【初見感想】アイドルマスターシャイニーカラーズ 小宮果穂 プレイ開始~Eランク到達まで

最初のファン数1000人達成のところまでプレイしたので感想だ。初見感想は不可逆だ。

プロデューサーについて

 本作品において、プロデューサーが別の283プロダクションのアイドルをプロデュースする際は同一人物か別人かという点は現時点で不明である。そのため、あくまで小宮果穂のプロデューサーという人物への感想を記す。

 私の抱いたプロデューサーへの印象としては、完成された人物ではないということ。「プロデューサー」すらも物語を通じて成長をしていく余地がありそうだ、というのが率直な感想だ。

 そして、この「プロデューサー」は非常に危うい存在だ。それはもちろんプロデューサーとして「283プロダクションに入社して数カ月」といった経歴的なもので表現される未熟さもあるが、時間経過があれば得られるノウハウ的な技術ではなく「プロデューサー」の「思考」という面で私はこの「プロデューサー」に心もとなさを感じ、小宮果穂とのやり取りを見るたびに不安な気持ちが私の心の器を満たしていくのだ。

 私は他作品のアイドルマスターシリーズをプレイしたことはないので、詳しい比較をすることはできないが、本作品では「アイドルの成長」ではなく「プロデューサーの成長」も描こうとしているのではないか。私が感じた「プロデューサー」の危うさというものは、そのために貼れた伏線という手触りを感じている。
 となると、私が現時点で感じている「プロデューサーと小宮果穂の会話の違和感」から発展して、なんらかの衝突が発生するのだ。
では、その私の感じている「危うさ」「違和感」は何なのか。それは小宮果穂への印象を言及した後に述べることとしよう。

283プロダクションについて

 283プロダクションには2名の人物「社長」と「はづき」だ。この二人のプロデューサーへのスタンスは実は保護者目線のような、甘やかしにも近い距離感を感じる。プロデューサーはアイドルを育て上げるが、「社長」と「はづき」からは「プロデューサー」を成長させるというようなスタンスがありそうだ。この二人はプロデューサーを見守りながら育成したい「プロデューサーをプロデュースしている」に近い状態にも感じる(ゲームのチュートリアルのキャラクターにそれを言い始めるとなかなかややこしくなるが)。

 特に、「社長」は甘やかしの影を隠そうとしているが隠し切れていないというのが見受けられている。「せっかくまじめな雰囲気を出していたというのに」というのもその表現の一つになるだろう。普段はアットホームにプロデューサーと触れ合うが、厳しく見せるところは見せようとした上で失敗している。過剰なまでのホームコメディな世界だ。

 「はづき」は、ある種の超人的なキャラであるというのは噂には聞き及んでいる。だが、現時点での表現が「コミカル」の表出結果なのか「シリアス」の発露のなのかは容易には識別ができない。「ソファにたどり着く前に寝てしまう」はどちらの真意が隠された表現なのだろうか。

スカウトについて

 あの会話の流れで、自分でスカウトしにいくとは思わなかった。声でちゃった。

小宮果穂について

 プレイして思ったのは「小宮果穂のプロフィール情報」から少しずつ情報を滲み出すように追加していくのが巧みだとう点だ。彼女のプロフィールを見てわかる基本的な情報は「年齢の割には大人っぽい」という要素だ。つまり説明文として存在している彼女を知るという行為において極めて基本的な情報だが、それが「プロデューサー」の眼球を通じて彼の脳裏を通じて伝えられることで、情報に味付けが行われる。

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 私が膝をうったのはこのプロデューサーの思考文だ。大人びて見えるという情報が「他人から見て高校生だと勘違いしてしまうほどの大人っぽさ」と質感を持ち「プロデューサーという職業人の目線からでも彼女はきれい」で「精神面はかわらず小学生相当である」といった、彼女に対して我々プレイヤーが持つべき彼女に対する偏見が記されているのだ。まずは「このように彼女をそう捉えてください」という偏見への動線がかなり整理されている。それがこの2行に凝縮されている巧みさに私は柏手を打ってもよかっただろう。

