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希死念慮

あー死にてえ!もう生きていたくない。
って思うとき、ありますよね。
わかりますとも。
私も希死念慮に悩まされつつ、生きております。

さて、希死念慮は「よくないこと」とされがちです。
なんでよくないんでしょうか。

■希死念慮:具体的な理由はないが漠然と死を願う状態
https://kotobank.jp/word/希死念慮-683358

・うつ病における症状のひとつ
・子供がそれを感じるのは大人的に嫌
・生きたいと思うことが生物として普通

・うつ病における症状のひとつ
仕方ないですね。
そういう病気なので、希死念慮を抱くのもやむを得ないでしょう。
専門の先生にお任せします。

・子供がそれを感じるのは大人的に嫌
・生きたいと思うことが生物として普通
上記2点に関しては、私程度の考えでも対処法を共有できるかと思います。


死からの逃走

・子供が希死念慮を抱いていることが大人としては耐えられない、嫌

はっきり言いますが、大人が「大人ではないから」嫌なのだと私は思います。
子供でも、希死念慮を持つ持たないは本人の価値観にゆだねるべきです。
「死にたいという気持ちを持つことをよくないこと」だと教えることは
目の前の子供にとって害以外の何物でもありません。
理由は、最後まで読んでいただければきっとご理解いただけることと存じます。
どうぞ、お付き合いください。

・生きたいと思うことが生物として普通

この考え自体には何の反論もありませんが
「希死念慮を持つことはよくない」とワンセットになると
あまりにも病理的な考えであると言えます。
生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることだからです。
生と死はいわば生き物にワンセットでくっついてくる概念なのです。
一方を否定することは、必然的にもう一方も同時に否定しているのです。

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり

(略)毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば
武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/葉隠

「そんな・・・!命は何よりも大切なものなのに・・・死ぬつもりで生きるだなんて!」
と、思う人は少なからずいるでしょう。
そして、それが「今ここに生きている感覚」を排除している何よりの原因です。

なぜ漠然と「死にたい」と思うのかといえば
漠然としか生きていないからです。

それが問題の根幹なので
「生きたいと思おう!生の喜びを感じよう!」では解決になりません。
生きたいと思わなければいけないことは希死念慮を持つ本人が良く分かっています。
でも、そう思えないんです。思うほどの理由もなければ、何か感じ入るものもない。
だから漠然と「生きている気がしない」し「死にたい」のです。

理想の死

こうした時、私はいつも「どんなふうに死にたいか」「どう死ぬのが嫌か」を考えます。
例えば、オシャレな十字架と英字のくっついた墓石の下に埋まりたいとか
沢山の人に囲まれて亡くなりたいとか
葬式でこの曲を流してほしいとか
「理想の死」を思い描くんです。
この時、実現可能かどうかを考えてはいけません。
「ハーフエルフの美少女に囲まれて死ぬ」「織田信長に看取られる」
とかでもオッケーです。理想の死を遂げられた自分の気持ちを、よ~く感じてください。

さて、理想の死を遂げられた自分から一転
今現実に生きている自分に軸を戻します。
どうでしょうか。
今希死念慮を抱いており、やる気マイナス1億の状態で理想の死を遂げられますかねえ。
ま、難しいですよね。
理想の死を思っただけですから。

では、理想の死を遂げられない今このとき
どうしても死なねばならぬ理由はありますかね。
何かのっぴきならない理由があるなら
おそらく希死念慮ではなく、自殺念慮になると思いますので
希死念慮どまりの方は、そこまで切羽詰まった事情はないと思われます。

今死ねば確実にかなわない理想の死も
生きている今、何かアクションを起こせば・・・
もしかしたら部分的に叶うかもしれません。

例えば、自分の死後葬儀を執り行ってくれる人を確保しにいくとか
理想の墓石をゲットできるように改宗するのも、貯金を始めるのもアリです。
ハーフエルフの美少女に囲まれたいなら、フィギュアや抱き枕カバーを集めてもいいでしょうし
織田信長に看取られたいなら、織田信長AIをプログラミングで作成し
死に際、理想の織田信長に語りかけられながら死ねるようにしてもいいでしょう。

もしかしたら、そうやって色々実行しつつ生きているうちに
「理想の死」は変わるかもしれません。
それなら、また「何をして生きるのか」を変えればいいだけです。
そう。私たちは死ぬために生きるんです

死に向かうことで、生きられる

我々は必ず死にます。
そのことを決して忘れてはいけません。
頭でわかっているだけでは足りません。
行動、思考、目標、判断軸、発する言葉、今日これからすること
そのすべてのベースに「死」を持ちなさい。

「こういう風には死にたくない」と思うエンディングになりそうなルートを避け
「こんな風に死にたい」と思うエンディングになりそうなルートを選ぶ。
これが、生きるということです。

現代人は孤独死に脅かされています。
この国は少子高齢化が笑えないレベルに、すでに達しています。
加えて、健康であることの価値が飛躍的に高まっており
健康を失った時、何を軸にして自分を保つかのハードルも上がっています。
生を一方的に肯定し、死を見ないようにする・考えないようにする死生観では
これから先、社会情勢から繰り出される精神攻撃から身を守れません。
己の生を肯定するのは己の死のみ、です。

いつでも、人は「生きづらい」と感じる生き物です。
なぜかというと、より良い死を常に渇望しているからです。
死はすべてを奪い去ります。そこにあった生を無にします。
だからこそ「どうせなら良い死を遂げたい」と思うことは
生物として至極当然、真っ当な欲望なのです。
いつでも死ぬ危険性があるこの時を、少しでも良い死を遂げるために使いましょう。

命は必要なものですが、費やすべきものに費やさなければ腐り落ちるだけです。
命はただ守り続ければ、あなたを理想の死に誘ってくれる精霊ではありません。
あなたの道具であり、エネルギーであり、生きている限り何かに費やし続けるべきものなのです。
生きましょう。よく死ぬために。



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