

「・・・。」

誰も知らない場所で、病後の身体に鞭打って、一人で生きていかなくてはならないと、富子さんは思っていたのかもしれません。それが怖くて、不安で、何も出来なかったのかもしれません。拒否をしているつもりなど無く、ただ、不安で何も出来なかっただけなのかもしれません。

「でも、横尾さん。今の富子さんなら、元気に生きていけると思いませんか。」

「うん、俺もそう思う。」


やる気って何だろう。好きな事も、得意な事も、ほんの少し歯車が狂っただけで、不安になり、恐怖にさえ感じます。両手から零れ落ちてしまった自信は、一人の力では取り戻せない事だってあります。でも、諦めずに誰かが傍に寄り添っていてくれれば、少しずつ、少しずつ、力が沸いてきます。何か特別な事をしたわけではなくて、ただ、共に笑った時間があっただけ。富子さんとの時間は、本当に笑いの絶えない時間でした。


急性期で手作りテーションなんて、OTから白い目で見られていると思って、肩身の狭い思いをしていた私ですが、私が退職する頃になって、それが勘違いだった事が分かりました。

「私も、ああいう事をしたくてOTになったのよね。」

そんなお言葉を頂きました。なーんだ、早く言ってくれたらよかったのに。本当に私、肩身が狭かったんですよ。なんだろうね。きっと、そう言ってくれた先輩OTも、急性期で手作りテーションなんて、肩身が狭いと思っていたのかもしれませんよね。だから、「私もやりたい」って気持ちをひた隠しにして、消え去る私に、そっと打ち明けたのかもしれません。

不安や恐怖が、健康な人も病気の人も関係なく、世の中を窮屈にしてしまいます。ほんの少し勇気を出せれば、共に戦ってくれる存在を感じられれば、乗り越えられる事が、もっと沢山あるのかもしれません。



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