右目閉じれば水の中、活字の海で「の」を探す。
久々に小説を読んだ。本屋で帯が気になって手に取ったもの。150頁ほどなので1〜2時間で読めた。
簡潔に申し上げよう。本を閉じて私の頭に思い浮かんだのは、ブライアン・Jの「そいつはいいところで見終わったなマイケル。あのドラマ、6話目以降は......超つまんないぜ」
さて、こうして筆を取ったのはこの小説の感想を書きたいわけではない。それについて書くことは何もない。物語も中盤に差し掛かった頃、私はこの本の結末への興味が薄れ、代わりに他のことに気を取られた。私にとってそれは懐かしい記憶で、そして稀有な体験だとわかっている。いい機会なので記しておこうと思った。
平仮名の「の」
多くの人にとってこれはただの文字だろう。小説の展開に興味がなくなったおかげで、忘れていた習慣を思い出した。私はつい文字の整列の中から「の」を探してしまうのだ。その理由は、私の目にある。
幼稚園の頃、ウインクが下手だった。下手だと思っていた。左目を閉じても視界は歪まないのに、右目を閉じると視界が歪んだ。「右目を閉じるときに左目が半目になっちゃってるんだ」子どもながらにそう解釈した。
それが間違いだと気づくのは小学校入学少し前。入学するにあたり、小学校で知能検査と身体検査が行われた。りんごやみかんの数を完璧に数え、小学校ツアー気分で教室を巡り、半ば浮き足立って最後の教室に入った。まずは右目の視力検査から。何事も問題なくCの向きを指差していく。1番下の小さいものまで鮮明に見えた。続いて左目の視力検査のために右目を隠す。青天の霹靂だった。右目とは打って変わって、1番上の大きいものを見ることがやっとだった。それ以外はまるで水の中で目を開いているかのように視界が歪んで、Cの上下左右の判断はつかなかった。周りの大人たちはひどく動揺した。子どもだから、急に集中力がなくなったのかと、あるいは、遊んで嘘をついているのかと。
しかし私の反応からそのどちらでもないことを察し、左目の弱視が発覚した。
このときのことは、今でも鮮明に覚えている。それくらい衝撃的だった。
幸か不幸か、弱視なのは左目だけで逆に右目は人より遥かに目が良かった。生まれつきのものだったらしいが、きちんと視力検査をするまで発覚しなかったのは右目が良過ぎたせいだ。さすがにウインクでは気付けなかった。
「ここまで左右で視力の差があると、真っ直ぐ歩くのも難しい」と医師に言われたが、そんなこともなかった。余裕で真っ直ぐ歩けた。
遠縁の親戚が眼科医だったので、まずは親戚に相談した。大病院の紹介状を書いてくれた。
そこで出会った担当の先生が私の左目の視力を改善しようと尽力してくれた。
先生の考案で右目を隠して左目だけを使う訓練をした。
ここで満を持して平仮名の「の」の登場である。新聞紙の活字の中から「の」を見つけて左の囲まれている部分を赤えんぴつで塗り潰す作業をした。これが意外と難しい。不自由な左目では、綺麗に塗り潰すことができない。それに見落としもある。当時は面倒に感じていたが、この甲斐あって左目の視力は改善された。このときの担当医にも、そのあとに私を診てくれた2人の医師にも感謝している。
左目の視力が改善されたとはいえ「以前よりマシになった」という意味で、普通に見えない。なので私は、目が自由な人の視界と、目が不自由な人の視界を、片目のスイッチで入れ替えることができる体である。ここで補足しておくと、左右で視力に差がある人は世の中に割といる。しかしそれは近視の人の場合だ。近視は簡単にいえば、遠くが見えにくく近くは見える。私の左目は、主に遠視で乱視と近視も症状に持つ。つまり近くも遠くもよく見えない。それで右目の視力が抜群に良いときた。こういう例は滅多にない。この身体的特徴の活かし方がわからないまま20年以上過ぎたが、機会があれば必ず活かそう。
久しぶりに小説を読んだことがきっかけで、思いも寄らぬことを思い出すとは。たまには普段やらないことをしてみるのもいいね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?