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孤独ヲ数得ル

孤独ヲ数得ル
                       山田ジョバンニ

 ある日。
 駅を中心に広がるペストリアンデッキの片隅に、キミは座っている。
 座っている人は他にもいるが、キミの場合は一寸ばかり状況が異なる。
 脈絡もなく置かれたパイプ椅子。
 キミは、何処から取り出したのかパイプ椅子に座っている。
 そして、手にした数取機で行き交う人々を数えている。

 重要なことなんだが、キミが数えているのは「人々」であって、特定の個人ではない。
 キミも、そしてたぶんクニも「特定の誰かが何処に行くか」には、興味がない。
 不特定多数の人の群れがどう動いているのかを調べる為に、キミは数えている。
 道路交通センサス、交通量調査。
 それが、キミがしていることだ。
 
 キミは、殆ど無意識的に「人々」を数えることができる。
 対象を捕捉したら、反射的にキミの指が数取機のボタンを押す。
 キミの指がカチカチとボタンを押す。
 すると、行き交う人々の様々な価値が平等なカチになる。
 何処からか来て何処かに行ってしまう個人のベクトルが、特定の個人とは無関係な意味を持つスカラーになる。
 一人で通っていても、通行人は「人々」として扱われる。
 何の違いも差別もなくカウントされる。
 調査の結果得られるのは、人数を表す単純な数字だ。
 その数字がどう活用されているのかを、キミは知らない。
 だからというわけでもないが、交通量調査にどんな意味や価値があるのかを、キミは時折考える。
 
 往来の片隅でパイプ椅子に腰掛け、キミは考える。
 キミは通行人を数えてはいるが、数えている人——つまりキミ自身——は、その数に入っていない。それはそうだ、通行しているわけではないのだから。
 そうなると、キミは何処から来て何処に行く事になっているのか。
 クニがキミをどう扱っているのか、契約書には何か書いてあったのだろうか。

 人々がキミの前を通り過ぎていく。キミは、そこにいないものと見做されている。
 電柱や道路標識の傍に座っていると、地縛霊にでもなったような気分になることがある。道端にパイプ椅子が置かれ、そこに人が座っていたら、通報されはしないまでも変に思われるだろう。
 突飛な場所にパイプ椅子を置いて座っているのだから、これは目立つ。
 視界には謂わば異物として入っている筈だが、キミはスルーされている。
 椅子によって、社会から切り取られてしまったみたいに。

 キミが想像するところでは、この状況には手にしている数取器が一役かっている。
 数取器を持っていることで「ああ、この人は交通量調査の人なんだな」という解を双方が持つことが出来ている。双方というのは、もし数取器を持っていなかったなら、キミ自身もどうして道端でパイプ椅子に座っているのか分らないだろうということだ。
 数取器——とパイプ椅子——によって、キミは交通量調査の人として人々から隔てられている。
 隔てられているキミの存在は、数取器によって人々から認識されている。
 パイプ椅子によって少しばかり非現実的になったキミは、数取器によって少しばかり現実に繋ぎ止められている。

 この儚いというよりはインチキ臭いキミと社会との関係の理由を、キミは考える。
 キミは、否定されて育った。
 キミは、自分を信じることが出来ない。
 キミが時折歴史上の偉人達の言葉を引用するのは、そこらへんが関係している。
 大抵の人間は、歴史的エビデンスには文句を言わないから都合がいい。

 キミはパイプ椅子に座っていると、時々「離人症」という単語を思い出す。
 こんな単語が世の中にあるということは、自分のような人間が分類される程度には街をうろついているということだろう。
 キミは、思う。「ゴミの分別をされたようなものだ」とまでは言わないが、このレッテルは当事者には殆ど——或いは全く——役に立たないと。

