『インサイド・ヘッド2』を見て

※ネタバレ含む

この映画を見る前に、岡田斗司夫の『インサイド・ヘッド』(前作)について解説・評価している動画を見た。

ここで言っていたことで印象的だったのは(自分で解釈したことかも)、感情たちとライリーの人格は異なるということだ。

前作ではカナシミが、ライリーの意志と反して、意味もわからずまたは故意に装置に触れてしまいライリーの言動を操ってしまう。

ライリーの「人間らしさ」をつくる感情たちを的確に描写している。これがすごいところであり、またディズニー映画が持つ、子どもだけでなく大人も楽しめるような深みだ、というようなことを言っていた。



『インサイド・ヘッド2』を見て分かったのは、「感情」「ライリーの人格」「身体」「思考」はそれぞれ影響を与えながらも独立したものであるということ。映画を見るとこれを直感的に理解できた。

例えば、ライリーに思春期が訪れると、感情たちがライリーを操れる装置が変化する。工事業者がやってきて別の装置に置き換えるのだ。これは「身体」の変化、言い換えると物理的な変化を表していると考えられる。

新しい装置では、感情たちがいつも通りにボタンを押しても、ライリーはこれまでと違うトガッた言動をするようになる。感情たちがこれに困惑する様子も描かれている。

つまり感情ひとりひとりは、大人になる過程で変質することはない。装置の変化に対して、感情たちも順応しなければならないのだ。

加えて新たな感情が4つ出現する。シンパイ、イイナァ~、ハズカシ、ダリィー、だ。

この映画で最も目立っていたのはシンパイ。ビビリは目に見える恐怖に対して働くのに対し、シンパイは目に見えない恐怖、例えば相手の考えていることや将来に対して働く。

ビビリとの決定的な違いは、瞬時ではなく計画的に恐怖を回避しようとする点だ。

イイナは憧れを抱き、それになりたいあるいは近づきたいと思わせる。
ハズカシは行き過ぎた言動に対し、抑制するために働く。
これら2つの感情は、群れで生きてきた人間社会にとって、そこに馴染み排除されないために必要な感情なのではないか。
ダリィーは親への反抗的あるいはそっけない態度、仲間やチームメイトへの自虐的、態度などに関与し、自己防衛的な意味があると考える。

これらの感情によってライリーの言動はより複雑さを増したものになっていく。

最も暴走していたのはシンパイ。古参5人を司令塔から追い出し、装置を巧みに使いこなし、シンパイな記憶でライリーの人格を再構築しようとせっせと働く。

結果、将来を案じるあまりライリーが「わたしは、全然ダメ」と自分に暗示をかけてしまうようになる。ホッケーの試合ではプレーがどこかぎこちなくなり、ペナルティを取ってしまい、過呼吸になり破滅しかけることとなる。

ライリーが成長するためには、「わたしは、いいひと」ではなく「わたしは、全然ダメ」でもなく「わたしは、やさしい、いじわる、みんなに溶け込みたい、できる、ダメな面もある」など、様々な思い出をすべて受け入れ、それらの思い出に宿る感情をすべて混ぜ合わせてつくった「人格」が必要であった。

今回はライリーの頭の中に焦点を当てていたが、先輩や友人たちの頭の中のことも想像すると面白いと思った(先輩はライリーのことをどのような後輩として見ていたのか、また友人はライリーのことを先輩と絡んでずるいと思ったり、羨んだりしていたかも)。




私も思春期のとき最も暴走していたのはシンパイでした。私も専用ソファを設置しようと思いました。

物語は思春期真っ只中のライリーの話でしたが、今の情報過多社会の私たちの頭の中とも似ていないかと思ってしまいます。

多くの情報にさらされ、シンパイが過剰に反応し暴走していないか?
綺麗な写真ばかりにさらされ、イイナァ~と隣の芝ばかりに見とれて幸せレベルが高くなっていないか?

生まれたときからある5つの単純な感情にちゃんと触れて心豊かに暮らそう。
成長とともに加わった少し複雑な4つの感情をうまくコントロールして複雑な人間社会に自分らしく生きる術を持とう。


↓この映画で言いたかったことと、監督がコメントしていました。
自分自身をありのまま受け入れよう。



続編見たい。



おわり



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