 次に描かれるのは小宮果穂という人間は年齢相応に幼く、「名刺をもらったこともない」し「アイドルになるかどうかは当然親の判断が必要になる」ような自然な幼さだ(名刺をもらったことがないのは高校生でもそうだろうが)。他に彼女に感じた点として比喩としての「目をキラキラさせる」という状態で「目をキラキラさせて」かわいいという点、声にならない声の表現が素敵なところ。

 さて、ここから本題である。私が感じたプロデューサーの危うさについて陳述する。

プロデューサーが考える小宮果穂のアイドル像、そして小宮果穂の考えるアイドル像

 プロデューサーは当初、小宮果穂を見かけて魅力的に感じたキッカケは「(高校生ぐらいに見える子)で(きれいな子)が(元気に公園で遊んでいる)」という点だったが、実際に彼女をスカウトするときの説明では「君の元気さはみんなに夢を与えられる」と「夢を与えられる元気さ」にのみ話が絞られてしまったのだ。「高校生にしても元気っ子」と「見た目のわりに大人びた元気っ子」は持ちうる魅力は異なってしまうだろう。それこそアイドルとして売り出すというプロセスにおいて「小宮果穂」がどういう存在かという意識の強度は由来ではいけないのではと思ったが、それが当初でぶれてしまっているのではないか。

 もちろん、出会い頭も出会い頭でそれぐらい移ろいでもよいだろうと考えられる。だが、このプロデューサーはその僅かなすり替えを頻繁に行っているのだ。

 翌日、小宮果穂は事務所を訪れて「アイドルはみんなを笑顔にする」「好きなヒーローもみんな笑顔にする」、ゆえにアイドルになると述べた。これは判断しづらいが「ヒーローがベースにあり、それの類似性からアイドルを目指す」というものである。彼女が目指すものは「ヒーロー」なのだ。あくまで「アイドル」は「ヒーロー」を目指す手段なのだ。

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だが、プロデューサーは、その場で会話を合わせるような応答をしてしまう。つまり小宮果穂の中では分割して思考されている「アイドル」「ヒーロー」を、曖昧なままな切り分けの作業をしていないのだ。
 私は、このプロデューサーは「小宮果穂」に対して子ども扱いしてしまっているように感じてしまった。仕事上のパートナーではあるが、それ以上に小学生へ対応するような受け答えでその場を流してしまいがちなのだ。

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引き気味な対応をしてしまうプロデューサー。
 ほかにも、小宮果穂の「ここでならヒーローになれる気がしてきた」という趣旨の発言対しては「小宮果穂」内の思考を分解するのではなく、あくまで自身の仕事としての考え「ヒーローじゃなくてアイドルなんだけどな……」と回答してしまう。

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 プロデューサーは「小宮果穂」に対し「ヒーローみたいなアイドル」になってほしいが、小宮果穂はあくまで「ヒーロー」を目指しているのだ。他の箇所ではプロデューサーは「ヒーローみたいなアイドルになれる」とはづきには発言したが、小宮果穂には「ヒーローみたいになれる」と微かに異なる説明をしてしまっている。私が気にしているすれ違い点が放置されたまま話が進んでしまうのだ。

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 再三述べるが、プロデューサーはアイドルの比喩として「ヒーロー」という言葉を小宮果穂に会話を合わせるために使用しているが、小宮果穂は「アイドル」という言葉を「ヒーロー」という夢を実現するための形態の一種として考えていて、そこが完全には一致していないように感じる。プロデューサーは小宮果穂さんをアイドルにしたいが、小宮果穂さんはヒーローになりたい。プロデューサーはこの微妙な違いを意識することなく、こどもとして小宮果穂に接するせいでその周辺の意識がないがしろになってしまっているように見えてしまう。

「元気をあげたい」という思いだけはプロデューサーと小宮果穂で一致しているが、その過程の相違が存在している。この差異はそのままであれば、気づかれぬまま見過ごされる問題かもしれないが、この後話はどうすすんでいくんだろうか。

その他

おめめがキラキラしてかわいい。

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