 キミは、人について考える。
 社会生活に於いて人は、「自分」のことが自分自身では判らない。
 民主主義では、自分が何者であるかを自己申告しなければならないが、その決定は多数決で決まるからだ。人々が、押し付けてくる「自分」——というか、自分に対する評価——の方が自己評価よりも是とされる。家族が、学校が、当たり前のような顔をして、キミに評価を貼り付けてくる。
 それは、大人に対してもそうだ。自分はそうではないのだと否定すれば、子供の振る舞いだと呆れられる。
 だから自分のイメージを必死に保とうとしているオトナは大勢いる。
 小さいことにまで目くじらを立てるオトナは、大勢いる。
 信用やイメージというのは株価のようなもので、社会活動に影響を及ぼすからだ。
 冤罪であっても社会が有罪だと判定すれば、犯罪者になる。
 ヒッチコックの映画よりは地味かもしれないが、キミは銀幕の中にいるも同然でそこから逃げ出すことは出来ない。
 この予定調和やら同調圧力やら——何と言っても同じもの——は、怖ろしい。

 ある日。
 ビルの隙間の薄暗がりに、キミはパイプ椅子に座っている。

 キミは、キミについて考える。
 当然と云えば当然だが、シゴトの度に違う場所に出向いても、やることは同じだ。
 辿り着くのはいつものパイプ椅子。手にするのはいつもの数取器。
 どこに行っても同じ。
 どこに行っても別の場所には辿り着けない。

 キミは、キミについて考える。
 この閉塞感と孤独感は、どこからくるのか。
 どこかに解はないものか。
 この何処にも行けないループから、抜け出すことはできるのか。
 抜け出せたとして、行き着く場所はあるのか。
 聖書によるとモーセとその仲間たちは40年ばかり荒野を流浪したらしいが、少なくとも彼等には神に約束された地があった。
 キミに、約束の地はあるだろうか。
 キミは、約束の地を信じられるだろうか。

 ある日。
 ビル風が吹く通りの片隅で、キミはパイプ椅子に座っている。

 キミは、イヤフォンをしてバッハをエンドレスで聴いている。
 BWV578、フーガ ト短調だ。 
 キミは、この曲の再生速度を調整することで、一種の感覚計測器としている。
 キミは、自分が普通に感じる再生速度を体感時間の目安にしている。
 現時点でのキミは、4割増し——キミは、これを4バッハと表現している——の再生速度でこれを聴いている。それがキミにとっての普通の再生速度だ。調子がいいと8割増し——キミは、これを8バッハと表現している。つまり10バッハで2倍速だ——ぐらいまで加速する。

 キミがそういうことをするようになったのには、理由がある。
 ずっと人々を数えていると、自身が放心しているのか集中しているのか判らなくなってくることがある。
 観察してきたものについて思考していると、情景はPVのタイムラプスのようになり、考えごとをしている間に一日が終わっていたりする。

 人々を観察していると、道行く人々がスローモーションになっていく。
 自分の時間だけが速く流れるような感覚を、キミは覚える。
 この時に、今の自分が普通だと感じる再生速度を確認すると、感覚のズレというか加速を数値的に把握する目安になる。
 目安を得たからといって、何か利便性が生じるわけでもないが、そういうものがあるとキミは落ち着く。

 人々を数えていると、キミは時折なんとも言えない状態になる。
 バラバラの記憶の断片が、デジタルに頭をよぎる。
 キミが我に返るまで、無軌道なブレインストーミングは拡がり続ける。
 キミは、それを厭だと思ってはいない。突然何かの解が出てくるような気がしている。
 そういう状態になりそうだとキミは「考える人」のポーズをとる。

 キミは、このポーズが気に入っている。
 この「考える人」という作品は、もともとダンテの「神曲 地獄編」にインスパイアされたロダンが創った「地獄の門」という彫刻の一部で、未完成だった彫刻からロダンが「彼」を切り離して一つの作品として発表したらしい。
 切り取られた「考える人」は、「地獄の門」を置いて——本人は座っているが——独り歩きをしており、現在は各地に派遣されている。
 キミは、想いを巡らせる。
 彼は、独り歩きしたことで「地獄の門」から脱出できたのだろうかと。

 「神曲 地獄編」では人々が色々酷いめに遭っているが、キミは地獄には興味がない。人々がいて騒いだり苦しんだりしているなら、この世と大差ない——地獄が本当にそんな有様だったら、自殺した人はさぞやガッカリする。いや、まさに絶望するだろう——と、キミは思っている。
 「神曲 地獄編」に登場する「地獄の門」はロダンの彫刻とは違いシンプルで、考える人をはじめとする人々は付属していない。その代わり、地獄の門のインフォメーションが提示されている。状況的には門より地獄そのものの説明文を多くした方がいいような気がすると、キミは考えている。
 そして「地獄の門」の一部としての「考える人」に、キミは興味がある。

