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心の性別について思うこと

「トランスジェンダーなので回りが配慮しろ、理解しろ、社会がトランスジェンダーに合わせろ」という言い草が私には不愉快である。
※トランスジェンダーです。というだけなら何とも思わない。

私は心の性別、などというトンチキなものを定義する意味がわからない。
性別というのはどちらの性器を所有しているか。という肉体の話でしかない。
よって、心に性別もクソもない。
心に性器はくっついていないと私は認識しているからだ。

そもそも「心」とは物体として実在するものではなく、概念を呼称する単語である。
この場合の「心」とは何を指すのか。
その性別らしい考え方、価値観のことか
その性別らしい性格傾向のことか
何にせよ
身体性別への異様なこだわり、執着があるからこそ 「心の性別」などというけったいな言葉が出来上がっているのではないかと思う。
心に性別などというものを付与する意味が私には理解できない。
心は自由である。
私の考えを理解出来なくても結構である。
ただ、私は心の性別などという定義自体が理解できない。
それを決める意味がわからないからである。

また、残念ながら身体性別ではない性別のことを 「自分は性自認が異性だから異性と同じ考え方です」 等と気軽に言うのも、壁を作る理由になる。
性別とは身体にどちらの性器がついているか。という物体の概念であり
実際の臓器の働きを身を以て体験しているシスジェンダーの人間に
脳内で異性の身体体験を夢想しているだけのトランスジェンダーの人間が「自認しているにすぎないだけの、その性別への理解度」に関して敵うところは何一つない。
まあ、それをトランスジェンダーが理解出来ないのも仕方が無いと思う。
自身の身体と真摯に向き合い、対決し、例え軋轢を感じたとしても最終的に受け入れるという
トランスジェンダーではない人間が乗り越えたことを、彼らは体験していないからだ。 なので、身体性別というものを何の配慮もなく軽視してくる。
「身体性別なんかよりも心の性別の方が優先されるべき」 などという世迷言を平然と口にするのである。
配慮がないのはどちらの話なのか。
今一度胸に問うべきと私は思う。

別にトランスジェンダーであることは何の問題もないし、自分らしく生きていただいて構わないが
そんなトランスジェンダーの人間に対して
「周りの人間が夢に思うような理想的な理解を示してくれる」
「社会がトランスジェンダー中心に回り、シスジェンダーを蔑ろにするようになる」
などという日は永遠にこない。

「マイノリティだから理解されない。」というが マジョリティの人間もあなた方が思うような「社会自体が私に合わせてくれる」などということは体験していない。
我々マジョリティに社会が合わせているのではない。
マジョリティは多少の不自由を甘受しつつ、社会に適応して生きているのだ。
そこを勘違いしないでいただきたい。

もちろん、マイノリティの方が不自由であることは耳にタコが出来るほど聞いているので、実際とても不自由なのだろう。
だが、それも含めてトランスジェンダーの皆さんが自由である証拠だ。自由なきところに不自由は生まれない。

トランスジェンダー故に嫌われることも、避けられることもあなた方は甘受すべきである。
それが、自分らしく生きる、自由に生きるというものだ。
あなた方が、シスジェンダーに対して羨望・嫉妬・嫌悪・理解して欲しいなど個人個人の感情や欲求を抱くことが自由であるように
シスジェンダーもあなた方に対して自由である。

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