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相性が悪い人とは関わらなくて良い

一人の人間が理解できることの限界

ここ半月くらい一人の人が理解出来る範囲について考えています。
というのも一人の人が認識できる範囲に限界があることが、人と人が分かり合えない原因だと考えているからです。

そもそも一人の人間が見渡せる範囲も見えているものも違うので、分かり合えるという考え自体が妄想なんだと考えています。

一人の脳の容量には限界があって、デジタルデータのようには記録出来ないので全ての認識が自分の経験の影響を受けた私的なものだと考えています。(デジタルデータも数値化というバイアスを受けていますが…)

人はその限界の外にあって認識できない部分を、空虚に思ったり悲しく思ったりするのだけれど、何かが欠けている寂しさから逃れる方法については、意識を向けず受け流すという考え方が主流のようです。
(恋に逃げると恋愛依存のリスクがありますし…)

ただ日常のアップダウンの中で受け流し続けるのは至難の業だと感じています。努力目標…といったところでしょうか。

同じように感じる人が集まる仕組み

最近、人と会わないルールが優位になってノンバーバルコミュニケーションの話が出ることが増えたので、ノンバーバルコミュニケーションについて興味が湧いてきました。

殆どの人が対面のときには小さな行動(目をそむけるとか、腕を組むなどが有名)をヒントに相手の心理状態を感じ取っているのだけれど、全ての人が同じように読み取れる訳ではないので同じように感じた人同士で集団が出来あがるようです。

じゃあ、文字を中心としたリモートワークになったらそういった派閥のようなものが無くなるのかというとそうでも無いらしいのです。

仕事のメールは事実を簡潔に伝える…なんて言われるけれど、それでも集団ごとの固有のルールのようなものがあって、入れなければいけない要素については大体同じだけれど、追加してはいけない要素については集団ごとのルールが採用されているのです。

僕は最初、ノンバーバルもメールのお作法も無視していましたが、仕事が進まないレベルの抵抗を受けるようになって理解して利用する方針に転じました。

第三者的視点で見ると、分かり合う必要ないんじゃないかと…

当事者意識が薄い僕ですが人間関係を第三者的に見ています。
そうすると僕には人が感情に対してほとんど無抵抗に見えます。

本能的に好ましいことと嫌うこと(主に過去の経験から偏桃体が振り分ける)によって感情が決まり、小さな行動にまで統一感がある表現を行える脳の回路があるそうです。

そのせいで、小さな行動が人をイラつかせるだけで性格が悪いと決めつけられたり、小さな行動が善人に見えれば良い人だと決めつけられます。

なので人付き合いで傷ついている人に対して「分かり合えるはず」は、大きなお世話を超えていい迷惑なんじゃないかと考えるようになりました。

相性が悪いと言われると悲しくなることが人を苦しめる…

全ての人が一緒に居て苦痛ではない人と暮らしていれば、平和になるのかもしれませんが…
実際には色々な事情が重なってそりが合わない人と働いたり生活したりしています。

世の中がもう少し寛容になって、そりが合わない人とは必要以上に関わらなくても良いというルールを受け入れてくれると、多くの人が助かるともうんですよね。

だけどそりが合わないと伝えられた人はその事で傷ついてしまうので、ストレートに伝えても良い結果は得られません…矛盾の原因はそこにあると考えます。

より多くの人がそりが合わない人を避けて歩く知恵を身に着けられると良いなと思っています。

故に人は孤独で良いのではないでしょうか。
ようこそ孤独を愛する世界へ。


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