 彼は、神か何かによって、なにものからも切り離されている。
 彼は、どちらの世界にも属していない。
 彼は、最初から最後まで境界線上にしか存在していない。
 それはどんな気分だろうと、キミは想像する。

「地獄の門」での彼は、ちょうど監視カメラのような位置にいる。
 彼が半ば暇潰しに通行人を数えていたとしても、キミは不思議に思わない。
 彼には、それぐらいしか他者と接点を作る方法がない。
 たとえそれが一方的な試みでしかなかったとしても。

 そんな想像とは無関係に、通行人が通る度にキミの指はボタンを押す。
 そして通行人が通る度に、キミの口は誰にも届かない小声で囁く。

 我の前を過ぎる者、苦しみの都に入る。
 我の前を過ぎる者、永なる憂いに入る。
 我の前を過ぎる者、滅びの民に伍する。
 
 キミは、このポーズが気に入っている。

 ある日。
 明るい表通りの片隅で、キミはパイプ椅子に座っている。

 道行く人々がスマホを手に手に歩いているのを見て、キミは唐突に思い出す。
 昔は確かに現実だった。そう思っていた、その記憶はある。
 だが、今のキミにはもうその確証はない。
 思い出の夢なのか、夢の思い出なのか。
 今ではどちらだったのか判らない。夢に見て思い出し、夢を見たことを思い出し、そうしているうちに記憶は溶けて夢と一つになった。
 
 季節は夏で、キミは子供だ。
 たまたま随分と早く起きたキミは、外がもう明るいことに驚く。
 何だかじっとしていることができなくなり、キミは家のベランダから外に出ると自転車で走り出す。広い道路にはキミしかいない。四車線ある道路の真ん中をキミは自転車で走る。信号は全て無視する。好き放題だ。
 広い道路の静寂を堪能した君は、折り返して帰りのコースとして細い道路を選らぶ。
 細い道路には、キミ以外では老人と犬しかいない。
 キミは、彼等を観察する。
 犬、老人、老人、犬、老人、老人、老人、犬、老人を連れた犬——これは犬の方が散歩する気があって道順もしっかり覚えているということだ——に、犬を連れた老人。
 キミは、老人と犬以外を探して自転車を乗り回す。老人と犬以外を見つけることはできなかったが、そのうちキミは気がつく。
 一人で道行く老人達が、総じて一定の方向に向かっているという事実に、だ。
 老人達の人数は学校のクラス一つ分より多かっただろうか。
 近所住民の老人が全員友達で毎朝集まっているなんてことはないだろう。

 キミは、老人達の後をつける。
 キミは、自転車を降りて鍵をかけ、徒歩で老人達の後をつける。
 老人達は、舗装された道を外れて木々の間の舗装されていない道に入り、小さな名もない丘に登りだす。その頃には老人達はまばらな行列になっているが、誰一人言葉を発する者はいない。口を動かしている者はいないが、確かに小さな話し声がする。この頃にはキミは、この老人達が不気味に想える。やがて頂の開けた場所につく。
 そこには、拡声器のついた柱が一本ある。
 老人達は呆けたように宙を見上げている。
 やがて、時報の音が鳴り、音楽が流れてくる。ラジヲ体操だ。共鳴しているかのように老人の群れからそれは聞こえてきた。
 キミが奇妙な感覚に襲われたのは、ラジヲ体操の音楽が柱の拡声器からでなく、老人達が各々腰につけている小型ラジオから聞こえてくるせいだ。それが合唱のようにその場を支配している。
 拡声器から音を流せばいいものをどうして各々で自分のラジヲを持ち、同じ場所で同じものを聴いているのか。
 老人達は体操を始める。
 一糸乱れぬ動きというわけではない。老人達は周囲に合わせてラジヲ体操をしようとしているわけではない。ただ結果的には、そのようにも見えている。
 ラジオ体操が終わると、老人達は談話するわけでもなく、黙ったまままばらな行列となって山を降りて行く。
 キミには、老人達がラジオに操られているかのように見える。
 ラジヲ体操をする為にラジヲをつけているのではなく、ラジヲから音楽が流れるから条件反射的に、習慣的に、ラジヲ体操をしているようにも見える。
 キミには、どちらなのか判断がつかない。
 当の老人達にも、判断はついていないのかもしれない。
 キミは、想像する。
 小型ラジヲが変な電波を中継していて、老人達はそれに操られているのではないかと。

 キミは、この話を誰にも話したことがない。
 この一件からキミは、テレビのワイドショーをまくし立てる主婦や受け売りを垂れ流す自称情報通に、一種の違和感と微かな反感を持つようになる。

 小型ラジヲならラジヲ体操だけで済んだが、人々は踊らされ続けているのではないか。
 それも変な電波ではなく普通の電波に。
 人々はノイズ塗れの情報に盲従し、何かあったら文句を云う。責任をとろうとはしない。
 ブードゥーの呪術よりTVやスマホの方が遥かに多くの人々をゾンビにしてきた。

 キミは、思う。 
 人は皆、何処から来て何処へ向かうのかなんて本当は解っていないのかもしれない。
 自分が何者かも解らない人々が、互いにレッテルを貼りあって生きている。
 自分達のことも解らない人々の集合が何なのかなんて、解るわけがない。
 社会学者だって、レッテルを貼って分類しているだけかもしれない。
 社会学者がなんたらイズムを唱えたところで、世の中は同じ様な事を繰り返すだけだろう。予測したことが何らかの形で当たったと見做されたり、過去を分析してレッテルを貼り、時には巧いことを言ったりもする。その内幾つかは滅多に思い出されない記録と束の間の記憶に残り、何かの材料に用いられたりして教科書にも載る。しかし、それらが社会に直接的に影響を与えることはない。彼等は映画の批評家のように対象の周りを跳び回る。それは影のような距離、隔たりを持ち決して本体と交わることはない。社会学者は、社会を作り出さない。
 キミは、何処にいるのかも知らない社会学者——たぶん、大学とかだろうが——に恨みがあるわけではない。寧ろ親しみを覚えている。
 彼等の社会に対する距離の近さと隔たりが、ある意味では誰よりも近く、別の意味では根本的に隔たっているその距離感が、キミにある種の親しみを感じさせている。
 勿論、社会学者も普通に社会の一部として生活しているだろうから、この親近感は高確率で拒絶されるだろう。

 通行人が通る度に指がボタンを押し、キミは世界を進める。
 今日は、キミとしては比較的暇だ。それでもシゴトをしているには違いない。
 誰もいなければ、誰も通らなければ、それはそれでデータになる。
 データというのは、そこに書かれたものと同じぐらい、そこに書かれていないことが重要な場合もある。

 ある日。
 一車線しかない道路の電柱の傍で、キミはパイプ椅子に座っている。

 キミの目の前で、人が車にはねられる。
 自動的にボタンを押しそうになった指を、キミは止める。
 キミは、一時停止状態に陥る。そして、反射的に考える。
 眼前を通過する直前に、人が車にはねられる。交通事故だ。それは判る。
 問題は、眼前ではねられた人が「通行人」になるのかどうかということだ。
 その人が何処に行こうとしていたかは判らないが、今はあの世に行こうとしている。
 通報しないわけにもいかないので、キミは通報する。
 やって来た警官に色々尋ねられ、カウントを続けることが出来なかったが、同じクニのシゴトをしている警官に協力しているのだから怒られはしないだろうと、キミは思う。

 通報した結果判ったことは、車にはねられた瞬間に人は通行人から被害者に分類が変わり、交通量調査員の代わりに警官——と、後から医者——がカウントすることになるということだ。
 キミの思考は、ここで少し脱線する。
 もし昔のアメリカとかで交通量調査をしていたら、人権が認められていなかった人達や違法入国者達はカウントの対象になったのだろうか。

 目撃者、証人、通報してくれた人として、キミは事故の被害者の身内から感謝される。
 沈着冷静、迅速な対応だと、被害者の身内は感謝する。
 被害者の身内は、取り乱し過ぎている。落ち着かせようと無難な対応をしているうちに、キミは被害者のお見舞いに行くことになる。

 ある日。
 キミは、病院を訪れる。

受付で教えてもらった病室は、個室ではなかった。一つの大きな部屋に八つのベッドが置いてある。交通事故の被害者と同じ病室には、別の患者が何人かいる。
 その内の一人が、ベッドに横になっていた。その体からは、二本の線が伸びている。
 一本は点滴で、もう一本はTVのイヤフォンだった。コインを入れて視聴するタイプのTV。他の患者の迷惑にならないように、イヤフォンでしか音声を出力できないようになっている。
 その患者は寝たままの状態で、流し込まれる点滴をカラダに、流し込まれる音声をアタマに入れていた。寝たままの状態で真偽を確認することもできないまま、一方的に情報を流し込まれている。寝たきりでなくても大抵の人々は、TVからの情報の真偽をいちいち確認したりはしていない。

 キミは突然、自分がフォアグラ用のアヒルのように思えてくる。
 そして、ラジヲに操られている老人の群れを思い出す。
 キミは静かに帰り、自分の部屋にあるTVをベランダに放り出す。

 ある日。
 キミは、街中を歩いている。
 パーカーのポケットに手を突っ込んだ格好で、キミは歩き続ける。キミの手には、自分で購入した数取機が握られている。
 数える対象は、数え始めるその瞬間まで決めていない。帽子を被っている人、マスクをしている人、スーツを着ている人、人、人、人々。
 街中を歩いているキミは、人と人々について考える。
 そして孤独について考える。

 キミがキミでいようとするほど、キミは人々から遠くなる。
 キミが人々に近づこうとするほど、キミはキミではなくなる。
 人々は、キミを押し流し、とかし込もうとする。

 人が人々との関係を遮断することで生じるものが孤独ならば、それは自分を自身のうちに埋葬する行為なのかもしれない。
 人が人々との関係を構築することで生じるものが自身の消失ならば、それは自分を人々のうちに埋葬する行為なのかもしれない。
 人々にとけ込めば、その分キミはキミではなくなる。
 だからキミは、とけ込むのではなく紛れ込むことを結果的に選択した。

 キミはそのヒントを、都会の人混みの中で見出した。
 人々というのは、「誰でもないみんな」だ。
 だから、人々に紛れ込むには、見ず知らずの人々であることが重要になる。
 周囲の誰かが知り合いだったなら、「紛れ込む」ことはできない。
 人々に紛れ込むには、紛れ込むことのできる人混みという「場」が必要だ。
 都会にはそれがある。都会にしかそれはない。
 物理学でいうところの「場」や「界」と少し似ていると思ったキミは、それを「都界」と名付ける。

 都会に紛れ込むことで、人は「人々」を装っている。
 「人々」を装うことで、自分を失うことを防いでいる。
 一人一人が互いに「人々」の中に紛れ込んでいる。
曖昧さの中に紛れ込んでいる。
 個人のままで、誰でもない存在に近いものになろうとしている。
 紛れ込むことで、「人々」から隠れている。
 隠れているだけにせよ、周囲から認識されていないのであれば——つまり隠れおおせれば——同じことだと、キミは考える。
 
 都界に安堵を覚えた者は、そこに棲みつくようになる。
 居心地がいいわけではないが、都界以外は居心地が悪い。
 都界は、キミのような人間の消去法的ベストプレイスなのかもしれない。

 どこかにヒントはないものかと、キミは色々な本を読んできた。
 孤独に関する書物は、古今東西に残っている。
 何度も繰り返し著作されているところをみると、そしてそれが後世に残っているところをみると、孤独というのは人類——少なくともその一部——にとって普遍的なものであるらしい。
 
 聖書の中には、シラ書というものがある。

         このように言ってはならない。
         「私は主から身を隠そう
         いと高きところで私のことを心に留める者がいるだろうか。
         大勢の群衆に紛れてしまえば、私に気づく者は誰もいない。
         数え切れない被造物の中で、私は一体何者か」
        
        The Book of Sirach (or Ecclesiasticus)
        第十六章 十七節

 このように言ってはならないとされているその言葉は、キミの知っている世界のことを書いているようにしか見えなかった。
 シラ書がいつ書かれたのかキミは知らないが、聖書の中にまで記述があるということは、人は、互いに黙したまま——まあ、話す相手がいないから孤独なのだが——ずっとこの問題を抱えていたのだろう。

 孤独な人は、何人いても孤独だ。
 同類だけど、同類だから、仲間じゃあない。
 キミがいてもいなくても何も変化しない人混みは、その只中にいる筈のキミを隔絶する。
 キミだけがその世界に参与していないというのは、わかり易く言えばTVの前に座っているようなものだ。番組は、騒がしく続く。キミの居場所は、TVの前だ。
 その疎外感は、絵本の中に入れないことに不満を抱く子供と何ら変わることはない。

キミには、ネットの動画にコメントしたり投げ銭をする人々のことが解る気がする。

 孤独な人を何人集めても、集団にはならない。
 市場にはなるかもしれなが、集団にはならない。

 それが解らないようでは、その人は孤独な人ではない。
 それが解らないようでは、孤独について語る資格はない。
 それでも、何万人集まっても、キミ達は独りぼっちだ。

 どうして、キミは孤独なのか。
 どうして、キミは寂しさを覚えながらも孤独を選択してきたのか。

 子供の頃、世界というのは優しく愛があるものだとキミは思い込んでいた。
 多分、TVの見過ぎだったんだろう。
 
 人間斯くの如く在るべしという理想を、キミは持ち続けていた。
 キミは、ありのままの人々を受け容れることが出来ず、反感を抱いていた。
 キミは、ペシミストになっていた。
 キミは、突然理解する。ペシミストは——何にでも反対するのが趣味の人でないならば——ロマンチストだったのだ。
理想を現実よりも重視した結果、現実を受容れることができなくなり、始終浮かない貌をするはめになってしまった。周囲には、浮かない貌の理由が解らない。
 ペシミストは悲観主義者と訳されているが、実際のところはどうなのか。
 ばかげた世界を、そのまま受容れる者。
 ばかげた世界を、いつまでも受容れることができない者。
どちらがより悲観的なのか、キミには判らない。

キミは、「エミール」を書いた結果社会から抹殺されたルソーのことを連想する。
 ルソーは自身の哲学的思想に於いて理想的社会のあり方を考えそれを発表したが、それは現行体制に敵対するものと見做された。カトリックが教義に反するとして彼を責めたが、ルソーは正論で挽回を試みたらしい。社会(この場合は主にカトリック)が問題にしている部分とルソーが問題にしている部分は明らかに違っていた。ルソーに政治、人の世というものに対する理解があれば、こんな事態になることはなかっただろう。
 カトリックが問題にしていたのは、教義に反するものを流布されることで自身が有している優位性が損なわれるということだった。その条件が当てはまる限り如何なる正論も排斥の対象となることがルソーには理解出来ていなかったのだろう。もし理解していながら主張を変えないつもりだったならばもう少し策を講じたことだろう。

 キミに判る確かなことは、どんな議論が展開されたところで社会的マイノリティがレッテルを貼られるということだけだ。
 結果的に出てくるものは、途中経過とは無関係なただの蔑称でしかない。

 キミは、ロマンチストでペシミストで、そして孤独だ。

 キミは、社会を遮断している。キミの孤独は、キミ自身が選択した。
 キミは、社会や人間への理想——或いはキミがそれだと考えている思い込み——から、社会を拒絶した。
 孤独が社会から自分を切り離して埋葬する行為だとして、社会との関係を自ら構築するのが孤独から抜け出す方法だとして、孤独から脱出できたとして、社会のウソ、虚構、それらに対する違和感は、どうすればいいのか。
 そして実際のところ、一体どこに行くのか。
 この世界、この社会、人々に絶望せずにどう向き合えばいいのか。 
 「人々」になれなかったから、今のキミがいるというのに。
 
 孤独から脱出したいと、キミは多分そう感じている。
 しかし、孤独感を抱くようになる前から、潜在的に社会に対する違和感——もっと言えば反感——が、キミにはあったのかもしれない。
 忘れてしまった過去のキミは、人々から抜け出したいと思い孤独を選択したのかもしれない。
 キミの孤独が人々から抜け出すことを選択した結果だとするなら、キミの孤独は結局のところ独り相撲でしかなかったということになる。
 だとしたら、人々が当人の苦悩を滑稽と笑うのも一理あるのかもしれない。
 だが、それとは別に誰が何と云おうと、この問題は本物だ。

 キミは、孤独だ。
 それがいいことなのか悪いことなのか、今のキミには判らない。
 実のところ孤独は、そう悪いものでもない気もする。
 ただ、どんなものでもそうであるように、孤独にも致死量がある。
 
 個人として活きようとし過ぎると、寂しくなる。
 人々に合わせようとし過ぎると、煩わしくなる。
 人と人々、寂しさと煩わしさの波打ち際を、キミは歩き続ける。
 寂しくならない程度に人々から離れ、煩わしくならない程度に人々に近づく。
 寂しさと煩わしさを両端とした分布範囲、スペクトラム。
 そのスペクトラムから逸脱すると、心の平和が失われる。
 スペクトラムは、人によって異なる。キミは、キミの範囲で活きるしかない。
 多分、キミは都界から出ないだろう。
 それはそれで構わない。
 いちいち考え込まなくても、寂しい分だけ人と関われば——上手く関係することができればだが——寂しさと煩わしさの均衡はとれるだろうと、キミは考える。
 キミの問題は、どうすれば人と上手く関係することができるのか見当もついていないということだ。

 ある日。
 キミは、人々を数え続けているうちに解が出るかもしれないと思う。
 無論そこには、理由も根拠もない。
 敢えて屁理屈をつけるとするなら、人々を数えているとキミは思考が捗る。
 ウィストン・チャーチルが、人の話を聴く時に鉛筆を削ったようなものだ。
 キミの指はボタンを押し、人々を数え続ける。
 キミの指はボタンを押し、人々を数え続ける。


■後書きのようなもの

 これは、2020年に新潮文庫に「孤独のエチュード」という名前で応募したものを少し修整している。「限りなく朗読に近い独り芝居のホン」であり「パイプ椅子一つあれば上演できる、観客すら必要ない」と、人には説明している。

 本当のことを本当に云ったら、人々は退屈するだろう。
 本当だったことを大仰に云ったら、人々は嘘だと云うだろう。
 白状してしまうと、これが何なのかは自身にも判らないままでいる。

 「キミ」の周囲では幾つかの出来事が起こっているが、「キミ」の関わり方、認識の仕方の為におかしなことになっている。始まりも終わりも解決方法もないまま断片的に現実と虚構の境目をうろつく話。

 解は、ない。
 解があったならば、それは歴史に残る名著として世界に名を馳せ哲学は姿を消すだろう。
 極端なことを個人的に云わせてもらえば、以下のようになる。
「哲学者は自らはまった無限ループから脱出する為に哲学を発明した。それは破壊不能と思われていた迷宮の壁を打ち砕く道具だった。哲学を真に理解するには、哲学を真に必要とすることが不可欠となる。それは計らずして自ら無限ループに囚われることを意味している。単なる知識として哲学を暗記することはできるが、本当の意味で活用するということは、そういうことなのではないだろうか」

 普通は、もっと読者のことを考える。
 だがこれは、転礫している断片を大した興味もないのに拾い集めるかのようになっている。
 読んでくれる人には申し訳ないが、この不完全さこそが不完全なものを表現するのに相応しいと感じた結果こうなってしまった。
 「孤独」が軽やかに会釈して人に語りかけるような様は、マンガ世代の自分でも想像できない。

 人間は、個人と人々という複数の存在になった時から、随分と奇妙なものになってしまったのかもしれない。

 読んだ人が「都界」をさまよう幽霊のような存在の視点を垣間見ることができれば、一応この試みは成功したと云えると思う。

 頁を閉じずにここまで読んでくれた人へ。
 感想はどうあれ本当にありがとう。

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